平家物語 巻第十
千手の事
鎌倉で頼朝と対面した重衡は、南都炎上は清盛の命でも自分の発意でもなく、心ならずも伽藍を滅ぼしたと述べ、捕らわれて恥をさらすより早く首を刎ねよと言いきって、梶原や侍たちの涙を誘った。頼朝は重衡を伊豆の狩野介宗茂に預けた。宗茂は情け深く、湯殿をしつらえ、頼朝は手越の長者の娘千手の前を重衡のもとに遣わした。雨の夜の酒宴で、千手は朗詠や今様を歌い、重衡は琵琶で皇麞の急を弾き、「燈暗うして数行虞氏が涙」と朗詠した。これを立ち聞きした頼朝は重衡の優雅さをほめた。のちに重衡が斬られると、千手は出家して善光寺で菩提を弔った。
- 1さるさるさる程程ほどににに兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ殿殿どの、、、三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう殿殿どのににに對對たい面面めんあつあつあっててて申申もうささされれれけるけるけるははは、、、「「「抑抑そもそも賴賴より朝朝とも、、、君君きみののの御御おん憤憤いきどおりりりをををやすめやすめやすめ奉奉たてまつりりり、、、父父ちちののの恥恥はじをををきよめきよめきよめんんんととと思思おもひひい立立たちちちししし上上うえははは、、、平平へい家家けををを亡亡ほろぼさぼさぼさんんんことことこと、、、案案あんののの内内うちににに存存ぞんぜぜぜしかしかしかどもどもども、、、まさしうまさしうまさしゅうかやうかやうかようににに御御お目目めにににかゝるかゝるかかるべしべしべしとととははは、、、かけかけかけてててははは存存ぞんじじじ候候そうらははわずずず。。。このこのこの定定じょうでででははは、、、八八や島島しまののの大臣殿大臣殿おおいどのののの見見げん參參ざんにににももも入入いりりりぬぬぬべしべしべしととと覺覺おぼえええ候候そうろう。。。さてさてさてももも南南なん都都と炎炎えん上上しょうののの事事ことははは、、、故故こ入入にゅう道道どう相相しょう國國こくののの御御ご成成せい敗敗ばいにににててて候候そうらひひいけるけるけるかかか、、、またまたまた時時ときににに取取とつつってててののの御御おんはからひはからひはからいかかか、、、以以もってててののの外外ほかののの罪罪ざい業業ごうでででこそこそこそ候候そうろうめれめれめれ。。。」」」ととと申申もうささされれれけれけれければばば、、、三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょうのたまひのたまひのたまいけるけるけるははは、、、「「「まづまづまず南南なん都都と炎炎えん上上しょうののの事事ことははは、、、故故こ入入にゅう道道どう相相しょう國國こくののの成成せい敗敗ばいにににもももあらあらあらずずず、、、またまたまた重重しげ衡衡ひらががが私私わたくしののの發發ほっ議議ぎにににてててももも候候そうらははわずずず。。。衆衆しゅ徒徒とののの惡惡あく行行ぎょうををを鎭鎭しずめめめんんんががが爲爲ためににに、、、まかりまかりまかり向向むかつつっててて候候そうらひひいししし程程ほどににに、、、不不ふ慮慮りょににに伽伽が藍藍らんののの滅滅めつ亡亡ぼうににに及及およびびび候候そうらひひいぬるぬるぬる事事ことははは、、、力力ちから及及およばばばざるざるざる次次し第第だいなりなりなり。。。ことことこと新新あたらしきしきしき申申もうしししごとごとごとにににててて候候そうらへへえどもどもども、、、昔昔むかしははは源源げん平平ぺい左左そ右右うににに爭爭あらそひひいててて、、、朝朝ちょう家家かののの御御おん固固かためめめたりたりたりしかしかしかどもどもども、、、近近ちかききき頃頃ころははは源源げん氏氏じののの運運うん傾傾かたぶきききたりたりたりししし事事こと、、、人人ひとみなみなみな存存ぞん知知じののの旨旨むねなりなりなり、、、なかんづくなかんづくなかんずく當當とう家家けははは保保ほう元元げん、、、平平へい治治じよりよりよりこのこのこのかたかたかた、、、度度ど々々どののの朝朝ちょう敵敵てきををを平平たいらららげげげ、、、勸勸けん賞賞じょう身身みににに餘餘あまりりり、、、忝忝かたじけなくくくももも一一いっ天天てんののの君君きみののの御御ご外外がい戚戚せきとととしししててて、、、帝帝てい祖祖そ、、、太太だい政政じょう大大だい臣臣じんににに至至いたりりり、、、一一いち族族ぞくののの昇昇しょう進進しん六六ろく十十じゅう餘餘よ人人にん、、、二二に十十じゅう餘餘よ年年ねんがががこのこのこのかたかたかたははは官官かん加加か階階かい、、、天天てん下下かににに肩肩かたををを雙雙ならぶるぶるぶる者者ものももも候候そうらははわずずず。。。これこれこれにににつきつきつき候候そうろうてててははは、、、帝帝てい王王おうののの御御おん敵敵かたき討討うちちちたるたるたる者者ものははは、、、七七しち代代だいまでまでまで朝朝ちょう恩恩おんつきつきつきずずずととと申申もうすすすことことことははは、、、極極きわめめめたるたるたるひがひがひがことことことにににてててぞぞぞ候候そうらひひいけるけるける。。。