平家物語 巻第十一
一門大路わたされの事
平家に連れられて西海を漂っていた二の宮(守貞親王)が都に帰り、法皇は迎えの車を遣わした。四月二十六日、平家の生け捕りたちは都に入り、大路を引き回された。宗盛は浄衣を着て、やつれながらも四方を見回していたが、子の清宗はうつ伏して顔も上げなかった。見物の人々は鳥羽から四塚まで続き、かつての栄華を知る人々はみな涙を流した。宗盛の牛飼三郎丸は、義経の許しを得て最後の車を引き、泣く泣く牛を進めた。法皇も六条東洞院で車を立てて見物し、かつて宗盛の内大臣就任の祝いに公卿が大勢従った日を思えば、今は一人も従う者がなかった。その夜、宗盛は食事も取らず、子の清宗に自分の浄衣の袖を着せかけ、警護の侍たちも涙を流した。
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- 3大臣殿大臣殿おおいどのののの牛牛うし飼飼かいははは、、、木木き曾曾そががが院院いん參參さんののの時時とき、、、車車くるま遣遣やりりり損損そんじじじててて切切きららられれれたりたりたりししし次次じ郎郎ろう丸丸まるががが弟弟おとうと三三さぶ郎郎ろう丸丸まるにににてててぞぞぞありありありけるけるける。。。西西さい國國こくにににてててははは、、、かりかりかりににに男男おとこににになつなつなったりたりたりけるけるけるががが、、、鳥鳥と羽羽ばにににててて判判ほう官官がんににに申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「舎舎とね人人り、、、牛牛うし飼飼かいなどなどなど申申もうすすす者者ものははは、、、いやしきいやしきいやしき下下げ臈臈ろうのののはてはてはてにににててて、、、心心こころあるあるあるべきべきべきでででははは候候そうらははわねねねどもどもども、、、年年としごろごろごろ召召めし使使つかははわれれれまゐらせまゐらせまいらせ候候そうらひひいししし御御おん志志こころざし淺淺あさからからからずずず候候そうろう。。。何何なにかかか苦苦くるしうしうしゅう候候そうろうべきべきべき、、、御御おん許許ゆるささされれれををを蒙蒙こうぶつつっててて、、、大臣殿大臣殿おおいどのののの御御ご最最さい後後ごののの御御おん車車くるまををを、、、今今いま一一いち度度ど仕仕つかまつりりり候候そうらははわばやばやばや。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、判判ほう官官がんなさけなさけなさけあるあるある人人ひとにににててて、、、「「「最最もっとももも然然しかるるるべしべしべし、、、とう〳〵とう〳〵とうとう。。。」」」とととててて許許ゆるささされれれけりけりけり。。。三三さぶ郎郎ろう丸丸まるなのめならなのめならなのめならずずずににに喜喜よろこびびび、、、尋尋じん常常じょうににに裝裝しょう束束ぞく著著き、、、懷懷ふところよりよりより遣遣やり繩繩なわ取取とりりり出出いだしししてててつけつけつけかへかへかえ、、、涙涙なみだにににくれくれくれててて、、、行行ゆくくくさきさきさきははは見見みえええねねねどもどもども、、、牛牛うしののの行行ゆくくくにににまかせまかせまかせつゝつゝつつ、、、泣泣なくくく泣泣なくくく遣遣やりりりてててぞぞぞまかりまかりまかりけるけるける。。。
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現代語訳
やがて二の宮(守貞親王)がお帰りになると聞こえたので、法皇からお迎えの御車を差し向けられた。お心ならずも外戚の平家に捕らわれなさって、西海の波の上を漂っておられたことを、御母も御乳母の持明院宰相もたいそう嘆いておられたので、今お迎え申されて、どれほどいとおしくお思いになったことであろう。同じく二十六日、平氏の生け捕りたちが鳥羽に着いて、すぐにその日都に入り、大路を引き回された。小八葉の車の前後の簾を上げ、左右の物見の窓を開いた。大臣殿(宗盛)は浄衣を着ておられた。日ごろはあれほど色白く清らかでいらしたのに、潮風にやせて黒ずみ、あの人とも見えなかった。けれども四方を見回して、それほど思い沈んでおられる様子もなかった。御子の右衛門督清宗は白い直垂で、父の御車の後ろに乗っておられた。涙にむせび、うつ伏して目も上げられず、まことに深く思い沈んでおられる様子である。平大納言時忠卿の車も同じく続けて引かれた。讃岐中将時実も同じ車で引き回されるはずであったが、病気だといって引き回されなかった。内蔵頭信基は傷を負っていたので、間道から入った。
