平家物語 巻第十一
継信最後の事
後藤兵衛実基は内裏に火を放って焼き払った。源氏が七、八十騎にすぎないと知った宗盛は悔しがり、能登守教経が五百余人で汀に寄せた。越中次郎兵衛盛継と伊勢三郎義盛が言葉戦いを交わし、金子与一の矢で言葉戦いは終わる。王城一の強弓の教経は義経を狙ったが、郎等たちが矢面に立ちふさがり、まっ先に進んだ佐藤三郎兵衛継信が射抜かれて落馬した。首を取ろうとした教経の童菊王丸は継信の弟忠信に射られて死に、教経は嘆いて戦をやめた。継信は、主君の身代わりに討たれたことこそ今生の面目と言い残して死に、義経は涙を流して僧に大夫黒の馬を与えて弔わせた。
- 1中中なかにににももも後後ご藤藤とう兵兵びょう衞衞え實實さね基基もとははは古古ふる兵兵つわものにににてててありありありけれけれければばば、、、磯磯いそののの軍軍いくさをををばばばせせせずずず、、、まづまづまず内内だい裏裏りへへへ亂亂みだれれれ入入いりりり、、、手手てんんん手手でににに火火ひををを放放はなつつっててて、、、片片へん時時しののの煙煙けぶりととと燒燒やききき拂拂はらふふう。。。大臣殿大臣殿おおいどの侍侍さぶらいどもどもどもににに、、、「「「源源げん氏氏じががが勢勢せいはははいかいかいか程程ほどあるあるあるぞぞぞ。。。」」」ととと問問とひひい給給たまへへえばばば、、、「「「七七しち八八はち十十じっ騎騎きにににはははよもよもよも過過すぎぎぎ候候そうらははわじじじ。。。」」」「「「あなあなあな心心こころうううややや、、、髪髪かみののの筋筋すじををを一一ひと筋筋すじづゝづゝずつ分分わけけけててて取取とるるるともともとも、、、このこのこの勢勢せいにににははは足足たるるるまじかりまじかりまじかりつるつるつるものものものををを、、、中中なかにににももも取取とりりりこめこめこめててて討討うたたたずずずしししててて、、、あわてあわてあわてててて船船ふねににに乘乘のりりりててて、、、内内だい裏裏りををを燒燒やかかかせせせぬるぬるぬる事事ことこそこそこそ口口くち惜惜おしけれしけれしけれ。。。能能の登登と殿殿どのはははおはせおはせおわせぬぬぬかかか、、、陸陸くがににに上上あがつつっててて一一ひと軍軍いくさししし給給たまへへえかしかしかし。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、「「「承承うけたまわりりり候候そうろう。。。」」」とととててて、、、越越えっ中中ちゅうののの次次じ郎郎ろう兵兵びょう衞衞え盛盛もり續續つぎををを先先さきとととしししててて都都つ合合ごう五五ご百百ひゃく餘餘よ人人にん、、、小小こ船船ぶねににに乘乘のりりり、、、燒燒やききき拂拂はらつつったるたるたる總總そう門門もんののの前前まえののの汀汀みぎわにににおしおしおし寄寄よせせせててて陣陣じんををを取取とるるる。。。判判ほう官官がんももも八八はち十十じゅう餘餘よ騎騎き、、、矢矢や頃頃ごろににに寄寄よせせせててて控控ひかへへえたりたりたり。。。
- 2平平へい家家けののの方方かたよりよりより越越えっ中中ちゅうののの次次じ郎郎ろう兵兵びょう衞衞え、、、船船ふねののの屋屋や形形かたににに進進すすみみみ出出いででで、、、大大だい音音おん聲聲じょうをををあげあげあげててて、、、「「「抑抑そもそも以以い前前ぜん名名な乘乘のりりりたまひたまひたまいつるつるつるとととははは聞聞ききききつれつれつれどもどもども、、、海海かい上上しょう遙遙はるかかかににに隔隔へだたつたつたっててて、、、そのそのその假假け名名みょう實實じっ名名みょう分分ふん明明みょうならならならずずず。。。