平家物語 巻第十一
副将斬られの事
元暦二年五月、義経が宗盛父子を連れて関東へ下ることになり、宗盛は生け捕りの中にいる八歳の子にもう一度会いたいと義経に願った。義経は河越重房に預けていた若君を連れてこさせた。宗盛は膝に乗った副将の髪をなでて、この子の母は産後まもなく亡くなり、自分の形見として手元で育ててくれと遺言したこと、名を副将とつけたことを涙ながらに語った。若君は父の袖にすがって帰ろうとせず、乳母に抱かれて車で帰された。翌日、重房は若君を六条河原に連れ出して斬った。乳母と介錯の女房は首と亡骸をもらい受け、数日後、二人とも桂川に身を投げた。
- 1元元げん暦暦りやく二二に年年ねん五五ご月月がつ六六むゆ日日かののの日日ひ、、、九九く郎郎ろう大大たい夫夫ふののの判判ほう官官がん義義よし經經つね、、、大臣殿大臣殿おおいどの父父ふ子子し具具ぐ足足そくししし奉奉たてまつりりりててて、、、關關かん東東とうへへへ下下くだらららるるるべきべきべきににに定定さだまりまりまりしかしかしかばばば、、、大臣殿大臣殿おおいどの判判ほう官官がんのののもともともとへへへ使使し者者じゃををを立立たてててててて、、、「「「明明みょう日日にち、、、關關かん東東とうへへへ下下げ向向こうののの由由よしそのそのその聞聞きこえええ候候そうろう。。。それそれそれつきつきつき候候そうらひひいてててははは、、、生生いけ捕捕どりののの中中うちににに八八はっ歳歳さいののの童童わらわととと附附つけけけられられられ參參まいらららせせせててて候候そうろうははは、、、未未いまだだだうきうきうき世世よににに候候そうろうやらんやらんやらん。。。賜賜たまはりはりわりててて今今いま一一ひと度度たび見見み候候そうらははわばやばやばや。。。」」」ととと宣宣のたまひひい遣遣つかははわささされれれたりたりたりけれけれければばば、、、判判ほう官官がんののの返返へん事事じににに、、、「「「誰誰たれとてとてとてももも恩恩おん愛愛あいののの道道みちははは、、、思思おもひひい切切きららられれれぬぬぬ事事ことにににててて候候そうらへへえばばば、、、まことまことまことにににさこそさこそさこそははは思思おぼし召召めささされれれ候候そうろうらめらめらめ。。。」」」とととててて河河かわ越越ごえののの小小こ太太た郎郎ろう重重しげ房房ふさがががもともともとににに預預あずけけけ置置おききき奉奉たてまつつつったりたりたりけるけるける若若わか君君ぎみををを、、、いそぎいそぎいそぎ大臣殿大臣殿おおいどののののもともともとへへへ具具ぐ足足そくししし奉奉たてまつるるるべきべきべき由由よし、、、宣宣のたまひひい遣遣つかははわささされれれたりたりたりけれけれければばば、、、河河かわ越越ごえ、、、人人ひとににに車車くるま借借かつつっててて乘乘のせせせ奉奉たてまつるるる。。。二二ふた人人りののの女女にょう房房ぼうどもどもどもももも共共ともににに乘乘のつつってててぞぞぞ出出いでででにににけるけるける。。。若若わか君君ぎみははは父父ちちををを遙遙はるかかかににに見見みまゐらせまゐらせまいらせ給給たまははわねねねばばば、、、世世よにににもももなつかしなつかしなつかしげげげにににてててぞぞぞおはしおはしおわしけるけるける。。。
- 2大臣殿大臣殿おおいどの、、、若若わか君君ぎみををを見見み給給たまひひいててて、、、「「「いかにいかにいかに副副ふく將將しょう、、、これこれこれへへへ。。。」」」ととと宣宣のたまへへえばばば、、、いそぎいそぎいそぎ父父ちちののの御御おん膝膝ひざののの上上うえにににぞぞぞ參參まいららられれれけるけるける。。。大臣殿大臣殿おおいどの、、、若若わか君君ぎみののの髪髪かみかきかきかきなでなでなで、、、涙涙なみだをををはら〳〵はら〳〵はらはらととと流流ながいいいててて、、、「「「これこれこれ聞聞きききき給給たまへへえ各各おのおの、、、このこのこの子子こははは母母ははもももなきなきなき者者ものにににてててあるあるあるぞぞぞとととよよよ。。。