平家物語 巻第十一
腰越の事
元暦二年五月、義経は宗盛父子を連れて鎌倉へ下った。宗盛は道中、命だけは助けてくれと頼み、義経は勲功に代えて助命を願おうと慰めた。梶原景時は先に鎌倉へ着いて、一の谷の功を誇って重衡を自分に渡せと迫った義経は、ついには敵になる人だと頼朝に讒言した。頼朝は軍兵を幾重にも配して警戒し、金洗沢で宗盛父子だけを受け取って、義経を腰越へ追い返した。義経は、平家を滅ぼし神器を取り戻した自分が対面もかなわず鎌倉にも入れないことを嘆き、大江広元に宛てて、幼くして父を失い流浪した身の上と命を顧みず戦った功を述べ、讒言を退けて許しを請う書状を送った。
- 1元元げん暦暦りやく二二に年年ねん五五ご月月がつ七七なぬ日日かののの日日ひ、、、九九く郎郎ろう大大たい夫夫ふののの判判ほう官官がん義義よし經經つね、、、大臣殿大臣殿おおいどの父父ふ子子し具具ぐ足足そくししし奉奉たてまつりりりててて、、、既既すでににに都都みやこををを立立たちちち給給たまふふう。。。粟粟あわ田田た口口ぐちにににもももかゝりかゝりかかり給給たまへへえばばば、、、大大おお内内うち山山やまははは雲雲くも居居いのののよそよそよそににに隔隔へだたりたりたりぬぬぬ。。。關關せきののの淸淸し水水みずををを見見み給給たまひひいててて、、、大臣殿大臣殿おおいどの泣泣なく〳〵く〳〵くなく詠詠えいじじじ給給たまひひいけりけりけり。。。
- 2都都みやこをををばばばけふけふきょうをををかぎりかぎりかぎりののの關關せき水水みずにににまたまたまたあふさかあふさかおうさかののの影影かげやややうつさうつさうつさむむん
- 3道道みちすがらすがらすがらももも心心こころ細細ぼそげげげにににおはしおはしおわしけれけれければばば、、、判判ほう官官がんなさけなさけなさけあるあるある人人ひとにににててて、、、やう〳〵やう〳〵ようようににに慰慰なぐさめめめ奉奉たてまつりりり給給たまふふう。。。大臣殿大臣殿おおいどの、、、「「「あはれあはれあわれいかにいかにいかにもももしししててて、、、今今こん度度どののの命命いのちををを助助たすけけけてててたべたべたべ。。。」」」とととぞぞぞのたまひのたまひのたまいけるけるける。。。判判ほう官官がん、、、「「「さささ候候そうらへへえばばばとてとてとて、、、御御おん命命いのち失失うしなひひい奉奉たてまつるるるまでまでまではははよもよもよも候候そうらははわじじじ。。。たとひたとひたといさささ候候そうろうともともとも、、、義義よし經經つねかくかくかくててて候候そうらへへえばばば、、、今今こん度度どののの勳勳くん功功こうののの賞賞しょうににに申申もうしししかへかへかえててて、、、御御おん命命いのちばかりばかりばかりをををばばば助助たすけけけ奉奉たてまつらららんんん。。。さりさりさりながらながらながらももも遠遠とおききき國國くに、、、遙遙はるかかかののの島島しまへへへももも移移うつしししぞぞぞ遣遣やりりり參參まいらららせせせんんんずずずらんらんらん。。。」」」ととと申申もうささされれれたりたりたりけれけれければばば、、、大臣殿大臣殿おおいどの、、、「「「たとひたとひたとい蝦蝦え夷夷ぞががが千千ち島島しまなりなりなりともともとも、、、命命いのちだにだにだにあらあらあらばばば。。。」」」とととのたまひのたまひのたまいけるけるけるこそこそこそ口口くち惜惜おしけれしけれしけれ。。。
