平家物語 巻第十
藤戸の事
維盛の便りが絶えて案じていた北の方は、七月の末に、維盛が高野で出家し那智の沖で入水したと知らされ、乳母に励まされて出家した。頼朝は、隔てなく頼ってくれば命は助けたものをと惜しんだ。八島の平家は東国や鎮西から源氏が攻めてくると聞いて不安にかられ、七月には都で神器のないまま後鳥羽天皇の即位があり、範頼は三河守に、義経は左衛門尉(九郎判官)になった。九月、範頼が西国へ下り、備前の藤戸で平家と海を隔てて対陣する。佐々木盛綱は浦の男から浅瀬を聞き出して男を刺し殺し、翌日、馬で海を渡って先陣を切った。源氏の大軍も続いて渡り、平家は八島へ退いた。盛綱は馬で海を渡した功により児島を賜った。
- 1さるさるさる程程ほどににに小小こ松松まつののの三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう維維これ盛盛もりののの卿卿きょうののの北北きたののの方方かたははは、、、風風かぜのののたよりたよりたよりのののおとづれおとづれおとずれももも絶絶たえええててて久久ひさしくしくしくなりなりなりけれけれければばば、、、月月つきににに一一いち度度どなんどなんどなんどははは、、、必必かならずずずおとづるゝおとづるゝおとずるるものものものととと思思おもひひいててて、、、待待またたたれれれけれけれけれどもどもども、、、春春はる過過すぎぎぎ夏夏なつにににもももなりなりなりぬぬぬ。。。三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょういまいまいまははは八八や島島しまにににもももおはせおはせおわせぬぬぬものものものをををなんどなんどなんど、、、申申もうすすす者者ものありありありととと聞聞きききき給給たまひひいててて、、、北北きたののの方方かた餘餘あまりりりのののおぼつかなおぼつかなおぼつかなさささににに、、、とかうとかうとこうしししててて使使つかいををを一一ひと人人りしたてしたてしたてててて、、、八八や島島しまへへへ遣遣つかははわささされれれたりたりたりけれけれけれどもどもども、、、使使つかいやがてやがてやがて立立たちちちももも返返かえらららずずず。。。夏夏なつたけたけたけ秋秋あきにににもももなりなりなりぬぬぬ。。。七七しち月月がつののの末末すえにににかのかのかの使使つかい歸歸かえりりり參參まいりりりたりたりたり。。。北北きたののの方方かた、、、「「「さてさてさていかにいかにいかにややや。。。」」」ととと問問とひひい給給たまへへえばばば、、、「「「過過すぎぎぎ候候そうらひひいししし三三さん月月がつ十十じゅう五五ご日日にちののの曉曉あかつき、、、與與よ三三さ兵兵ひょう衞衞え重重しげ景景かげ、、、石石いし童童どう丸丸まる許許ばかりりり御御おん供供ともにににててて、、、讚讚さぬ岐岐きののの八八や島島しまののの館館たちをををばばば御御おん出出いであつあつあっててて、、、高高こう野野やののの御御お山山やまへへへ參參まいらららせせせ給給たまひひいててて、、、御御ご出出しゅっ家家けせせせさせさせさせおはしましおはしましおわしまし、、、そのそのその後後のち熊熊くま野野のへへへ參參まいらららせせせ給給たまひひいててて、、、那那な智智ちののの沖沖おきにににててて御御おん身身みををを投投なげげげてててまし〳〵まし〳〵ましまし候候そうろうとととこそこそこそ、、、御御おん供供とも申申もうしししたりたりたりししし舎舎とね人人り武武たけ里里さとははは申申もうししし候候そうらひひいつれつれつれ。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、北北きたののの方方かた、、、されされさればばばこそこそこそあやしあやしあやしととと思思おもひひいたれたれたればばばとととててて、、、引引ひきききかづいかづいかずいてててぞぞぞ臥臥ふししし給給たまふふう。。。若若わか君君ぎみ、、、姫姫ひめ君君ぎみももも聲聲こえ々々ごえにににをめきをめきおめき叫叫さけびびび給給たまひひいけりけりけり。。。若若わか君君ぎみののの乳乳めの母母とののの女女にょう房房ぼう、、、涙涙なみだをををおさへおさへおさえててて申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「これこれこれははは今今いま更更さら歎歎なげかかかせせせ給給たまふふうべからべからべからずずず。。。