平家物語 巻第十
三日平氏の事
後を追おうとした舎人武里を滝口入道が止め、維盛の菩提を弔えと諭した。武里は八島へ渡って維盛の弟資盛に遺言を伝え、資盛は兄を疑っていた一門の人々とともに嘆いた。四月、元暦と改元され、頼朝は正四位下に叙せられた。五月、池の大納言頼盛は頼朝に招かれて鎌倉へ下るが、侍の弥平兵衛宗清は、西海に漂う平家一門を思って供をしなかった。頼朝は宗清に会えないことを惜しみ、頼盛には所領を安堵し、多くの引出物を贈って都へ帰した。七月、平家の家人平田入道定次らが伊賀・伊勢で兵を挙げたが、わずか三日で攻め落とされ、これを三日平氏という。
- 1舎舎とね人人り武武たけ里里さとももも續續つづいいいててて海海うみににに入入いらららんんんとととしししけるけるけるををを、、、聖聖ひじり取取とりりり止止とどめめめ、、、泣泣なく〳〵く〳〵くなく教教きょう訓訓くんしししけるけるけるははは、、、「「「いかにいかにいかにうたてくうたてくうたてくももも、、、君君きみののの御御ご遺遺ゆい言言ごんをををばばば違違たがへへえ參參まいらららせせせんんんとととはははするするするぞぞぞ。。。下下げ臈臈ろうこそこそこそ猶猶なおうたてけれうたてけれうたてけれ。。。今今いまはははいかにいかにいかにもももしししてててながらへながらへながらへててて、、、御御おん菩菩ぼ提提だいををを弔弔とぶらひひいまゐらせまゐらせまいらせよよよ。。。」」」ととといひいひいいけれけれければばば、、、「「「後後おくれれれ奉奉たてまつつつったるたるたる悲悲かなしさしさしさににに、、、後後のちののの御御おん孝孝きょう養養ようののの事事ことももも覺覺おぼえええずずず。。。」」」とととててて、、、船船ふな底底ぞこににに仆仆たおれれれ伏伏ふししし、、、をめきをめきおめき叫叫さけびびびししし有有あり樣樣さまははは、、、昔昔むかし悉悉しっ達達だ太太たい子子しののの檀檀だん特特どく山山せんににに入入いらららせせせ給給たまひひいししし時時とき、、、車車しゃ匿匿のく舎舎とね人人りががが金金こん泥泥でい駒駒こまををを賜賜たまはつはつわっててて、、、王王おう宮宮ぐうににに歸歸かえりりりししし悲悲かなしみしみしみももも、、、これこれこれにににははは過過すぎぎぎじじじとととぞぞぞ見見みえええししし。。。浮浮うきききもももややや上上あがりりり給給たまふふうととと、、、暫暫しばしししははは船船ふねをををおしおしおし廻廻まわしししててて見見みけれけれけれどもどもども、、、三三さん人人にん共共ともににに深深ふかくくく沉沉しずみみみててて見見みえええ給給たまははわずずず。。。いつしかいつしかいつしか經經きょう讀讀よみみみ念念ねん佛佛ぶつしししててて、、、囘囘え向向こうしししけるけるけるこそこそこそあはれあはれあわれなれなれなれ。。。
- 2さるさるさる程程ほどににに夕夕せき陽陽よう西西にしににに傾傾かたぶいいいててて、、、海海かい上上しょうももも暗暗くらくくくなりなりなりけれけれければばば、、、名名な殘殘ごりははは盡盡つきききせせせずずず思思おもへへえどもどもども、、、さてさてさてしもしもしもあるあるあるべきべきべき事事ことならならならねねねばばば、、、空空むなしきしきしき船船ふねををを漕漕こぎぎぎ返返かえるるる。。。とわたるとわたるとわたる船船ふねののの櫂櫂かいののの雫雫しずく、、、聖聖ひじりががが袖袖そでよりよりより傳傳つたふふう涙涙なみだ、、、わきわきわきててていづれいづれいずれももも見見みえええざりざりざりけりけりけり。。。聖聖ひじりははは高高こう野野やへへへ歸歸かえりりり上上のぼりりり、、、武武たけ里里さとははは泣泣なく〳〵く〳〵くなく八八や島島しまへへへ參參まいりりりけりけりけり。。。御御おん弟弟おとうと新新しん三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう殿殿どのににに御御おん文文ふみ取取とりりり出出いだいいいててて奉奉たてまつるるる。。。これこれこれをををあけあけあけててて見見み給給たまひひいててて、、、「「「あなあなあな心心こころうううややや。。。わがわがわが思思おもひひい奉奉たてまつるるるほどほどほど、、、人人ひとははは思思おもひひい給給たまははわざりざりざりけるけるけることことことよよよ。。。