- 4日日ひ數數かずふれふれふればばば、、、同同おなじきじきじき二二に十十じゅう三三さん日日にち、、、判判ほう官官がん鎌鎌かま倉倉くらへへへ下下くだりりり著著つききき給給たまふふうべきべきべき由由よし聞聞きこえええしかしかしかばばば、、、梶梶かじ原原はら平平へい三三ぞう景景かげ時時とき判判ほう官官がんににに先先さき立立だつつっててて、、、鎌鎌かま倉倉くら殿殿どのへへへ申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「今今いまははは日日に本本ほん國國ごく殘殘のこるるる所所ところもももなうなうのう、、、從從したがひひいつきつきつき奉奉たてまつりりりててて候候そうろう。。。さささははは候候そうらへへえ共共ども御御おん弟弟おとうと九九く郎郎ろう大大たい夫夫ふののの判判ほう官官がん殿殿どのこそこそこそ、、、遂遂ついににに御御おん敵敵かたきとととははは見見みえええさせさせさせ給給たまひひいててて候候そうらへへえ。。。そのそのその故故ゆえははは、、、一一いちををを以以もっててて萬萬まんををを察察さつすすすとてとてとて、、、『『『一一いちののの谷谷たにををを上上うえののの山山やまよりよりより落落おとさささずずずばばば、、、東東とう西西ざいののの木木き戸戸ど口口ぐち破破やぶれれれ難難がたししし。。。されされさればばば生生いけ捕捕どりをををももも死死しに捕捕どりをををももも、、、まづまづまず義義よし經經つねにににこそこそこそ見見みすすすべきべきべきににに、、、ものものものののの用用ようにににもももあひあひあい給給たまははわぬぬぬ蒲蒲かば殿殿どのののの見見げん參參ざんににに入入いるるるべきべきべきやうやうようやややあるあるある。。。本本ほん三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう殿殿どのををを急急いそぎぎぎこれこれこれへへへたびたびたび候候そうらへへえ。。。たばたばたばずずずばばば義義よし經經つね參參まいりりりててて賜賜たまはらはらわらんんん。。。』』』とてとてとて、、、既既すでににに事事こと出出いででで來來こんんんとととししし候候そうらひひいしししをををももも、、、景景かげ時時ときがががよくよくよく計計はからひらひらいててて、、、土土と肥肥ひににに心心こころををを合合あははわせせせててて、、、本本ほん三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう殿殿どのををを土土と肥肥ひののの次次じ郎郎ろう實實さね平平ひらががが許許もとににに預預あずけけけ置置おききき奉奉たてまつりりりててて後後のちこそこそこそ、、、世世よははは鎭鎭しずまつまつまっててて候候そうらへへえ。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、鎌鎌かま倉倉くら殿殿どの大大おおきききにににうちうちうちうなづいうなづいうなずいててて、、、「「「九九く郎郎ろうががが今日今日きょうこれこれこれへへへ入入いるるるなるなるなる、、、各各おのおの用用よう意意いししし給給たまへへえ。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、大大だい名名みょう、、、小小しょう名名みょう馳馳はせせせ集集あつまつまつまっててて、、、鎌鎌かま倉倉くら殿殿どのははは程程ほどなくなくなく數數すう千千ぜん騎騎ぎにににこそこそこそなりなりなり給給たまへへえ。。。鎌鎌かま倉倉くら殿殿どのははは軍軍ぐん兵兵びょう七七なな重重へ八八や重重へにににすゑすゑすえ置置おききき、、、わがわがわが身身みはははそのそのその中中なかにににおはしおはしおわしながらながらながら、、、「「「九九く郎郎ろうはははすゝどきすゝどきすすどき男男おとこなれなれなればばば、、、このこのこの疊疊たたみののの下下したよりよりよりもももはひはひはい出出いでででんんんずるずるずる者者ものなりなりなり。。。されどもされどもされども賴賴より朝朝ともはははせせせらるらるらるまじまじまじ。。。」」」とととぞぞぞのたまひのたまひのたまいけるけるける。。。