本本ほん三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう殿殿どののののやうやうようににに、、、生生いきききながらながらながら捕捕とらははわれれれててて、、、京京きょう、、、鎌鎌かま倉倉くらににに恥恥はじをををさらささらささらさせせせ給給たまひひいなばなばなば、、、いかばかりいかばかりいかばかり心心こころうくうくうく候候そうろうべきべきべきににに、、、これこれこれははは高高こう野野やののの御御お山山やまへへへまゐらせまゐらせまいらせ給給たまひひいててて、、、御御ご出出しゅっ家家けせせせさせさせさせおはしましおはしましおわしまし、、、そのそのその後後のち熊熊くま野野のへへへ參參まいらららせせせ給給たまひひいててて、、、後後ご世世せののの御御おん事事ことよく〳〵よく〳〵よくよく申申もうさささせせせ給給たまひひいててて、、、那那な智智ちののの沖沖おきとととかやかやかやにににててて、、、御御おん身身みををを投投なげげげまし〳〵まし〳〵ましまし候候そうろうことことことこそこそこそ、、、歎歎なげきききののの中中なかののの御御おん喜喜よろこびびびにににてててははは候候そうらへへえ。。。今今いまはははいかにいかにいかにもももしししててて御御おん樣樣さまをををかへかへかへ、、、佛佛ほとけののの御御み名名なををを唱唱となへへえさせさせさせ給給たまひひいててて、、、なきなきなき人人ひとののの御御おん菩菩ぼ提提だいををを弔弔とぶらひひい參參まいらららさせさせさせ給給たまへへえかしかしかし。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、北北きたののの方方かたやがてやがてやがて樣樣さまをををかへかへかへ、、、かのかのかの後後ご世世せ菩菩ぼ提提だいををを弔弔とぶらひひい給給たまふふうぞぞぞあはれあはれあわれなるなるなる。。。
- 2鎌鎌かま倉倉くら殿殿どのこのこのこの由由よしををを傳傳つたへへえ聞聞きききき給給たまひひいててて、、、「「「あはれあはれあわれ隔隔へだてててなうなうのう打打うち向向むかひひいてててもももおはしおはしおわしたらたらたらばばば、、、さりさりさりともともとも命命いのちばかりばかりばかりをををばばば助助たすけけけ奉奉たてまつつつってててましましまし。。。そのそのその故故ゆえははは故故こ池池いけののの禪禪ぜん尼尼にののの使使つかいとととしししててて、、、賴賴より朝朝とも流流る罪罪ざいににに宥宥なだめめめられられられけるけるける事事ことははは、、、ひとへひとへひとえにににかのかのかの内内だい府府ふののの芳芳ほう恩恩おんなりなりなり。。。そのそのその名名な殘殘ごりにににててておはすれおはすれおわすればばば、、、子子し息息そくたちたちたちをををももも全全まったくくくおろそかおろそかおろそかににに思思おもひひい奉奉たてまつらららずずず。。。ましてましてましてさやうさやうさようににに出出しゅっ家家けなどなどなどせせせられられられなんなんなん上上うえははは、、、仔仔し細細さいにににややや及及およぶぶぶべきべきべき。。。」」」とととぞぞぞのたまひのたまひのたまいけるけるける。。。
- 3さるさるさる程程ほどににに平平へい家家け讚讚さぬ岐岐きののの八八や島島しまへへへ渡渡わたりりり給給たまひひいててて後後のちははは、、、東東とう國國ごくよりよりより新新あら手手てののの軍軍ぐん兵兵びょう數數すう萬萬まん騎騎ぎ、、、都都みやこににに著著ついいいててて攻攻せめめめ下下くだるるるとととももも聞聞きこゆゆゆ。。。またまたまた鎭鎭ちん西西ぜいよりよりより臼臼うす杵杵き、、、戸戸へ次次つぎ、、、松松まつ浦浦ら黨黨とう同同どう心心しんしししててて押押おし渡渡わたるるるとととももも聞聞きこえええけりけりけり。。。かれかれかれををを聞聞ききききこれこれこれををを聞聞きくくくにににももも、、、只只ただ耳耳みみををを驚驚おどろかしかしかし肝肝きも魂魂たましいををを消消けすすすよりよりより外外ほかののの事事ことぞぞぞなきなきなき。。。女女にょう院院いん、、、北北きたののの政政まん所所どころ、、、二二に位位い殿殿どの以以い下下げののの女女にょう房房ぼうたちたちたち寄寄よりりりあひあひあい給給たまひひいててて、、、今今こん度度ど、、、わがわがわが方方かたざまざまざまににに、、、いかなるいかなるいかなる憂憂うききき事事ことをををかかか聞聞きききき、、、いかなるいかなるいかなる憂憂うききき目目めをををかかか見見みんんんずずずらんらんらんととと、、、歎歎なげきききあひあひあい悲悲かなしみしみしみあはあはあわれれれけりけりけり。。。今今こん度度ど一一いちののの谷谷たににににててて、、、一一いち門門もんののの公公く卿卿ぎょう殿殿てん上上じょう人人びと大大たい畧畧りやく討討うたたたれれれ、、、宗宗むね徒徒とののの侍侍さぶらい半半なかばばば過過すぎぎぎててて亡亡ほろびびびにににしかしかしかばばば、、、今今いまははは力力ちから盡盡つきききはてはてはてててて、、、阿阿あ波波わののの民民みん部部ぶ重重しげ能能よしががが兄兄きょう弟弟だい、、、四四し國國こくののの者者ものどもどもども語語かたらつらつらっててて、、、さりさりさりともともともととと申申もうしししけるけるけるをををぞぞぞ、、、高高たかききき山山やま、、、深深ふかききき海海うみとととももも賴賴たのみみみ給給たまひひいけるけるける。。。