今日今日きょうののの源源げん氏氏じののの大大たい將將しょう軍軍ぐんははは誰誰たれ人人びとにににてててましますましますましますぞぞぞ。。。名名な乘乘のりりりたまへたまへたまえ。。。」」」ととといひいひいいけれけれければばば、、、伊伊い勢勢せののの三三さぶ郎郎ろう進進すすみみみ出出いでででててて、、、「「「あなあなあな事事こともももおろかおろかおろかややや、、、淸淸せい和和わ天天てん皇皇おうににに十十じゅう代代だいののの後後こう胤胤いん、、、鎌鎌かま倉倉くら殿殿どのののの御御おん弟弟おとうと大大たい夫夫ふののの判判ほう官官がん殿殿どのぞぞぞかしかしかし。。。」」」盛盛もり續續つぎ聞聞きいいいててて、、、「「「さるさるさる事事ことありありあり。。。去去さんんんぬるぬるぬる平平へい治治じののの合合かっ戰戰せんににに、、、父父ちち討討うたたたれれれててて孤孤みなしごにににてててありありありしししががが、、、鞍鞍くら馬馬まのののちごちごちごしししててて、、、後後のちにににははは金金こがね商商あき人人んどののの所所しょ從從じゅうとととなりなりなり、、、粮粮ろう料料りょう背背せ負負おうううててて、、、奧奧おくののの方方かたへへへ落落おちちち下下くだりりりしししそのそのその小小こ冠冠かん者者じゃめめめががが事事ことかかか。。。」」」とととぞぞぞいひいひいいけるけるける。。。義義よし盛盛もり歩歩あゆままませせせ寄寄よつつっててて、、、「「「舌舌したのののやはらかやはらかやわらかなるなるなるまゝまゝままににに、、、君君きみののの御御おん事事ことななな申申もうしししそそそ。。。さささいふいふいうわわわ人人ひとどもどもどもこそこそこそ、、、北北ほっ國國こく礪礪と竝竝なみ山山やまののの軍軍いくさにににうちうちうち負負まけけけ、、、辛辛からききき命命いのち生生いきききつゝつゝつつ、、、北北ほく陸陸ろく道道どうにににさまよひさまよひさまよい、、、乞乞こっ食食じきしししててて上上のぼつつったりたりたりしししそのそのその人人ひとかかか。。。」」」とととぞぞぞいひいひいいけるけるける。。。
- 3盛盛もり續續つぎかさねかさねかさねててて、、、「「「君君きみののの御御ご恩恩おんににに飽飽あききき滿滿みちちちててて、、、何何なにののの不不ふ足足そくあつあつあってててかかか乞乞こっ食食じきをををばばばすすすべきべきべき。。。さささいふいふいうわわわ人人ひとどもどもどもこそこそこそ、、、伊伊い勢勢せののの國國くに鈴鈴すず鹿鹿か山山やまにににててて山山やまだちだちだちししし、、、妻妻さい子子しをををもももはぐゝみはぐゝみはぐくみ、、、わがわがわが身身みももも所所しょ從從じゅうももも過過すぎぎぎけるけるけるとととははは聞聞ききききしかしかしか。。。」」」ととといひいひいいけれけれければばば、、、金金かね子子こののの十十じゅう郎郎ろう進進すすみみみ出出いでででててて、、、「「「せんないせんないせんない殿殿とのばらばらばらががが雜雜ぞう言言ごんかなかなかな。。。われわれわれももも人人ひともももそらそらそらごとごとごといひいひいいかけかけかけ、、、雜雜ぞう言言ごんせせせんんんににに、、、誰誰たれかかかははは劣劣おとるるるべきべきべき。。。去去こ年年ぞののの春春はる、、、攝攝つ津津のののの國國くに一一いちののの谷谷たににににててて、、、武武む藏藏さし、、、相相さが摸摸みののの若若わか殿殿とのばらばらばらののの手手てなみなみなみののの程程ほどをををばばば見見みてててんんんものものものををを。。。」」」