平家物語 巻第十一
大坂越の事
近藤六親家から、八島の平家は千騎足らずで、田内左衛門教能が三千余騎を率いて伊予へ出ていると聞いた義経は、好機とみて夜通し大坂越の山を越えた。途中、京の女房から宗盛に宛てた、義経は大風大波も厭わず攻めてくるから用心せよという文を持つ男に会い、文を奪って天の与えた文だと喜んだ。十八日、引田・白鳥・丹生を過ぎ、高松の民家に火をかけて八島へ押し寄せると、平家は大軍と思いこんで、あわてて船に乗って海へ逃れた。義経はわずかな勢を小分けにして渚に打ち出し、名乗りをあげて攻めかかった。
- 1判判ほう官官がんまたまたまた坂坂ばん西西ざいののの近近こん藤藤どう六六ろく親親ちか家家いえををを召召めしししててて、、、「「「八八や島島しまにににははは平平へい家家けののの勢勢せいいかいかいか程程ほどあるあるあるぞぞぞ。。。」」」ととと問問とひひい給給たまへへえばばば、、、「「「千千せん騎騎ぎにににはははよもよもよも過過すぎぎぎ候候そうらははわじじじ。。。」」」ととと申申もうすすす。。。判判ほう官官がん、、、「「「などなどなど少少すくないいいぞぞぞ。。。」」」「「「かやうかやうかようににに四四し國國こくののの浦浦うら々々うら島島しま々々じまににに五五ご十十じっ騎騎き百百ひゃく騎騎きづゝづゝずつさしさしさし置置おかかかれれれててて候候そうろう。。。そのそのその上上うえ阿阿あ波波わののの民民みん部部ぶ重重しげ能能よしががが嫡嫡ちゃく子子し田田でん内内ない左左ざ衞衞え門門もん教教のり能能よしははは伊伊い豫豫よののの河河こう野野のののの四四し郎郎ろうががが召召めせせせどもどもども參參まいらららぬぬぬををを攻攻せめめめんんんとととててて、、、三三さん千千ぜん餘餘よ騎騎きででで伊伊い豫豫よへへへ越越こえええててて候候そうろう。。。」」」ととと申申もうすすす。。。判判ほう官官がん、、、「「「さてさてさてはははよきよきよき隙隙ひまござんござんござんなれなれなれ、、、これこれこれよりよりより八八や島島しまへへへはははいかいかいか程程ほどあるあるあるぞぞぞ。。。」」」ととと宣宣のたまへへえばばば、、、「「「二二ふつ日日か路路じででで候候そうろう。。。」」」ととと申申もうすすす。。。「「「いざいざいざさらばさらばさらば敵敵かたきののの聞聞きかかかぬぬぬ先先さきににに寄寄よせせせんんん。。。」」」とととててて、、、馳馳はせせせつつつ控控ひかへへえつつつ、、、驅驅かけけけつつつ歩歩あゆままませせせつつつ、、、阿阿あ波波わととと讚讚さぬ岐岐きののの境境さかいなるなるなる大大おお坂坂さか越越ごえととといふいふいう山山やまををを、、、夜夜よもすがらもすがらもすがらこそこそこそ越越こえええられられられけれけれけれ。。。
- 2そのそのその夜夜よののの夜夜や半半はんばかりばかりばかりににに、、、立立たて文文ぶみ持持もつつったるたるたる男男おとこ一一ひと人人り、、、判判ほう官官がんににに行行ゆきききつれつれつれたりたりたり。。。夜夜よるののの事事ことででではははありありあり、、、敵敵かたきとととははは夢夢ゆめにににももも知知しらららずずず、、、御御み方方かたののの兵兵つわものどもどもどもののの八八や島島しまへへへ參參まいるるるとととややや思思おもひひいけんけんけん、、、うちうちうちとけとけとけててて物物もの語語がたりをををぞぞぞしししけるけるける。。。判判ほう官官がん、、、「「「われわれわれももも八八や島島しまへへへ參參まいるるるががが、、、案案あん内内ないををを知知しらららぬぬぬぞぞぞ、、、尋尋じん所所じょせせせよよよ。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、「「「このこのこの男男おとこははは度度たび度度たび參參まいつつっててて、、、案案あん内内ないよくよくよく存存ぞんじじじててて候候そうろう。。。」」」