さらばさらばさらば引引ひき具具ぐしししててて、、、一一ひと所所ところにににももも沉沉しずみみみはてはてはて給給たまははわででで、、、所所ところ々々どころににに伏伏ふさささんんん事事ことこそこそこそ悲悲かなしけれしけれしけれ。。。大臣殿大臣殿おおいどのももも、、、二二に位位い殿殿どのももも、、、賴賴より朝朝ともににに心心こころををを通通かよははわしししててて都都みやこへへへこそこそこそおはしおはしおわしたるたるたるらめらめらめとととててて、、、われわれわれらららにににももも心心こころををを置置おききき給給たまひひいしししににに、、、さてさてさてははは那那な智智ちののの沖沖おきにににててて、、、御御おん身身みををを投投なげげげてててまし〳〵まし〳〵ましましけるけるける、、、ござんござんござんなれなれなれ。。。さてさてさて御御おんことばことばことばにににててて申申もうせせせととと仰仰おおせせせられられられししし事事ことはははなきなきなきかかか。。。」」」ととと宣宣のたまへへえばばば、、、「「「御御おんことばことばことばにににててて申申もうせせせととと仰仰おおせせせ候候そうらひひいしししははは、、、かつかつかつ御御ご覽覽らんじじじ給給たまひひいしししやうやうようににに、、、大大おお方方かたののの世世せ閒閒けんもももものものものうくうくうく、、、あぢきあぢきあじきなさなさなさもももよろづよろづよろず數數かず添添そひひいててて、、、覺覺おぼえええさせさせさせまし〳〵まし〳〵ましまし候候そうろうほどほどほどににに、、、人人ひと々々びとにににももも知知しらららせせせ參參まいらららせせせずずずしししててて、、、かやうかやうかようにににならならならせせせたまふたまふたまう御御おん事事ことははは、、、西西さい國國こくにににててて左左さののの中中ちゅう將將じょう殿殿どのうせうせうせ給給たまひひい候候そうらひひいぬぬぬ。。。一一いちののの谷谷たににににててて備備びっ中中ちゅうののの守守かみ殿殿どの討討うたたたれれれさせさせさせまし〳〵まし〳〵ましまし候候そうらひひいぬぬぬ。。。御御おん身身みさへさへさへかやうかやうかようにににならならならせせせまし〳〵まし〳〵ましまし候候そうらへへえばばば、、、いかにいかにいかに各各おのおのののの便便たよりりりなくなくなく思思おぼし召召めささされれれ候候そうろうらんらんらんととと、、、たゞたゞただこれこれこれのみのみのみこそこそこそ御御おん心心こころ苦苦ぐるしうしうしゅう仰仰おおせせせられられられ候候そうらひひいつれつれつれ。。。」」」唐唐から皮皮かわ、、、小小こ烏烏がらすののの事事ことまでまでまでももも、、、こま〴〵こま〴〵こまごまととと語語かたりりり申申もうしししたりたりたりけれけれければばば、、、新新しん三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう殿殿どの、、、「「「今今いまはははわがわがわが身身みとてとてとてももも、、、ながらふながらふながらうべしべしべしとととももも覺覺おぼえええぬぬぬものものものををを。。。」」」とととててて、、、袖袖そでををを顏顏かおにににおしおしおし當當あてててててて、、、さめ〴〵さめ〴〵さめざめとととぞぞぞ泣泣なかかかれれれけるけるける。。。故故こ三三さん位位み殿殿どのにににいたくいたくいたく似似に參參まいらららせせせ給給たまひひいたりたりたりしかしかしかばばば、、、これこれこれををを見見みるるる侍侍さぶらい共共どもももも、、、さしさしさしつどひつどひつどいててて袖袖そでをををぞぞぞぬらしぬらしぬらしけるけるける。。。大臣殿大臣殿おおいどのももも、、、二二に位位い殿殿どのももも、、、このこのこの人人ひとははは池池いけののの大大だい納納な言言ごんのののやうやうようににに賴賴より朝朝ともににに心心こころををを通通かよははわしししててて、、、都都みやこへへへこそこそこそおはしおはしおわしたるたるたるらめらめらめなどなどなど思思おもひひいゐゐいたれたれたればばば、、、さささはははおはせおはせおわせざりざりざりしかしかしかとととててて、、、今今いま更更さらまたまたまたもだえもだえもだえこがれこがれこがれ給給たまひひいけりけりけり。。。