さるさるさる程程ほどににに七七しち月月がつ二二に十十じゅう五五ご日日にちにににもももなりなりなりぬぬぬ。。。女女にょう房房ぼうたちたちたちはははさしさしさしつどひつどひつどいててて、、、去去こ年年ぞののの今日今日きょうははは都都みやこををを出出いでででしししぞぞぞかしかしかし。。。程程ほどなくなくなくめぐりめぐりめぐり來來きにににけりけりけりとととててて、、、俄俄にはかにににあわたゞしうあわたゞしうあわただしゅう、、、淺淺あさましましましかりかりかりししし事事ことどもどもどものたまひのたまひのたまい出出いでででててて、、、泣泣なきききぬぬぬ笑笑わらひひいぬぬぬぞぞぞししし給給たまひひいけるけるける。。。
- 4同同おなじきじきじき二二に十十じゅう八八はち日日にち、、、都都みやこにににははは新新しん帝帝ていののの御御ご即即そく位位いありありありけりけりけり。。。神神しん璽璽じ、、、寶寶ほう劍劍けん、、、内内ない侍侍し所所どころもももなくなくなくしししててて御御ご即即そく位位いののの例例れい、、、人人にん王王のう八八はち十十じゅう二二に代代だい、、、これこれこれはじめはじめはじめとととぞぞぞ承承うけたまわるるる。。。同同おなじきじきじき八八はち月月がつ六六むゆ日日かののの日日ひ、、、除除じ目目もく行行おこなははわれれれててて、、、大大たい將將しょう軍軍ぐん蒲蒲かばののの冠冠かん者者じゃ範範のり賴賴より三三み河河かわののの守守かみににになるなるなる。。。九九く郎郎ろう冠冠かん者者じゃ義義よし經經つね左左さ衞衞え門門もんののの尉尉じょうににになるなるなる。。。すなはちすなはちすなわち使使しののの院院いん宣宣ぜんををを蒙蒙こうぶつつっててて九九く郎郎ろう判判ほう官官がんとととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。
- 5さるさるさる程程ほどににに荻荻おぎののの上上うわ風風かぜもももやう〳〵やう〳〵ようよう身身みにににしみしみしみ、、、萩萩はぎののの下下した露露つゆもももいよ〳〵いよ〳〵いよいよしげくしげくしげく、、、恨恨うらむるむるむる蟲蟲むしののの聲聲こえ々々ごえ、、、稻稻いな葉葉ばうちうちうちそよぎそよぎそよぎ、、、木木こののの葉葉はかつかつかつ散散ちるるるけしきけしきけしき、、、ものものもの思思おもははわざらざらざらんんんだにだにだに、、、更更ふけけけ行行ゆくくく秋秋あきののの旅旅たびののの空空そらははは悲悲かなしかるしかるしかるべしべしべし。。。ましてましてまして平平へい家家けののの人人ひと々々びとののの心心こころののの中中うち、、、推推おししし量量はかららられれれてててあはれあはれあわれなりなりなり。。。昔昔むかしははは九九ここの重重へののの雲雲くもののの上上うえにににててて、、、春春はるののの花花はなをををもてあそびもてあそびもてあそび、、、今今いまははは八八や島島しまののの浦浦うらにににしししててて秋秋あきののの月月つきににに悲悲かなしぶしぶしぶ。。。凡凡およそそそさやけきさやけきさやけき月月つきををを詠詠えいじじじてててももも、、、都都みやこののの今今こ宵宵よいいかならいかならいかならんんんととと思思おもひひいやりやりやり、、、涙涙なみだををを流流ながししし心心こころをををすましすましすましてててぞぞぞ、、、あかしあかしあかし暮暮くらさささせせせ給給たまひひいけるけるける。。。左左さ馬馬まののの頭頭かみ行行ゆき盛盛もり、、、
- 6君君きみすめすめすめばばばこゝこゝここももも雲雲くも居居いののの月月つきなれなれなれどどどなほなほなおこひしきこひしきこいしきははは都都みやこなりなりなりけりけりけり
- 7さるさるさる程程ほどににに同同おなじきじきじき九九く月月がつ十十じゅう二二に日日にち、、、大大たい將將しょう軍軍ぐん三三み河河かわののの守守かみ範範のり賴賴より平平へい家家け追追つい討討とうののの爲爲ためにににとととててて、、、西西さい國國こくへへへ發發はっ向向こうすすす。。。