このこのこの子子こががが母母はははははこれこれこれををを生生うむむむとてとてとて、、、産産さんをををばばば平平たいらからからかにににしししたりたりたりしかしかしかどもどもども、、、やがてやがてやがてうちうちうち臥臥ふししし惱惱なやみみみしししががが、、、遂遂ついにににはかなくはかなくはかなくなるなるなるぞぞぞとととよよよ。。。『『『このこのこの後後のち、、、いかなるいかなるいかなる人人ひとののの腹腹はらににに公公きん達達だちををを設設もうけけけ給給たまふふうともともとも、、、これこれこれをををばばば思思おぼし召召めししし棄棄すてててずずずしししててて、、、わらはわらはわらわがががかたみかたみかたみににに御御ご覽覽らんぜぜぜよよよ。。。さしさしさし放放はなつつっててて乳乳めの母母となどなどなどのののもともともとへへへももも遣遣つかははわすすすななな。。。』』』ととといひいひいいしししことことことののの不不ふ便便びんさささよよよ。。。朝朝ちょう敵敵てきををを平平たいらららげげげんんん時時とき、、、あのあのあの右右う衞衞え門門もんののの督督かみにににははは大大たい將將しょう軍軍ぐんをををせせせさせさせさせ、、、これこれこれにににははは副副ふく將將しょう軍軍ぐんをををせせせさせさせさせんんんずれずれずればばばとてとてとて、、、名名なををを副副ふく將將しょうとととつけつけつけたりたりたりしかしかしかばばば、、、なのめならなのめならなのめならずずずうれしうれしうれしげげげにににててて、、、今今いまををを限限かぎりりりののの時時ときまでまでまでももも、、、名名なををを呼呼よびびびなどなどなどしししててて愛愛あいせせせしししががが、、、七七なぬ日日かととといふいふいうににに遂遂ついにににはかなくはかなくはかなくなりなりなりてててあるあるあるぞぞぞとととよよよ。。。このこのこの子子こををを見見みるるる度度たびごとごとごとにににははは、、、そのそのその事事ことががが忘忘わすれれれ難難がたくくく覺覺おぼゆるゆるゆるぞぞぞややや。。。」」」とととててて泣泣なかかかれれれけれけれければばば、、、守守しゅ護護ごののの武武ぶ士士しどもどもどもももも、、、みなみなみな鎧鎧よろいののの袖袖そでをををぞぞぞぬらしぬらしぬらしけるけるける。。。右右う衞衞え門門もんののの督督かみももも泣泣なききき給給たまへへえばばば、、、乳乳めの母母とももも袖袖そでをををぞぞぞしぼりしぼりしぼりけるけるける。。。
- 3やゝやゝややあつあつあっててて大臣殿大臣殿おおいどの、、、「「「いかにいかにいかに副副ふく將將しょう、、、はやはやはやとうとうとう歸歸かえれれれ。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえどもどもども、、、若若わか君君ぎみ歸歸かえりりり給給たまははわずずず。。。右右う衞衞え門門もんののの督督かみこれこれこれををを見見み給給たまひひいててて、、、あまりあまりあまりにににあはれあはれあわれににに思思おもははわれれれけれけれければばば、、、「「「副副ふく將將しょう今今こ宵宵よいはははとうとうとう歸歸かえれれれ。。。只只ただ今今いま客客まら人人うどののの來來こうううずるずるずるににに。。。朝朝あしたははは急急いそぎぎぎ參參まいれれれ。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえどもどもども、、、父父ちちののの御御ご淨淨じょう衣衣えののの袖袖そでにににひしひしひしととと取取とりりりついついついててて、、、いなやいなやいなや歸歸かえらららじじじとととこそこそこそ泣泣なかかかれれれけれけれけれ。。。かくかくかくててて遙遙はるかかかににに程程ほど經經ふれれればばば、、、日日ひもももやう〳〵やう〳〵ようよう暮暮くれれれかゝりかゝりかかりぬぬぬ。。。さてさてさてしもしもしもあるあるあるべきべきべき事事ことならならならねねねばばば、、、乳乳めの母母とののの女女にょう房房ぼう抱抱いだききき取取とつつっててて、、、遂遂ついににに車車くるまににに乘乘のせせせ奉奉たてまつるるる。。。二二ふた人人りののの女女にょう房房ぼうどもどもどもももも共共ともににに乘乘のつつってててぞぞぞ出出いでででにににけるけるける。。。