- 3四四し月月がつ一一ひと日日ひののの日日ひ改改かい元元げんあつあつあっててて元元げん曆曆りやくととと號號こうすすす。。。そのそのその日日ひ除除じ目目もく行行おこなははわれれれててて、、、鎌鎌かま倉倉くらののの前前さきののの右右う兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ賴賴より朝朝とも上上じょう下下げののの四四し位位いししし給給たまふふう。。。もともともとははは從從じゅ下下げののの五五ご位位いにににててておはせおはせおわせしししががが、、、忽忽たちまちちちににに五五ご階階かいををを越越こえええ給給たまふふうこそこそこそめでたけれめでたけれめでたけれ。。。同同おなじきじきじき三三みつ日日かののの日日ひ、、、崇崇しゅ德德とく院院いんををを神神かみととと崇崇あがめめめ奉奉たてまつるるるべしべしべしとととててて、、、昔昔むかし御御おん合合かっ戰戰せんありありありししし大大おお炊炊いののの御御み門門かどががが末末すえににに、、、社社やしろををを建建たてててててて宮宮みや遷遷うつしししありありあり。。。これこれこれははは院院いんののの御御ご沙沙さ汰汰たにににててて、、、内内だい裏裏りにににははは知知しろし召召めささされれれずずずとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。五五ご月月がつ四四よっ日日かののの日日ひ、、、池池いけののの大大だい納納な言言ごん賴賴より盛盛もりののの卿卿きょう關關かん東東とうへへへ下下げ向向こう。。。兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ殿殿どの常常つねはははなさけなさけなさけをををかけかけかけ奉奉たてまつつつっててて、、、「「「御御おん方方かたをををばばば全全まったくくくおろそかおろそかおろそかににに思思おもひひい奉奉たてまつらららずずず、、、ひとへひとへひとえににに故故こ尼尼あま御御ご前前ぜんののの渡渡わたらららせせせ給給たまふふうとととこそこそこそ存存ぞんじじじ候候そうらへへえ。。。八八はち幡幡まん大大だい菩菩ぼ薩薩さつももも御御ご賞賞しょう罰罰ばつ候候そうらへへえ。。。」」」なんどなんどなんど、、、度度たび々々たび誓誓せい狀狀じょうををを以以もっててて申申もうささされれれけりけりけり。。。およそおよそおよそははは兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけばかりばかりばかりこそこそこそ、、、かうかうこうははは思思おもははわれれれけれけれけれどもどもども、、、自自じ餘餘よののの源源げん氏氏じ等等らはははいかゞいかゞいかがあらあらあらんんんずずずらんらんらんととと、、、おぼつかなうおぼつかなうおぼつかのう思思おもははわれれれけるけるけるににに、、、鎌鎌かま倉倉くらよりよりより使使し者者じゃををを奉奉たてまつつつっててて、、、「「「いそぎいそぎいそぎ下下くだりりり給給たまへへえ。。。」」」「「「故故こ尼尼あま御御ご前前ぜんををを見見み奉奉たてまつるるるととと存存ぞんじじじててて、、、とくとくとく見見げん參參ざんににに入入いりりり候候そうらははわんんん。。。」」」ととと申申もうささされれれたりたりたりけれけれければばば、、、大大だい納納な言言ごん下下くだりりり給給たまひひいけりけりけり。。。
- 4こゝこゝここににに彌彌や平平へい兵兵びょう衞衞え宗宗むね淸淸きよととといふいふいう侍侍さぶらいありありあり。。。相相そう傳傳でん專專せん一一いちののの者者ものなりなりなりしししががが、、、相相あい具具ぐしししてててももも下下くだらららずずず。。。「「「さてさてさていかにいかにいかにややや。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、「「「君君きみこそこそこそかくかくかくてててわたらわたらわたらせせせ給給たまひひい候候そうらへへえどもどもども、、、御御ご一一いっ家家けののの公公きん達達だちたちたちたちののの西西さい海海かいののの波波なみににに漂漂ただよははわせせせ給給たまふふう御御おん事事ことががが、、、心心こころ苦苦ぐるしくしくしく候候そうらうううててて、、、未未いまだだだ安安あん堵堵どしししてててももも覺覺おぼえええ候候そうらははわねねねばばば、、、心心こころ少少すこししし落落おとしししすゑすゑすえててて、、、追追おつつっさまさまさまにににこそこそこそまゐりまゐりまいり候候そうらははわめめめ。。。」」」とととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。大大だい納納な言言ごん恥恥はずかしうかしうかしゅう、、、かたはらかたはらかたわらいたくいたくいたく思思おぼし召召めしししててて、、、「「「まことまことまことににに一一いち門門もんににに引引ひき別別わかれれれててて、、、落落おちちち止止とどまつまつまっししし事事ことをををばばば、、、わがわがわが身身みながらながらながらいみじいみじいみじとととははは思思おもははわねねねどもどもども、、、さすがさすがさすが命命いのちももも惜惜おしうしうしゅう、、、身身みももも捨捨すててて難難がたけれけれければばば、、、なまじひなまじひなまじいににに止止とどまりまりまりにににききき。。。このこのこの上上うえははは下下くだらららざるざるざるべきべきべきにににもももあらあらあらずずず。。。遙遙はるかかかののの旅旅たびににに赴赴おもむくくくににに、、、いかでいかでいかでかかか見見み送送おくらららざるざるざるべきべきべき。。。うけうけうけずずず思思おもははわばばば落落おちちち止止とどまつまつまっししし時時とき、、、などなどなどさささはははいはいはいわざりざりざりしししぞぞぞ。。。大大だい小小しょう事事じ、、、一一いっ向向こう汝汝なんじにににこそこそこそいひいひいいあはせあはせあわせしかしかしか。。。」」」ととと宣宣のたまへへえばばば、、、宗宗むね淸淸きよ居居い直直なおりりり、、、畏畏かしこまつまつまっててて申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「あはれあはれあわれ高高たかきききももも賤賤いやしきしきしきももも、、、人人ひとののの身身みににに命命いのち程程ほど惜惜おしきしきしきものものものやはやはやは候候そうろう。。。されされさればばば世世よをををばばば捨捨すつれつれつれどもどもども、、、身身みをををばばば捨捨すてててずずずとととこそこそこそ申申もうししし傳傳つたへへえててて候候そうろうなれなれなれ。。。御御おん止止とどまりまりまりををを惡惡あしししとととにににははは存存ぞんじじじ候候そうらははわずずず。。。兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけももも、、、かひかひかいなきなきなき命命いのちををを助助たすけけけられられられ參參まいらららせせせててて候候そうらへへえばばばこそこそこそ、、、今日今日きょうははは斯斯かかるかるかる幸幸さいわひひいにににもももあひあひあい候候そうらへへえ。。。流流る罪罪ざいせせせられられられ候候そうらひひいししし時時とき、、、故故こ尼尼あま御御ご前前ぜんののの仰仰おおせせせにににててて、、、近近おう江江みののの國國くに篠篠しの原原はらののの宿宿しゅくまでまでまでうちうちうち送送おくつつったりたりたりししし事事ことなどなどなど、、、今今いまににに忘忘わすれれれずずずととと候候そうろうなれなれなればばば、、、御御おん供供ともにににまかりまかりまかり下下くだつつっててて候候そうらははわばばば、、、定定さだめめめててて引引ひき出出で物物もの饗饗きょう應應おうなどなどなどししし候候そうらははわんんんずずずらんらんらん。。。それそれそれにににつけつけつけてててももも西西さい海海かいののの波波なみののの上上うえににに漂漂ただよははわせせせ給給たまふふう御御ご一一いっ家家けののの公公きん達達だちたちたちたち、、、またはまたはまたわ同同どう隷隷れいどもどもどものののかへりかへりかえり聞聞きかかかんんんずるずるずる所所ところももも、、、いひいひいいがひがひがいなうなうのう覺覺おぼえええ候候そうろう。。。遙遙はるかかかののの旅旅たびににに赴赴おもむかかかせせせ給給たまふふう御御おん事事ことははは、、、まことまことまことににに覺覺おぼ束束つかなうなうのう思思おもひひい參參まいらららせせせ候候そうらへへえどもどもども、、、敵敵かたきをををももも攻攻せめめめににに御御おん下下くだりりり候候そうらははわばばば、、、まづまづまず一一いち陣陣じんにににこそこそこそ候候そうろうべけれべけれべけれどもどもども、、、これこれこれははは參參まいらららずずずともともとも、、、更更さらににに御御おん事事こと闕闕かけけけ候候そうろうまじまじまじ。。。兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ殿殿どの尋尋たずねねね申申もうささされれれ候候そうらははわばばば、、、折折おりふしふしふし相相あい勞勞いたわるるる事事ことありありありてててととと、、、仰仰おおせせせられられられ候候そうろうべしべしべし。。。」」」とととててて、、、涙涙なみだをををおさへおさへおさえててて止止とどまりまりまりぬぬぬ。。。これこれこれををを聞聞きくくく侍侍さぶらいどもどもども、、、皆皆みな袖袖そでをををぞぞぞ濡濡ぬらしらしらしけるけるける。。。大大だい納納な言言ごんにが〳〵しうにが〳〵しうにがにがしゅう、、、かたはらかたはらかたわらいたくいたくいたく思思おもははわれれれけれけれけれどもどもども、、、このこのこの上上うえははは下下くだらららざるざるざるべきべきべきにににもももあらあらあらずずずとととててて、、、やがてやがてやがて立立たちちち給給たまひひいぬぬぬ。。。
- 5同同おなじきじきじき十十じゅう六六ろく日日にち、、、池池いけののの大大だい納納な言言ごん賴賴より盛盛もりののの卿卿きょう關關かん東東とうへへへ下下げ著著ちゃく。。。兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ殿殿どのいそぎいそぎいそぎ對對たい面面めんをををししし給給たまひひいててて、、、まづまづまず、、、「「「宗宗むね淸淸きよはははいかにいかにいかに。。。」」」ととと問問とはははれれれけれけれければばば、、、「「「折折おりふしふしふし相相あい勞勞いたわるるる事事ことありありありててて。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、「「「いかにいかにいかに何何なにをををいたはりいたはりいたわり候候そうろうやらんやらんやらん。。。なほなほなお意意い趣趣しゅををを存存ぞんじじじ候候そうろうにににこそこそこそ。。。先先せん年年ねんあのあのあの宗宗むね淸淸きよががが許許もとににに預預あずけけけ置置おかかかれれれ候候そうらひひいししし時時とき、、、事事ことににに觸觸ふれれれてててなさけなさけなさけ深深ふこううう候候そうらひひいしかしかしかばばば、、、あはれあはれあわれ御御おん供供ともにににまかりまかりまかり下下くだりりり候候そうらへへえかしかしかし。。。とくとくとく見見げん參參ざんににに入入いらららんんんととと、、、こひしうこひしうこいしゅう存存ぞんじじじててて候候そうらへへえばばば、、、恨恨うらめしうめしうめしゅうももも下下くだりりり候候そうらははわぬぬぬものものものかなかなかな。。。」」」とととててて、、、知知ち行行ぎょうすすすべきべきべき莊莊しょう園園えん狀狀じょうどもどもどもあまたあまたあまたなしなしなし設設もうけけけ、、、さま〴〵さま〴〵さまざまののの引引ひき出出で物物ものをををたばたばたばんんんととと用用よう意意いせせせられられられたりたりたりけれけれければばば、、、東東とう國國ごくののの大大だい名名みょう、、、小小しょう名名みょう、、、われも〳〵われも〳〵われもわれもととと引引ひき出出で物物ものををを用用よう意意いしししててて待待まつつつ所所ところににに、、、下下くだらららざりざりざりけれけれければばば、、、上上じょう下下げ、、、本本ほ意意いなきなきなき事事ことどもどもどもにににてててぞぞぞありありありけるけるける。。。