相相あい伴伴ともなふふう人人ひと々々びと、、、足足あし利利かがののの藏藏くら人人うど義義よし兼兼かね、、、北北ほう條條じょうののの小小こ四四し郎郎ろう義義よし時時とき、、、齋齋さい院院いんののの次次じ官官かん親親ちか義義よし、、、侍侍さぶらい大大だい將將しょうにににははは土土と肥肥ひののの次次じ郎郎ろう實實さね平平ひら、、、子子し息息そくののの彌彌や太太た郎郎ろう遠遠とお平平ひら、、、三三み浦浦うらののの介介すけ義義よし澄澄ずみ、、、子子し息息そくののの平平へい六六ろく義義よし村村むら、、、畠畠はたけ山山やまののの莊莊しょう司司じ次次じ郎郎ろう重重しげ忠忠ただ、、、同同おなじきじきじき長長なが野野のののの三三さぶ郎郎ろう重重しげ淸淸きよ、、、佐佐さ原原はらののの十十じゅう郎郎ろう義義よし連連つら、、、和和わ田田だののの小小こ太太た郎郎ろう義義よし盛盛もり、、、佐佐さ々々さ木木きののの三三さぶ郎郎ろう盛盛もり綱綱つな、、、土土つち屋屋やののの三三さぶ郎郎ろう宗宗むね遠遠とお、、、天天あま野野のののの藤藤とう内内ない遠遠とお景景かげ、、、比比ひ企企きののの藤藤とう内内ない朝朝とも宗宗むね、、、同同おなじきじきじき藤藤とう四四し郎郎ろう能能よし員員かず、、、八八はっ田田たののの四四し郎郎ろう武武む者者しゃ朝朝とも家家いえ、、、安安あん西西ざいののの三三さぶ郎郎ろう秋秋あき益益ます、、、大大おお胡胡ごののの三三さぶ郎郎ろう實實さね秀秀ひで、、、中中ちゅう條條じょうののの藤藤とう次次じ家家いえ長長なが、、、一一いっ品品ぽん坊坊ぼう章章しょう玄玄げん、、、土土と佐佐さ坊坊ぼう昌昌しょう俊俊しゅん、、、これこれこれらららををを先先さきとととしししててて都都つ合合ごうそのそのその勢勢せい三三さん萬萬まん餘餘よ騎騎き、、、都都みやこををを立立たつつっててて播播はり磨磨まののの室室むろにににぞぞぞ著著つきききにににけるけるける。。。
- 8平平へい家家けののの方方かたののの大大たい將將しょう軍軍ぐんにににははは小小こ松松まつののの新新しん三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう資資すけ盛盛もり、、、同同おなじきじきじき少少しょう將將しょう有有あり盛盛もり、、、丹丹たん後後ごののの侍侍じ從從じゅう忠忠ただ房房ふさ、、、侍侍さぶらい大大だい將將しょうにににははは越越えっ中中ちゅうののの次次じ郎郎ろう兵兵びょう衞衞え盛盛もり續續つぎ、、、上上かず總總さののの五五ご郎郎ろう兵兵びょう衞衞え忠忠ただ光光みつ、、、惡惡あく七七しち兵兵びょう衞衞え景景かげ淸淸きよををを先先さきとととしししててて、、、五五ご百百ひゃく餘餘よ艘艘そうののの兵兵ひょう船船せんににに乘乘のりりりつれつれつれててて漕漕こぎぎぎ來來きたりりり、、、備備び前前ぜんののの兒兒こ島島じまににに著著つくくくととと聞聞きこえええしかしかしかばばば、、、源源げん氏氏じやがてやがてやがて室室むろををを立立たつつっててて、、、これこれこれももも備備び前前ぜんののの國國くに西西にし川川かわ尻尻じり、、、藤藤ふじ戸戸とににに陣陣じんをををぞぞぞ取取とつつったりたりたりけるけるける。。。
- 9さるさるさる程程ほどににに源源げん平平ぺい兩兩りょう方方ほう陣陣じんをををあはすあはすあわす。。。陣陣じんののの閒閒あわい、、、海海うみののの表表おもて、、、僅僅わずか二二に十十じゅう五五ご町町ちょうばかりばかりばかりをををぞぞぞ隔隔へだてててたるたるたる。。。源源げん氏氏じ心心こころははは猛猛たきょううう思思おもへへえどもどもども、、、船船ふねなかりなかりなかりけれけれければばば力力ちから及及およばばばずずず、、、徒徒いたずらららににに日日ひ數數かずをををぞぞぞ送送おくりりりけるけるける。。。同同おなじきじきじき二二に十十じゅう五五ご日日にち辰辰たつののの刻刻こく許許ばかりりりににに、、、平平へい家家けののの方方かたのののはやりはやりはやりををおののの兵兵つわもの共共ども、、、小小こ船船ぶねににに乘乘のつつっててて漕漕こぎぎぎ出出いだししし、、、扇扇おうぎをををあげあげあげててて、、、「「「源源げん氏氏じこゝこゝここををを渡渡わたせせせややや。。。」」」とととぞぞぞ招招まねきききけるけるける。。。源源げん氏氏じののの方方かたののの兵兵つわもの共共ども、、、いかゞいかゞいかがせせせんんんととといふいふいう所所ところににに、、、近近おう江江みののの國國くにののの住住じゅう人人にん佐佐さ々々さ木木きののの三三さぶ郎郎ろう盛盛もり綱綱つな、、、二二に十十じゅう五五ご日日にちののの夜夜よににに入入いつつっててて、、、浦浦うらののの男男おとこををを一一ひと人人り語語かたらひらひらい、、、直直ひた垂垂たれ、、、小小こ袖袖そで、、、大大おお口口くち、、、白白しろ鞘鞘ざや巻巻まきなんどなんどなんどををを取取とらららせせせ、、、賺賺すかししし仰仰おおせせせててて、、、「「「このこのこの海海うみににに馬馬むまにににててて渡渡わたしししぬぬぬべきべきべき所所ところやややあるあるある。。。」」」ととと問問とひひいけれけれければばば、、、男男おとこ申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「浦浦うらののの者者ものどもどもどもいくらいくらいくらももも候候そうらへへえどもどもども、、、案案あん内内ない知知しつつったるたるたるははは稀稀まれににに候候そうろう。。。