- 4大臣殿大臣殿おおいどの、、、若若わか君君ぎみののの御御おん後後うしろををを遙遙はるかかかににに御御ご覽覽らんじじじ送送おくつつっててて、、、日日ひ頃頃ごろのののこひしさこひしさこいしさははは事事ことののの數數かずならならならずずずとととぞぞぞ悲悲かなしみしみしみ給給たまひひいけるけるける。。。このこのこの子子こははは母母ははののの遺遺ゆい言言ごんののの無無む慙慙ざんさささににに、、、さしさしさし放放はなつつっててて乳乳めの母母となどなどなどのののもともともとへへへももも遣遣つかははわさささずずず、、、朝朝あさ夕夕ゆう御御お前前まえにににててて育育そだててて給給たまふふう。。。三三さん歳歳さいにににててて初初うい冠冠こうぶりしししててて義義よし宗宗むねとととぞぞぞ名名な乘乘のらららせせせけるけるける。。。やう〳〵やう〳〵ようよう生生おひひい立立たちちち給給たまふふう程程ほどににに、、、みめみめみめすがたすがたすがた世世よにににすぐれすぐれすぐれ、、、心心こころざまざまざま優優ゆうにににおはしおはしおわしけれけれければばば、、、大臣殿大臣殿おおいどのもももいとほしういとほしういとおしゅう、、、うれしきうれしきうれしき事事ことにににおぼしおぼしおぼしててて、、、されされさればばば西西さい海海かいののの波波なみののの上上うえ、、、船船ふねののの中中うちまでまでまでももも引引ひき具具ぐしししててて、、、片片へん時時しももも離離はなれれれ給給たまははわずずず。。。然然しかるるるををを軍軍いくさ破破やぶれれれててて後後のちははは、、、今日今日きょうぞぞぞ互互たがいににに見見み給給たまひひいけるけるける。。。
- 5重重しげ房房ふさ、、、判判ほう官官がんににに申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「そも〳〵そも〳〵そもそも若若わか君君ぎみをををばばば何何なにととと御御おんはからひはからひはからい候候そうろうやらんやらんやらん。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、「「「鎌鎌かま倉倉くらまでまでまで具具ぐ足足そくししし奉奉たてまつるるるににに及及およばばばすすす。。。汝汝なんじこれこれこれにににててて、、、ともかうともかうともこうももも相相あいはからへはからへわからえ。。。」」」ととと宣宣のたまへへえばばば、、、重重しげ房房ふさ宿宿しゅく所所しょににに歸歸かえつつっててて、、、二二ふた人人りののの女女にょう房房ぼうどもどもどもにににいひいひいいけるけるけるははは、、、「「「大臣殿大臣殿おおいどのははは明明みょう日日にち關關かん東東とうへへへ下下げ向向こう候候そうろう。。。重重しげ房房ふさももも御御おん供供ともにににまかりまかりまかり下下くだりりり候候そうろう閒閒あいだ、、、若若わか君君ぎみをををばばば京京きょう都都とににに止止とどめめめ置置おききき、、、緒緒お方方かたののの三三さぶ郎郎ろう惟惟これ義義よしががが手手てへへへ渡渡わたしししまゐらせまゐらせまいらせ候候そうろうべしべしべし。。。とうとうとうとうとうとう召召めささされれれ候候そうらへへえ。。。」」」とととててて、、、御御おん車車くるまををを寄寄よせせせたりたりたりけれけれければばば、、、若若わか君君ぎみはははまたまたまた先先さきのののやうやうようににに、、、父父ちちののの御御おんもともともとへへへかかかととと、、、うれしうれしうれしげげげにににおぼしおぼしおぼしたるたるたるこそこそこそいとほしけれいとほしけれいとおしけれ。。。二二ふた人人りののの女女にょう房房ぼうももも一一ひとつつつ車車くるまににに乘乘のつつってててぞぞぞ出出いでででにににけるけるける。。。六六ろく條條じょうををを東東ひがしへへへ、、、河河かわ原原らまでまでまで遣遣やりりりててて行行ゆくくく。。。乳乳めの母母とののの女女にょう房房ぼう、、、あはれあはれあわれこれこれこれはははあやしきあやしきあやしきものものものかなかなかなととと、、、肝肝きも魂魂だましいををを消消けしししててて思思おもふふう所所ところににに、、、やゝやゝややあつあつあっててて兵兵つわものどもどもども五五ご六六ろく十十じっ騎騎きがががほどほどほど、、、河河かわ原原ら中中なかへへへ打打うつつっててて出出いでででたりたりたり。。。