- 5金金かね洗洗あらい澤澤ざわににに關關せきすゑすゑすえててて、、、大臣殿大臣殿おおいどの父父ふ子子し請請うけ取取とりりり奉奉たてまつりりりててて、、、それそれそれよりよりより判判ほう官官がんをををばばば腰腰こし越越ごえへへへ追追おひひいかへさかへさかえさるるる。。。判判ほう官官がん、、、「「「こここはははされされさればばば何何なに事事ごとぞぞぞややや。。。去去こ年年ぞののの春春はる、、、木木き曾曾そ義義よし仲仲なかををを追追つい討討とうせせせしししよりよりよりこのこのこのかたかたかた、、、今今こ年年としののの春春はる、、、平平へい家家けををを悉悉ことごとくくく亡亡ほろぼしぼしぼしはてはてはてててて、、、内内ない侍侍し所所どころ、、、璽璽しるしののの御御おん箱箱はこ、、、事事こと故故ゆえなうなうのう都都みやこへへへ返返かえししし入入いれれれ奉奉たてまつりりり、、、あまつさへあまつさへあまつさえ大大たい將將しょう軍軍ぐん大臣殿大臣殿おおいどの父父ふ子子し生生いけ捕捕どりにににしししててて、、、これこれこれまでまでまで下下くだりりりたらたらたらんんんにににははは、、、たとひたとひたといいかなるいかなるいかなる不不ふ思思し議議ぎありありありともともとも、、、一一いち度度どはははなどなどなどかかか對對たい面面めんなからなからなからんんん。。。凡凡およそそそ九九く國國こくののの總總そう追追つい捕捕ぶ使使しにににももも補補ふせせせられられられ、、、山山せん陰陰いん、、、山山せん陽陽よう、、、南南なん海海かい道道どう、、、いづれいづれいずれなりなりなりともともとも預預あずけけけられられられ、、、一一いっ方方ぽうののの御御おん固固かためめめにににもももなさなさなされれれんんんずるずるずるかかかとととこそこそこそおもひおもひおもいたれたれたればばば、、、さささはははなくなくなくしししててて、、、僅僅わずかににに伊伊い豫豫よののの國國くに許許ばかりりり知知ち行行ぎょうすすすべきべきべき由由よしのたまひのたまひのたまいててて、、、鎌鎌かま倉倉くら中中じゅうへへへだにだにだに入入いれれれられられられずずずしししててて、、、腰腰こし越越ごえへへへ追追おひひい上上のぼせせせられられられししし事事ことはははいかにいかにいかに。。。凡凡およそそそ日日に本本ほん國國こく中中じゅうををを鎭鎭しずむるむるむる事事ことははは、、、義義よし仲仲なか、、、義義よし經經つねがががしわざしわざしわざにににあらあらあらずずずややや。。。たとへたとへたとえばばば同同おなじじじ父父ちちががが子子こにににててて、、、先先さきににに生生うまるゝるゝるるををを兄兄あにとととししし、、、後後のちににに生生うまるゝるゝるるををを弟弟おとうととととするするするばかりばかりばかりなりなりなり。。。天天てん下下かををを知知しらららんんんににに、、、誰誰たれかかかははは知知しらららざらざらざらんんん。。。謝謝しゃするするする所所ところををを知知しらららずずず。。。」」」とととつぶやかつぶやかつぶやかれれれけれけれけれどもどもどもかひかひかいぞぞぞなきなきなき。。。判判ほう官官がん泣泣なく〳〵く〳〵くなく一一いっ通通つうののの狀狀じょうををを書書かいいいててて、、、廣廣ひろ元元もとのののもともともとへへへ遣遣つかははわさささるるる。。。
- 6そのそのその狀狀じょうにににいはくいはくいわく、、、「「「源源みなもとの義義よし經經つね、、、恐恐おそれれれながらながらながら申申もうししし上上あげげげ候候そうろう意意い趣趣しゅははは、、、御御おん代代だい官官かんのののそのそのその一一いちににに選選えらばばばれれれ、、、敕敕ちょく宣宣せんののの御御おん使使つかいとととしししててて朝朝ちょう敵敵てきををを平平たいらららげげげ、、、會會かい稽稽けいののの恥恥ち辱辱じょくををを雪雪すすぐぐぐ。。。勳勳くん賞賞しょう行行おこなははわるるるべきべきべき所所ところににに、、、思思おもひひいののの外外ほかににに虎虎こ口口こうののの讒讒ざん言言げんににに依依よつつっててて、、、莫莫ばく大大だいののの勳勳くん功功こうをををもだせもだせもだせられられられ、、、義義よし經經つね犯犯おかすすす事事ことなうなうのうしししててて科科とがををを蒙蒙こうぶるるる。。。