ととといふいふいう所所ところににに、、、弟弟おとうとののの與與よ一一いち、、、側側そばにににありありありけるけるけるががが、、、いはいはいわせせせもももはてはてはてずずず、、、十十じゅう二二に束束そく三三みぶせぶせぶせ取取とつつってててつがひつがひつがい、、、よつよつよっぴいぴいぴいててて、、、ひようひようひょうととと放放はなつつつ。。。次次じ郎郎ろう兵兵びょう衞衞えががが鎧鎧よろいののの胸胸むな板板いたににに、、、裏裏うらかくかくかく程程ほどにににぞぞぞ立立たつつったりたりたりけるけるける。。。さてさてさてこそこそこそ互互たがいのののことばことばことば戰戰いくさはははやみやみやみにににけれけれけれ。。。能能の登登と殿殿どの、、、船船ふな軍軍いくさははは樣樣ようあるあるあるものものものぞぞぞとととててて、、、鎧鎧よろい直直ひた垂垂たれをををばばば著著き給給たまははわずずず、、、唐唐から巻巻まき染染ぞめののの小小こ袖袖そでににに唐唐から綾綾あや縅縅おどしののの鎧鎧よろい著著きててて、、、いかいかいかものものものづくりづくりずくりののの太太た刀刀ちををを佩佩はききき、、、二二に十十じゅう四四しさいさいさいたるたるたるたかうすべうたかうすべうたかうすびょうののの矢矢や負負おひひい、、、滋滋しげ籐籐どうののの弓弓ゆみををを持持もちちち給給たまへへえりりり。。。王王おう城城じょう一一いちののの強強つよ弓弓ゆみ精精せい兵兵びょうなりなりなりけれけれければばば、、、能能の登登と殿殿どのののの矢矢や先先さきにににまはるまはるまわるものものもの、、、一一ひと人人りももも射射い落落おとささされれれずずずととといふいふいう事事ことなしなしなし。。。
- 4中中なかにににももも源源げん氏氏じののの大大たい將將しょう軍軍ぐん九九く郎郎ろう義義よし經經つねををを、、、唯唯ただ一一ひと矢矢やににに射射い落落おとさささんんんとととねらはねらはねらわれれれけれけれけれどもどもども、、、源源げん氏氏じののの方方かたにににももも心心こころ得得えててて、、、伊伊い勢勢せののの三三さぶ郎郎ろう義義よし盛盛もり、、、奧奧おう州州しゅうののの佐佐さ藤藤とう三三さぶ郎郎ろう兵兵びょう衞衞え繼繼つぎ信信のぶ、、、同同おなじきじきじき四四し郎郎ろう兵兵びょう衞衞え忠忠ただ信信のぶ、、、江江え田田だののの源源げん三三ぞう、、、熊熊くま井井いののの太太た郎郎ろう、、、武武む藏藏さし坊坊ぼう辨辨べん慶慶けいなどなどなどいふいふいう一一いち人人にん當當とう千千ぜんののの兵兵つわものどもどもども、、、馬馬むまののの頭頭かしらををを一一いち面面めんににに立立たててて竝竝ならべべべててて、、、大大たい將將しょう軍軍ぐんののの矢矢や面面おもてににに馳馳はせせせ塞塞ふさがりがりがりけれけれければばば、、、能能の登登と殿殿どのももも力力ちから及及およびびび給給たまははわずずず。。。能能の登登と殿殿どの、、、「「「そこそこそこのきのきのき候候そうらへへえ、、、矢矢や面面おもてののの雜雜ぞう人人にんばらばらばら。。。」」」とととててて、、、さしさしさしつめつめつめ引引ひきききつめつめつめ、、、さん〴〵さん〴〵さんざんににに射射い給給たまへへえばばば、、、矢矢や庭庭にはににに鎧鎧よろい武武む者者しゃ十十じっ騎騎き許許ばかりりり射射い落落おとさささるるる。。。中中なかにににもももまつまつまつ先先さきににに進進すすんんんだるだるだる奧奧おう州州しゅうののの佐佐さ藤藤とう三三さぶ郎郎ろう兵兵びょう衞衞え繼繼つぎ信信のぶははは、、、弓弓ゆん手手でののの肩肩かたよりよりより馬馬め手手てののの脇脇わきへへへ、、、つとつとつと射射い拔拔ぬかかかれれれててて、、、しばししばししばしもももたまらたまらたまらずずず、、、馬馬むまよりよりより倒倒さかさまにににどうどうどうととと落落おつつつ。。。