やがてやがてやがて車車くるまををを遣遣やりりり止止とどめめめ、、、「「「若若わか君君ぎみ下下おりりりさせさせさせ給給たまへへえ。。。」」」とととててて、、、敷敷しき皮皮がわ敷敷しいいいてててすゑすゑすえ奉奉たてまつるるる。。。若若わか君君ぎみあきれあきれあきれたるたるたる御御おん有有あり樣樣さまにににててて、、、「「「そも〳〵そも〳〵そもそもわれわれわれをををばばば、、、いづちいづちいずちへへへ具具ぐしししててて行行ゆかかかんんんとととはははするするするぞぞぞ。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、二二ふた人人りののの女女にょう房房ぼう共共ども、、、とかうとかうとこうののの御御おん返返へん事事じにににももも及及およばばばずずず、、、聲聲こえをををはかりはかりはかりにににをめきをめきおめき叫叫さけぶぶぶ。。。重重しげ房房ふさががが郎郎ろう等等どう太太た刀刀ちををを引引ひきききそばめそばめそばめ、、、左左ひだりののの方方かたよりよりより若若わか君君ぎみののの御御おん後後うしろににに立立たち廻廻まわりりり、、、既既すでににに斬斬きりりり奉奉たてまつらららんんんとととしししけるけるけるををを、、、若若わか君君ぎみ見見みつけつけつけ給給たまひひいててて、、、いくいくいく程程ほど遁遁のがるるるべきべきべき事事ことのののやうやうようににに、、、いそぎいそぎいそぎ乳乳めの母母とののの懷懷ふところののの中中うちへへへぞぞぞ逃逃にげげげ入入いらららせせせ給給たまひひいけるけるける。。。二二ふた人人りののの女女にょう房房ぼうどもどもども若若わか君君ぎみををを抱抱いだききき奉奉たてまつりりりててて、、、たゞたゞただわれ〳〵われ〳〵われわれををを失失うしなひひい給給たまへへえとととててて、、、天天てんををを仰仰あうぎぎぎ地地ちににに俯俯ふしししててて、、、泣泣なききき悲悲かなしめしめしめどもどもどもかひかひかいぞぞぞなきなきなき。。。
- 6やゝやゝややあつあつあっててて重重しげ房房ふさ涙涙なみだをををおさへおさへおさえててて申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「今今いまはははいかにいかにいかにもももかなはかなはかなわせせせ給給たまふふうべからべからべからずずず。。。」」」とととててて、、、いそぎいそぎいそぎ乳乳めの母母とののの懷懷ふところののの中中うちよりよりより若若わか君君ぎみ引引ひき出出いだししし參參まいらららせせせ、、、腰腰こしののの刀刀かたなにににててておしおしおしふせふせふせててて、、、遂遂ついににに首首くびをををぞぞぞかいかいかいてててけるけるける。。。首首くびをををばばば判判ほう官官がんににに見見みせせせんんんとととててて取取とつつっててて行行ゆくくく。。。二二ふた人人りののの女女にょう房房ぼうどもどもどもかちかちかちはだしはだしはだしにににててて追追おひひいつきつきつき、、、「「「何何なにかかか苦苦くるしうしうしゅう候候そうろうべきべきべき、、、御御おん首首くびをををばばば賜賜たまはつはつわっててて御御おん孝孝きょう養養ようしししまゐらせまゐらせまいらせ候候そうらははわんんん。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、判判ほう官官がん情情なさけあるあるある人人ひとにににててて、、、「「「最最もっともももさるさるさるべしべしべし。。。とう〳〵とう〳〵とうとう。。。」」」とととてててたびたびたびにににけりけりけり。。。二二ふた人人りののの女女にょう房房ぼう共共どもなのめならなのめならなのめならずずずににに悅悅よろこびびび、、、これこれこれををを取取とつつっててて懷懷ふところににに引引ひき入入いれれれててて、、、泣泣なく〳〵く〳〵くなく京京きょうののの方方かたへへへ歸歸かえるるるとととぞぞぞ見見みえええししし。。。