功功こうあつあつあっててて過過あやまちなしなしなしととといへいへいえどもどもども、、、御御ご勘勘かん氣氣きををを蒙蒙こうぶるるる間間あいだ、、、空空むなしくしくしく紅紅こう涙涙るいににに沉沉しずむむむ。。。讒讒ざん者者しゃののの實實じっ否否ぷををを糺糺ただささされれれずずず、、、鎌鎌かま倉倉くら中中じゅうへへへだにだにだに入入いれれれられられられざるざるざる間間あいだ、、、素素そ意意いををを述述のぶるぶるぶるににに能能あたははわずずず。。。徒徒いたずらららににに數數すう日日じつををを送送おくるるる。。。このこのこの時時ときににに當當あたつつっててて長長ながくくく溫溫おん顏顏がんををを拜拜はいししし奉奉たてまつらららずずず。。。骨骨こつ肉肉にく同同どう胞胞ほうののの義義ぎ既既すでににに絶絶たえええ、、、宿宿しゅく運運うん極極きわめめめててて空空むなしきしきしきににに似似にたるたるたるかかか。。。はたはたはたまたまたまた先先せん世世ぜののの業業ごう因因いんををを感感かんずるずるずるかかか。。。悲悲かなしきしきしきかなかなかなこのこのこの條條じょう、、、故故こ亡亡ぼう父父ぶののの尊尊そん靈靈りょう再再さい誕誕たんししし給給たまははわずずずんんんばばば、、、誰誰たれののの人人ひとかかか愚愚ぐ意意いののの悲悲ひ歎歎たんををを申申もうししし開開ひらかかかんんん。。。いづれいづれいずれののの人人ひとかかか哀哀あい憐憐れんををを垂垂たれれれんんんややや。。。事事こと新新あたらしきらしきらしき申申もうししし條條じょう、、、述述じゅっ懷懷かいににに似似にたりたりたりととといへいへいえどもどもども、、、義義よし經經つね身身しん體體たい髪髪はっ膚膚ぷををを父父ふ母母ぼににに受受うけけけ、、、幾幾いく何何ばくののの時時じ節節せつををを經經へずずずしししててて、、、故故こ頭頭こうののの殿殿との御御ご他他た界界かいののの間間あいだ、、、孤孤みなしごとととなつなつなっててて母母ははののの懷懷ふところののの中中うちににに抱抱いだかかかれれれててて、、、大大やま和和とののの國國くに宇宇う陀陀だののの郡郡こおりににに赴赴おもむきききしししよりよりより此此このかたかたかた、、、一一いち日日にち片片へん時時じももも安安あん堵堵どののの思思おもひひいににに住住じゅうせせせずずず、、、かひかひかいなきなきなき命命いのちををを存存ながらふふうととといへいへいえどもどもども、、、京京きょう都都とののの經經けい廻廻かい難難なん治治じののの間間あいだ、、、身身みををを在在ざい々々ざい所所しょ々々しょににに隱隱かくししし、、、邊邊へん土土ど遠遠おん國國ごくををを住住すみ家家かとととしししててて、、、土土ど民民みん百百ひゃく姓姓しょう等等らににに服服ふく仕仕じせせせらるらるらる。。。然然しかれれれどもどもども交交こう契契けい忽忽たちまちちちににに順順じゅん熟熟にゅくしししててて、、、平平へい家家けののの一一いち族族ぞく追追つい討討とうののの爲爲ためににに上上しょう洛洛らくせせせしむるしむるしむる手手て合合あははわせせせににに、、、まづまづまず木木き曾曾そ義義よし仲仲なかををを誅誅ちゅう戮戮りくののの後後のち、、、平平へい家家けををを攻攻せめめめ傾傾かたぶけけけんんんががが爲爲ためににに、、、或或ある時時ときははは峨峨が々々がたるたるたる巖巖がん石石せきににに駿駿しゅん馬馬めににに鞭鞭むちゅうつつっててて、、、敵敵かたきののの爲爲ためににに命命いのちををを亡亡ほろぼさぼさぼされれれんんん事事ことををを顧顧かえりみみみずずず、、、或或ある時時ときははは漫漫まん々々まんたるたるたる大大たい海海かいににに風風ふう波波はののの難難なんををを凌凌しのぎぎぎ、、、身身みををを海海かい底底ていににに沉沉しずめめめんんんことことことををを痛痛いたまままずずずしししててて、、、骸骸かばねををを鯨鯨けい鯢鯢げいののの鰓鰓あぎとにににかけかけかけ、、、しかのみならずしかのみならずしかのみならず甲甲かっ冑冑ちゅうををを枕枕まくらとととししし、、、弓弓きゅう箭箭ぜんををを業業ぎょうとととするするする本本ほ意意い、、、しかしながらしかしながらしかしながら亡亡ぼう魂魂こんののの憤憤いきどおりりりををを安安やすめめめ奉奉たてまつりりり、、、年年ねん來來らいののの宿宿しゅく望望もうををを遂遂とげげげんんんととと欲欲ほっするするする外外ほかははは他他た事事じなしなしなし。。。