知知しらららぬぬぬ者者ものこそこそこそ多多おおううう候候そうらへへえ。。。このこのこの男男おとこははは案案あん内内ないよくよくよく存存ぞんじじじててて候候そうろう。。。譬譬たとへへえばばば川川かはののの瀨瀨せのののやうやうようなるなるなる所所ところののの候候そうろうががが、、、月月つき頭頭がしらにににははは東東ひがしににに候候そうろう、、、月月つき末末ずえにににははは西西にしににに候候そうろう。。。件件くだんののの瀨瀨せののの閒閒あわい、、、海海うみののの面面おもて十十じっ町町ちょうばかりばかりばかりももも候候そうろうらんらんらん。。。これこれこれははは御御おん馬馬むまなどなどなどにににてててはははたやすうたやすうたやすう渡渡わたさささせせせ給給たまふふうべしべしべし。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、佐佐さ々々さ木木き、、、「「「いざいざいざさらばさらばさらば渡渡わたいいいててて見見みんんん。。。」」」とととててて、、、かのかのかの男男おとこととと二二ふた人人りまぎれまぎれまぎれ出出いでででててて、、、裸裸はだかににになりなりなり、、、件件くだんののの川川かはののの瀨瀨せのののやうやうようなるなるなる所所ところををを渡渡わたつつっててて見見みるるるににに、、、げにげにげにもももいたういたういとう深深ふこうううはははなかりなかりなかりけりけりけり。。。膝膝ひざ、、、腰腰こし、、、肩肩かたののの立立たつつつ所所ところもももありありあり、、、鬢鬢びんのののぬるゝぬるゝぬるる所所ところもももありありあり。。。深深ふかききき所所ところををを泳泳およいいいででで、、、淺淺あさききき所所ところににに泳泳およぎぎぎつくつくつく。。。
- 10男男おとこ申申もうしししけるけるけるににに、、、「「「これこれこれよりよりより南南みなみははは、、、北北きたよりよりより遙遙はるかかかににに淺淺あそううう候候そうろう。。。敵敵かたき矢矢や先先さきををを揃揃そろへへえててて待待まちちちまゐらせまゐらせまいらせ候候そうろう所所ところににに、、、裸裸はだかにににてててはははいかにいかにいかにもももかなはかなはかなわせせせ給給たまひひい候候そうろうまじまじまじ。。。たゞたゞただこれこれこれよりよりより歸歸かえらららせせせ給給たまへへえ。。。」」」ととといひいひいいけれけれければばば、、、佐佐さ佐佐さ木木きげにげにげにもももとととててて歸歸かえりりりけるけるけるががが、、、下下げ郎郎ろうはははどこどこどこととともももなきなきなき者者ものにににててて、、、またまたまた人人ひとにににももも語語かたらららはははれれれててて、、、案案あん内内ないもももややや教教をしへへへんんんずずずらんらんらん。。。われわれわればかりばかりばかりこそこそこそ知知しらららめめめとととててて、、、かのかのかの男男おとこををを刺刺さししし殺殺ころししし、、、首首くびかきかきかき切切きつつってててぞぞぞ捨捨すててててててけるけるける。。。
- 11あくるあくるあくる二二に十十じゅう六六ろく日日にちののの辰辰たつののの刻刻こくばかりばかりばかり、、、またまたまた平平へい家家けののの方方かたのののはやりはやりはやりををおののの兵兵つわものどもどもども、、、小小こ船船ぶねににに乘乘のつつっててて漕漕こぎぎぎ出出いだししし、、、扇扇おうぎをををあげあげあげててて、、、こゝこゝここををを渡渡わたせせせとととぞぞぞ招招まねきききたるたるたる。。。こゝこゝここににに近近おう江江みののの國國くにののの住住じゅう人人にん佐佐さ々々さ木木きののの三三さぶ郎郎ろう盛盛もり綱綱つな、、、かねかねかねててて案案あん内内ない知知しつつったりたりたり、、、滋滋しげ目目め結結ゆいののの直直ひた垂垂たれににに緋緋ひ縅縅おどしののの鎧鎧よろい著著きててて、、、連連れん錢錢ぜん葦葦あし毛毛げなるなるなる馬馬むまににに金金きん覆覆ぷく輪輪りんののの鞍鞍くらををを置置おいいいててて乘乘のつつったりたりたりけるけるけるががが、、、家家いえののの子子こ郎郎ろう等等どう共共ともににに七七しち騎騎き、、、打打うち入入いれれれてててわたすわたすわたす。。。大大たい將將しょう軍軍ぐん三三み河河かわののの守守かみ範範のり賴賴よりこれこれこれををを見見み給給たまひひいててて、、、「「「あれあれあれ制制せいせせせよよよ、、、止止とどめめめよよよ。。。」」」ととと宣宣のたまへへえばばば、、、土土と肥肥ひののの次次じ郎郎ろう實實さね平平ひら鞭鞭むち鐙鐙あぶみををを合合あははわせせせててて追追おひひいつきつきつき、、、「「「いかにいかにいかに佐佐さ々々さ木木き殿殿どのははは物物もののののつきつきつきててて狂狂くるひひい給給たまふふうかかか。。。大大たい將將しょう軍軍ぐんよりよりよりののの御御おん許許ゆるささされれれもももなきなきなきににに、、、止止とどまりまりまり給給たまへへえ。。。」」」