そのそのその故故ゆえはははまのあたりまのあたりまのあたり、、、故故こ入入にゅう道道どう相相しょう國國こくははは君君きみののの御御おん爲爲ためににに、、、命命いのちををを失失うしなははわんんんとととするするすることことこと度度ど々々どににに及及およぶぶぶ。。。されどもされどもされどもそのそのその身身み一一いち代代だいののの幸幸さいわひひいにににててて、、、子子し孫孫そんかやうかやうかようににになるなるなるべきべきべきやややははは。。。運運うんつきつきつき世世よ亂亂みだれれれててて都都みやこををを出出いでででししし後後のちははは、、、骸骸かばねををを山山さん野野やにににさらしさらしさらし、、、うきうきうき名名なををを西西さい海海かいののの波波なみににに流流ながさささばやばやばやとととこそこそこそ存存ぞんぜぜぜしししににに、、、生生いきききながらながらながら捕捕とらははわれれれててて、、、これこれこれまでまでまで下下くだるるるべしべしべしとととははは、、、ゆめ〳〵ゆめ〳〵ゆめゆめ存存ぞんじじじ候候そうらははわずずず。。。たゞたゞただ前前ぜん世世ぜののの宿宿しゅく業業ごうこそこそこそ口口くち惜惜おしうしうしゅう候候そうらへへえ。。。但但ただししし殷殷いん湯湯とうははは夏夏か臺臺だいににに捕捕とらははわれれれ、、、文文ぶん王王おうははは羑羑ゆう里里りににに囚囚とらははわるるるととといふいふいう文文ぶんありありあり、、、上上しょう古古こ猶猶なおかくかくかくののの如如ごとししし。。。況況いわんんんややや末末まつ代代だいにににおいおいおいてててをををややや。。。弓弓ゆみ矢矢や取取とるるる身身みののの、、、敵敵かたきののの手手てににに渡渡わたつつっててて命命いのちををを失失うしなははわんんん事事こと、、、全全まったくくく恥恥はじにににててて恥恥はじならならならずずず。。。たゞたゞただ芳芳ほう恩恩おんにににははは、、、とう〳〵とう〳〵とうとう頭頭こうべををを刎刎はねねねらるらるらるべしべしべし。。。」」」とととててて、、、そのそのその後後のちはははものものものをををももものたまはのたまはのたまわずずず。。。梶梶かじ原原はらこれこれこれををを承承うけたまわつつっててて、、、「「「あつぱれあつぱれあっぱれ大大たい將將しょう軍軍ぐんややや。。。」」」とととててて涙涙なみだををを流流ながすすす。。。侍侍さぶらいどもどもどももももみなみなみな袖袖そでをををぞぞぞぬらしぬらしぬらしけるけるける。。。
- 2兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ殿殿どのもももまことまことまことにににあはれあはれあわれににに思思おもははわれれれけれけれければばば、、、「「「抑抑そもそも平平へい家家けををを賴賴より朝朝ともががが私私わたくしののの敵敵かたきとととはははゆめ〳〵ゆめ〳〵ゆめゆめ思思おもひひい奉奉たてまつらららずずず。。。たゞたゞただ帝帝てい王王おうののの仰仰おおせせせこそこそこそ重重おもううう候候そうらへへえ。。。さりさりさりながらながらながらももも南南なん都都とををを亡亡ほろぼさぼさぼされれれたるたるたる伽伽が藍藍らんののの敵敵かたきなれなれなればばば、、、大大だい衆衆しゅ定定さだめめめててて申申もうすすす旨旨むねもももやややあらあらあらんんんずずずらんらんらん。。。」」」とととててて、、、伊伊い豆豆ずののの國國くにののの住住じゅう人人にん狩狩か野野のののの介介すけ宗宗むね茂茂もちにににぞぞぞ預預あずけけけられられられけるけるける。。。そのそのその體體てい、、、冥冥めい途途どにににててて娑娑しゃ婆婆ば世世せ界界かいののの罪罪ざい人人にんををを、、、七七なぬ日日か々々なぬ々々かににに十十じゅう王王おうののの手手てににに渡渡わたさささるるるらんらんらんももも、、、かくかくかくやややととと覺覺おぼえええててて哀哀あわれれれなりなりなり。。。されどもされどもされども狩狩か野野のののの介介すけははは情情なさけあるあるある者者ものにににててて、、、いたういたういとう嚴嚴きびしうしうしゅうももも當當あたりりり奉奉たてまつらららずずず、、、やう〳〵やう〳〵ようようにににいたはりいたはりいたわり參參まいらららせせせ、、、あまつさへあまつさへあまつさえ湯湯ゆ殿殿どのしつらひしつらひしつらいなんどなんどなんどしししててて、、、御御おん湯湯ゆ引引ひかかかせせせ奉奉たてまつるるる。。。