- 5能能の登登と殿殿どのののの童童わらわににに菊菊きか王王う丸丸まるととといふいふいう大大だい力力じからののの剛剛こうののの者者もの、、、萌萌もえ黃黃ぎ縅縅おどしののの腹腹はら巻巻まきににに三三さん枚枚まい兜兜かぶとののの緒緒ををををしめしめしめ、、、打打うち物物ものののの鞘鞘さやをををはづいはづいはずいててて、、、繼繼つぎ信信のぶががが首首くびををを取取とらららんんんととと飛飛とんんんでででかゝるかゝるかかるををを、、、忠忠ただ信信のぶ側側そばにににありありありけるけるけるががが、、、兄兄あにががが首首くびををを取取とらららせせせじじじととと、、、よつよつよっぴいぴいぴいててて、、、ひようひようひょうととと放放はなつつつ。。。菊菊きか王王う丸丸まるががが草草くさ摺摺ずりのののはづれはづれはずれををを、、、あなたあなたあなたへへへつとつとつと射射い貫貫ぬかかかれれれててて、、、犬犬いぬ居居いににに倒倒たおれれれぬぬぬ。。。能能の登登と殿殿どのこれこれこれををを見見み給給たまひひいててて、、、左左ひだりののの手手てにににははは弓弓ゆみををを持持もちちちながらながらながら、、、右右みぎののの手手てにににててて菊菊きか王王う丸丸まるをををつかんつかんつかんででで、、、船船ふねへへへからりからりからりととと投投なげげげ入入いれれれ給給たまふふう。。。敵敵かたきににに首首くびははは取取とららられれれねねねどもどもども、、、痛痛いた手手でなれなれなればばば死死しににににににけりけりけり。。。このこのこの童童わらわととと申申もうすすすははは、、、もともともとははは越越えち前前ぜんののの三三さん位位み通通みち盛盛もりののの卿卿きょうののの童童わらわなりなりなり。。。然然しかるるるををを三三さん位位み討討うたたたれれれ給給たまひひいててて後後のち、、、弟弟おとうと能能の登登と殿殿どのにににぞぞぞ使使つかははわれれれけるけるける。。。生生しょう年年ねん十十じゅう八八はっ歳歳さいとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。能能の登登と殿殿どのこのこのこの童童わらわををを討討うたたたせせせててて、、、あまりあまりあまりにににあはれあはれあわれににに思思おもははわれれれけれけれければばば、、、そのそのその後後のちははは軍軍いくさをををもももししし給給たまははわずずず。。。
- 6判判ほう官官がんははは繼繼つぎ信信のぶををを陣陣じんののの後後うしろへへへかきかきかき入入いれれれさせさせさせ、、、急急いそぎぎぎ馬馬むまよりよりより飛飛とんんんででで下下おりりり、、、手手てををを取取とつつっててて、、、「「「いかゞいかゞいかが覺覺おぼゆるゆるゆる三三さぶ郎郎ろう兵兵びょう衞衞え。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、「「「今今いまはははかうかうこうにににこそこそこそ候候そうらへへえ。。。」」」「「「このこのこの世世よににに思思おもひひい置置おくくく事事ことはははなきなきなきかかか。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、「「「別別べちににに何何なに事事ごとをををかかか思思おもひひい置置おききき候候そうろうべきべきべき。。。さささははは候候そうらへへえどもどもども、、、君君きみののの御御み世世よににに渡渡わたらららせせせ給給たまふふうををを見見み參參まいらららせせせずずずしししててて、、、死死しににに候候そうろうこそこそこそ心心こころにににかゝりかゝりかかり候候そうらへへえ。。。