平家物語 巻第十一
能登殿最後の事
建礼門院も硯と焼石を懐に入れて入水したが、渡辺眤に熊手で髪をかけて引き上げられた。内侍所の唐櫃を抱いて入水しようとした大納言佐局も止められ、唐櫃を開けようとした武士は目がくらみ鼻血を出した。教盛・経盛兄弟、資盛・有盛・行盛らは鎧の上に錨を負って入水したが、宗盛父子は沈みきれずに泳いでいるところを伊勢三郎義盛に引き上げられ、乳母子の景経も討たれた。能登守教経は義経を探して船から船へ飛び移ったが、義経は二丈ほど離れた味方の船へ身軽に飛び移って逃れた。教経は武具を捨てて大童になり、生け捕りにせよと呼ばわった。安芸太郎実光兄弟と郎等の三人が組みかかると、教経は郎等を海に蹴落とし、兄弟を両脇に挟んで「死出の山の供をせよ」と海に飛び込んだ。二十六歳であった。
- 1女女にょう院院いんはははこのこのこのありさまありさまありさまををを見見み參參まいらららせせせ給給たまひひいててて、、、今今いまはははかうかうこうとととややや思思おぼし召召めささされれれけんけんけん、、、御御おん硯硯すずり、、、御御おん燒燒やき石石いし、、、左左さ右右ゆうののの御御おん懷懷ふところににに入入いれれれててて海海うみににに入入いらららせせせ給給たまふふうををを、、、渡渡わた邊邊なべののの源源げん五五ご右右う馬馬まののの允允じょう眤眤むつる、、、小小こ船船ぶねをををつとつとつと漕漕こぎぎぎ寄寄よせせせててて、、、御御おん髪髪ぐしををを熊熊くま手手でにににかけかけかけててて引引ひき上上あげげげ奉奉たてまつるるる。。。大大だい納納な言言ごんののの佐佐すけののの局局つぼね、、、「「「あなあなあなあさましあさましあさまし、、、それそれそれははは女女にょう院院いんにににてててわたらわたらわたらせせせ給給たまふふうぞぞぞ。。。あやまちあやまちあやまち仕仕つかまつるるるななな。。。」」」ととと申申もうささされれれたりたりたりけれけれければばば、、、判判ほう官官がんににに申申もうしししててて、、、いそぎいそぎいそぎ御御ご所所しょののの御御おん舟舟ふねににに移移うつししし奉奉たてまつるるる。。。さてさてさて大大だい納納な言言ごんののの佐佐すけののの局局つぼねははは内内ない侍侍し所所どころののの御御おん唐唐から櫃櫃うどををを取取とつつっててて、、、海海うみににに入入いらららんんんとととししし給給たまひひいけるけるけるががが、、、袴袴はかまののの裾裾すそををを舷舷ふなばたににに射射いつけつけつけられられられててて蹴蹴けまとひまとひまとい、、、仆仆たおれれれ給給たまひひいけるけるけるををを、、、武武ぶ士士しどもどもども取取とりりり止止とどめめめ奉奉たてまつるるる。。。そのそのその後後のち御御おん唐唐から櫃櫃うどののの錠錠じょうをををねぢねぢねじ切切きつつっててて、、、御御おん蓋蓋ふたををを既既すでににに開開ひらかかかんんんとととすすす。。。忽忽たちまちちちににに目目めくれくれくれ、、、鼻鼻はな血血じたるたるたる。。。平平へい大大だい納納な言言ごん時時とき忠忠ただののの卿卿きょうははは生生いけ捕捕どりにににせせせられられられててておはしおはしおわしけるけるけるががが、、、「「「あれあれあれはははいかにいかにいかに、、、内内ない侍侍し所所どころにににてててわたらわたらわたらせせせ給給たまふふうぞぞぞ。。。凡凡ぼん夫夫ぷははは見見み奉奉たてまつらららぬぬぬ事事ことぞぞぞ。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、兵兵つわものどもどもども舌舌したををを振振ふつつっててて恐恐おそれれれをのゝくをのゝくおののく。。。そのそのその後後のち判判ほう官官がん、、、時時とき忠忠ただののの卿卿きょうににに申申もうししし合合あははわせせせててて、、、元元もとののの如如ごとくくくからげからげからげ納納おさめめめ奉奉たてまつらららるるる。。。
