平家物語 巻第九
坂おとしの事
生田の森では東国の諸党の武士と平家とが入り乱れて戦ったが、大手だけでは勝負がつかない。七日の明け方、鵯越に上った義経の三千余騎に驚いた鹿が一の谷へ駆け下り、平家は上の山からの敵を疑った。義経は試しに馬を落として三頭が無事に下りたのを見て、自ら先頭に立って駆け下る。釣瓶落としの岩場では佐原義連が「三浦の馬場」と言って先駆けし、全軍が続いた。鬨の声に山彦が答えて十万騎にも聞こえ、村上康国が火を放つと、平家の兵は海へ逃れ、船に取りすがって斬られる者も多かった。能登守教経も西へ落ち、屋島へ渡った。
- 1これこれこれををを始始はじめめめててて三三み浦浦うら、、、鎌鎌かま倉倉くら、、、秩秩ちち父父ぶ、、、足足あし利利かが黨黨とうにににははは猪猪いの股股また、、、兒兒こ玉玉だま、、、野野の井井い與與よ、、、横横よこ山山やま、、、西西にし黨黨とう、、、綴綴つづ喜喜き黨黨とう、、、總總そうじじじててて私私しののの黨黨とうののの兵兵つわものどもどもども、、、源源げん平平ぺい互互たがいににに亂亂みだれれれ合合あひひい、、、をめきをめきおめき叫叫さけぶぶぶ聲聲こえははは山山やまををを響響ひびかしかしかし、、、馳馳はせせせ違違ちがふふう馬馬うまののの音音おとははは雷雷いかずちののの如如ごとくくく、、、射射い違違ちがふるふるうる矢矢やははは雨雨あめののの降降ふるるるににに異異ことならならならずずず。。。或或あるいははは薄薄うす手手で負負おうううててて戰戰たたかふふう者者ものもももありありあり、、、或或あるいははは引引ひっ組組くみみみ、、、さしさしさし違違ちがへへえててて死死しぬるぬるぬるもももありありあり、、、或或あるいははは取取とつつっててて押押おさへへえててて首首くびをををかくかくかくもももありありあり、、、かかるゝかかるゝかかるるもももありありあり、、、いづれいづれいずれ隙隙ひまありありありとととももも見見みえええざりざりざりけりけりけり。。。
- 2斯斯かかりかりかりしかしかしかどもどもども源源げん氏氏じ、、、大大おお手手てばかりばかりばかりでででははは、、、いかにいかにいかにもももかなふかなふかなうべしべしべしとととももも見見みえええざりざりざりしにしにしに、、、七七なぬ日日かののの曙曙あけぼのににに大大たい將將しょう軍軍ぐん九九く郎郎ろう御御おん曹曹ぞう司司し義義よし經經つね、、、そのそのその勢勢せい三三さん千千ぜん餘餘よ騎騎き、、、鵯鵯ひよどり越越ごえににに打打うち上上あがつつっててて、、、人人にん馬馬ばののの息息いきやすめやすめやすめててておはしおはしおわしけるけるけるががが、、、そのそのその勢勢せいにににややや驚驚おどろきききたりたりたりけんけんけん、、、牡牡お鹿鹿じか二二ふたつつつ牝牝め鹿鹿じか一一ひとつつつ、、、平平へい家家けののの城城じょう郭郭かく一一いちののの谷谷たにへへへぞぞぞ落落おちちちたりたりたりけるけるける。。。平平へい家家けののの方方かたののの兵兵つわものどもどもどもこれこれこれををを見見みててて、、、「「「たとひたとひたとい里里さと近近ちかからからからんんん鹿鹿しかだにだにだにももも、、、われわれわれらららににに恐恐おそれれれててて山山やま深深ふこうううこそこそこそ入入いるるるべきべきべきににに、、、たゞたゞただ今今いまののの鹿鹿しかののの落落おちちちやうやうようこそこそこそあやしけれあやしけれあやしけれ。。。いかさまいかさまいかさまにににもももこれこれこれははは上上うえののの山山やまよりよりより敵敵かたき落落おとすすすにににこそこそこそ。。。」」」