平家物語 巻第十
大嘗会の沙汰の事
九月二十八日、義経は五位の尉に叙せられ、九郎大夫判官と呼ばれた。十月、八島では風波が激しく、都の便りも絶えて、平家の人々は心細い日々を送った。都では新帝の大嘗会のための御禊の行幸があり、義経が先陣を務めたが、京慣れしたとはいえ平家の中の一番劣った者にも及ばなかった。一昨年の先帝の御禊で宗盛や知盛・重衡らが見せた華やかさとは比べようもない。打ち続く戦乱で民は疲れはて、大礼を行える世ではなかったが、形ばかりは遂げられた。範頼は続いて攻めれば平家をたやすく滅ぼせたのに、室・高砂で遊女と戯れて月日を送り、国の費え、民の煩いばかりで、この年も暮れた。
- 1同同おなじきじきじき二二に十十じゅう八八はち日日にち、、、都都みやこにににはははまたまたまた除除じ目目もく行行おこなははわれれれててて、、、九九く郎郎ろう判判ほう官官がん義義よし經經つね五五ご位位いののの尉尉じょうににになさなさなされれれててて、、、九九く郎郎ろう大大たい夫夫ふののの判判ほう官官がんとととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。さるさるさる程程ほどににに十十じゅう月月がつにににもももなりなりなりぬぬぬ。。。八八や島島しまにににははは浦浦うら吹吹ふくくく風風かぜもももはげしくはげしくはげしく、、、磯磯いそ打打うつつつ波波なみももも高高たかかりかりかりけれけれければばば、、、兵兵つわものももも攻攻せめめめ來來きたらららずずず。。。商商しょう客客かくののの行行ゆききき通通かよひひいももも稀稀まれにににしししててて、、、都都みやこのののつてつてつてももも聞聞きかかかまほしくまほしくまほしく、、、空空そらかきかきかきくもりくもりくもり、、、霰霰あられうちうちうち散散ちりりり、、、いとゞいとゞいとど消消きえええ入入いるるる心心ここちちちぞぞぞせせせられられられけるけるける。。。都都みやこにににははは大大だい嘗嘗じょう會會えあるあるあるべしべしべしとととててて、、、十十じゅう月月がつ三三みつ日日かののの日日ひ、、、新新しん帝帝ていののの御御ご禊禊けいののの行行ぎょう幸幸こうありありありけりけりけり。。。内内ない辨辨べんをををばばば德德とく大大だい寺寺じ殿殿どの勤勤つとめめめらるらるらる。。。一昨年一昨年おととし先先せん帝帝ていののの御御ご禊禊けいののの行行ぎょう幸幸こうにににははは、、、平平へい家家けののの内内ない大大だい臣臣じん宗宗むね盛盛もり公公こう勤勤つとめめめらるらるらる。。。節節せつ下下げののの幄幄あく屋屋やににについついついててて、、、前前まえににに龍龍りょうののの旗旗はた立立たててててててゐゐい給給たまひひいたりたりたりしししけしきけしきけしき、、、冠冠かむりぎはぎはぎわ、、、袖袖そでのののかゝりかゝりかかり、、、表表うえののの袴袴はかまののの裾裾すそまでまでまでももも、、、殊殊ことにににすぐれすぐれすぐれててて見見みえええ給給たまへへえりりり。。。そのそのその外外ほか三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう知知とも盛盛もり、、、頭頭とうののの中中ちゅう將將じょう重重しげ衡衡ひら以以い下下げ、、、近近こん衞衞え司司づかさ、、、御御み綱綱つなににに候候さぶらははわれれれしししにににははは、、、またまたまた立立たちちちならぶならぶならぶ方方かたもももなかりなかりなかりしししぞぞぞかしかしかし。。。
- 2今日今日きょうははは九九く郎郎ろう大大たい夫夫ふののの判判ほう官官がん義義よし經經つね、、、先先せん陣陣じんををを供供ぐ奉奉ぶすすす。。。これこれこれははは木木き曾曾そなどなどなどにににははは似似にずずず、、、以以もってててののの外外ほかににに京京きょう慣慣なれれれたりたりたりしかしかしかどもどもども、、、平平へい家家けののの中中なかののの選選えりりり屑屑くずよりよりよりもももなほなほなお劣劣おとれれれりりり。。。同同おなじきじきじき十十じゅう八八はち日日にち、、、大大だい嘗嘗じょう會會えかたかたかたののの如如ごとくくく遂遂とげげげ行行おこなははわるるる。。。去去さんんんぬるぬるぬる治治じ承承しょう、、、養養よう和和わののの頃頃ころよりよりよりしししててて、、、諸諸しょ國國こく七七しち道道どうののの人人にん民民みん百百ひゃく姓姓しょう等等ら、、、或或あるいははは平平へい家家けののの爲爲ためににに惱惱なやまままささされれれ、、、或或あるいははは源源げん氏氏じののの爲爲ためににに亡亡ほろぼさぼさぼさるるる。。。家家いえ、、、竈竈かまどををを捨捨すてててててて山山さん林林りんににに交交まじははわりりり、、、春春はるははは東東とう作作さくののの思思おもひひいををを忘忘わすれれれ、、、秋秋あきははは西西せい收收じゅののの營營いとなみみみにににももも及及およばばばずずず。。。いかにいかにいかにしししてててかやうかやうかようののの大大たい禮禮れいなどなどなど行行おこなははわるるるべきべきべきなれなれなれどもどもども、、、さてさてさてしもしもしもあるあるあるべきべきべき事事ことならならならねねねばばば、、、形形かたののの如如ごとくくくぞぞぞ遂遂とげげげられられられけるけるける。。。