- 3中中ちゅう將將じょう、、、道道みちすがらすがらすがらののの汗汗あせいぶせかりいぶせかりいぶせかりけれけれければばば、、、身身みををを淸淸きよめめめててて失失うしなははわれれれんんんにににこそこそこそととと思思おもひひいててて、、、待待まちちち給給たまふふう所所ところににに、、、やゝやゝややあつあつあっててて年年としののの齡齡よわい二十二十はたちばかりばかりばかりなるなるなる女女にょう房房ぼうののの、、、色色いろ白白じろううう淸淸きよげげげにににててて、、、髪髪かみのののかゝりかゝりかかりまことまことまことににに美美うつくしきしきしきががが、、、目目め結結ゆいののの帷帷かた子子びらににに染染そめ附附つけののの湯湯ゆ巻巻まきしししててて、、、湯湯ゆ殿殿どのののの戸戸とおしおしおしあけあけあけててて參參まいりりりたりたりたり。。。そのそのその後後あとににに十十じゅう四四し五五ごばかりばかりばかりなるなるなる女女めののの童童わらわののの、、、髪髪かみははは衵衵あこめだけだけだけなりなりなりけるけるけるががが、、、小小こ村村むら濃濃ごののの帷帷かた子子びら著著きててて、、、半半はん插插ぞう盥盥だらいににに櫛櫛くし入入いれれれててて持持もつつっててて參參まいりりりたりたりたり。。。このこのこの女女にょう房房ぼう介介かい錯錯しやくにににててて、、、やゝやゝやや久久ひさしうしうしゅう御御おん湯湯ゆひかひかひかせせせ奉奉たてまつりりり、、、髪髪かみ洗洗あらひひいなんどなんどなんどしししててて、、、暇暇いとま申申もうしししててて出出いでででけるけるけるががが、、、「「「男男おとこなんどなんどなんどははは、、、事事ことなうなうのうもももぞぞぞおぼしめすおぼしめすおぼしめす。。。女女おんなはははなか〳〵なか〳〵なかなか苦苦くるしかるしかるしかるまじまじまじとととててて、、、鎌鎌かま倉倉くら殿殿どのよりよりより參參まいらららせせせられられられててて候候そうろう。。。何何なに事事ごともももおぼしめすおぼしめすおぼしめす事事ことあらあらあらばばば、、、承承うけたまわつつっててて申申もうせせせとととこそこそこそ、、、兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ殿殿どのははは仰仰おおせせせ候候そうらひひいつれつれつれ。。。」」」中中ちゅう將將じょう、、、「「「今今いまははは斯斯かかるかるかる身身みとととなつなつなっててて、、、何何なに事事ごとをををかかか思思おもふふうべきべきべき。。。たゞたゞただ思思おもふふう事事こととととてててははは出出しゅっ家家けぞぞぞしししたきたきたき。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、かのかのかの女女にょう房房ぼう歸歸かえりりり參參まいつつっててて、、、兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ殿殿どのにににこのこのこの由由よしををを申申もうすすす。。。兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ殿殿どの、、、「「「それそれそれ思思おもひひいよらよらよらずずず。。。私私わたくしののの敵敵かたきならならならばばばこそこそこそ、、、朝朝ちょう敵敵てきとととしししててて預預あずかりりり奉奉たてまつりりりたれたれたればばばかなふかなふかなうまじまじまじ。。。」」」とととぞぞぞのたまひのたまひのたまいけるけるける。。。かのかのかの女女おんな參參まいつつっててて、、、三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう殿殿どのにににこのこのこの由由よしををを申申もうししし、、、暇暇いとま申申もうしししててて出出いでででけれけれければばば、、、中中ちゅう將將じょう、、、守守しゅ護護ごののの武武ぶ士士しにににのたまひのたまひのたまいけるけるけるははは、、、「「「さてさてさてもももたゞたゞただ今今いまののの女女にょう房房ぼうははは、、、優優ゆうなりなりなりつるつるつるものものものかなかなかな。。。名名なをををばばば何何なにととといふいふいうやらんやらんやらん。。。」」」ととと問問とひひい給給たまへへえばばば、、、狩狩か野野のののの介介すけ申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「あれあれあれははは手手て越越ごしののの長長ちょう者者じゃががが女女むすめででで候候そうろうががが、、、みめかたちみめかたちみめかたち、、、心心こころざまざまざま、、、優優ゆうにににわりなきわりなきわりなき者者ものとととててて、、、このこのこの二二に三三さん箇箇か年年ねんははは、、、佐佐すけ殿殿どのににに召召めししし置置おかかかれれれててて候候そうろう。。。名名なをををばばば千千せん手手じゅののの前前まえととと申申もうししし候候そうろう。。。」」」とととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。