とてとてとて大大おおきききににに騒騒さわぐぐぐ所所ところににに、、、こゝこゝここににに伊伊い豫豫よののの國國くにののの住住じゅう人人にん高高たけ市市ちののの武武む者者しゃ所所どころ淸淸きよ教教のり進進すすみみみ出出いでででててて、、、「「「たとひたとひたとい何何なに者者ものにてにてにてもももあらあらあらばばばあれあれあれ、、、敵敵かたきののの方方かたよりよりより出出いででで來來きたらららんんんずるずるずる者者ものををを、、、通通とおすすすべきべきべきやうやうようなしなしなし。。。」」」とてとてとて、、、牡牡お鹿鹿じか二二ふたつつつ射射いとめとめとめててて、、、牝牝め鹿鹿じかをををばばば射射いでででぞぞぞ通通とおしししけるけるける。。。越越えっ中中ちゅうののの前前ぜん司司じこれこれこれををを見見みててて、、、「「「せんないせんないせんない殿殿とのばらばらばらののの鹿鹿ししののの射射いやうやうようかなかなかな。。。たゞたゞただ今今いまののの矢矢や一一ひと筋筋すじでででははは敵敵かたき十十じゅう人人にんをををばばば防防ふせがががんんんずるずるずるものものものををを、、、罪罪つみつくりつくりつくりににに矢矢やたふたふとうなななににに。。。」」」とととぞぞぞ制制せいしししけるけるける。。。
- 3さるさるさる程程ほどににに大大たい將將しょう軍軍ぐん九九く郎郎ろう御御おん曹曹ぞう司司し義義よし經經つね、、、平平へい家家けののの城城じょう郭郭かく遙遙はるかかかににに見見み下下おろしししててておはしおはしおわしけるけるけるががが、、、馬馬うま共共ども落落おといいいててて見見みんんんとてとてとて、、、少少しょう々々しょう落落おとささされれれけりけりけり。。。或或あるいははは中中なかにてにてにて轉轉ころんんんででで落落おちちち、、、或或あるいははは足足あしうちうちうち折折おつつっててて死死しぬるぬるぬるもももありありあり。。。されどもされどもされどもそのそのその中中なかににに鞍鞍くら置置おき馬馬うま三三さん匹匹びき、、、相相そう違違いなくなくなく落落おちちちついついついててて、、、越越えっ中中ちゅうののの前前ぜん司司じががが館館やかたののの前前まえににに、、、身身みぶるひぶるひぶるいしてしてしてこそこそこそ立立たつつったりたりたりけれけれけれ。。。御御おん曹曹ぞう司司し、、、「「「馬馬うまははは主主ぬし々々ぬしががが心心こころ得得えててて落落おとさささんんんにににははは、、、痛痛いとうううははは損損そんずずずまじかりまじかりまじかりけるけるけるぞぞぞ。。。たゞたゞただ落落おとせせせ、、、義義よし經經つねををを手手て本本ほんにににせせせよよよ。。。」」」とてとてとて、、、まづまづまず三三さん十十じっ騎騎きばかりばかりばかり、、、まつまつまっ先先さきかけかけかけててて落落おとささされれれけれけれければばば、、、三三さん千千ぜん餘餘よ騎騎きののの兵兵つわものどもどもども、、、みなみなみな續續つづいいいててて落落おとすすす。。。そこそこそこしもしもしも小小こ石石いし交交まじりりりののの砂砂まさごなりなりなりけれけれければばば、、、流流ながれれれ落落おとしししににに二二に町町ちょう許許ばかりりりさつさつさっととと落落おといいいててて、、、壇壇だんなるなるなる所所ところににに控控ひかへへえたりたりたり。。。それそれそれよりよりより下下したををを見見み渡渡わたせせせばばば、、、大大だい磐磐ばん石石じゃくののの苔苔こけむしむしむしたるたるたるががが、、、釣釣つる瓶瓶べおろしおろしおろしににに十十じゅう四四し五五ご丈丈じょうぞぞぞ下下くだつつったるたるたる。。。それそれそれよりよりより先先さきへへへははは進進すすむむむべきべきべきとととももも見見みえええずずず。。。