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- 6こゝこゝここににに土土と佐佐さののの國國くにののの住住じゅう人人にん、、、安安あ藝藝きののの鄕鄕ごうををを知知ち行行ぎょうしししけるけるける安安あ藝藝きののの大大たい領領りょう實實さね康康やすががが子子こににに、、、安安あ藝藝きののの太太た郎郎ろう實實さね光光みつとととててて、、、およそおよそおよそ二二に三三さん十十じゅう人人にんががが力力ちからあらはしあらはしあらわしたるたるたる大大だい力力じからののの剛剛こうののの者者もの、、、われわれわれにににちつちつちっとととももも劣劣おとらららぬぬぬ郎郎ろう等等どう一一ひと人人り具具ぐしししたりたりたりけりけりけり。。。弟弟おとうとののの次次じ郎郎ろうももも普普ふ通通つうにににはははすぐれすぐれすぐれたるたるたる兵兵つわものなりなりなり。。。彼彼かれ等等ら三三さん人人にん寄寄よりりりあひあひあいててて、、、たとひたとひたとい能能の登登と殿殿どの心心こころこそこそこそ剛剛こうにににおはすおはすおわすともともとも、、、何何なに程程ほどののの事事ことかかかあるあるあるべきべきべき。。。長長たけ十十じゅう丈丈じょうののの鬼鬼おになりなりなりともともとも、、、われわれわれららら三三さん人人にんががが摑摑つかみみみつきつきつきたらたらたらんんんににに、、、などなどなどかかか從從したがへへえざるざるざるべきべきべきとととててて、、、小小こ船船ぶねににに乘乘のりりり、、、能能の登登と殿殿どのののの船船ふねににに押押おし竝竝ならべべべててて乘乘のりりり移移うつりりり、、、太太た刀刀ちののの鋒鋒きっさきををを整整ととのへへえててて、、、一一いち面面めんににに打打うつつってててかゝるかゝるかかる。。。能能の登登と殿殿どのこれこれこれををを見見み給給たまひひいててて、、、まづまづまずまつまつまつ先先さきににに進進すすんんんだるだるだる安安あ藝藝きののの太太た郎郎ろうががが郎郎ろう等等どうににに裾裾すそをををあはせあはせあわせててて、、、海海うみへへへどうどうどうととと蹴蹴け入入いれれれ給給たまふふう。。。續續つづいいいてててかゝるかゝるかかる安安あ藝藝きののの太太た郎郎ろうをををばばば弓弓ゆん手手でののの脇脇わきにににかいかいかい挾挾はさみみみ、、、弟弟おとうとののの次次じ郎郎ろうをををばばば馬馬め手手てののの脇脇わきににに取取とつつっててて挾挾はさみみみ、、、一一ひとしめしめしめしめしめしめててて、、、「「「いざいざいざうれうれうれおのれおのれおのれららら、、、死死し出出でののの山山やまののの供供ともせせせよよよ。。。」」」とととててて、、、生生しょう年年ねん二二に十十じゅう六六ろくにににててて、、、海海うみへへへつゝつゝつつとととぞぞぞ入入いりりり給給たまふふう。。。
現代語訳