ととと申申もうすすす。。。判判ほう官官がん、、、「「「さてさてさてそのそのその文文ふみははは、、、いづくいづくいずくよりよりよりいづいづいず方方かたへへへ參參まいらららせせせらるゝらるゝらるるぞぞぞ。。。」」」ととと宣宣のたまへへえばばば、、、「「「これこれこれははは京京きょうよりよりより女女にょう房房ぼうののの、、、八八や島島しまののの大臣殿大臣殿おおいどのへへへ參參まいらららせせせられられられ候候そうろう。。。」」」「「「さてさてさて何何なに事事ごとにににややや。。。」」」ととと問問とひひいたまへたまへたまえばばば、、、「「「別別べちののの仔仔し細細さいででではははよもよもよも候候そうらははわじじじ。。。源源げん氏氏じ既既すでににに淀淀よど、、、川川かわ尻尻じりににに出出いででで浮浮うこうううででで候候そうらへへえばばば、、、定定さだめめめてててそれそれそれをををこそこそこそ告告つげげげ申申もうささされれれ候候そうろうらめらめらめ。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、判判ほう官官がん、、、「「「げにげにげにさぞさぞさぞあるあるあるらんらんらん、、、そのそのその文文ふみ奪奪うばへへえ。。。」」」とととててて、、、持持もつつったるたるたる文文ふみををを奪奪うばひひい取取とらららせせせ、、、「「「しやつしやつしゃつ搦搦からめめめよよよ、、、罪罪つみつくりつくりつくりににに頸頸くびななな切切きつつっそそそ。。。」」」とととててて、、、山山さん中中ちゅうののの木木きににに縛縛しばりりりつけつけつけさせさせさせてててこそこそこそ通通とおららられれれけれけれけれ。。。判判ほう官官がんさてさてさてかのかのかの文文ふみをををあけあけあけててて見見み給給たまへへえばばば、、、まことまことまことににに女女にょう房房ぼうののの文文ふみとととおぼしくおぼしくおぼしくててて、、、「「「九九く郎郎ろうはははすゝどきすゝどきすすどき男男おとこなれなれなればばば、、、いかなるいかなるいかなる大大おお風風かぜ大大おお波波なみをををももも嫌嫌きらひひい候候そうらははわででで、、、寄寄よせせせ候候そうろうらんらんらんととと覺覺おぼえええ候候そうろう。。。相相あい構構かまへへえててて御御おん勢勢せいどもどもども散散ちらさらさらさせせせ給給たまははわででで、、、よく〳〵よく〳〵よくよく用用よう心心じんせせせさせさせさせ給給たまへへえ。。。」」」とととぞぞぞ書書かかかかれれれたるたるたる。。。判判ほう官官がん、、、「「「これこれこれははは義義よし經經つねににに天天てんののの與與あたへへえ給給たまふふう文文ふみややや。。。鎌鎌かま倉倉くら殿殿どのににに見見みせせせ申申もうさささんんん。。。」」」とととててて、、、深深ふこううう納納おさめめめてててぞぞぞ置置おかかかれれれけるけるける。。。
- 3あくるあくるあくる十十じゅう八八はち日日にちののの寅寅とらののの刻刻こくににに、、、讚讚さぬ岐岐きののの國國くに引引ひけ田田たととといふいふいう所所ところににに落落おちちちついついついててて人人じん馬馬ばののの息息いきをををぞぞぞ休休やすめめめけるけるける。。。それそれそれよりよりより白白しろ鳥鳥とり、、、丹丹に生生うののの屋屋やうちうちうち過過すぎ〳〵ぎ〳〵ぎうちすぎ、、、八八や島島しまののの城城じょうへへへぞぞぞ寄寄よせせせ給給たまふふう。。。判判ほう官官がんまたまたまた親親ちか家家いえををを召召めしししててて、、、「「「これこれこれよりよりより八八や島島しまへへへののの館館たちはははいかいかいかやうやうようなるなるなるぞぞぞ。。。」」」