ととといひいひいいけれけれけれどもどもども、、、佐佐さ々々さ木木き耳耳みみにににももも聞聞きききき入入いれれれずずず、、、渡渡わたしししけれけれければばば、、、土土と肥肥ひののの次次じ郎郎ろうももも制制せいしししかねかねかねててて、、、共共ともににに續續つづいいいてててぞぞぞ渡渡わたしししけるけるける。。。馬馬むまののの草草くさわきわきわき、、、むながいむながいむながいづくしづくしずくし、、、太太ふと腹腹はらににに立立たつつつ所所ところもももありありあり、、、鞍鞍くら壺壺つぼ越越こすすす所所ところもももありありあり、、、深深ふかききき所所ところををを泳泳およがががせせせててて、、、淺淺あさききき所所ところにににうちうちうちあがるあがるあがる。。。大大たい將將しょう軍軍ぐんこれこれこれををを見見み給給たまひひいててて、、、「「「佐佐さ々々さ木木きにににたばからたばからたばかられれれぬるぬるぬるははは。。。淺淺あさかりかりかりけるけるけるぞぞぞ、、、渡渡わたせせせややや渡渡わたせせせ。。。」」」ととと下下げ知知じしししたまへたまへたまえばばば、、、三三さん萬萬まん餘餘よ騎騎きののの兵兵つわものどもどもども、、、みなみなみな打打うち入入いつつっててて渡渡わたすすす。。。
- 12平平へい家家けののの方方かたにににはははこれこれこれををを見見みててて、、、船船ふねどもどもどもをををおしおしおし浮浮うかべ〳〵べ〳〵べおしゅうかべ、、、矢矢や先先さきををを揃揃そろへへえててて、、、さしさしさしつめつめつめ引引ひきききつめつめつめ、、、さん〴〵さん〴〵さんざんににに射射いけれけれけれどもどもども、、、源源げん氏氏じののの方方かたののの兵兵つわものどもどもどもこれこれこれををを事事ことととともももせせせずずず、、、兜兜かぶとののの錏錏しころををを傾傾かたぶけけけ、、、熊熊くま手手で、、、薙薙ない鎌鎌がまををを以以もっててて敵敵かたきののの船船ふねををを引引ひき寄寄よせ〳〵せ〳〵せひきよせ、、、をめきをめきおめき叫叫さけんんんででで戰戰たたかふふう。。。一一ひと日日ひ戰戰たたかひひい暮暮くらししし、、、夜夜よににに入入いりりりけれけれければばば、、、平平へい家家けののの船船ふねははは沖沖おきににに浮浮うかびびび、、、源源げん氏氏じははは兒兒こ島島じまののの地地ちににに打打うち上上あがつつっててて、、、人人じん馬馬ばののの息息いきをををぞぞぞ休休やすめめめけるけるける。。。あけあけあけけれけれければばば、、、平平へい家家けははは讚讚さぬ岐岐きののの八八や島島しまへへへ漕漕こぎぎぎ退退しりぞくくく。。。源源げん氏氏じ、、、心心こころははは猛猛たきょううう思思おもへへえどもどもども、、、船船ふねなかりなかりなかりけれけれければばば、、、やがてやがてやがて續續つづいいいてててももも攻攻せめめめずずず。。。昔昔むかしよりよりより馬馬むまにににててて河河かはををを渡渡わたすすす兵兵つわもの多多おおしししととといへいへいえどもどもども、、、馬馬むまにににててて海海うみををを渡渡わたすすす事事こと、、、天天てん竺竺じく、、、震震しん旦旦たんははは知知しらららずずず、、、わがわがわが朝朝ちょうにににははは希希き代代たいのののためしためしためしなりなりなりとととててて、、、備備び前前ぜんののの兒兒こ島島じまををを佐佐さ々々さ木木きにににたぶたぶたぶ。。。鎌鎌かま倉倉くら殿殿どのののの御御み教教きょう書書じょにににももも載載のせせせられられられたりたりたり。。。
現代語訳
さて小松三位中将維盛卿の北の方は、風の便りの訪れも絶えて久しくなったので、月に一度ぐらいは必ず便りがあるものと思って待っておられたが、春が過ぎて夏にもなった。「三位中将は今はもう八島にもいらっしゃらないのに」などと言う者がいると聞かれて、北の方はあまりの気がかりさに、どうにかして使いを一人仕立てて八島へ遣わされたが、使いはすぐには戻ってこない。夏が過ぎて秋にもなった。七月の末にその使いが帰ってきた。北の方が「さてどうでしたか」とお尋ねになると、「去る三月十五日の暁、与三兵衛重景と石童丸だけをお供にして、讃岐の八島の館をお出になり、高野の御山へ参られて出家なさり、その後熊野へ参られて、那智の沖で身を投げられましたと、お供をした舎人の武里が申しておりました」と申したので、北の方は、やはりそうか、あやしいと思っていたのだといって、衣を引きかぶって伏してしまわれた。若君・姫君も声々に泣き叫ばれた。若君の乳母の女房が涙をおさえて申すには、「これは今さらお嘆きになることではありません。本三位中将殿(重衡)のように、生きながら捕らわれて京や鎌倉で恥をさらされたら、どれほどつらいことでございましょう。それに比べてこれは、高野の御山へ参られて出家なさり、その後熊野へ参られて後世のことをよくよくお祈りになって、那智の沖とやらで身を投げられたことこそ、嘆きの中の喜びでございます。今はどうにかしてお姿を変え、仏の御名をお唱えになって、亡き人のご菩提をお弔いなさいませ」と申したので、北の方はすぐに出家して、維盛の後世菩提を弔われたのは哀れである。
