平家物語 巻第十一
内侍所の都入の事
知盛は「見るべきほどのことは見つ」と言って、乳母子の伊賀平内左衛門家長とともに鎧を二領ずつ着て入水し、侍二十余人も続いた。海には切り捨てられた赤旗が紅葉のように散り、白波は薄紅に染まった。生け捕りは宗盛・清宗父子、時忠ら三十八人、女房は建礼門院以下四十三人であった。四月三日、義経の使者源八広綱が戦勝と神器の帰還を院に奏上し、法皇は大いに喜んだ。帰京の途中、明石の浦で女房たちは月を眺めて昔をしのび、帥佐・治部卿局・大納言佐局が歌を詠んだ。二十五日、内侍所と神璽が都に入ったが、宝剣は海に沈んで失われた。
- 1新新しん中中ちゅう納納な言言ごん知知とも盛盛もりののの卿卿きょうははは、、、見見みるるるべきべきべき程程ほどののの事事ことをををばばば見見みつつつ、、、今今いまははは只只ただ自自じ害害がいをををせせせんんんとととててて、、、乳乳めの母母と子子ごののの伊伊い賀賀がののの平平へい内内ない左左ざ衞衞え門門もん家家いえ長長ながををを召召めしししててて、、、「「「日日ひ頃頃ごろののの契契けい約約やくをををばばば違違たがへへえまじきまじきまじきかかか。。。」」」ととと宣宣のたまへへえばばば、、、「「「さるさるさる事事こと候候そうろう。。。」」」とととててて、、、中中ちゅう納納な言言ごん殿殿どのにににももも鎧鎧よろい二二に領領りょう著著きせせせ奉奉たてまつりりり、、、わがわがわが身身みももも二二に領領りょう著著きててて、、、手手てににに手手てををを取取とりりり組組くみみみ、、、一一ひと所所ところににに海海うみにににぞぞぞ入入いりりり給給たまふふう。。。これこれこれををを見見みててて當當とう座座ざにににありありありけるけるける二二に十十じゅう餘餘よ人人にんののの侍侍さぶらい共共ども、、、續續つづいいいててて海海うみにににぞぞぞ沉沉しずみみみけるけるける。。。されどもされどもされどもそのそのその中中なかににに越越えっ中中ちゅうののの次次じ郎郎ろう兵兵びょう衞衞え、、、上上かず總總さののの五五ご郎郎ろう兵兵びょう衞衞え、、、惡惡あく七七しち兵兵びょう衞衞え、、、飛飛ひ驒驒だののの四四し郎郎ろう兵兵びょう衞衞えなどなどなどははは、、、何何なにとととしししてててかかかははは遁遁のがれれれたりたりたりけんけんけん、、、そこそこそこをををももも遂遂ついににに落落おちちちにににけりけりけり。。。海海かい上上しょうにににははは赤赤あか旗旗はた、、、赤赤あか印印じるし共共ども切切きりりり捨捨すててて、、、かなぐりかなぐりかなぐり捨捨すてててたりたりたりけれけれければばば、、、立立たつ田田た川川がわののの紅紅もみ葉葉じばををを、、、嵐嵐あらしののの吹吹ふききき散散ちらしらしらしたるたるたるににに異異ことならならならずずず。。。汀汀みぎわににに寄寄よするするする白白しら浪浪なみははは薄薄うす紅紅くれないにににぞぞぞなりなりなりにににけるけるける。。。主主ぬしもももなきなきなき空空むなしきしきしき船船ふねどもどもどもははは、、、潮潮しおににに引引ひかかかれれれ風風かぜににに從從したがひひいててて、、、いづちいづちいずちををを指指さすすすととともももなくなくなく、、、ゆらゆらゆられれれ行行ゆくくくこそこそこそ悲悲かなしけれしけれしけれ。。。