ととと問問とひひい給給たまへへえばばば、、、「「「しろしめさしろしめさしろしめされれれねねねばばばこそこそこそ。。。むげむげむげににに淺淺あさ閒閒まににに候候そうろう。。。潮潮しおののの干干ひててて候候そうろうときときときははは、、、陸陸くがととと島島しまとととののの閒閒あいだははは馬馬むまののの太太ふと腹腹はらもももつかりつかりつかり候候そうらははわずずず。。。」」」ととと申申もうすすす。。。「「「敵敵かたきののの聞聞きかかかぬぬぬ先先さきににに、、、さらばさらばさらばとうとうとう寄寄よせせせよよよややや。。。」」」とととててて、、、高高たか松松まつののの在在ざい家家けににに火火ひをををかけかけかけててて、、、八八や島島しまののの城城じょうへへへぞぞぞ寄寄よせせせられられられけるけるける。。。
- 4さるさるさる程程ほどににに八八や島島しまにににははは、、、阿阿あ波波わののの民民みん部部ぶ重重しげ能能よしががが嫡嫡ちゃく子子し田田でん内内ない左左ざ衞衞え門門もん教教のり能能よしははは、、、伊伊い豫豫よののの河河こう野野のののの四四し郎郎ろうががが召召めせせせどもどもども參參まいらららぬぬぬををを攻攻せめめめんんんとととててて、、、三三さん千千ぜん餘餘よ騎騎きででで伊伊い豫豫よへへへ越越こえええたりたりたりしししががが、、、河河こう野野のをををばばば討討うちちち漏漏もらしらしらしぬぬぬ。。。家家いえののの子子こ郎郎ろう等等どう百百ひゃく五五ご十十じゅう人人にんががが首首くび切切きつつっててて、、、八八や島島しまののの内内だい裏裏りへへへ參參まいらららせせせたるたるたるををを、、、内内だい裏裏りにににててて賊賊ぞく首首しゅののの實實じっ檢檢けん然然しかるるるべからべからべからずずずとととててて、、、大臣殿大臣殿おおいどのののの御御おん宿宿しゅく所所しょにににててて、、、首首くびどもどもどもののの實實じっ檢檢けんしししててておはしおはしおわしけるけるける所所ところににに、、、者者ものどもどもども、、、高高たか松松まつののの在在ざい家家けよりよりより火火ひ出出いででで來來きたりたりたりとととててて、、、ひしめきひしめきひしめきけりけりけり。。。「「「晝晝ひるででで候候そうらへへえばばば、、、手手て過過あやまちちちにににてててはははよもよもよも候候そうらははわじじじ、、、いかさまいかさまいかさまにににももも敵敵かたきののの寄寄よせせせててて、、、火火ひをををかけかけかけたるたるたるととと覺覺おぼえええ候候そうろう。。。定定さだめめめててて大大おお勢勢ぜいでででぞぞぞ候候そうろうらんらんらん。。。取取とりりりこめこめこめられられられてててははは叶叶かなひひい候候そうろうまじまじまじ。。。とう〳〵とう〳〵とうとう召召めさささるるるべくべくべく候候そうろう。。。」」」とととててて、、、總總そう門門もんののの前前まえののの汀汀みぎわにににいくらいくらいくらもももつけつけつけ竝竝ならべべべたるたるたる船船ふねどもどもどもににに、、、われもわれもわれもわれもわれもわれもととと、、、あわてあわてあわて乘乘のりりり給給たまふふう。。。御御ご所所しょののの御御おん船船ふねにににははは、、、女女にょう院院いん、、、北北きたののの政政まん所所どころ、、、二二に位位い殿殿どの以以い下下げののの女女にょう房房ぼうたちたちたち召召めささされれれけりけりけり。。。大臣殿大臣殿おおいどの父父ふ子子しははは一一ひとつつつ船船ぶねにににぞぞぞ乘乘のりりり給給たまふふう。。。そのそのその外外ほかののの人人ひと々々びとははは思思おもひ〳〵ひ〳〵いおもいににに取取とり乘乘のつつっててて、、、或或あるいははは一一いっ町町ちょうばかりばかりばかり、、、或或あるいははは七七しち八八はっ段段たん、、、五五ご六六ろく段段たんなどなどなど、、、漕漕こぎぎぎ出出いだしししたるたるたる所所ところににに、、、源源げん氏氏じののの兵兵つわもの共共どもひたひたひたかぶとかぶとかぶと七七しち八八はち十十じっ騎騎き、、、總總そう門門もんののの前前まえののの渚渚なぎさにににつゝつゝつつとととぞぞぞ打打うち出出いでででたるたるたる。。。