これを見ようと、遠国・近国、山々・寺々、京中の上下、老いた者も若い者も大勢集まってきて、鳥羽の南の門から作道、四塚までぎっしりと続き、幾千万とも数がわからない。人は振り返ることもできず、車は輪を回すこともできない。去る治承・養和の飢饉や、東国・西国の戦で人の数は多く減ったとはいえ、まだ残りは多かったのだと見えた。都を出てからわずか一年ほどで、ごく最近のことなので、華やかだったころのことも忘れられない。あれほど恐れおののいた人々の今日のありさまは、夢とも現とも区別がつかない。情けを解さない卑しい男女に至るまで、みな涙を流し、袖を濡らさない者はなかった。まして親しく仕えていた人々の心の中は推し量られて哀れである。長年重い恩を受け、父祖の時から仕えてきた者たちが、やはり身は捨てがたくて、多くは源氏についていたが、昔のよしみをたちまち忘れられるはずもないので、さぞ悲しく思ったことであろう。みな袖を顔に押し当てて、目を上げられない者も多かった。
大臣殿の牛飼は、木曾が院に参ったとき、車をやりそこなって斬られた次郎丸の弟の三郎丸であった。西国では仮に元服して男になっていたが、鳥羽で判官に申すには、「舎人や牛飼などという者は卑しい下々の果てで、情けを知るべき身ではございませんが、長年召し使われました御恩は浅くございません。何の差しつかえがありましょう、お許しをいただいて、大臣殿の最後の御車を、もう一度引かせていただきたいのです」と申したので、判官は情けのある人で、「もっともなことだ。早くせよ」といって許された。三郎丸はたいそう喜んで、きちんと装束を着て、懐から遣縄を取り出して付け替え、涙にくれて行く先も見えないけれども、牛の行くにまかせて、泣く泣く車を引いていった。
法皇は六条東洞院に御車を立てて御覧になった。お供の公卿・殿上人の車も同じく立て並べられた。あれほどおそば近く召し使われたので、法皇もお心弱く、今さら哀れにお思いになった。日ごろはどんな人も、あの人々の目にとまり、言葉の端にでもかかりたいと思っていたのに、今日このように見ることになろうとは、誰が思ったであろうかといって、上下の者が袖を濡らした。先年、宗盛公が内大臣になってお礼参りをされたとき、公卿では花山院中納言兼雅卿をはじめとして十二人が従って車を連ねた。蔵人頭親宗以下の殿上人十六人が先払いをした。中納言四人、三位中将も三人までおられた。公卿も殿上人も今日を晴れと時めいておられた。そのときこの時忠卿は御前に召されて、さまざまにもてなされ、いろいろの引出物をいただいて退出されたのは、すばらしい儀式であった。今日は公卿・殿上人は一人も従わない。同じく壇の浦で生け捕りにされた二十余人の侍たちも、みな白い直垂で、鞍の前輪に縛りつけられて引き回された。
六条を東へ河原まで引き回し、そこから引き返して、判官の宿所である六条堀河という所にお据え申して、厳しく警護申した。大臣殿は食事を差し上げたが、胸がふさがって箸もおつけにならない。夜になっても装束もくつろげられず、袖を片敷いて臥しておられたが、御子の右衛門督に御浄衣の袖を着せかけておられるのを、警護の侍たちが見申して、「ああ、身分の高い者も低い者も、親子の情ほど悲しいものはない。御浄衣の袖を着せかけられたからといって、何ほどのことがあろう。せめてものお心の深さよ」といって、みな鎧の袖を濡らした。
意訳
生け捕りとなった平家の人々が、かつて栄華を誇った都の大路を引き回される場面である。見物に集まった人々の数と、涙を流す人々の姿は、わずか一年余りの間の盛衰の激しさを物語る。かつて公卿を引き連れた宗盛の内大臣拝賀の行列と、今の誰一人従わない車との対比が、無常の思いを強める。
最後の車を引かせてほしいと願い出た牛飼三郎丸の忠義と、それを許した義経の情けは、敗者に寄せる人々の思いを伝える。わが子に浄衣の袖を着せかける宗盛の姿は、総大将としての不甲斐なさとは別に、父としての深い情愛を示し、読む者の涙を誘う。
語釈・文法注
文法
- 「二の宮」
- 高倉天皇の第二皇子守貞親王(のちの後高倉院)。平家に伴われて西国に下っていた。
- 「小八葉の車」
- 小さな八葉の文様を描いた牛車。
- 「物見」
- 牛車の左右の窓。
- 「淨衣」
- 白い狩衣の一種。神事や罪人の装束として着た。
- 「現所勞とて」
- 現に病気であるということで。
- 「作道」
- 鳥羽から京の羅城門に通じる道。
- 「中一年」
- 間に一年をはさんで。わずか一年ほどの間に。
- 「かりに男になつたりける」
- 牛飼は童形が普通だが、西国では仮に元服していた。
- 「遣繩」
- 牛車の牛を引く縄。
- 「悅申し」
- 昇進のお礼に参上すること。
- 「月卿雲容」
- 公卿と殿上人。
- 「袖かた敷いて」
- 自分の袖だけを敷いて寝ること。
解説
平宗盛・清宗父子らは元暦二年(1185)四月二十六日に京に入り、大路を引き回された(『吾妻鏡』)。この後、宗盛父子は義経に連れられて鎌倉へ下り、帰途の近江国篠原で斬られる。生け捕りのうち平時忠は能登へ流され、建礼門院は出家して大原に隠棲することになる。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、799–802頁(コマ428–430)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日