女院(建礼門院)はこのありさまをご覧になって、もうこれまでと思われたのであろうか、御硯と御焼石を左右の御懐に入れて海にお入りになったのを、渡辺の源五右馬允眤が小舟をさっと漕ぎ寄せて、御髪を熊手にかけて引き上げ申した。大納言佐局が「ああ情けない。それは女院でいらっしゃいますよ。粗相をするな」と申されたので、判官に申し上げて、急いで御所の御船にお移し申した。さて大納言佐局は内侍所の御唐櫃を持って海に入ろうとなさったが、袴の裾を舷に矢で射つけられて足にからまり、倒れられたのを、武士たちが取り押さえ申した。その後、御唐櫃の錠をねじ切って、御蓋を開けようとすると、たちまち目がくらみ、鼻血が垂れた。平大納言時忠卿は生け捕りにされておられたが、「何をする。それは内侍所でいらっしゃるぞ。凡人の見申すものではない」とおっしゃったので、兵たちは舌を巻いて恐れおののいた。その後判官は時忠卿と相談して、元のようにくくってお納め申した。
そのうちに、門脇の平中納言教盛と修理大夫経盛の兄弟は手に手を取り組み、鎧の上に錨を背負って海に沈まれた。小松新三位中将資盛、同じく少将有盛、従弟の左馬頭行盛も手に手を取り組み、これも鎧の上に錨を背負って、一緒に海に入られた。人々はこのようにされたが、大臣殿父子はそうもなさらず、舷に立って四方を見回しておられたので、平家の侍たちはあまりの情けなさに、そばをさっと走り抜けるようにして、まず大臣殿を海へざぶんと突き落とし申した。これを見て右衛門督(清宗)もすぐに続いて飛びこまれた。人々は鎧の上に重い物を背負ったり抱いたりして入ったからこそ沈んだのに、この親子はそうもなさらない。なまじ水泳が上手だったので、大臣殿は、右衛門督が沈んだら自分も沈もう、助かったら自分もともに助かろうと思い、互いに目を見かわして、あちらこちらへ泳ぎ回っておられるところを、伊勢三郎義盛が小舟をさっと漕ぎ寄せて、まず右衛門督を熊手にかけて引き上げ申した。大臣殿はいっそう沈みきれずにおられたのを、一緒に引き上げ申してしまった。
乳母子の飛騨三郎左衛門景経がこれを見申して、「わが君を取り申すのは何者だ」といって小舟に乗り、義盛の船に押し並べて乗り移り、太刀を抜いて打ってかかった。義盛が危うく見えたところに、義盛の童が主人を討たせまいと間に割って入り、三郎左衛門に打ってかかった。三郎左衛門の打つ太刀に、義盛の童は兜の真っ向を打ち割られ、二の太刀で首を打ち落とされた。義盛がなお危うく見えたところを、隣の船から堀弥太郎親経が引きしぼってひょうと放つ。三郎左衛門が内兜を射られてひるむところに、堀弥太郎が義盛の船に乗り移って三郎左衛門に組んで伏した。堀の郎等もすぐに続いて乗り移り、三郎左衛門の腰の刀を抜いて、鎧の草摺を引き上げ、柄も拳も通れとばかりに三刀刺して首を取った。大臣殿は乳母子が目の前でこのようになるのをご覧になって、どれほどの思いをされたことであろうか。
およそ能登殿の矢先に回る者はいなかった。教経は今日を最後と思われたのであろうか、赤地の錦の直垂に唐綾縅の鎧を着て、鍬形を打った兜の緒をしめ、厳物作りの太刀を佩き、二十四本差した切斑の矢を負い、滋籐の弓を持って、矢継ぎ早にさんざんに射られたので、多くの者が手負い、射殺された。矢種が尽きると、黒漆の大太刀と白柄の大長刀を左右に持って、さんざんに薙いで回られた。
新中納言知盛卿が能登殿のもとに使者を立てて、「あまり罪をお作りなさるな。そんな者たちがよい敵だろうか」とおっしゃったので、能登殿は「それでは大将に組めということだな」といって、打物の柄を短く持ち、艫や舳でさんざんに薙いで回られた。けれども判官の顔をご存じないので、武具のりっぱな武者を判官かと目をつけて飛びかかった。判官も内々は正面に立つようにはしておられたが、あれこれと行き違って能登殿とは組まれない。けれどもどうなさったのか、判官の船に乗り当たって、それと目をつけて飛びかかった。判官はかなうまいと思われたのか、長刀を左の脇に挟みこみ、味方の船で二丈ほど離れていた船に、ゆらりと飛び移られた。