- 4そのそのその夕夕ゆうべ、、、雨雨あめ少少すこししし降降ふつつっててて、、、よろづよろづよろずものものものさびしさびしさびしげげげなるなるなる折折おりふしふしふし、、、件件くだんののの女女にょう房房ぼう、、、琵琵び琶琶わ、、、琴琴こと持持もたたたせせせててて參參まいりりりたりたりたり。。。狩狩か野野のののの介介すけももも家家いえののの子子こ郎郎ろう等等どう十十じゅう餘餘よ人人にん引引ひき具具ぐしししててて、、、中中ちゅう將將じょう殿殿どのののの御御おん前前まえ近近ちこううう候候さぶらひひいけるけるけるががが、、、酒酒しゅをををすゝめすゝめすすめ奉奉たてまつるるる。。。千千せん手手じゅののの前前まえ酌酌しやくをををとるとるとる。。。中中ちゅう將將じょう少少すこししし受受うけけけててて、、、いといといと興興きょうなげなげなげにににててておはしおはしおわしけれけれければばば、、、狩狩か野野のののの介介すけ申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「かつかつかつ聞聞きこし召召めささされれれてててもももややや候候そうろうらんらんらん。。。宗宗むね茂茂もちはははもともともと伊伊い豆豆ずののの國國くにのののものものものにににててて候候そうらへへえばばば、、、鎌鎌かま倉倉くらにににてててははは旅旅たびにににててて候候そうらへへえどもどもども、、、心心こころののの及及およばばばんんんほどほどほどははは奉奉ほう公公こう仕仕つかまつりりり候候そうろうべしべしべし。。。何何なに事事ごともももおぼしめすおぼしめすおぼしめすことことことあらあらあらばばば、、、承承うけたまわつつっててて申申もうせせせととと、、、兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ殿殿どの仰仰おおせせせ候候そうろう。。。それそれそれ何何なに事事ごとにににてててももも申申もうしししててて、、、酒酒しゅをををすゝめすゝめすすめ奉奉たてまつりりりたまへたまへたまえ。。。」」」ととといひいひいいけれけれければばば、、、千千せん手手じゅののの前前まえ、、、酌酌しやくをををさしさしさし置置おききき、、、「「「羅羅ら綺綺きののの重重ちょう衣衣いたるたるたる、、、情情なさけなきなきなきことことことををを機機き婦婦ふににに妬妬ねたむむむ。。。」」」ととといふいふいう朗朗ろう詠詠えいををを、、、一一いち兩兩りょう遍遍へんしししたりたりたりけれけれければばば、、、三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう、、、「「「このこのこの朗朗ろう詠詠えいをををせせせんんん人人ひとをををばばば、、、北北きた野野のののの天天てん神神じん、、、毎毎まい日日にち三三み度度たび翔翔かけつつっててて守守まもらららんんんととと誓誓ちかははわせせせ給給たまふふうとととなりなりなり。。。されどもされどもされども重重しげ衡衡ひらははは、、、今今こん生生じょうにににてててははは、、、はやはやはや捨捨すてててられられられ奉奉たてまつつつったるたるたる身身みなれなれなればばば、、、助助じょ音音いんしししてててももも何何なにかかかせせせんんん。。。但但ただししし罪罪ざい障障しょう輕輕かるみみみぬぬぬべきべきべきことことことならならならばばば從從したがふふうべしべしべし。。。」」」ととと宣宣のたまへへえばばば、、、千千せん手手じゅののの前前まえやがてやがてやがて、、、「「「十十じゅう惡惡あくととといへいへいえどもどもどもなほなほなお引引いん攝攝じょうすすす。。。」」」ととといふいふいう朗朗ろう詠詠えいをををしししててて、、、「「「極極ごく樂樂らく願願ねがははわんんん人人ひとははは、、、みなみなみな彌彌み陀陀だののの名名みょう號號ごうををを唱唱となふふうべしべしべし。。。」」」ととといふいふいう今今いま樣樣ようををを、、、四四し五五ご遍遍へん歌歌うたひひいすましすましすましたりたりたりけれけれければばば、、、そのそのその時時とき中中ちゅう將將じょう杯杯さかずきををを傾傾かたぶけけけらるらるらる。。。千千せん手手じゅののの前前まえ賜賜たまはつはつわっててて狩狩か野野のののの介介すけにににさすさすさす。。。宗宗むね茂茂もちががが飮飮のむむむ時時ときににに琴琴ことをををぞぞぞ彈彈ひきききすましすましすましたるたるたる。。。三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう、、、「「「普普ふ通通つうにににはははこのこのこの樂樂がくをををばばば五五ご常常じょう樂樂らくととといへいへいえどもどもども、、、今今いま重重しげ衡衡ひらがががためためためにににははは後後ご生生しょう樂樂らくとととこそこそこそ觀觀かんずずずべけれべけれべけれ。。。やがてやがてやがて往往おう生生じょうののの急急きゅうををを彈彈ひかかかんんん。。。」」」ととと戲戲たわぶれれれ、、、琵琵び琶琶わををを取取とりりり、、、點點てん手手じゅをををねぢねぢねじててて、、、皇皇おう麞麞じょうののの急急きゅうをををぞぞぞ彈彈ひかかかれれれけるけるける。。。