- 2生生いけ捕捕どりにににははは前前さきののの内内ない大大だい臣臣じん宗宗むね盛盛もり公公こう、、、平平へい大大だい納納な言言ごん時時とき忠忠ただ、、、右右う衞衞え門門もんののの督督かみ淸淸きよ宗宗むね、、、内内く藏藏らののの頭頭かみ信信のぶ基基もと、、、讚讚さぬ岐岐きののの中中ちゅう將將じょう時時とき實實ざね、、、大臣殿大臣殿おおいどのののの八八はっ歳歳さいののの若若わか君君ぎみ、、、兵兵ひょう部部ぶののの少少しょう輔輔ふ雅雅まさ明明あき、、、僧僧そうにににははは二二に位位いののの僧僧そう都都ず專專せん親親しん、、、法法ほっ勝勝しょう寺寺じののの執執しゅ行行ぎょう能能のう圓圓えん、、、中中ちゅう納納な言言ごんののの律律りつ師師し仲仲ちゅう快快かい、、、經經きょう誦誦じゅ坊坊ぼうののの阿阿あ闍闍じゃ梨梨り融融ゆう圓圓えん、、、侍侍さぶらいにににははは源源げん大大だ夫夫ゆうののの判判ほう官官がん季季すえ貞貞さだ、、、攝攝つ津津のののの判判ほう官官がん盛盛もり澄澄ずみ、、、藤藤とう内内ない左左ざ衞衞え門門もんののの尉尉じょう信信のぶ康康やす、、、橘橘きっ内内ない左左ざ衞衞え門門もんののの尉尉じょう季季すえ康康やす、、、阿阿あ波波わののの民民みん部部ぶ重重しげ能能よし父父ふ子子し、、、以以い上上じょう三三さん十十じゅう八八はち人人にんなりなりなり。。。菊菊きく池池ちののの次次じ郎郎ろう高高たか直直なお、、、原原はら田田だののの大大たい夫夫ふ種種たね直直なおははは軍軍いくさ以以い前前ぜんよりよりより兜兜かぶとをををぬぎぬぎぬぎ、、、弓弓ゆみののの弦弦つるをををはづいはづいはずいててて降降こう人人にんににに參參まいるるる。。。女女にょう房房ぼうたちたちたちにににははは女女にょう院院いん、、、北北きたののの政政まん所所どころ、、、臈臈ろうののの御御おん方方かた、、、大大だい納納な言言ごんののの佐佐すけ殿殿どの、、、帥帥そつののの佐佐すけ殿殿どの、、、治治じ部部ぶ卿卿きょうののの局局つぼね以以い下下げ、、、以以い上上じょう四四し十十じゅう三三さん人人にんとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。元元げん暦暦りやく二二に年年ねんののの春春はるののの暮暮くれ、、、いかなるいかなるいかなる年年とし月月つきにににててて、、、一一いち人人じん海海かい底底ていににに沉沉しずみみみ、、、百百ひゃく官官かん波波は上上しょうににに浮浮うかぶぶぶらんらんらん。。。國國こく母母も、、、官官かん女女じょははは東東とう夷夷い西西せい戒戒じゅうののの手手てににに從從したがひひい、、、臣臣しん下下か、、、卿卿けい相相しょうははは數數すう萬萬まんののの軍軍ぐん旅旅りょににに捕捕とらははわれれれててて、、、舊舊きゅう里里りへへへ歸歸かえりりり給給たまひひいしししににに、、、或或あるいははは朱朱しゅ買買ばい臣臣しんががが錦錦にしきををを著著きざるざるざることことことををを歎歎なげききき、、、或或あるいははは王王おう昭昭しょう君君くんががが胡胡こ國國こくににに赴赴おもむきききししし恨恨うらみみみももも、、、これこれこれにににははは過過すぎぎぎじじじとととぞぞぞ見見みえええししし。。。
- 3四四し月月がつ三三みつ日日かののの日日ひ、、、九九く郎郎ろう大大たい夫夫ふののの判判ほう官官がん義義よし經經つね、、、源源げん八八ぱち廣廣ひろ綱綱つなををを以以もっててて院院いんののの御御ご所所しょへへへ奏奏そう聞聞もんせせせられられられけるけるけるははは、、、去去さんんんぬるぬるぬる三三さん月月がつ二二に十十じゅう四四よっ日日かののの卯卯うののの刻刻こくににに、、、豐豐ぶ前前ぜんののの國國くに田田たののの浦浦うら、、、門門も司司じががが關關せき、、、長長なが門門とののの國國くに壇壇だんののの浦浦うら、、、赤赤あか閒閒まががが關關せきにににててて平平へい家家けををを悉悉ことごとくくく攻攻せめめめ亡亡ほろぼしぼしぼし、、、内内ない侍侍し所所どころ、、、しるししるししるしののの御御おん箱箱はこ、、、事事こと故故ゆえなうなうのう都都みやこへへへ返返かえししし入入いれれれ奉奉たてまつるるるべきべきべき由由よし、、、奏奏そう聞聞もんせせせられられられたりたりたりけれけれければばば、、、法法ほう皇皇おう大大おおきききににに御御ぎょ感感かんあつあつあっててて、、、廣廣ひろ綱綱つなををを御御お坪坪つぼののの内内うちににに召召めしししててて、、、合合かっ戰戰せんののの次次し第第だいををを委委くわしうしうしゅう御御おん尋尋たずねねねあつあつあっててて、、、御御ぎょ感感かんののの餘餘あまりりりににに廣廣ひろ綱綱つなををを、、、當當とう座座ざににに左左さ兵兵ひょう衞衞えにににぞぞぞなさなさなされれれけるけるける。。。同同おなじきじきじき五五いつ日日かののの日日ひ、、、北北ほく面面めんににに候候さぶらう藤藤とう判判ほう官官がん信信のぶ盛盛もりををを召召めしししててて、、、「「「内内ない侍侍し所所どころ、、、しるししるししるしののの御御おん箱箱はこ、、、一一いち定定じょう返返かえりりり入入いらららせせせ給給たまふふうかかか、、、見見みててて參參まいれれれ。。。」」」とととててて、、、西西さい國國こくへへへ遣遣つかははわさささるるる。。。信信のぶ盛盛もり軈軈やがててて院院いんののの御御おん馬馬むま賜賜たまはつはつわっててて、、、宿宿しゅく所所しょへへへももも歸歸かえらららずずず、、、鞭鞭むちをををあげあげあげ、、、西西にしををを指指さしししてててぞぞぞ馳馳はせせせ下下くだるるる。。。
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- 5ながむれながむれながむればばばぬるゝぬるゝぬるる袂袂たもとににに宿宿やどりりりけりけりけり月月つきよよよ雲雲くも居居いのののものものものがたりがたりがたりせせせよよよ
- 6治治じ部部ぶ卿卿きょうののの局局つぼね、、、
- 7雲雲くもののの上上うえににに見見みしししにににかはらかはらかわらぬぬぬ月月つきかげかげかげのののすむすむすむにににつけつけつけてててももも物物ものぞぞぞ悲悲かなしきしきしき
- 8大大だい納納な言言ごんののの佐佐すけののの局局つぼね、、、
- 9わがわがわが身身みこそこそこそあかしあかしあかしののの浦浦うらにににたびたびたびねねねせせせめめめおなじおなじおなじ波波なみにににもももやどるやどるやどる月月つきかなかなかな
- 10判判ほう官官がんははは猛猛たけききき武武もの夫夫のうなれなれなれどもどもども、、、さこそさこそさこそ各各おのおのののの昔昔むかし戀戀こいしうしうしゅう、、、ものものもの悲悲がなしうしうしゅうもももやややおはすおはすおわすらんらんらんととと、、、身身みにににしみしみしみてててあはれあはれあわれにににぞぞぞ思思おもははわれれれけるけるける。。。
- 11同同おなじきじきじき二二に十十じゅう五五ご日日にち、、、内内ない侍侍し所所どころ、、、璽璽しるしののの御御おん箱箱はこ、、、鳥鳥と羽羽ばににに著著つかかかせせせ給給たまふふうととと聞聞きこえええしかしかしかばばば、、、内内だい裏裏りよりよりより御御おん迎迎むかへへえににに參參まいらららせせせたまふたまふたまう人人ひと々々びと、、、勘勘か解解で由由ゆののの小小こう路路じののの中中ちゅう納納な言言ごん經經つね房房ふさののの卿卿きょう、、、檢檢けん非非び違違い使使しののの別別べつ當當とう左左さ衞衞え門門もんののの督督かみ實實さね家家いえ、、、高高たか倉倉くらののの宰宰さい相相しょう中中ちゅう將將じょう泰泰やす通通みち、、、權權ごんののの右右う中中ちゅう辨辨べん兼兼かね忠忠ただ、、、榎榎え竝竝なみののの中中ちゅう將將じょう公公きん時時とき、、、但但たじ馬馬まののの少少しょう將將しょう範範のり能能よし、、、武武ぶ士士しにににははは伊伊い豆豆ずののの藏藏くら人人んどののの大大たい夫夫ふ賴賴より兼兼かね、、、石石いし川川かわののの判判はん官官がん代代だい義義よし兼兼かね、、、左左さ衞衞え門門もんののの尉尉じょう有有あり綱綱つなとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。