能登殿は早業では劣っておられたのか、続いて飛ぶことはなさらなかった。能登殿は、もはやこれまでと思われたのか、太刀も長刀も海へ投げ入れ、兜も脱いで捨てられた。鎧の袖や草摺もかなぐり捨て、胴だけを着けてざんばら髪になり、両手を大きく広げて船の屋形に立ち出て、大音声をあげて、「源氏の方でわれこそと思う者がいたら、寄って教経に組んで生け捕りにせよ。鎌倉へ下って、兵衛佐に一言いってやろうと思うのだ。寄れや寄れ」とおっしゃったが、寄る者は一人もなかった。
ここに土佐国の住人で、安芸郷を治めていた安芸大領実康の子に、安芸太郎実光といって、およそ二、三十人分の力を持つ大力の剛の者がいた。自分に少しも劣らない郎等を一人連れていた。弟の次郎も人並みすぐれた兵である。この三人が寄り集まって、「たとえ能登殿がどれほど剛の者でいらしても、何ほどのことがあろう。身の丈十丈の鬼であっても、われら三人がつかみかかったら、どうして従えられないことがあろう」といって、小舟に乗り、能登殿の船に押し並べて乗り移り、太刀の切っ先をそろえて一斉に打ってかかった。能登殿はこれをご覧になって、まずまっ先に進んできた安芸太郎の郎等を、裾を合わせるように蹴って、海へどうと蹴落とされた。続いてかかってくる安芸太郎を左の脇に挟みこみ、弟の次郎を右の脇に取って挟み、ぐっと一締め締めて、「さあおまえたち、死出の山の供をせよ」といって、年二十六で海へさっと飛びこまれた。
意訳
壇の浦の合戦で平家の人々がそれぞれの最期を迎える場面である。錨を負って静かに沈む教盛・経盛兄弟や資盛らに対し、沈みきれずに泳ぎ回って捕らえられる宗盛父子の姿は、潔さを欠く総大将の哀れさとして描かれる。
能登守教経の最期は、平家随一の猛将にふさわしい壮絶なものである。義経の八艘飛びとして名高い身軽な跳躍に逃げられた後、武具を捨てて大童となり、敵を両脇に挟んで「死出の山の供せよ」と海に飛びこむ姿は、敗者の側にありながら最後まで屈しない武士の意地を鮮やかに印象づける。
語釈・文法注
文法
- 「御燒石」
- 温めて懐に入れ、体を温める石。
- 「蹴まとひ」
- 足にからみついて。
- 「内侍所」
- 三種の神器の一つ、八咫鏡。またそれを納めた所。
- 「舌を振つて」
- 舌を巻いて。ひどく恐れるさま。
- 「なまじひに水練の上手にて」
- なまじ水泳が上手だったので(かえって沈めなかった)。
- 「柄も拳も通れ〳〵と」
- 刀の柄も握る拳も通れとばかりに、深く。
- 「いたう罪なつくり給ひそ」
- あまり罪(殺生)を作りなさるな。
- 「打物くきみじかに取り」
- 太刀や長刀の柄を短く持って。
- 「二丈許り退きたりにけるに」
- 底本の本文。二丈ほど離れていた船に。
- 「大童」
- 兜を脱いで髻が解け、髪を振り乱した姿。
- 「裾をあはせて」
- 裾を合わせるように、ぴたりと蹴って。
- 「いざうれ」
- さあおまえたち。「うれ」は相手をいやしめて呼ぶ語。
解説
平教経は教盛の子で、平家随一の猛将として知られる。『平家物語』では壇の浦で入水したとするが、『吾妻鏡』には一の谷で討たれたとあり、その最期には異説がある。義経が船から船へ飛び移って教経の手を逃れた話は、のちに「八艘飛び」として語られるようになった。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、793–796頁(コマ425–427)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日