- 3大大たい將將しょう軍軍ぐん三三み河河かわののの守守かみ範範のり賴賴よりやがてやがてやがて續續つづいいいててて攻攻せめめめ給給たまははわばばば、、、平平へい家家けはははたやすうたやすうたやすう亡亡ほろぶぶぶべかりべかりべかりしししににに、、、室室むろ、、、高高たか砂砂さごにににやすらひやすらひやすらい、、、遊遊ゆう君君くん、、、遊遊ゆう女女じょどもどもども召召めししし集集あつめめめ、、、遊遊あそびびび戲戲たわぶれれれてててのみのみのみ、、、月月つき日日ひををを送送おくりりり給給たまひひいけりけりけり。。。東東とう國國ごくののの大大だい名名みょう、、、小小しょう名名みょう多多おおしししととといへいへいえどもどもども、、、大大たい將將しょう軍軍ぐんののの下下げ知知じににに從從したがふふう事事ことなれなれなればばば、、、力力ちから及及およばばばずずず、、、たゞたゞただ國國くにののの費費ついえ、、、民民たみのののわづらひわづらひわずらいのみのみのみあつあつあっててて、、、今今こ年年としももも既既すでににに暮暮くれれれにににけりけりけり。。。
現代語訳
同じく(九月)二十八日、都ではまた除目が行われて、九郎判官義経は五位の尉に叙せられ、九郎大夫判官と申した。やがて十月にもなった。八島では浦を吹く風も激しく、磯を打つ波も高かったので、兵も攻めて来ない。商人の行き来もまれで、都の便りも聞きたいと思われ、空はかき曇り、霰が降り散って、いっそう消え入るような心地がされた。都では大嘗会があるということで、十月三日、新帝の御禊の行幸があった。内弁は徳大寺殿(実定)が務められた。一昨年の先帝(安徳天皇)の御禊の行幸には、平家の内大臣宗盛公が務められた。節下の幄屋について、前に竜の旗を立てて座っておられた様子は、冠のかぶりぎわ、袖のかかり具合、表袴の裾までも、ことにすぐれて見えた。そのほか三位中将知盛、頭中将重衡以下が、近衛司として御綱に付き従われたときには、また肩を並べる者もなかったものだ。
今日は九郎大夫判官義経が先陣としてお供をした。これは木曾などとは違って、ずいぶん京に慣れていたけれども、平家の中の選り屑よりもなお劣っていた。同じく十八日、大嘗会が形どおりに行われた。去る治承・養和のころから、諸国七道の人民や百姓たちは、あるいは平家のために苦しめられ、あるいは源氏のために滅ぼされた。家やかまどを捨てて山林に入りまじり、春は耕作の思いを忘れ、秋は収穫の営みもできない。どうしてこのような大礼などを行えるはずがあろうか。けれどもそうしてばかりもいられないので、形ばかりは遂げられた。
大将軍三河守範頼がすぐに続いて攻められたなら、平家はたやすく滅びたはずであったのに、室や高砂にとどまって、遊君・遊女たちを召し集め、遊び戯れてばかりで月日を送られた。東国の大名・小名は多いけれども、大将軍の命令に従うことなので、どうしようもなく、ただ国の費え、民の煩いばかりがあって、この年もすでに暮れてしまった。
意訳
巻第十を締めくくる短い章段である。神器を欠いたまま新帝の大嘗会が行われるさまを、一昨年の安徳天皇の御禊で平家一門が見せた華やかさと対比して、義経を「平家の中の選り屑よりもなほ劣れり」と評するところに、語り手の平家へのなつかしみがうかがえる。
打ち続く戦乱に苦しむ民の姿と、遊女と戯れて攻めあぐねる範頼の姿が描かれ、年が暮れる。八島の平家にとっては束の間の平穏であり、次の巻第十一で義経が屋島・壇の浦へと攻め寄せる前の静けさとなっている。
語釈・文法注
文法
- 「九郎大夫の判官」
- 五位に叙せられた検非違使の尉。大夫は五位の称。
- 「御禊」
- 大嘗会の前に天皇が賀茂川で行う禊。
- 「内辨」
- 儀式の際、承明門内で諸事を取りしきる上卿。
- 「節下の幄屋」
- 御禊の行幸で、節旗の下に設けた幄(あく)の仮屋。大臣が座した。
- 「御綱」
- 天皇の輿につける綱。近衛の官人がこれに付き従った。
- 「選り屑」
- よいものを選んだ残りのくず。
- 「東作」「西收」
- 春の耕作と秋の収穫。
- 「形の如く」
- 形式どおりに。形ばかり。
解説
後鳥羽天皇の大嘗会は元暦元年(1184)十一月十八日に行われた。『平家物語』では、神器のない即位と大嘗会を、源平の争乱で疲弊した世の象徴として描いている。範頼の西国遠征は兵糧と船の不足に苦しみ、翌文治元年(1185)正月、頼朝は範頼を励ますとともに、義経を四国へ差し向けることになる。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、759–760頁(コマ408–409)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日