又又また後後うしろへへへ取取とつつってててかへすかへすかえすべきべきべきやうやうようもももなかりなかりなかりしかしかしかばばば、、、兵兵つわものどもどもどもこゝこゝここぞぞぞ最最さい後後ごととと申申もうしししててて、、、あきれあきれあきれててて控控ひかへへえたるたるたる所所ところににに、、、三三み浦浦うらののの佐佐さ原原はらののの十十じゅう郎郎ろう義義よし連連つら、、、進進すすみみみ出出いでででててて申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「われわれわれらららががが方方かたでででははは、、、鳥鳥とり一一ひとつつつたつたつたってててだにだにだにももも、、、朝朝あさ夕夕ゆうかやうかやうかようののの所所ところをををばばば馳馳はせせせありありありけけけ。。。これこれこれははは三三み浦浦うらののの方方かたののの馬馬ば場場ばぞぞぞ。。。」」」とてとてとて、、、まつまつまっ先先さきかけかけかけててて落落おとしししけれけれければばば、、、大大おお勢勢ぜいみなみなみな續續つづいいいててて落落おとすすす。。。後後ご陣陣じんににに落落おとすすす者者ものののの鐙鐙あぶみののの鼻鼻はなははは、、、先先せん陣陣じんののの鎧鎧よろい兜兜かぶとにににさはるさはるさわる程程ほどなりなりなり。。。あまりあまりあまりのののいぶせさいぶせさいぶせさににに、、、目目めををを塞塞ふさいいいででで落落おとしししけるけるける。。。えい〳〵えい〳〵えいえい聲聲ごえをををしのびしのびしのびにににしてしてして、、、馬馬うまににに力力ちからをををつけつけつけててて落落おとすすす。。。大大おお方方かた人人ひとのののしわざしわざしわざとととははは見見みえええずずず、、、たゞたゞただ鬼鬼き神神じんののの所所しょ爲爲いとととぞぞぞ見見みえええししし。。。落落おとしししもももはてはてはてぬぬぬににに、、、鬨鬨ときをををどつどつどっとととぞぞぞつくりつくりつくりけるけるける。。。三三さん千千ぜん餘餘よ騎騎きががが聲聲こえなれなれなれどもどもども、、、山山やま彥彥びこ答答こたへへえててて十十じゅう萬萬まん餘餘よ騎騎きとととぞぞぞ聞聞きこえええけるけるける。。。
- 4村村むら上上かみののの判判ほう官官がん代代だい康康やす國國くにががが手手てよりよりより火火ひををを出出いだいいいててて、、、平平へい家家けののの屋屋や形形かた假假かり屋屋やををを、、、片片へん時時じののの煙煙けぶりととと燒燒やききき拂拂はらふふう。。。黑黑くろ煙煙けぶり既既すでにににおしおしおしかゝりかゝりかかりけれけれければばば、、、平平へい家家けののの兵兵つわもの共共ども、、、もしやもしやもしや助助たすかるかるかるととと、、、前前まえなるなるなる海海うみへへへぞぞぞ多多おおくくく走走はしりりり入入いりりりけるけるける。。。渚渚なぎさにににははは助助たすけ船船ぶねどもどもどもいくらいくらいくらもももありありありけれけれけれどもどもども、、、船船ふね一一いっ艘艘そうにににははは鎧鎧よろいうたるうたるうたる者者ものどもどもどもががが四四し五五ご百百ひゃく人人にん、、、千千せん人人にんばかりばかりばかりこみこみこみ乘乘のつつったらたらたらうううににに、、、なじかなじかなじかはははよかるよかるよかるべきべきべき、、、渚渚なぎさよりよりより三三さん町町ちょうばかりばかりばかり漕漕こぎぎぎ出出いでででててて、、、目目めののの前前まえにてにてにて大大おお船船ぶね三三さん艘艘ぞう沉沉しずみみみにににけりけりけり。。。そのそのその後後のちはははよきよきよき武武む者者しゃをををばばば乘乘のするするするとととももも、、、雜雜ぞう人人にんばらばらばらをををばばば乘乘のすすすべからべからべからずずずとてとてとて、、、太太た刀刀ち、、、長長なぎ刀刀なたにてにてにて打打うち拂拂はらひひいけりけりけり。。。