そのそのその後後のち五五ご六六ろく日日にちしししててて、、、桂桂かつら川川がわににに女女にょう房房ぼう二二ふた人人り身身みををを投投なげげげたりたりたりととといふいふいう事事ことありありありけりけりけり。。。一一ひと人人りをさなきをさなきおさなき人人ひとののの首首くびををを懷懷ふところににに入入いれれれててて沉沉しずみみみたりたりたりしししははは、、、このこのこの若若わか君君ぎみののの乳乳めの母母とののの女女にょう房房ぼうにににてててぞぞぞありありありけるけるける。。。今今いま一一ひと人人りむくろむくろむくろををを抱抱いだいいいててて沉沉しずみみみたりたりたりしししははは、、、介介かい錯錯しやくののの女女にょう房房ぼうなりなりなり。。。乳乳めの母母とががが思思おもひひいきるきるきるははは、、、せめてせめてせめていかゞいかゞいかがせせせんんん、、、介介かい錯錯しやくののの女女にょう房房ぼうさへさへさへ身身みををを投投なげげげけるけるけるこそこそこそあはれあはれあわれなれなれなれ。。。
現代語訳
元暦二年五月六日、九郎大夫判官義経が大臣殿父子を連れて関東へ下ることに決まったので、大臣殿は判官のもとへ使者を立てて、「明日関東へ下向すると聞いております。それにつきましては、生け捕りの中に八歳の童と記されております子は、まだこの世におりますでしょうか。いただいて、もう一度会いたいのです」とおっしゃり遣わされたので、判官の返事に、「誰でも親子の情は断ちきれないものですから、本当にそうお思いになることでしょう」といって、河越小太郎重房のもとに預けておいた若君を、急いで大臣殿のもとへお連れするよう言い遣わされたので、河越は人に車を借りて若君をお乗せした。二人の女房たちも一緒に乗って出かけた。若君は父に長い間お会いになっていなかったので、たいそう恋しそうにしておられた。
大臣殿は若君をご覧になって、「どうした副将、こちらへ」とおっしゃると、若君は急いで父の御膝の上に参られた。大臣殿は若君の髪をかきなでて、涙をはらはらと流して、「これを聞いてくれ、皆の者。この子は母もない者なのだ。この子の母はこの子を産むとき、お産は無事にすませたが、すぐに床について病み、ついに亡くなったのだ。『この後どんな人の腹に公達をお設けになっても、この子をお見捨てにならず、私の形見と思ってご覧ください。手放して乳母などのもとへやらないでください』と言ったのがいじらしい。朝敵を平らげるときには、あの右衛門督には大将軍を、この子には副将軍をさせようと思って、名を副将とつけたところ、たいそう喜んで、最期のときまで名を呼んだりしてかわいがっていたが、七日目についに亡くなってしまったのだ。この子を見るたびに、そのことが忘れられなく思われるのだ」といって泣かれたので、警護の武士たちもみな鎧の袖を濡らした。右衛門督も泣かれたので、乳母も袖をしぼった。
しばらくして大臣殿が「さあ副将、早く帰れ」とおっしゃったが、若君はお帰りにならない。右衛門督はこれをご覧になって、あまりに哀れに思われたので、「副将、今夜は早く帰れ。今にお客が来るのだから。朝は急いで参れ」とおっしゃったが、若君は父の御浄衣の袖にしっかりと取りすがって、「いやだ、帰らない」と泣かれた。こうしてずいぶん時が経って、日もしだいに暮れかかった。いつまでもそうしてはいられないので、乳母の女房が抱き取って、ついに車にお乗せ申した。二人の女房たちも一緒に乗って出ていった。
大臣殿は若君の後ろ姿をはるかに見送られて、日ごろの恋しさなどは物の数ではないと悲しまれた。この子は母の遺言がいじらしくて、手放して乳母などのもとへもやらず、朝夕御前で育てておられた。三歳で元服させて義宗と名のらせた。しだいに成長されるにつれて、容貌も世にすぐれ、気だても優雅でいらしたので、大臣殿もいとおしく、うれしいことに思われて、それゆえ西海の波の上、船の中までも連れて行き、片時もお離しにならなかった。それなのに戦に敗れてからは、今日初めて互いに会われたのである。