そのそのその夜夜よののの子子ねののの刻刻こくににに、、、内内ない侍侍し所所どころ、、、璽璽しるしののの御御おん箱箱はこ、、、太太だい政政じょう官官かんののの廳廳ちょうににに入入いらららせせせおはしますおはしますおわします。。。寶寶ほう劒劒けんははは失失うせせせにににけりけりけり。。。神神しん璽璽じははは海海かい上上しょうににに浮浮うかびびびたるたるたるををを、、、片片かた岡岡おかののの太太た郎郎ろう經經つね春春はるががが取取とり上上あげげげ奉奉たてまつつつったりたりたりけるけるけるとととかやかやかや。。。
現代語訳
新中納言知盛卿は、「見るべきほどのことはすべて見た。今はただ自害しよう」といって、乳母子の伊賀平内左衛門家長を呼んで、「日ごろの約束を違えはしまいな」とおっしゃると、「承知しております」といって、中納言殿にも鎧を二領着せ申し、自分も二領着て、手に手を取り組み、一緒に海にお入りになった。これを見て、その場にいた二十余人の侍たちも続いて海に沈んだ。けれどもその中で、越中次郎兵衛・上総五郎兵衛・悪七兵衛・飛騨四郎兵衛などは、どうやって逃れたのか、そこからもついに落ちのびた。海上には赤旗や赤印を切り捨て、かなぐり捨ててあったので、竜田川の紅葉を嵐が吹き散らしたようである。汀に寄せる白波は薄紅色に染まった。主のない空しい船は潮に引かれ風に従って、どこを目指すともなく揺られていくのは悲しいことである。
生け捕りになったのは、前内大臣宗盛公、平大納言時忠、右衛門督清宗、内蔵頭信基、讃岐中将時実、大臣殿の八歳の若君、兵部少輔雅明、僧では二位僧都専親、法勝寺執行能円、中納言律師仲快、経誦坊阿闍梨融円、侍では源大夫判官季貞、摂津判官盛澄、藤内左衛門尉信康、橘内左衛門尉季康、阿波民部重能父子、以上三十八人である。菊池次郎高直と原田大夫種直は合戦の前から兜を脱ぎ、弓の弦をはずして降人となった。女房では女院、北の政所、臈の御方、大納言佐殿、帥佐殿、治部卿局以下、以上四十三人と聞こえた。元暦二年の春の暮れは、どういう年月なのか、天子は海底に沈み、百官は波の上に浮かぶ。国母や官女は東夷西戎の手に従い、臣下や公卿は数万の軍勢に捕らわれて故郷へ帰られるのに、朱買臣が錦を着て故郷へ帰れなかったことを嘆き、王昭君が胡国に赴いた恨みも、これにはまさるまいと見えた。
四月三日、九郎大夫判官義経は源八広綱を使いとして院の御所に奏上されたのは、「去る三月二十四日の卯の刻に、豊前国田の浦・門司が関、長門国壇の浦・赤間が関で平家をことごとく攻め滅ぼし、内侍所としるしの御箱は無事に都へお返し申します」とのことで、法皇はたいそうお喜びになって、広綱を御坪の内に召して合戦の様子を詳しくお尋ねになり、お喜びのあまり、広綱をその場で左兵衛尉に任じられた。同じく五日、北面に仕える藤判官信盛を召して、「内侍所としるしの御箱が確かにお帰りになるのか、見て参れ」といって西国へ遣わされた。信盛はすぐに院の御馬をいただき、宿所にも帰らず、鞭をあげて西を指して馳せ下った。
やがて九郎大夫判官義経は、平氏の男女の生け捕りたちを連れて都へ上られたが、同じく十四日に播磨国明石の浦に着かれた。名高い浦なので、夜が更けるにつれて月が澄みのぼり、秋の空にも劣らない。女房たちは寄り集まって、「先年ここを通ったときには、このようになろうとは思わなかったのに」といって、忍び泣きされた。帥佐殿はつくづくと月を眺められて、思い残すこともない様子で、涙に床も浮くほどで、このように思い続けられた。