- 5かくかくかくててて夜夜よもももやう〳〵やう〳〵ようよう更更ふけけけ、、、よろづよろづよろず心心こころのののすむすむすむまゝまゝままににに、、、「「「あなあなあな思思おもははわずずずやややあづまあづまあずまにににももも、、、斯斯かかるかるかる優優ゆうなるなるなる人人ひとのののありありありけるけるけるよよよ。。。それそれそれ何何なに事事ごとにににてててももも今今いま一一ひと聲聲こえ。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、千千せん手手じゅののの前前まえかさねかさねかさねててて、、、「「「一一いち樹樹じゅののの陰陰かげににに宿宿やどりりりあひあひあい、、、同同おなじじじ流流ながれれれをををむすぶむすぶむすぶももも、、、みなみなみなこれこれこれ先先せん世世ぜののの約約ちぎ束束り。。。」」」ととといふいふいう白白しら拍拍びょう子子しををを、、、まことまことまことにににおもしろうおもしろうおもしろう數數かぞへへへたりたりたりけれけれければばば、、、三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょうももも、、、「「「燈燈ともしび暗暗くろうううしししててて數數すう行行こう虞虞ぐ氏氏しががが涙涙なみだ。。。」」」ととといふいふいう朗朗ろう詠詠えいをををぞぞぞせせせられられられけるけるける。。。たとへたとへたとえばばばこのこのこの朗朗ろう詠詠えいののの心心こころははは、、、昔昔むかし唐唐もろ土土こしににに漢漢かんののの高高こう祖祖そととと楚楚そののの項項こう羽羽うととと位位くらいををを爭爭あらそひひい、、、合合かっ戰戰せんするするすることことこと七七しち十十じゅう一一いち度度ど、、、戰戰たたかひひいごとごとごとににに項項こう羽羽う勝勝かちちちぬぬぬ。。。されどもされどもされども遂遂ついにににははは項項こう羽羽う戰戰たたかひひい負負まけけけててて亡亡ほろびびびししし時時とき、、、騅騅すいととといふいふいう馬馬うまののの、、、一一いち日日にちににに千千せん里里りををを飛飛とぶぶぶににに乘乘のつつっててて、、、虞虞ぐ氏氏しととといふいふいう后后きさきととと共共ともににに、、、逃逃にげげげ去去さらららんんんとととししし給給たまへへえばばば、、、馬馬うまいかゞいかゞいかが思思おもひひいけんけんけん、、、足足あしををを整整ととのへへえててて働働はたらかかかずずず。。。項項こう羽羽う涙涙なみだををを流流ながいいいててて、、、わがわがわが威威い勢勢せい既既すでにににすたれすたれすたれたりたりたり。。。敵敵かたきののの襲襲おそふふうははは事事ことののの數數かずならならならずずず。。。たゞたゞただこのこのこの后后きさきににに別別わかれれれんんん事事ことをををのみのみのみ、、、歎歎なげききき悲悲かなしみしみしみ給給たまひひいけりけりけり。。。燈燈ともしび暗暗くろうううなりなりなりしかしかしかばばば虞虞ぐ氏氏し心心こころ細細ぼそさささににに涙涙なみだををを流流ながすすす。。。更更ふけけけゆくゆくゆくまゝまゝままにににははは軍軍ぐん兵兵びょう四四し面面めんににに鬨鬨ときをををつくるつくるつくる。。。このこのこの心心こころををを橘橘きっ相相しょう公公こうののの詩詩しににに作作つくれれれるるるををを、、、三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう今今いま思思おもひひい出出いでででててて、、、口口くちずさみずさみずさみ給給たまふふうにににややや、、、いといといとやさしうやさしうやさしゅうぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。
- 6さるさるさる程程ほどににに夜夜よもももあけあけあけけれけれければばば、、、狩狩か野野のののの介介すけははは暇暇いとま申申もうしししてててまかりまかりまかり出出いづづず。。。千千せん手手じゅののの前前まえももも歸歸かえりりりけりけりけり。。。そのそのその朝朝あした兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ殿殿どのははは、、、持持じ佛佛ぶつ堂堂どうににに法法ほ華華け經經きょう讀讀ようううでででおはしおはしおわしけるけるける所所ところへへへ、、、千千せん手手じゅののの前前まえ歸歸かえりりり參參まいりりりたりたりたり。。。兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ殿殿どのうちうちうち笑笑えみみみ給給たまひひいててて、、、「「「さてさてさてももも昨昨ゆう夜夜べ中中ちゅう人人じんをををばばば、、、おもしろうおもしろうおもしろうもももしししつるつるつるものものものかなかなかな。。。」」」ととと宣宣のたまへへえばばば、、、齋齋さい院院いんののの次次じ官官かん親親ちか義義よし、、、御御おん前前まえににに物物もの書書かいいいててて候候さぶらひひいけるけるけるががが、、、「「「何何なに事事ごとにににててて候候そうろうやらんやらんやらん。