さささ候候そうらははわでででははは、、、弓弓ゆみ矢矢や取取とりははは敵敵かたきののの矢矢やににに當當あたつつっててて死死しぬるぬるぬる事事こと、、、もともともとよりよりより期期ごするするする所所ところでででこそこそこそ候候そうらへへえ。。。なかんづくなかんづくなかんずく源源げん平平ぺいののの御御おん合合かっ戰戰せんににに、、、奧奧おう州州しゅうののの佐佐さ藤藤とう三三さぶ郎郎ろう兵兵びょう衞衞え繼繼つぎ信信のぶととといひいひいいけんけんけん者者もの、、、讚讚さぬ岐岐きののの國國くに八八や島島しまののの磯磯いそにににててて、、、主主しゅうののの御御おん命命いのちににに代代かわつつっててて討討うたたたれれれたりたりたりなどなどなど、、、末末まつ代代だいまでまでまでののの物物もの語語がたりににに申申もうささされれれんんんこそこそこそ、、、今今こん生生じょうののの面面めん目目ぼく、、、冥冥めい途途どののの思思おもい出出でにににててて候候そうらへへえ。。。」」」とととててて、、、たゞたゞただ弱弱よわりりりにににぞぞぞ弱弱よわりりりけるけるける。。。
- 7判判ほう官官がんははは猛猛たけききき武武もの士士のうなれなれなれどもどもども、、、あまりあまりあまりにににあはれあはれあわれににに思思おもひひい給給たまひひいててて、、、鎧鎧よろいののの袖袖そでををを顏顏かおにににおしおしおし當當あてててててて、、、さめざめさめざめさめざめとととぞぞぞ泣泣なかかかれれれけるけるける。。。もしもしもしこのこのこの邊邊へんににに尊尊とうとききき僧僧そうやややあるあるあるとととててて、、、尋尋たずねねね出出いださささせせせ、、、「「「手手て負負おいのののたゞたゞただ今今いま死死しににに候候そうろうににに、、、一一にち日日にち經經きょう書書かいいいててて弔弔とぶらひひいたまへたまへたまえ。。。」」」とととててて、、、黑黑くろききき馬馬むまののの太太ふとうううたくましきたくましきたくましきににに、、、よいよいよい鞍鞍くら置置おいいいててて、、、かのかのかの僧僧そうにににぞぞぞたびたびたびにににけるけるける。。。このこのこの馬馬むまははは、、、判判ほう官官がん五五ご位位いののの尉尉じょうにににならならなられれれししし時時とき、、、これこれこれをををももも五五ご位位いににになしなしなしててて、、、大大たい夫夫ふ黑黑ぐろととと呼呼よばばばれれれししし馬馬むまなりなりなり。。。一一いちののの谷谷たにののの後後うしろ鵯鵯ひよどり越越ごえをををももも、、、このこのこの馬馬むまにににてててぞぞぞ落落おとささされれれけるけるける。。。弟弟おとうと忠忠ただ信信のぶををを始始はじめめめとととしししててて、、、これこれこれををを見見みるるる侍侍さぶらいどもどもども、、、みなみなみな涙涙なみだををを流流ながしししててて、、、このこのこの君君きみののの御御おん爲爲ためににに命命いのちををを失失うしなははわんんん事事ことははは、、、全全まったくくく露露つゆ塵塵ちりほどほどほどももも惜惜おしからしからしからずずずとととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。
現代語訳