かくかくかくするするする事事こととととははは知知しりりりながらながらながら、、、敵敵かたきにににあうあうおうてててははは死死しなななずずずしてしてして、、、乘乘のせせせじじじとととするするする船船ふねににに取取とりりりつきつきつき、、、つかみつかみつかみつきつきつき、、、或或あるいははは臂臂ひじうちうちうち斬斬きららられれれ、、、或或あるいははは腕腕うでうちうちうち落落おとささされれれててて、、、一一いちののの谷谷たにののの汀汀みぎわににに朱朱あけににになつなつなってててぞぞぞなみなみなみ伏伏ふしししたるたるたる。。。
- 5さるさるさる程程ほどににに追追おう手手てにににももも、、、濱濱はまののの手手てにににももも、、、武武む藏藏さし、、、相相さが摸摸みののの若若わか殿殿とのばらばらばら、、、面面おもてもももふらふらふらずずず、、、命命いのちももも惜惜おしましましまずずず、、、こゝこゝここををを最最さい後後ごととと攻攻せめめめ戰戰たたかふふう。。。能能の登登と殿殿どのははは度度たび々々たびののの軍軍いくさににに、、、一一いち度度どももも不不ふ覺覺かくししし給給たまははわぬぬぬ人人ひとののの、、、今今こん度度どはははいかゞいかゞいかが思思おもははわれれれけんけんけん。。。薄薄うす墨墨ずみととといふいふいう馬馬うまににに打打うち乘乘のつつっててて、、、西西にしをををさしさしさしてててぞぞぞ落落おちちち給給たまふふう。。。播播はり磨磨まののの高高たか砂砂さごよりよりより御御おん船船ふねににに召召めしししててて、、、讚讚さぬ岐岐きののの八八や島島しまへへへ渡渡わたりりり給給たまひひいぬぬぬ。。。
現代語訳
これを手始めに、三浦・鎌倉・秩父・足利の党には猪俣・児玉・野井与・横山・西党・綴喜党と、すべて私の党の兵たちが、源平互いに入り乱れ、わめき叫ぶ声は山を響かせ、馳せ違う馬の音は雷のようで、射違える矢は雨が降るのと変わらない。薄手を負って戦う者もあり、組み合って刺し違えて死ぬ者もあり、取り押さえて首をかく者もあり、かかられる者もあり、どちらにもすきがあるとは見えなかった。
けれども源氏は、大手だけではとても勝てそうに見えなかったところに、七日の明け方、大将軍九郎御曹司義経はその勢三千余騎で鵯越に上って、人馬の息を休めておられたが、その軍勢に驚いたのであろうか、牡鹿が二頭と牝鹿が一頭、平家の城郭の一の谷へ駆け下りてきた。平家の方の兵たちはこれを見て、「たとえ里近くにいる鹿でも、われらを恐れて山奥へ入るはずなのに、今の鹿の下り方は怪しい。きっとこれは上の山から敵が攻め下りてくるのだ」といって大いに騒いでいるところに、伊予国の住人高市武者所清教が進み出て、「たとえ何者であろうと、敵の方から出てくるものを通すわけにはいかない」といって、牡鹿二頭を射止めて、牝鹿は射ずに通した。越中前司(盛俊)はこれを見て、「つまらない殿ばらの鹿の射方よ。今の矢一本で敵十人を防げたものを。罪作りに矢を無駄にするな」と止めた。
そうするうちに、大将軍九郎御曹司義経は平家の城郭をはるかに見下ろしておられたが、馬を落としてみようといって、何頭か落とされた。途中で転んで落ちるものもあり、足を折って死ぬものもある。けれどもその中で鞍を置いた馬三頭が無事に下りついて、越中前司の館の前で身震いして立っていた。御曹司は「馬は乗り手がそれぞれ心得て落とせば、ひどく損じることはなさそうだ。ただ落とせ。義経を手本にせよ」といって、まず三十騎ほどで真っ先に駆け下られたので、三千余騎の兵たちもみな続いて駆け下りた。そこは小石まじりの砂地だったので、滑り落ちるように二町ほどさっと駆け下りて、平らな段になった所に控えた。