潮潮しお干干ひ潟潟がたののの、、、折折おりふしふしふし潮潮しお干干ひるるる盛盛さかりりりなりなりなりけれけれければばば、、、馬馬むまののの烏烏からす頭頭がしら、、、むながいむながいむながいづくしづくしずくし、、、太太ふと腹腹はらににに立立たつつつ所所ところもももありありあり、、、それそれそれよりよりより淺淺あさききき所所ところもももありありあり。。。蹴蹴けあぐるあぐるあぐる潮潮しおののの霞霞かすみととと共共ともにににしぐらうしぐらうしぐろうたるたるたる中中なかよりよりより、、、白白しら旗旗はたさつさつさっとととさしさしさし上上あげげげたれたれたればばば、、、平平へい家家けははは運運うん盡盡つきききててて、、、大大おお勢勢ぜいとととこそこそこそ見見みてててけれけれけれ。。。
- 5判判ほう官官がん、、、敵敵かたきににに小小こ勢勢ぜいととと見見みえええじじじとととててて、、、五五ご六六ろく騎騎き、、、七七しち八八はち騎騎き、、、十十じっ騎騎きばかりばかりばかり、、、打打うち羣羣むられ〳〵れ〳〵れうちむられ出出いででで來來きたりたりたり。。。判判ほう官官がんそのそのその日日ひののの裝裝しょう束束ぞくにににははは、、、赤赤あか地地じののの錦錦にしきののの直直ひた垂垂たれににに紫紫むらさき裾裾すそ濃濃ごののの鎧鎧よろい著著きててて、、、鍬鍬くわ形形がたうつうつうつたるたるたる兜兜かぶとののの緒緒ををををしめしめしめ、、、金金こがねづくりづくりずくりののの太太た刀刀ちををを佩佩はききき、、、二二に十十じゅう四四しさいさいさいたるたるたる切切きり斑斑ふののの矢矢や負負おひひい、、、滋滋しげ籐籐どうののの弓弓ゆみののの眞眞まん中中なか取取とりりり、、、沖沖おきののの方方かたををを睨睨にらまへまへまえ、、、大大だい音音おん聲聲じょうをををあげあげあげててて、、、「「「一一いち院院いんののの御御おん使使つかい檢檢けん非非び違違い使使し五五ご位位いののの尉尉じょう源源みなもとののの義義よし經經つね。。。」」」ととと名名な乘乘のるるる。。。次次つぎににに名名な乘乘のるるるははは伊伊い豆豆ずののの國國くにののの住住じゅう人人にん田田た代代しろののの冠冠かん者者じゃ信信のぶ綱綱つな、、、續續つづいいいててて名名な乘乘のるるるははは武武む藏藏さしののの國國くにののの住住じゅう人人にん金金かね子子こののの十十じゅう郎郎ろう家家いえ忠忠ただ、、、同同おなじきじきじき與與よ一一いち親親ちか範範のり、、、伊伊い勢勢せののの三三さぶ郎郎ろう義義よし盛盛もりとととぞぞぞ名名な乘乘のつつったるたるたる。。。續續つづいいいててて名名なのるのるのるははは後後ご藤藤とう兵兵びょう衞衞え實實さね基基もと、、、子子し息息そく新新しん兵兵びょう衞衞えののの尉尉じょう基基もと淸淸きよ、、、奧奧おう州州しゅうののの佐佐さ藤藤とう三三さぶ郎郎ろう兵兵びょう衞衞え繼繼つぎ信信のぶ、、、同同おなじきじきじき四四し郎郎ろう兵兵びょう衞衞え忠忠ただ信信のぶ、、、江江え田田だののの源源げん三三ぞう、、、熊熊くま井井いののの太太た郎郎ろう、、、武武む藏藏さし坊坊ぼう辨辨べん慶慶けいなどなどなどいふいふいう一一いち人人にん當當とう千千ぜんののの兵兵つわもの共共ども、、、聲聲こえ々々ごえににに名名な乘乘のつつっててて馳馳はせせせ來來きたるるる。。。平平へい家家けののの方方かたにににはははこれこれこれををを見見みててて、、、あれあれあれ射射い取取とれれれややや射射い取取とれれれとととててて、、、或或あるいははは遠遠とお矢矢やににに射射いるるる船船ふねもももありありあり。。。或或あるいはははさしさしさし矢矢やににに射射いるるる船船ふねもももありありあり。。。源源げん氏氏じののの方方かたののの兵兵つわものどもどもども、、、これこれこれををを事事ことととともももせせせずずず、、、弓弓ゆん手手でににになしなしなしてててははは射射いててて通通とおりりり、、、馬馬め手手てににになしなしなしてててははは射射いててて通通とおるるる。。。上上あげげげ置置おいいいたるたるたる船船ふねどもどもどもののの陰陰かげををを馬馬むま休休やすめめめ所所どころとととしししててて、、、をめきをめきおめき叫叫さけんんんででで攻攻せめめめ戰戰たたかふふう。。。
現代語訳
判官はまた坂西の近藤六親家を呼んで、「八島には平家の勢はどれほどあるか」とお尋ねになると、「千騎よりは多くないでしょう」と申す。判官が「なぜ少ないのか」。「このように四国の浦々島々に五十騎、百騎ずつ分けて置かれております。そのうえ阿波民部重能の嫡子田内左衛門教能は、伊予の河野四郎が召しても参らないのを攻めようとして、三千余騎で伊予へ越えております」と申す。判官は、「それはよい隙だ。ここから八島まではどれほどあるか」とおっしゃると、「二日の道のりでございます」と申す。「さあそれでは敵が聞きつけないうちに寄せよう」といって、馬を走らせたり控えたり、駆けたり歩ませたりして、阿波と讃岐の境の大坂越という山を夜通し越えられた。
その夜の夜半ごろ、立文を持った男が一人、判官に行き連れになった。夜のことではあり、敵とは夢にも知らず、味方の兵たちが八島へ参るのだと思ったのか、うちとけて話をした。判官が「私も八島へ参るのだが、道を知らない。案内してくれ」とおっしゃると、「この男はたびたび参って、道をよく知っております」と申す。判官が「さてその手紙は、どこからどこへ届けるのか」とおっしゃると、「これは京から女房が八島の大臣殿へお送りになるものです」「さて何のことか」とお尋ねになると、「特別のことではありますまい。源氏がもう淀や川尻に浮かんでおりますので、きっとそれを知らせ申されるのでしょう」と申したので、判官は「なるほどそうだろう。その手紙を奪え」といって、持っていた手紙を奪い取らせ、「あいつを縛れ。罪になるから首は切るな」といって、山中の木に縛りつけさせて通られた。判官がその手紙を開けてご覧になると、まことに女房の手紙らしく、「九郎はすばしこい男ですから、どんな大風大波も嫌わずに寄せてくるだろうと思われます。決してご軍勢を散らされず、よくよく用心なさいませ」と書かれていた。判官は、「これは天が義経にくださった手紙だ。鎌倉殿にお見せしよう」といって、大切にしまっておかれた。
翌十八日の寅の刻に、讃岐国引田という所に落ち着いて人馬の息を休めた。そこから白鳥・丹生の屋を次々と過ぎて、八島の城へ寄せられた。判官はまた親家を呼んで、「ここから八島の館はどのようになっているか」とお尋ねになると、「ご存じないからこそお尋ねなのでしょう。たいそう浅うございます。潮が引いたときは、陸と島との間は馬の太腹もつかりません」と申す。「敵が聞きつけないうちに、それでは早く寄せよ」といって、高松の民家に火をかけて、八島の城へ寄せられた。