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、佐佐すけ殿殿どののたまひのたまひのたまいけるけるけるははは、、、「「「平平へい家家けののの人人ひと々々びとはははこのこのこの二二に三三さん箇箇か年年ねんははは、、、軍軍いくさ合合かっ戰戰せんのののいとなみいとなみいとなみののの外外ほかははは、、、またまたまた他他た事事じあるあるあるまじきまじきまじきとととこそこそこそおもひおもひおもいしししににに、、、さてさてさてももも三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょうののの琵琵び琶琶わののの撥撥はち音音おと、、、朗朗ろう詠詠えいののの口口くちずさみずさみずさみ、、、夜夜よもももすがらすがらすがら立立たち聞聞ぎきききつるつるつるににに、、、優優ゆうにににやさしきやさしきやさしき人人ひとにににててておはしおはしおわしけりけりけり。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、親親ちか義義よし申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「誰誰たれももも昨昨ゆう夜夜べ承承うけたまわりりりたくたくたく候候そうらひひいしかしかしかどもどもども、、、折折おりふしふしふし相相あい勞勞いたわるるる事事ことののの候候そうらひひいててて、、、承承うけたまわらららずずず候候そうろう。。。このこのこの後後のちははは常常つねににに立立たち聞聞ぎききき候候そうろうべしべしべし。。。平平へい家家けははは代代だい々々だい、、、歌歌か人人じん、、、才才さい人人じんたちたちたちにににてててわたらわたらわたらせせせ給給たまひひい候候そうろう。。。先先せん年年ねんあのあのあの人人ひと々々びとををを花花はなにににたとへたとへたとえててて候候そうらひひいしししにににははは、、、このこのこの三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう殿殿どのをををばばば、、、牡牡ぼ丹丹たんののの花花はなにににたとへたとへたとえててて候候そうらひひいしししかかか。。。」」」とととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょうののの朗朗ろう詠詠えいののの口口くちずさみずさみずさみ、、、兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ殿殿どの、、、後後のちまでまでまでもももありありあり難難がたききき事事ことにににぞぞぞ宣宣のたまひひいけるけるける。。。
- 7そのそのその後後のち中中ちゅう將將じょう南南なん都都とへへへ渡渡わたささされれれててて、、、斬斬きららられれれ給給たまひひいぬぬぬととと聞聞きこえええしかしかしかばばば、、、千千せん手手じゅののの前前まえはははなか〳〵なか〳〵なかなか、、、物物もの思思おもひひいのののたねたねたねとととやややなりなりなりにににけんけんけん、、、やがてやがてやがて樣樣さまをををかへかへかへ、、、濃濃こききき墨墨すみ染染ぞめにににやつれやつれやつれはてはてはてててて、、、信信しな濃濃のののの國國くに善善ぜん光光こう寺寺じににに行行おこなひひいすましすましすましててて、、、かのかのかの後後ご世世せ菩菩ぼ提提だいををを弔弔とぶらひひいけるけるけるぞぞぞあはれあはれあわれなるなるなる。。。
現代語訳
やがて兵衛佐殿(頼朝)は三位中将殿(重衡)に対面して申されるには、「そもそも頼朝は、君(後白河法皇)のお怒りをおなだめ申し、父の恥をすすごうと思い立ったからには、平家を滅ぼすことは予想していましたが、まさかこのようにお目にかかろうとは、まったく思ってもいませんでした。この様子では、八島の大臣殿(宗盛)にもお目にかかることになるだろうと思われます。それにしても南都炎上のことは、故入道相国(清盛)のご命令だったのか、それともその場でのあなたのお計らいだったのか。もってのほかの罪業でございましょう」と申されたので、三位中将がおっしゃるには、「まず南都炎上のことは、故入道相国の命令でもなく、また重衡の私の発意でもございません。衆徒の悪行を鎮めるために向かいましたところ、思いがけず伽藍を滅ぼすことになってしまったのは、どうしようもないことでした。今さら申すまでもないことですが、昔は源平が左右に並んで朝廷のお守りでしたが、近ごろは源氏の運が傾いていたことは、人がみな知っているとおりです。とりわけ当家は保元・平治の乱からこのかた、たびたびの朝敵を平らげ、恩賞は身に余り、恐れ多くも天皇の御外戚として、帝の祖父となり、太政大臣にまで至り、一族の昇進した者は六十余人、二十余年このかたは官位の昇進で天下に肩を並べる者もありませんでした。これにつけては、帝王の御敵を討った者は七代まで朝恩が尽きないと申すことは、まったくの誤りでございました。