中でも後藤兵衛実基は老練の武士だったので、浜辺の戦いには加わらず、まず内裏へ乱入して手に手に火を放ち、たちまち煙にして焼き払った。大臣殿(宗盛)が侍たちに「源氏の勢はどれほどあるか」とお尋ねになると、「七、八十騎よりは多くないでしょう」。「ああ情けない。髪の毛を一筋ずつ分けて取っても、この勢には足りなかったものを。取り囲んで討たずに、あわてて船に乗って内裏を焼かせてしまったのが無念だ。能登殿はおられないか。陸に上がって一戦なさい」とおっしゃると、「承知しました」といって、越中次郎兵衛盛継を先頭に総勢五百余人が小舟に乗り、焼き払われた総門の前の汀に押し寄せて陣を取った。判官も八十余騎で、矢の届く距離に寄せて控えた。
平家方から越中次郎兵衛が船の屋形に進み出て、大音声をあげて、「そもそも先ほど名のられたとは聞いたが、海上はるかに隔たって、その仮名・実名がはっきりしない。今日の源氏の大将軍はどなたでいらっしゃるか。名のりなさい」と言ったので、伊勢三郎が進み出て、「言うのも愚かなことよ。清和天皇から十代の後胤、鎌倉殿の御弟、大夫判官殿だぞ」。盛継は聞いて、「そういうことがあった。去る平治の合戦で父が討たれて孤児となり、鞍馬の稚児をして、のちには金売り商人の従者となり、食糧を背負って奥州へ落ちていったという、あの小冠者めのことか」と言った。義盛は馬を歩ませて寄り、「舌のやわらかなのにまかせて、君のことを申すな。そう言うおまえたちこそ、北国の礪波山の戦に負けて、かろうじて命を拾い、北陸道をさまよって、乞食をして都へ上ってきた者どもではないか」と言った。
盛継は重ねて、「君のご恩に飽き満ちて、何の不足があって乞食などしよう。そう言うおまえたちこそ、伊勢国の鈴鹿山で山賊をして、妻子を養い、自分も従者も暮らしていたと聞いたぞ」と言ったので、金子十郎が進み出て、「つまらない殿ばらの悪口だな。われも人もでたらめを言いかけて悪口を言い合ったら、どちらが劣ろうか。去年の春、摂津国一の谷で、武蔵・相模の若殿ばらの腕前のほどは見たはずだ」と言うところに、弟の与一がそばにいたが、言い終わらないうちに、十二束三伏の矢を取ってつがえ、引きしぼってひょうと放った。次郎兵衛の鎧の胸板に、裏まで通るほどに突き立った。これで互いの言葉戦いはやんだ。能登殿は、船戦にはやり方があるといって、鎧直垂は着ず、唐巻染の小袖に唐綾縅の鎧を着て、厳物作りの太刀を佩き、二十四本差した鷹護田鳥尾の矢を負い、滋籐の弓を持っておられた。王城一の強弓の精兵だったので、能登殿の矢先に回る者で、射落とされない者は一人もなかった。
とりわけ源氏の大将軍九郎義経を一矢で射落とそうと狙われたが、源氏方も心得ていて、伊勢三郎義盛、奥州の佐藤三郎兵衛継信、同じく四郎兵衛忠信、江田源三、熊井太郎、武蔵坊弁慶などという一人当千の兵たちが、馬の頭を一列に並べて大将軍の矢面に立ちふさがったので、能登殿もどうしようもない。能登殿は「そこをのけ、矢面の雑兵ども」といって、矢継ぎ早にさんざんに射られたので、たちまち鎧武者が十騎ほど射落とされた。中でもまっ先に進んだ奥州の佐藤三郎兵衛継信は、左の肩から右の脇へ矢をつっと射抜かれて、少しも持ちこたえられず、馬からまっさかさまにどうと落ちた。
能登殿の童で菊王丸という大力の剛の者が、萌黄縅の腹巻に三枚兜の緒をしめ、打物の鞘をはずして、継信の首を取ろうと飛びかかるのを、忠信がそばにいて、兄の首を取らせまいと、引きしぼってひょうと放った。菊王丸は草摺のはずれを向こうへつっと射抜かれて、尻もちをつくように倒れた。能登殿はこれをご覧になって、左の手に弓を持ったまま、右の手で菊王丸をつかんで、船へからりと投げ入れられた。敵に首は取られなかったが、深手なので死んでしまった。この童というのは、もとは越前三位通盛卿の童であった。それが三位が討たれなさってから、弟の能登殿に使われていたのである。年は十八歳と聞こえた。能登殿はこの童を討たせて、あまりに哀れに思われたので、その後は戦もなさらなかった。