- 6六六ろく月月がつ九九ここの日日かののの日日ひ、、、池池いけののの大大だい納納な言言ごん賴賴より盛盛もりののの卿卿きょう都都みやこへへへ歸歸かえりりり上上のぼりりり給給たまふふう。。。兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ殿殿どの、、、「「「今今いま暫暫しばくくくははは斯斯かくくくてててもももおはせおはせおわせよよよかしかしかし。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえどもどもども、、、大大だい納納な言言ごん、、、都都みやこにににおぼつかなうおぼつかなうおぼつかのう思思おもふふうらんらんらんとととててて、、、やがてやがてやがて立立たちちち給給たまひひいぬぬぬ。。。知知ち行行ぎょうししし給給たまふふうべきべきべき莊莊しょう園園えん私私し領領りょう、、、一一いっ所所しょももも相相そう違違いあるあるあるべからべからべからずずず、、、竝竝ならびににに大大だい納納な言言ごんににになしなしなしかへかへかえさるさるさるべきべきべき由由よし、、、法法ほう皇皇おうへへへ申申もうさささるるる。。。鞍鞍くら置置おききき馬馬むま三三さん十十じっ匹匹ぴき、、、はだかはだかはだか馬馬むま三三さん十十じっ匹匹ぴき、、、長長なが持持もち三三さん十十じっ枝枝えだににに、、、金金こがね、、、巻巻まき絹絹ぎぬ、、、染染そめ物物もの風風ふ情情ぜいののの物物ものををを入入いれれれててて奉奉たてまつるるる。。。兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ殿殿どのかやうかやうかようにににししし給給たまふふう上上うえははは、、、東東とう國國ごくののの大大だい名名みょう、、、小小しょう名名みょう、、、われもわれもわれもわれもわれもわれもととと引引ひき出出で物物ものををを奉奉たてまつらららるるる。。。馬馬むまだにだにだにももも三三さん百百びゃく匹匹ぴきまでまでまでありありありけりけりけり。。。池池いけののの大大だい納納な言言ごん賴賴より盛盛もりののの卿卿きょうははは命命いのち生生いききき給給たまふふうのみのみのみならならならずずず、、、かた〴〵かた〴〵かたがた德德とくついついついててて都都みやこへへへ歸歸かえりりり上上のぼららられれれけりけりけり。。。
- 7同同おなじきじきじき十十じゅう八八はち日日にち、、、肥肥ひ後後ごののの守守かみ定定さだ能能よしががが叔叔お父父じ平平ひら田田たののの入入にゅう道道どう定定さだ次次つぐををを先先さきとととしししててて、、、伊伊い賀賀が、、、伊伊い勢勢せ兩兩りょう國國ごくののの官官かん兵兵びょう等等ら、、、近近おう江江みののの國國くにへへへうつうつうっててて出出いでででたりたりたりけれけれければばば、、、源源げん氏氏じののの末末ばつ葉葉よう等等ら發發はっ向向こうしししててて合合かっ戰戰せんをををいたすいたすいたす。。。同同おなじきじきじき二二に十十じゅう日日にちののの日日ひ、、、伊伊い賀賀が、、、伊伊い勢勢せ兩兩りょう國國ごくののの官官かん兵兵びょう等等ら、、、しばししばししばしもももたまらたまらたまらずずず攻攻せめめめ落落おとさささるるる。。。平平へい家家け相相そう傳傳でんののの家家け人人にんにににててて、、、昔昔むかしのののよしみよしみよしみををを忘忘わすれれれぬぬぬ事事ことはははあはれあはれあわれなれなれなれどもどもども、、、思思おもひひい立立たつつつこそこそこそおほけなけれおほけなけれおおけなけれ。。。三三みつ日日か平平へい氏氏しとととはははこれこれこれなりなりなり。。。
現代語訳
舎人の武里も続いて海に入ろうとしたのを、聖が取り押さえ、泣く泣く教え諭すには、「なんと情けないことに、君のご遺言にそむき申そうとするのか。身分の低い者はやはり情けない。今はどうにかして生きながらえて、ご菩提をお弔い申せ」と言ったので、「後に残された悲しさに、後のご供養のことも考えられませんでした」といって、舟底に倒れ伏し、わめき叫んだありさまは、昔、悉達太子が檀特山にお入りになったとき、車匿舎人が金泥駒をいただいて王宮に帰った悲しみも、これにはまさるまいと見えた。浮かび上がりなさるかと、しばらくは舟を漕ぎめぐらして見たけれども、三人とも深く沈んでお姿は見えない。いつのまにか経を読み念仏して回向したのは哀れであった。