鎌倉殿はこれを伝え聞かれて、「ああ、隔てなく頼ってきてくださっていたら、どうあっても命だけはお助け申したのに。そのわけは、故池禅尼の使いとして、頼朝の流罪をなだめてくださったのは、ひとえにあの内府(重盛)の恩である。その名残でおいでなのだから、子息たちも決しておろそかには思い申さない。ましてそのように出家などされたうえは、何の問題があろう」とおっしゃった。
さて平家が讃岐の八島に渡られてから後は、東国から新手の軍兵数万騎が都に着いて攻め下るとも聞こえ、また鎮西から臼杵・戸次・松浦党が心を合わせて押し渡ってくるとも聞こえた。あれを聞きこれを聞くにつけても、ただ耳を驚かし肝をつぶすばかりであった。女院、北の政所、二位殿以下の女房たちは寄り集まられて、「今度わが方に、どんなつらいことを聞き、どんなつらい目を見るのだろうか」と嘆き悲しみあわれた。今度の一の谷で一門の公卿殿上人はほとんど討たれ、主だった侍も半分以上が滅んでしまったので、今は力も尽きはてて、阿波民部重能の兄弟が四国の者たちを誘って、それでもと申すのを、高い山、深い海とも頼みにしておられた。やがて七月二十五日にもなった。女房たちは集まって、「去年の今日は都を出たのだった。ほどなく巡ってきたことよ」といって、あわただしく浅ましかったことなどを話し出しては、泣いたり笑ったりなさった。
同じく二十八日、都では新帝(後鳥羽天皇)のご即位があった。神璽・宝剣・内侍所もなくてご即位した例は、人王八十二代で、これが初めてだと聞いている。同じく八月六日、除目が行われて、大将軍蒲冠者範頼は三河守になった。九郎冠者義経は左衛門尉になった。そのまま検非違使の院宣を受けて、九郎判官と申した。
やがて荻の上を吹く風もしだいに身にしみ、萩の下露もいよいよ深く、恨むように鳴く虫の声々、稲葉がそよぎ、木の葉がはらはらと散るけしきは、物思いのない人でさえ、更けゆく秋の旅の空は悲しいはずである。まして平家の人々の心の中が推し量られて哀れである。昔は九重の雲の上で春の花をもてあそび、今は八島の浦で秋の月を見て悲しむ。およそ澄んだ月を詠じても、都の今宵はどうであろうと思いやり、涙を流し、心を澄まして日を送られた。左馬頭行盛が、
(君がおいでになるので、ここも雲居(宮中)の月ではあるが、やはり恋しいのは都であることよ)
やがて同じく九月十二日、大将軍三河守範頼が平家追討のために西国へ出発した。従う人々は、足利蔵人義兼、北条小四郎義時、斎院次官親義。侍大将には土肥次郎実平、子息の弥太郎遠平、三浦介義澄、子息の平六義村、畠山庄司次郎重忠、同じく長野三郎重清、佐原十郎義連、和田小太郎義盛、佐々木三郎盛綱、土屋三郎宗遠、天野藤内遠景、比企藤内朝宗、同じく藤四郎能員、八田四郎武者朝家、安西三郎秋益、大胡三郎実秀、中条藤次家長、一品房章玄、土佐房昌俊、これらを先頭として総勢三万余騎で都を立ち、播磨の室に着いた。
平家方の大将軍には小松の新三位中将資盛、同じく少将有盛、丹後侍従忠房。侍大将には越中次郎兵衛盛継、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清を先頭として、五百余艘の兵船に乗り連ねて漕ぎ寄せ、備前の児島に着いたと聞こえたので、源氏はすぐに室を立って、これも備前国西川尻の藤戸に陣を取った。
やがて源平両方が陣を向かい合わせた。陣の間は海上わずか二十五町ほどを隔てている。源氏は心ははやっても船がないのでどうしようもなく、むなしく日数を送っていた。同じく二十五日の辰の刻ごろ、平家方の血気にはやる兵たちが小舟に乗って漕ぎ出し、扇を上げて、「源氏よ、ここを渡ってこい」と招いた。源氏方の兵たちがどうしようかと言っているところに、近江国の住人佐々木三郎盛綱は、二十五日の夜に入って浦の男を一人手なずけ、直垂・小袖・大口・白鞘巻などを与えてうまくだまし、「この海に馬で渡れそうな所はあるか」と尋ねたところ、男が申すには、「浦の者はたくさんおりますが、様子を知っている者はまれでございます。知らない者のほうが多うございます。この男はよく存じております。たとえば川の瀬のような所がございまして、月の初めには東に、月の終わりには西にございます。その瀬の間は海上十町ほどもございましょう。これはお馬などでたやすくお渡りになれましょう」と申したので、佐々木は「さあそれでは渡って見よう」といって、その男と二人でこっそり抜け出し、裸になって、その川の瀬のような所を渡って見ると、なるほどそれほど深くはなかった。膝・腰・肩の立つ所もあり、鬢の濡れる所もある。深い所は泳いで浅い所に泳ぎ着いた。