判官は継信を陣の後ろへかつぎ入れさせ、急いで馬から飛び降りて手を取り、「どうだ、三郎兵衛」とおっしゃると、「今はもうこれまででございます」「この世に思い残すことはないか」とおっしゃると、「別に何を思い残すことがありましょう。ただ、君が世に栄えておいでになるのをお見届けしないで死ぬことだけが気がかりでございます。そうでなければ、弓矢を取る者が敵の矢に当たって死ぬことは、もとより覚悟のうえでございます。とりわけ源平のご合戦で、奥州の佐藤三郎兵衛継信という者が、讃岐国八島の磯で主君のお命に代わって討たれたなどと、末代までの語り草に言われることこそ、今生の面目、冥途の思い出でございます」といって、ただ弱りに弱っていった。
判官は猛き武士であったが、あまりに哀れに思われて、鎧の袖を顔に押し当ててさめざめと泣かれた。「もしこのあたりに尊い僧はいないか」といって探し出させ、「手負いの者が今死にましたので、一日経を書いて弔ってください」といって、黒い馬で太くたくましいのに、よい鞍を置いて、その僧にお与えになった。この馬は、判官が五位尉になられたとき、これも五位にして大夫黒と呼ばれた馬である。一の谷の鵯越も、この馬で駆け下りられたのであった。弟の忠信をはじめとして、これを見る侍たちはみな涙を流して、この君のためなら命を失うことは露ほども惜しくないと申しあった。
意訳
屋島の合戦の山場の一つで、言葉戦いから弓矢の戦いへ、そして主従の情愛へと場面が移っていく。盛継と義盛の言葉戦いは、互いの大将の素性を罵りあう当時の合戦の作法を伝えるとともに、義経の不遇な少年時代を物語る。
義経の身代わりとなって討たれた継信の最期の言葉は、主君のために命を捨てることを最高の名誉とする武士の理想を語る。一方、愛する童菊王丸を討たれて戦をやめた教経の姿は、平家方にも同じ主従の情があったことを示す。大夫黒を僧に与えて継信を弔う義経の厚情に、侍たちが命も惜しくないと誓う結びは、義経のもとに人が集まった理由をよく伝えている。
語釈・文法注
文法
- 「古兵」
- 戦い慣れた老練の武士。
- 「假名實名分明ならず」
- 通称(仮名)と実名がはっきりしない。
- 「金商人の所從」
- 奥州へ砂金を買いに行く商人(金売り吉次と伝える)の従者。
- 「わ人」
- おまえ。相手をいやしめていう語。
- 「北國礪竝山の軍」
- 寿永二年(1183)の倶利伽羅峠の戦い。底本は「礪竝山」と刷る。
- 「十二束三ぶせ」
- 矢の長さ。握りこぶし十二個分と指三本分。
- 「胸板」
- 鎧の胴の最上部、胸にあたる板。
- 「たかうすべう」
- 鷹の羽とうすべう(尾白鷲の羽)を交えた矢羽。
- 「強弓精兵」
- 強い弓を引く、すぐれた射手。
- 「三枚兜」
- 錣が三段の兜。
- 「犬居に倒れぬ」
- 犬が座るように尻もちをついて倒れた。
- 「一日經」
- 多くの人で一日のうちに経を書写して供養すること。
- 「大夫黑」
- 義経が五位(大夫)になったとき、愛馬も五位にして呼んだ名。
解説
佐藤継信・忠信兄弟は奥州藤原秀衡の家臣で、義経が奥州から挙兵したときに従った。継信は元暦二年(1185)二月十九日の屋島の合戦で、教経の矢から義経をかばって討たれたと伝える。高松市牟礼町には継信の墓と、菊王丸の墓が伝わっている。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、770–774頁(コマ414–416)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日