やがて夕日が西に傾いて、海上も暗くなったので、名残は尽きないと思うけれども、そうしてばかりもいられないので、空しい舟を漕ぎ返した。海を渡る舟の櫂の雫と、聖の袖から伝う涙とは、区別もつかなかった。聖は高野へ帰り、武里は泣く泣く八島へ参った。御弟の新三位中将殿(資盛)にお手紙を取り出して差し上げた。これを開けてご覧になって、「ああ情けない。私が思い申しているほど、あの方は思ってくださらなかったのだな。それなら連れていって、一つ所にも沈みはてず、別々の所に屍を横たえることになるのが悲しい。大臣殿も二位殿も、頼朝に心を通じて都へ行かれたのだろうといって、われらにも隔てを置いておられたのに、それでは那智の沖で身を投げておられたのだな。さて、言葉で申せと仰せられたことはないか」とおっしゃると、「言葉で申せと仰せになりましたのは、『ご覧のとおり、世の中もすべてもの憂く、つまらなさもいろいろと重なって思われましたので、人々にもお知らせ申さずに、このようになりました。西国では左中将殿(清経)が亡くなられました。一の谷では備中守殿(師盛)が討たれなさいました。わが身までもこのようになりましたので、さぞ皆さまは心細くお思いになるだろうと、ただそれだけが心苦しい』と仰せられました」。唐皮・小烏のことまでもこまごまと語り申したので、新三位中将殿は、「今はわが身とても、生きながらえようとも思われないものを」といって、袖を顔に押し当ててさめざめと泣かれた。故三位殿(維盛)によく似ておられたので、これを見る侍たちも集まって袖を濡らした。大臣殿も二位殿も、この人は池の大納言(頼盛)のように頼朝に心を通じて都へ行かれたのだろうなどと思っていたので、そうではなかったのかと、今さらまた身もだえして嘆かれた。
四月一日に改元があって元暦と号した。その日除目が行われて、鎌倉の前右兵衛佐頼朝は正四位下に叙せられた。もとは従五位下でいらしたのが、一度に五階を越えられたのはめでたいことである。同じく三日、崇徳院を神として崇め申すべきだということで、昔ご合戦のあった大炊御門の末に社を建てて遷宮があった。これは院のご沙汰で、内裏はご存じないと聞こえた。五月四日、池の大納言頼盛卿が関東へ下向した。兵衛佐殿は常に情けをかけ申して、「あなたを決しておろそかには思い申しません。ひとえに故尼御前(池禅尼)がおいでになると思っております。八幡大菩薩もご照覧ください」などと、たびたび誓状をもって申されていた。おおよそ兵衛佐だけはそう思われたけれども、ほかの源氏たちはどうであろうかと気がかりに思っておられたところ、鎌倉から使者をよこして、「急いでお下りください」「故尼御前にお会いする思いで、早くお目にかかりたい」と申されたので、大納言は下られた。
ここに弥平兵衛宗清という侍がいた。代々仕えてきた第一の者であったが、供をして下らなかった。「さてどうしたのか」とおっしゃると、「君はこうしておいでになりますが、ご一家の公達が西海の波に漂っておられることが心苦しくて、まだ心が落ち着きませんので、少し気持ちを落ち着けてから、追ってまいりましょう」と申した。大納言は恥ずかしく、きまり悪く思われて、「本当に一門と別れて都にとどまったことを、われながらりっぱだとは思わないが、やはり命も惜しく、身も捨てがたかったので、なまじっかとどまってしまったのだ。こうなった上は下らないわけにもいかない。遠い旅に出るのに、どうして見送らないことがあろう。不服に思うなら、とどまったとき、なぜそう言わなかったのか。大小のことはすべておまえにこそ相談したではないか」とおっしゃると、宗清は居住まいを正し、かしこまって申すには、「まことに身分の高い者も低い者も、人の身に命ほど惜しいものがありましょうか。だから世は捨てても身は捨てないと申し伝えております。お残りになったのを悪いとは思いません。兵衛佐も、かいのない命をお助けいただいたからこそ、今日このような幸運にもあったのです。流罪になりましたとき、故尼御前の仰せで、近江国篠原の宿まで送っていったことなどを、今も忘れていないということですから、お供をして下りましたら、きっと引出物やもてなしなどをするでしょう。それにつけても、西海の波の上に漂っておられるご一家の公達や、仲間たちが伝え聞くところも、情けなく思われます。遠い旅にお出かけになることは本当に気がかりに思い申しますが、敵を攻めにお下りになるのなら、まず先陣を務めるべきですが、これは私が参らなくても、少しもご不自由はありますまい。兵衛佐殿がお尋ねになったら、あいにく病気をいたわっておりますと仰せください」といって、涙をおさえて残った。これを聞く侍たちもみな袖を濡らした。大納言は苦々しく、きまり悪く思われたが、こうなった上は下らないわけにもいかないといって、すぐに出立された。