そこから下を見渡すと、大きな岩の苔むしたのが、釣瓶を落とすように十四、五丈もまっすぐに下っている。そこから先へは進めそうにも見えない。また後ろへ引き返すこともできないので、兵たちはここが最後だと言って、あきれて控えていたところに、三浦の佐原十郎義連が進み出て申すには、「われらの方では、鳥一羽立つのを追うにも、朝夕このような所を駆け回っている。これは三浦の方の馬場だ」といって、真っ先に駆け下りたので、大勢もみな続いて駆け下りた。後ろから駆け下りる者の鐙の先は、前の者の鎧や兜に触れるほどである。あまりの恐ろしさに目をふさいで駆け下りた。えいえいと声を殺して馬に力をつけて駆け下りる。およそ人のしわざとは見えず、ただ鬼神の所業と見えた。駆け下り終わらないうちに、鬨の声をどっとあげた。三千余騎の声であったが、山彦が答えて十万余騎のように聞こえた。
村上判官代康国の手勢から火を放って、平家の屋形や仮屋を、たちまち煙にして焼き払った。黒煙がもう押しかかってきたので、平家の兵たちは、もしや助かるかと、前の海へ大勢走りこんだ。渚には助け船がいくらもあったが、一艘の船に鎧を着た者が四、五百人、千人ほども乗りこんだのだから、どうしてたまろうか、渚から三町ほど漕ぎ出したところで、目の前で大船三艘が沈んでしまった。その後は、よい武者は乗せても雑人どもは乗せてはならないといって、太刀や長刀で打ち払った。そうされると知りながら、敵に会って死ぬことはせずに、乗せまいとする船に取りつき、つかみつき、肘を斬られ、腕を斬り落とされて、一の谷の水際に血まみれになって並び伏していた。
そうするうちに、追手(大手)でも浜の手でも、武蔵・相模の若殿ばらが、わき目もふらず、命も惜しまず、ここを最後と攻め戦った。能登殿は、たびたびの戦で一度も不覚をとったことのない人であったが、今度はどう思われたのであろうか、薄墨という馬に乗って、西をさして落ちて行かれた。播磨の高砂から御船に乗って、讃岐の屋島へ渡られた。
意訳
義経の鵯越の坂落としを語る、一の谷合戦の頂点となる章段である。鹿の逃げ下りる姿に平家が不審を抱く場面、試しに馬を落としてみる義経の慎重さ、「三浦の方の馬場ぞ」と言って先駆けする佐原義連の豪胆さが重ねられ、「たゞ鬼神の所爲」と言われる奇襲が描き出される。
背後を突かれた平家は総崩れとなり、海へ逃れようとして船に取りすがった者たちが、味方に斬り払われて渚に倒れる。不敗の猛将能登守教経さえ西へ落ちたという結びは、一の谷での平家の敗北の大きさを物語っている。
語釈・文法注
文法
- 「かかるゝもあり」
- 底本どおり。敵にかかられる(討たれる)者もある、の意か。
- 「矢たふなに」
- 「矢たうな」の意。矢を無駄にするな。「たう」は「費ゆ(つひゆ)」の意か。
- 「釣瓶おろし」
- 釣瓶を井戸に落とすように、まっすぐに切り立っているさま。
- 「鳥一つたつてだにも」
- 鳥一羽が飛び立つのを追うのでさえも。
- 「山彦答へて」
- こだまが響き返して。
- 「朱になつて」
- 血まみれになって。
解説
一の谷の合戦は寿永三年(1184)二月七日に行われた。義経の坂落としの場所は、鵯越(神戸市兵庫区・北区)とする説と、一の谷の背後の鉄拐山(神戸市須磨区)とする説とがある。『吾妻鏡』は義経が鵯越から攻めたと記すが、『玉葉』には一の谷を攻め落としたのは義経の軍とある。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、683–686頁(コマ370–372)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日