あまつさへあまつさへあまつさえ義義よし經經つね五五ご位位いののの尉尉じょうににに補補ふ任任にんののの條條じょう、、、當當とう家家けののの重重ちょう職職しょく何何なに事事ごとかかかこれこれこれににに如如しかかかんんん。。。然然しかりりりととといへいへいえどもどもども今今いま憂憂うれへへえ深深ふかくくく歎歎なげききき切切せつなりなりなり。。。佛佛ぶつ神神じんののの御御おん助助たすけけけにににあらあらあらざるざるざるよりよりより外外ほかははは、、、爭爭いかでででかかか愁愁しゅう訴訴そををを達達たつせせせんんん。。。之之これににに依依よつつっててて諸諸しょ寺寺じ諸諸しょ社社しゃののの牛牛ご王王おう寶寶ほう印印いんののの裏裏うらををを以以もっててて、、、全全まったくくく野野や心心しんををを挾挾さしわさまままざるざるざる旨旨むね、、、日日に本本ほん國國こく中中じゅうののの大大だい小小しょうののの神神じん祇祇ぎ、、、冥冥みょう道道どうををを請請しょうじじじ驚驚おどろかしかしかし奉奉たてまつつつっててて、、、數數す通通つうののの起起き請請しょう文文もんををを書書かききき進進しんずずずととといへいへいえどもどもども、、、尙尙なお以以もっててて御御ご宥宥ゆう免免めんなしなしなし。。。それそれそれわがわがわが國國くにははは神神しん國國こくなりなりなり、、、神神かみははは非非ひ禮禮れいををを受受うけけけ給給たまふふうべからべからべからずずず。。。賴賴たのむむむ所所ところ他他たにににあらあらあらずずず。。。ひとへひとへひとえににに貴貴き殿殿でん廣廣こう大大だいののの慈慈じ悲悲ひををを仰仰あうぎぎぎ、、、便便べん宜宜ぎををを窺窺うかがひひい、、、高高こう聞聞ぶんににに達達たつせせせしめしめしめ、、、祕祕ひ計計けいををを廻廻めぐらしししててて、、、誤誤あやまりりりなきなきなき旨旨むねををを宥宥ゆうせせせられられられ、、、放放ほう免免めんににに預預あずからららばばば、、、積積しゃく善善ぜんののの餘餘よ慶慶けい家家か門門もんににに及及およびびび、、、榮榮えい花花が永永ながくくく子子し孫孫そんににに傳傳つたへへえ、、、仍仍よつつっててて年年ねん來來らいののの愁愁しゅう眉眉びををを開開ひらききき、、、一一いち期期ごののの安安あん寧寧ねいををを得得えんんん。。。書書しょ紙紙しにににつくさつくさつくさずずず。。。しかしながらしかしながらしかしながら省省せい畧畧りやくせせせしめしめしめ候候そうらひひいをををはんはんはんぬぬぬ。。。義義よし經經つね恐恐きょう惶惶こう謹謹つつしんんんででで言言もうすすす。。。元元げん暦暦りやく二二に年年ねん六六ろく月月がつ五五いつ日日かののの日日ひ、、、源源みなもとののの義義よし經經つね進進しん上上じょう、、、因因いな播播ばののの守守かみ殿殿どのへへへ。。。」」」とととぞぞぞ書書かかかかれれれたるたるたる。。。
現代語訳
元暦二年五月七日、九郎大夫判官義経は大臣殿父子を連れて都を出発された。粟田口にさしかかられると、内裏のある大内山は雲のかなたに隔たってしまった。逢坂の関の清水をご覧になって、大臣殿は泣く泣く詠まれた。
(都を今日を限りに離れていくが、この関の清水に、再び逢坂の名のように都に戻ってわが姿を映すことがあろうか)
道中も心細そうにしておられたので、判官は情けある人で、いろいろとお慰め申された。大臣殿は「ああ、何とかして今度の命を助けてください」とおっしゃった。判官は、「そうだとしても、お命を奪い申すまではまさかありますまい。たとえそうなっても、義経がこうしておりますから、今度の勲功の賞に代えて、お命だけはお助け申しましょう。ただし遠い国や遥かな島へお移し申すことはあるでしょう」と申されたので、大臣殿が「たとえ蝦夷が千島であっても、命さえあれば」とおっしゃったのは情けないことであった。