重房が判官に申すには、「そもそも若君はどのようにお計らいになりますか」と申したので、「鎌倉まで連れて行くには及ばない。おまえがここで、どうにでも計らえ」とおっしゃったので、重房は宿所に帰って二人の女房たちに言うには、「大臣殿は明日関東へ下向されます。重房もお供して下りますので、若君は京に残して、緒方三郎惟義の手へお渡しします。早く早くお乗りください」といって、御車を寄せたので、若君はまた先のように父のところへ行くのかと、うれしそうに思っておられるのがいじらしい。二人の女房も同じ車に乗って出かけた。六条を東へ、河原まで車を進めていく。乳母の女房は、ああこれはおかしいと肝をつぶして思っていると、しばらくして兵たちが五、六十騎ほど河原の中へ出てきた。すぐに車を止め、「若君、お降りください」といって、敷皮を敷いてお座らせした。若君はあきれたご様子で、「いったい私をどこへ連れて行こうとするのか」とおっしゃると、二人の女房たちは何とも返事ができず、声を限りに泣き叫んだ。重房の郎等が太刀を脇に引きつけて持ち、左の方から若君の後ろに回り、今にも斬り申そうとしたのを、若君は見つけられて、少しでも逃れられることのように、急いで乳母の懐の中へ逃げこまれた。二人の女房たちは若君を抱き申して、「ただ私たちを殺してください」といって、天を仰ぎ地に伏して泣き悲しんだが、どうにもならない。
しばらくして重房が涙をおさえて申すには、「今はもうどうにもなりません」といって、急いで乳母の懐の中から若君を引き出し申し、腰の刀で押し伏せて、ついに首をかいた。首は判官に見せようとして持っていった。二人の女房たちは裸足で追いついて、「何の差しつかえがありましょう。御首をいただいてご供養いたしたいのです」と申したので、判官は情けある人で、「もっともなことだ。早く早く」といって与えた。二人の女房たちはたいそう喜んで、これを受け取って懐に入れ、泣く泣く京の方へ帰っていくように見えた。その後五、六日して、桂川に女房が二人身を投げたということがあった。一人が幼い人の首を懐に入れて沈んでいたのは、この若君の乳母の女房であった。もう一人が亡骸を抱いて沈んでいたのは、介錯の女房であった。乳母が思いつめたのはまだしもどうしようもないとして、介錯の女房までが身を投げたのは哀れである。
意訳
平家物語の中でもとりわけ痛ましい、幼い副将の死を描く章段である。宗盛が亡き妻の遺言とわが子の名の由来を語る場面は、総大将としての不甲斐なさとは別の、父としての深い情愛を伝え、警護の武士たちの涙を誘う。
父の袖にすがって帰ろうとしない幼子と、父のもとへ行けると喜んで車に乗りこみ、河原で斬られる結末との対比は、読む者の胸を強く打つ。首と亡骸を抱いて桂川に身を投げた乳母と介錯の女房の姿は、敗者に仕えた人々の忠義と悲しみを象徴している。
語釈・文法注
文法
- 「八歳の童と附けられ參らせて候は」
- 生け捕りの名簿に八歳の童と記されております者は。
- 「産をば平らかにしたりしかども」
- お産は無事にすませたが。
- 「わらはがかたみに」
- 私(妻)の形見として。
- 「さし放つて」
- 手放して。
- 「客人の來うずるに」
- 客が来るだろうから。
- 「いなや歸らじ」
- いやだ、帰るまい。
- 「初冠」
- 元服。
- 「とうとう召され候へ」
- 底本は行末と行頭にわたって「とう」を重ねて刷る。
- 「引きそばめ」
- 脇に引きつけて、相手に見えないように持って。
- 「いく程遁るべき事のやうに」
- どれほども逃れられるわけではないのに、逃れられるかのように。
- 「御孝養」
- 死者の供養。
- 「介錯の女房」
- 若君の世話をしていた女房。
解説
平宗盛の子能宗(副将丸)は元暦二年(1185)五月、六条河原で斬られたと伝える。宗盛の妻(清子)は能宗を産んで間もなく亡くなったとされる。この章段は、勝者の側にも情けがあったことと、敗者の子が容赦なく殺される戦の非情さとを、ともに描き出している。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、804–808頁(コマ431–432)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日