同じく十六日、池の大納言頼盛卿が関東に下着した。兵衛佐殿は急いで対面されて、まず「宗清はどうしましたか」と問われたので、「あいにく病気をいたわることがあって」とおっしゃると、「何をいたわっているのでしょう。やはり含むところがあるのでしょう。先年あの宗清のもとに預けられておりましたとき、何かにつけて情け深くしてくれましたので、ぜひお供をして下ってきてほしかった。早く会いたいと恋しく思っておりましたのに、恨めしくも下ってこないものですね」といって、知行させるべき荘園の下文をたくさん用意し、さまざまの引出物を与えようと用意されていたので、東国の大名・小名もわれもわれもと引出物を用意して待っていたところ、下ってこなかったので、上下ともに残念なことであった。
六月九日、池の大納言頼盛卿は都へお帰りになった。兵衛佐殿は「もうしばらくはこうしておいでなさい」とおっしゃったが、大納言は、都で気がかりに思っているだろうといって、すぐに出立された。知行なさるべき荘園・私領は一か所も違うことがあってはならない、また大納言に還任させるべきことを、法皇へ申された。鞍置き馬三十匹、裸馬三十匹、長持三十枝に金・巻絹・染物などの品を入れて贈った。兵衛佐殿がこのようになさるうえは、東国の大名・小名もわれもわれもと引出物を贈られた。馬だけでも三百匹にもなった。池の大納言頼盛卿は命が助かったばかりでなく、あれこれと得をして都へお帰りになった。
同じく十八日、肥後守定能の叔父平田入道定次を先頭として、伊賀・伊勢両国の官兵たちが近江国へ打って出たので、源氏の末流の者たちが向かって合戦をした。同じく二十日、伊賀・伊勢両国の官兵たちは、少しも持ちこたえられずに攻め落とされた。平家代々の家人として昔のよしみを忘れなかったことは哀れであるが、思い立ったのは身の程知らずであった。三日平氏とはこれである。
意訳
維盛の入水を見届けた武里の悲しみと、八島で遺言を聞いた資盛の嘆きから、話は鎌倉と都の動きへと移る。維盛を頼盛のように二心ありと疑っていた一門の人々の後悔は、追いつめられた平家の中に生まれた疑心暗鬼を物語っている。
頼盛の鎌倉下向をめぐる宗清の言葉は、命を惜しむ心を責めはしないが、西海に漂う主家を思えば恩賞目当てに敵のもとへは行けないという、家人としての節義を示している。頼朝が頼盛を厚遇する一方で、宗清に会えないことを惜しんだのも、その節義を重んじたからであろう。巻末の三日平氏は、平家の家人たちの旧恩を忘れぬ志と、その挙兵のはかなさとを短く語る。
語釈・文法注
文法
- 「悉達太子」「車匿舎人」
- 出家前の釈迦(悉達太子)が檀特山に入ったとき、従者の車匿が愛馬の金泥駒(犍陟)を連れて王宮に帰ったという故事。
- 「とわたる船」
- 海峡(と)を渡る船。
- 「ござんなれ」
- 「にこそあるなれ」の約。…であったのだな。
- 「上下の四位」
- 底本は「上下」と刷り、ふりがなは「じやうげ」。正四位下の意。
- 「從下の五位」
- 従五位下。
- 「崇德院を神と崇め奉る」
- 保元の乱に敗れて讃岐で亡くなった崇徳院の怨霊を鎮めるため、大炊御門の旧御所跡に社を建てた(粟田宮)。
- 「故尼御前」
- 池禅尼。頼盛の母で、平治の乱の後、清盛に頼朝の助命を願った。
- 「相傳專一の者」
- 代々仕えてきた第一の家臣。
- 「うけず思はば」
- 承知できない(不服だ)と思うならば。
- 「篠原の宿」
- 近江国野洲郡の宿駅。伊豆へ流される頼朝を宗清がここまで送った。
- 「莊園狀」
- 荘園の領有を認める文書。
- 「肥後の守定能」
- 底本は「定能」と刷る。通行本文は「貞能」。
- 「三日平氏」
- 元暦元年(1184)七月、伊賀・伊勢の平家家人が挙兵したが、わずか三日で鎮圧されたことからの呼び名。
解説
平頼盛は元暦元年(1184)五月に鎌倉へ下り、頼朝から所領の安堵を受けて六月に帰京した(『吾妻鏡』)。弥平兵衛宗清(平宗清)は、平治の乱の後に頼朝を捕らえた人物で、頼朝は池禅尼とともにその恩を忘れなかったという。三日平氏の乱で平田家継(定次)は討たれ、伊勢・伊賀の平家勢力はほぼ一掃された。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、748–753頁(コマ403–405)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日