さて八島では、阿波民部重能の嫡子田内左衛門教能は、伊予の河野四郎が召しても参らないのを攻めようとして三千余騎で伊予へ越えたが、河野は討ちもらした。家の子郎等百五十人の首を切って八島の内裏へ送ってきたのを、内裏で賊の首を実検するのはよくないといって、大臣殿の御宿所で首の実検をしておられたところに、者どもが「高松の民家から火が出た」といって騒ぎだした。「昼でございますから、失火ではありますまい。きっと敵が寄せて火をかけたのでしょう。きっと大勢でございましょう。取り囲まれてはかないますまい。早く早くお乗りなさいませ」といって、総門の前の汀にたくさん着け並べてある船に、われもわれもとあわてて乗られた。御所の御船には女院、北の政所、二位殿以下の女房たちがお乗りになった。大臣殿父子は同じ船に乗られた。そのほかの人々は思い思いに乗りこんで、あるいは一町ほど、あるいは七、八段、五、六段など漕ぎ出したところに、源氏の兵たちが兜をつけた七、八十騎で、総門の前の渚にさっと打ち出た。潮干潟で、おりから潮の引ききった時だったので、馬の烏頭や胸繋のあたり、太腹まで水が立つ所もあり、それより浅い所もある。蹴上げる潮が霞とともにけぶる中から、白旗をさっと差し上げたので、平家は運が尽きて、大勢だと見てしまった。
判官は敵に小勢と見られまいとして、五、六騎、七、八騎、十騎ほどずつ、群れをなして次々と出てきた。判官のその日の装束は、赤地の錦の直垂に紫裾濃の鎧を着て、鍬形を打った兜の緒をしめ、金作りの太刀を佩き、二十四本差した切斑の矢を負い、滋籐の弓の真ん中を握って、沖の方をにらみつけ、大音声をあげて、「一院の御使、検非違使五位尉、源義経」と名のる。次に名のるのは伊豆国の住人田代冠者信綱、続いて名のるのは武蔵国の住人金子十郎家忠、同じく与一親範、伊勢三郎義盛と名のった。続いて名のるのは後藤兵衛実基、子息の新兵衛尉基清、奥州の佐藤三郎兵衛継信、同じく四郎兵衛忠信、江田源三、熊井太郎、武蔵坊弁慶などという一人当千の兵たちが、声々に名のって馳せ来る。平家方ではこれを見て、あれを射取れ射取れといって、遠矢に射る船もあり、さし矢に射る船もある。源氏方の兵たちはこれをものともせず、左手に向けては射て通り、右手に向けては射て通る。陸に上げてある船の陰を馬の休み所として、わめき叫んで攻め戦った。
意訳
義経が四国の山を夜通し越え、八島の背後を突くまでを描く。手薄な隙を見逃さない判断の速さ、敵の密書を奪って情報を手にする幸運、民家に火をかけて大軍と見せかける策略が重なり、平家はろくに戦わずに海へ逃れてしまう。
「九郎はすゝどき男なれば」という京の女房の文は、義経の名がすでに平家方にも恐れられていたことを示す。白旗をかかげて渚に打ち出す源氏と、あわてて船に逃れる平家という構図は、屋島の合戦の始まりを鮮やかに印象づけている。
語釈・文法注
文法
- 「よき隙ござんなれ」
- よい隙であるようだ。
- 「尋所せよ」
- 道案内をせよ。
- 「立文」
- 礼紙で包み、上下をひねった正式の書状。
- 「罪つくりに頸な切つそ」
- 罪(殺生の罪)になるから、首は切るな。
- 「すゝどき」
- すばしこく抜け目のない。
- 「しろしめされねばこそ」
- ご存じないからこそ(お尋ねになるのでしょう)。
- 「むげに淺閒に候」
- たいそう浅うございます。
- 「賊首の實檢然るべからず」
- 天皇のおられる内裏で賊の首を実検するのは不吉である。
- 「ひたかぶと」
- 全員が兜をかぶって、完全武装した軍勢。
- 「しぐらうたる」
- 霞のようにけぶっている。
- 「大勢とこそ見てけれ」
- (小勢であったのに)大勢だと見てしまった。
- 「切斑の矢」
- 鷲の羽に白と黒の斑のある矢羽を用いた矢。
解説
義経は元暦二年(1185)二月十九日に屋島を急襲した(『吾妻鏡』)。大坂越は阿波から讃岐へ越える峠で、香川県東かがわ市と徳島県鳴門市の境にある。屋島の平家は、高松の民家を焼く煙を見て大軍の襲来と思いこみ、内裏を捨てて海上に逃れた。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、767–770頁(コマ412–414)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日