日数がたって、同じく二十三日に判官が鎌倉へ下り着かれると聞こえたので、梶原平三景時は判官より先に鎌倉殿に申すには、「今は日本国に残る所もなく、従いついております。とはいえ御弟九郎大夫判官殿こそ、ついには御敵となられるように見えます。そのわけは、一をもって万を察すと申しますが、『一の谷を上の山から駆け下りなかったら、東西の木戸口は破れなかった。だから生け捕りも討ち取った首も、まず義経に見せるべきなのに、何の役にも立たなかった蒲殿(範頼)の見参に入れるとはどういうことか。本三位中将殿を急いでこちらへ渡せ。渡さなければ義経が行ってもらい受けよう』といって、もう少しで事が起こるところでしたのを、景時がうまく計らって、土肥と心を合わせ、本三位中将殿を土肥次郎実平のもとにお預けしてからこそ、世は鎮まったのです」と申したので、鎌倉殿は大きくうなずいて、「九郎が今日ここへ入るそうだ。おのおの用意せよ」とおっしゃると、大名・小名が馳せ集まって、鎌倉殿はまもなく数千騎になられた。鎌倉殿は軍兵を七重八重に配置して、自分はその中におられながら、「九郎はすばしこい男だから、この畳の下からでも這い出してくる者だ。けれども頼朝はやられはしない」とおっしゃった。
金洗沢に関所を設けて大臣殿父子を受け取り申し、そこから判官を腰越へ追い返された。判官は、「これはいったいどうしたことか。去年の春に木曾義仲を追討してからこのかた、今年の春には平家をことごとく滅ぼしはてて、内侍所と璽の御箱を無事に都へお返し申し、そのうえ大将軍の大臣殿父子を生け捕りにしてここまで下ってきたのだから、たとえどんな不審があろうとも、一度ぐらいはどうして対面がないことがあろう。九州の総追捕使にも任ぜられ、山陰・山陽・南海道のどれかでも預けられて、一方の守りにもなされるかと思っていたのに、そうではなくて、わずかに伊予国だけを知行せよとおっしゃって、鎌倉の中へさえ入れられずに腰越へ追い返されたのはどういうことか。そもそも日本国中を鎮めたのは、義仲と義経のしたことではないか。たとえば同じ父の子で、先に生まれた者を兄とし、後に生まれた者を弟とするだけのことだ。天下を治めるのに、誰が治められないことがあろう。お詫びのしようもない」とつぶやかれたが、どうにもならない。判官は泣く泣く一通の書状を書いて、広元のもとへ遣わされた。
その書状にいうには、「源義経、恐れながら申し上げます趣旨は、御代官の一人に選ばれ、勅宣の御使いとして朝敵を平らげ、会稽の恥辱をすすぎました。勲功の賞が行われるべきところに、思いがけず虎口のような讒言によって、莫大な勲功を黙殺され、義経は罪を犯したこともないのに咎めを受けております。功があって過ちがないのに、御勘気を受けておりますので、むなしく血の涙に沈んでおります。讒言する者の真偽を糺されず、鎌倉の中へさえ入れられませんので、本心を申し述べることもできません。いたずらに数日を送っております。このときに当たって、長くお顔を拝し申さずにおります。骨肉の兄弟の義はすでに絶え、宿運はきわめてむなしいように思われます。あるいは前世の業因の報いでしょうか。悲しいことです。このことは、亡き父の尊霊が再びこの世に生まれてこられないかぎり、誰が私の悲しみを申し開いてくれましょう。誰が憐れみをかけてくれましょう。今さらの申し分で、愚痴に似ておりますが、義経は身体髪膚を父母から受けて、いくらも時を経ないうちに故頭殿(義朝)が亡くなられたので、孤児となって母の懐に抱かれ、大和国宇陀郡に赴いてからこのかた、一日片時も安らかな思いをしたことがなく、かいのない命を長らえてきましたが、京都をうろつくことも難しかったので、身をあちこちに隠し、辺境の遠国を住みかとして、土民・百姓などに仕えておりました。