そのわけは目の前のことで、故入道相国は君のために命を失いかけたことがたびたびに及びました。けれどもその身一代の幸いで、子孫がこのようになってよいものでしょうか。運が尽き世が乱れて都を出てからは、屍を山野にさらし、浮き名を西海の波に流そうと思っていましたのに、生きながら捕らわれて、ここまで下ろうとは、夢にも思いませんでした。ただ前世の宿業が無念でございます。ただし殷の湯王は夏台に捕らわれ、周の文王は羑里に囚われたという文があります。上古でさえこのとおりです。まして末代ではなおさらです。弓矢を取る身が敵の手に渡って命を失うことは、まったく恥のようで恥ではありません。ただご恩情には、早く早く首をお刎ねください」といって、その後は何もおっしゃらなかった。梶原はこれを聞いて、「ああ、りっぱな大将軍だ」といって涙を流した。侍たちもみな袖を濡らした。
兵衛佐殿もまことに哀れに思われたので、「そもそも平家を頼朝の私の敵とは、決して思い申していません。ただ帝王の仰せが重いのでございます。とはいえ南都を滅ぼされた伽藍の敵ですから、大衆がきっと申し出ることもありましょう」といって、伊豆国の住人狩野介宗茂にお預けになった。そのありさまは、冥途で娑婆世界の罪人を七日ごとに十王の手に渡すというのも、このようであろうかと思われて哀れである。けれども狩野介は情けのある者で、たいして厳しくもお扱い申さず、いろいろといたわり申し、そのうえ湯殿をしつらえなどして、お湯を使わせ申した。
中将は、道中の汗がうっとうしかったので、身を清めさせてから殺すのであろうと思って待っておられるところに、しばらくして年のころ二十ほどの女房で、色白く清らかで、髪のかかり具合がまことに美しい人が、目結の帷子に染付の湯巻をつけて、湯殿の戸を押し開けて入って来た。その後に十四、五ほどの女童で、髪は衵の丈ほどの者が、小村濃の帷子を着て、半挿と盥に櫛を入れて持って入って来た。この女房が世話をして、しばらくお湯を使わせ申し、髪を洗いなどして、いとまを申して出ていくときに、「男などでは、かえって気がねなさるかと。女ならかえって差しつかえあるまいということで、鎌倉殿から参らせられたのです。何でもお望みのことがあれば、承って申し上げよと、兵衛佐殿は仰せでございました」。中将は、「今はこのような身となって、何を望むことがあろう。ただ望むこととしては出家がしたい」とおっしゃったので、その女房は帰って、兵衛佐殿にこのことを申した。兵衛佐殿は、「それは思いもよらない。私の敵ならともかく、朝敵としてお預かりしているのだから、かなうまい」とおっしゃった。その女は戻って、三位中将殿にこのことを申し、いとまを申して出ていったので、中将は守護の武士に、「それにしても今の女房は優美であったな。名を何というのか」とお尋ねになると、狩野介が申すには、「あれは手越の長者の娘でございますが、容貌も気だても優雅でこの上ない者だということで、この二、三年は佐殿が召し置かれております。名を千手の前と申します」と申した。
その夕方、雨が少し降って、何となくもの寂しいおりから、その女房が琵琶と琴を持たせて参った。狩野介も家の子郎等十余人を引き連れて、中将殿の御前近くに控えていたが、酒をおすすめ申した。千手の前が酌をする。中将は少し受けて、たいそう興がなさそうにしておられたので、狩野介が申すには、「お聞き及びかもしれませんが、宗茂はもともと伊豆国の者でございますから、鎌倉では旅の身でございますが、心の及ぶかぎりはお仕え申しましょう。何でもお望みのことがあれば、承って申し上げよと、兵衛佐殿が仰せです。さあ何でも申し上げて、酒をおすすめ申しなさい」と言ったので、千手の前は酌をさし置いて、「羅綺の重衣たる、情なきことを機婦に妬む」という朗詠を一、二度したところ、三位中将は、「この朗詠をする人を、北野の天神は毎日三度天翔って守ろうとお誓いになったという。けれども重衡は今生ではもう見捨てられ申した身だから、声を合わせても何になろう。ただし罪障が軽くなりそうなことなら従おう」とおっしゃったので、千手の前はすぐに、「十悪といえどもなお引摂す」という朗詠をして、「極楽を願う人は、みな弥陀の名号を唱えるべし」という今様を四、五度歌い澄ましたので、そのとき中将は杯を傾けられた。千手の前はそれをいただいて狩野介にさす。宗茂が飲むときに琴を弾き澄ました。三位中将は、「普通はこの楽を五常楽というが、今の重衡にとっては後生楽と観ずべきだ。さっそく往生の急を弾こう」と戯れて、琵琶を取り、転手をひねって調子を合わせ、皇麞の急を弾かれた。