男が申すには、「ここから南は北よりはるかに浅うございます。敵が矢先をそろえて待ち構えておりますところに、裸ではとてもかないますまい。ただここからお帰りなさいませ」と言ったので、佐々木はもっともだと思って帰ったが、「下郎はどこの者ともわからない者で、また人に頼まれて道案内をするかもしれない。自分だけが知っていよう」と思って、その男を刺し殺し、首をかき切って捨ててしまった。
あくる二十六日の辰の刻ごろ、また平家方の血気にはやる兵たちが小舟に乗って漕ぎ出し、扇を上げて、ここを渡ってこいと招いた。ここに近江国の住人佐々木三郎盛綱は、前もって様子を知っていたので、滋目結の直垂に緋縅の鎧を着て、連銭葦毛の馬に金覆輪の鞍を置いて乗っていたが、家の子郎等とともに七騎で海に打ち入って渡った。大将軍三河守範頼はこれをご覧になって、「あれを制せよ、止めよ」とおっしゃったので、土肥次郎実平が鞭と鐙を合わせて追いつき、「佐々木殿は物がついて狂われたのか。大将軍のお許しもないのに。お止まりなさい」と言ったが、佐々木は耳にも入れず渡っていったので、土肥次郎も制しかねて、ともに続いて渡った。馬の草脇や胸繋のあたりまで、太腹まで水が立つ所もあり、鞍壺を越す所もあり、深い所は泳がせ、浅い所に乗り上げた。大将軍はこれをご覧になって、「佐々木にだまされたな。浅かったのだ。渡せや渡せ」と命じられたので、三万余騎の兵たちはみな打ち入って渡った。
平家方ではこれを見て、船を次々と押し浮かべ、矢先をそろえて、矢継ぎ早にさんざんに射たけれども、源氏方の兵たちはこれをものともせず、兜の錏を傾け、熊手や薙鎌で敵の船を引き寄せ引き寄せ、わめき叫んで戦った。一日中戦い暮らして夜になったので、平家の船は沖に浮かび、源氏は児島の陸に上がって人馬の息を休めた。夜が明けると平家は讃岐の八島へ漕ぎ退いた。源氏は心ははやっても船がないので、すぐに続いて攻めることもしなかった。昔から馬で川を渡す兵は多いが、馬で海を渡すことは、天竺・震旦は知らず、わが国では前例のないことだといって、備前の児島を佐々木に与えた。鎌倉殿の御教書にもそう記された。
意訳
前半は維盛の北の方の出家と、維盛を惜しむ頼朝の言葉、八島で不安な日々を送る平家の人々の姿を描く。神器のないまま新帝が即位し、範頼・義経が官位を得るという都の動きは、平家の運命がいよいよ追いつめられていくことを示している。
後半は藤戸の合戦である。佐々木盛綱が浅瀬を教えた浦の男を、他人に漏らさぬよう刺し殺してまで先陣の功を独り占めしようとする話は、武士の功名心のすさまじさとともに、名もない民の哀れを伝える。この話は謡曲「藤戸」で、殺された男の母の嘆きとして描かれることになった。
語釈・文法注
文法
- 「引きかづいてぞ臥し給ふ」
- 衣を頭からかぶって伏してしまわれた。
- 「故池の禪尼の使として」
- 池禅尼が清盛に頼朝の助命を願ったとき、その使いとして間に立ったのが重盛であったという。
- 「臼杵、戸次、松浦黨」
- 豊後の臼杵氏・戸次氏、肥前の松浦党。九州の武士団。
- 「人王八十二代」
- 後鳥羽天皇。神器なしで即位した最初の例とされる。
- 「使の院宣を蒙つて」
- 検非違使に任じる院宣を受けて。
- 「左馬の頭行盛」
- 清盛の次男基盛の子。歌人としても知られた。
- 「上總の五郎兵衞忠光」
- 藤原忠清の子。底本の「上總」のふりがなは「かづさ」。
- 「はやりを」
- 血気にはやる者。
- 「白鞘巻」
- 白い鞘の短刀。
- 「賺し仰せて」
- うまくだまして言いつけて。
- 「佐佐木げにもとて」
- 底本は行頭で踊り字を使わず「佐佐木」と刷る。
- 「捨ててける」
- 底本の本文。「捨ててけり」の意。
- 「むながいづくし」
- 胸繋(むながい)のあたりまで水につかって。
- 「錏」
- 兜の左右から後ろに垂れて首を守る部分。しころ。
- 「御教書」
- 将軍の命令を伝える文書。
和歌
君すめばこゝも雲居の月なれどなほこひしきは都なりけり
- 詠者
- 平行盛
- 状況
- 八島で秋の月を見て、都をしのんで詠んだ歌。
修辞
- すめば
- 「住む」と「澄む」の掛詞。安徳天皇がおいでになるので八島も宮中であるが、という意をこめる。
解説
藤戸の合戦は元暦元年(1184)十二月七日のことで、『吾妻鏡』にも佐々木盛綱が馬で海を渡って平家を破り、頼朝から賞されたことが見える。岡山県倉敷市藤戸には、盛綱が浅瀬を渡った跡とされる「先陣庵」や、殺された浦の男を弔う「経ヶ島」の伝承地がある。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、753–758頁(コマ405–408)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日