けれども機縁がたちまち熟して、平家一族の追討のために上洛する手始めに、まず木曾義仲を誅殺した後、平家を攻め滅ぼすために、あるときは険しくそびえる岩石に駿馬を鞭打って、敵のために命を落とすことも顧みず、あるときは果てしない大海に風波の難をしのいで、身を海底に沈めることも厭わず、屍を鯨のえらにかけるような危険を冒し、そればかりか甲冑を枕とし、弓矢を業としてきた本意は、ひとえに亡き父の魂の憤りをおなだめ申し、年来の宿望を遂げようと思うほかは他意はありません。そのうえ義経が五位尉に任ぜられたことは、当家の重職としてこれにまさるものがありましょうか。とはいえ今、憂いは深く嘆きは切実です。仏神のお助けによるほかは、どうして愁訴を遂げられましょう。そこで諸寺諸社の牛王宝印の裏に、まったく野心を抱いていないことを、日本国中の大小の神祇・冥道をお招きしお驚かせ申して、数通の起請文を書いて差し上げましたが、なおお許しがありません。そもそもわが国は神国です。神は非礼を受けられないはずです。頼むところはほかにありません。ひとえにあなたの広大な慈悲を仰ぎ、よい機会をうかがって鎌倉殿のお耳に入れ、うまく計らって、誤りのないことをお許しいただき、放免にあずかることができれば、積善の余慶は家門に及び、栄華は永く子孫に伝わり、年来の憂いの眉を開いて、一生の安寧を得られましょう。紙には書き尽くせません。省略いたします。義経恐惶謹んで申し上げます。元暦二年六月五日、源義経進上、因幡守殿へ」と書かれていた。
意訳
平家を滅ぼした功労者でありながら、鎌倉に入ることも許されず、兄頼朝との対面もかなわない義経の悲劇を描く章段である。梶原の讒言と、畳の下からでも這い出してくると警戒する頼朝の言葉は、兄弟の間に生じた深い溝を物語る。
腰越状として知られる義経の書状は、幼くして父を失い、各地を流浪した身の上から、命を顧みず戦った功までを切々と訴え、讒言を退けて許しを請う名文である。勝者でありながら孤立していく義経の姿は、のちの判官びいきの源となった。
語釈・文法注
文法
- 「關の淸水」
- 逢坂の関の清水。歌枕。
- 「またあふさかの影やうつさむ」
- 「逢坂」に「(再び都に)逢ふ」を掛ける。
- 「蝦夷が千島」
- 北の果ての島々。
- 「一を以て萬を察す」
- 一つのことから万事を推察する。
- 「死捕」
- 討ち取った首。
- 「蒲殿」
- 源範頼。遠江国蒲御厨で育ったことからの呼び名。
- 「はひ出でんずる者なり」
- 這い出してくるような者である。それほど抜け目がない。
- 「總追捕使」
- 諸国の治安・追捕をつかさどる職。
- 「廣元」
- 大江広元。鎌倉幕府の公文所別当。因幡守。
- 「もだせられ」
- 黙殺され。
- 「紅涙」
- 血の涙。ひどく悲しんで流す涙。
- 「故頭の殿」
- 左馬頭であった亡父義朝。
- 「骸を鯨鯢の鰓にかけ」
- 屍を鯨のえらにかける。海で死ぬ危険を冒すこと。
- 「牛王寶印」
- 寺社が出す護符。その裏に起請文を書いた。
- 「因播の守殿」
- 底本は「因播」と刷る。因幡守大江広元をさす。
和歌
都をばけふをかぎりの關水にまたあふさかの影やうつさむ
- 詠者
- 平宗盛
- 状況
- 鎌倉へ護送される途中、逢坂の関の清水を見て詠んだ歌。
修辞
- あふさか
- 地名「逢坂」と「(再び)逢ふ」の掛詞。
解説
腰越状は『吾妻鏡』元暦二年(1185)五月二十四日条にも載り、満福寺(神奈川県鎌倉市腰越)には義経が書いたと伝える下書きが残る。ただし原本は伝わらず、後世の作とする説もある。この後、義経と頼朝の対立は決定的となり、義経は奥州へ落ちのびることになる。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、808–811頁(コマ433–434)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日