(眺めていると、涙に濡れる袂に月が宿っている。月よ、宮中にいたころの昔話をしておくれ)
治部卿局が、
(宮中で見たのと変わらない月の光が澄んでいるにつけても、宮中に住んでいた昔が思われて、何とも悲しいことよ)
大納言佐局が、
(わが身こそこの明石の浦で旅寝をしているが、同じように波にも月が宿っていることよ)
判官は猛き武士であったが、さぞそれぞれ昔が恋しく、もの悲しく思っておられるだろうと、身にしみて哀れに思われた。
同じく二十五日、内侍所と璽の御箱が鳥羽に着かれると聞こえたので、内裏からお迎えに参られた人々は、勘解由小路中納言経房卿、検非違使別当左衛門督実家、高倉宰相中将泰通、権右中弁兼忠、榎並中将公時、但馬少将範能、武士では伊豆蔵人大夫頼兼、石川判官代義兼、左衛門尉有綱と聞こえた。その夜の子の刻に、内侍所と璽の御箱は太政官の庁にお入りになった。宝剣は失われてしまった。神璽は海上に浮かんでいたのを、片岡太郎経春が取り上げ申したということである。
意訳
「見るべき程の事をば見つ」という知盛の言葉は、平家の興亡のすべてを見届けた者の深い諦観を表し、平家物語の中でも最もよく知られた言葉の一つである。赤旗が紅葉のように散り、白波が薄紅に染まる海の描写は、平家一門の滅亡を静かに、そして美しく描き出す。
生け捕りの人々の名を列挙したあと、明石の浦で女房たちが月を眺めて昔をしのぶ場面が置かれる。月を詠む三首の歌は、宮中での華やかな日々と今の身の上との隔たりを嘆き、敗者の悲しみを叙情的に伝えている。宝剣が失われたことは、のちの物語にも大きな影を落とす。
語釈・文法注
文法
- 「見るべき程の事をば見つ」
- 見るべきほどのことはすべて見届けた。
- 「鎧二領著せ奉り」
- 浮かび上がらないよう、鎧を二領重ねて着せ申し。
- 「赤印」
- 平家の目印として鎧の袖などにつけた赤い布。
- 「臈の御方」
- 宗盛の娘か。底本は「臈の御方」と刷る。
- 「一人海底に沉み」
- 一人は天子(安徳天皇)をさす。
- 「東夷西戒」
- 東の夷と西の戎。底本は「西戒」と刷る。西戎の誤りであろう。
- 「朱買臣が錦を著ざること」
- 漢の朱買臣が出世して錦を着て故郷へ帰った故事を反転して、錦を着ずに(敗者として)故郷へ帰ることを嘆く。
- 「王昭君が胡國に赴きし恨み」
- 漢の元帝の宮女王昭君が匈奴の王に嫁がされた恨み。
- 「しるしの御箱」
- 神璽(八尺瓊勾玉)を納めた箱。
- 「御坪」
- 御所の中庭。
和歌
ながむればぬるゝ袂に宿りけり月よ雲居のものがたりせよ
- 詠者
- 帥佐(平時忠の妻)
- 状況
- 生け捕りとして都へ上る途中、明石の浦で月を眺めて詠んだ歌。
修辞
- 雲居
- 宮中を意味し、空の月と掛ける。
雲の上に見しにかはらぬ月かげのすむにつけても物ぞ悲しき
- 詠者
- 治部卿局
- 状況
- 同じく明石の浦で詠んだ歌。
修辞
- すむ
- 「澄む」と「住む」の掛詞。
わが身こそあかしの浦にたびねせめおなじ波にもやどる月かな
- 詠者
- 大納言佐局(平重衡の妻)
- 状況
- 同じく明石の浦で詠んだ歌。
修辞
- あかし
- 地名「明石」と「明かし」を掛ける。
解説
平知盛は清盛の四男で、壇の浦で平家の事実上の総大将として戦い、入水した。能「碇潜」や浄瑠璃「義経千本桜」の「渡海屋・大物浦」は、知盛が碇を負って入水する姿を描く。宝剣は壇の浦で失われ、のちに伊勢神宮から献上された剣が代わりとされた。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、796–799頁(コマ427–428)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日