こうして夜もしだいに更け、何ごとにつけ心の澄むままに、「ああ思いがけない、東国にもこのように優雅な人がいたとは。さあ何でもよい、もう一曲」とおっしゃると、千手の前は重ねて、「一樹の陰に宿りあい、同じ流れを汲むのも、みなこれ前世の約束」という白拍子を、まことに趣深く歌ったので、三位中将も「燈暗うして数行虞氏が涙」という朗詠をされた。そもそもこの朗詠の心は、昔、唐土で漢の高祖と楚の項羽とが位を争い、合戦すること七十一度、戦うたびに項羽が勝った。けれども最後には項羽が戦いに負けて滅びたとき、騅という、一日に千里を駆ける馬に乗って、虞氏という后と共に逃げ去ろうとされたところ、馬はどう思ったのか、足をそろえて動かない。項羽は涙を流して、「わが威勢はもうすたれた。敵の襲うことは物の数ではない。ただこの后と別れることだけがつらい」と嘆き悲しまれた。燈火が暗くなったので、虞氏は心細さに涙を流す。夜が更けるにつれて軍兵が四方で鬨の声をあげる。この心を橘相公(橘広相)が詩に作ったのを、三位中将が今思い出して口ずさまれたのであろうか、まことに優雅に聞こえた。
やがて夜も明けたので、狩野介はいとまを申して退出した。千手の前も帰った。その朝、兵衛佐殿が持仏堂で法華経を読んでおられるところへ、千手の前が帰って参った。兵衛佐殿はほほえまれて、「それにしても昨夜は仲人を、おもしろく務めたものだな」とおっしゃると、斎院次官親義が御前で物を書いて控えていたが、「何のことでございますか」と申したので、佐殿がおっしゃるには、「平家の人々はこの二、三年は戦のいとなみのほかは、ほかのことはあるまいと思っていたのに、三位中将の琵琶の撥音、朗詠の口ずさみを夜通し立ち聞きしたところ、優雅で風流な人であった」とおっしゃると、親義が申すには、「誰もが昨夜お聞きしたいと思いましたが、あいにく病気をいたわることがございまして、お聞きしませんでした。これからはいつも立ち聞きいたしましょう。平家は代々、歌人・才人たちでいらっしゃいます。先年あの人々を花にたとえましたときには、この三位中将殿を牡丹の花にたとえたのでございました」と申した。三位中将の朗詠の口ずさみを、兵衛佐殿はのちのちまでもすばらしいことだとおっしゃった。
その後、中将が南都へ渡されて斬られなさったと聞こえたので、千手の前はかえって物思いの種となったのであろうか、すぐに姿を変え、濃い墨染の衣にやつれはてて、信濃国の善光寺で修行に励み、重衡の後世菩提を弔ったのは哀れである。
意訳
頼朝との対面で、重衡は南都炎上の責任を逃れようとせず、平家の栄華も一代の幸いにすぎなかったと語って、ただ早く首を刎ねよと求める。捕らわれの身でありながら毅然とした態度は、敵方の梶原や侍たちの涙を誘い、頼朝にも深い感銘を与えた。
後半の千手の前との一夜は、平家物語の中でも屈指の叙情的な場面である。後生楽・往生の急と戯れる重衡の言葉には死を前にした諦めがにじみ、項羽と虞美人の別れを詠む「燈暗うして」の朗詠には、都に残した北の方への思いが重ねられている。重衡の死後に出家した千手の姿は、つかの間の出会いがどれほど深いものであったかを物語る。
語釈・文法注
文法
- 「この定では」
- この調子では。この様子なら。
- 「時に取つての御はからひ」
- その場に臨んでのご判断。
- 「帝祖」
- 帝の祖父。清盛は安徳天皇の外祖父であった。
- 「官加階」
- 官職の昇進と位階の加増。
- 「殷湯は夏臺に捕はれ、文王は羑里に囚はる」
- 殷の湯王は夏の桀王に夏台に捕らえられ、周の文王は殷の紂王に羑里に囚われた。聖王もかつては捕らわれの身となったという故事。
- 「七日々々に十王の手に渡さる」
- 死者は七日ごとに冥途の十王の裁きを受けるとされた。
- 「衵だけ」
- 衵(あこめ)の丈ほどの長さ。
- 「半插盥」
- 半挿(湯水を注ぐ器)と盥(たらい)。
- 「事なうもぞおぼしめす」
- (男では)気がねなさるかもしれない。
- 「羅綺の重衣たる…」
- 『和漢朗詠集』の菅原道真の句。薄絹の衣さえ重いと感じる舞姫が、機を織る女のつれなさをうらむ意。道真を祀る北野の天神が、この句を歌う人を守るとされた。
- 「十惡といへどもなほ引攝す」
- 『和漢朗詠集』の句。十悪を犯した者でも阿弥陀仏は浄土へ迎え取る、の意。
- 「五常樂」「後生樂」「往生の急」
- 雅楽の曲名「五常楽」を「後生楽」と言いかえ、急(曲の終わりの急調の部分)に「往生の急」を掛けた戯れ。
- 「點手」
- 琵琶の弦を巻いて調子を合わせる転手(てんじゅ)。
- 「燈暗うして數行虞氏が涙」
- 『和漢朗詠集』の橘広相の詩句。「燈暗くして数行虞氏の涙、夜深けて四面楚歌の声」。
- 「昨夜中人をば」
- 仲人の役を。千手が重衡と頼朝の間をとりもったことを戯れていう。
- 「相勞る事」
- 病気をいたわること。
解説
千手の前は手越(静岡市駿河区)の長者の娘で、『吾妻鏡』元暦元年(1184)四月二十日条にも、重衡の酒宴に頼朝が千手前を遣わし、重衡が琵琶を弾き朗詠したことが見える。同書には、千手がのち文治四年(1188)に二十四歳で亡くなったとあり、重衡を慕うあまりであろうと記す。この章段は謡曲「千手」の題材となった。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、727–733頁(コマ392–395)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日