平家物語 巻第九
宇治川の事
義仲討伐のため、頼朝は範頼を大手、義経を搦手の大将として六万余騎を上らせた。頼朝の名馬生食は、梶原景季の所望を退けて佐々木高綱に与えられ、景季は磨墨を賜る。浮島が原で生食に気づいた景季は佐々木と刺し違えようとするが、佐々木は盗んで来たと偽って笑いに紛らせた。雪解け水で増水した宇治川で、佐々木は景季に腹帯がゆるんでいると言って先を越し、川底の大綱を切って先陣を果たす。畠山重忠は徒歩で川を渡り、流された大串重親を岸へ投げ上げ、宇治・勢多の守りは破られた。
- 1同同おなじきじきじき正正しょう月月がつ十十じゅう一一いち日日にち、、、木木き曾曾そののの左左さ馬馬まののの頭頭かみ義義よし仲仲なか院院いん參參さんしてしてして、、、平平へい家家け追追つい討討とうののの爲爲ためににに西西さい國國こくへへへ發發はっ向向こうすすすべきべきべき由由よしををを奏奏そう聞聞もんすすす。。。同同おなじきじきじき十十じゅう三三さん日日にち既既すでににに門門かど出出いですすすととと聞聞きこえええしかしかしかばばば、、、鎌鎌かま倉倉くらののの前前さきののの右右う兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ賴賴より朝朝とも、、、木木き曾曾そががが狼狼ろう藉藉ぜきしづめしづめしずめんんんとてとてとて、、、範範のり賴賴より、、、義義よし經經つねををを先先さきとととしてしてして、、、數數す萬萬まん騎騎ぎののの軍軍ぐん兵兵びょうをををさしさしさし上上のぼせせせられられられけるけるけるががが、、、既既すでににに美美み濃濃のののの國國くに、、、伊伊い勢勢せののの國國くににににももも著著つくくくととと聞聞きこえええしかしかしかばばば、、、木木き曾曾そ大大おおきききににに驚驚おどろききき、、、宇宇う治治じ、、、勢勢せ多多たののの橋橋はしををを引引ひいいいててて、、、軍軍ぐん兵兵びょうどもどもどもををを分分わかちちち遣遣つかははわすすす。。。折折おりふしふしふし勢勢せいこそこそこそなかりなかりなかりけれけれけれ。。。まづまづまず勢勢せ多多たののの橋橋はしへへへははは、、、大大おお手手てなれなれなればばばとてとてとて今今いま井井いののの四四し郎郎ろう兼兼かね平平ひら、、、八八はっ百百ぴゃく餘餘よ騎騎きにてにてにてさしさしさし遣遣つかははわすすす。。。宇宇う治治じ橋橋ばしへへへははは仁仁に科科しな、、、高高たか梨梨なし、、、山山やま田田だののの次次じ郎郎ろう、、、五五ご百百ひゃく餘餘よ騎騎きででで遣遣つかははわしししけりけりけり。。。一一いも口口あらいへへへははは伯伯お父父じののの志志し田田だののの三三さぶ郎郎ろう先先せん生生じょう義義よし教教のり、、、三三さん百百びゃく餘餘よ騎騎きででで向向むかひひいけりけりけり。。。
- 2さるさるさる程程ほどににに東東とう國國ごくよりよりより攻攻せめめめ上上のぼるるる大大おお手手てののの大大たい將將しょう軍軍ぐんにににははは、、、蒲蒲かばののの御御おん曹曹ぞう司司し範範のり賴賴より、、、搦搦から手手めののの大大たい將將しょう軍軍ぐんにににははは九九く郎郎ろう御御おん曹曹ぞう司司し義義よし經經つね、、、宗宗むね徒徒とののの大大だい名名みょう三三さん十十じゅう餘餘よ人人にん、、、都都つ合合ごうそのそのその勢勢せい六六ろく萬萬まん餘餘よ騎騎きとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。そのそのその頃頃ころ鎌鎌かま倉倉くら殿殿どのにににははは、、、生生いけ食食ずき、、、磨磨する墨墨すみとてとてとて聞聞きこゆるゆるゆる名名めい馬馬ばありありありけりけりけり。。。生生いけ食食ずきをををばばば梶梶かじ原原はら源源げん太太た景景かげ季季すえ、、、頻頻しきりりりににに所所しょ望望もう申申もうしししけれけれけれどもどもども、、、「「「これこれこれははは自自じ然然ねんのののことことことあらあらあらんんん時時とき、、、賴賴より朝朝ともががが物物もの具具のぐしてしてして乘乘のるるるべきべきべき馬馬うまなりなりなり。。。これこれこれももも劣劣おとらららぬぬぬ名名めい馬馬ばぞぞぞ。。。」」」とてとてとて、、、梶梶かじ原原はらにににははは磨磨する墨墨すみをををこそこそこそ賜賜たもうううてててけれけれけれ。。。そのそのその後後のち、、、近近おう江江みののの國國くにののの住住じゅう人人にん佐佐さ々々さ木木き四四し郎郎ろうののの御御おん暇暇いとま申申もうしししににに參參まいららられれれたるたるたるににに、、、鎌鎌かま倉倉くら殿殿どのいかゞいかゞいかが思思おぼし召召めささされれれけんけんけん、、、「「「所所しょ望望もうののの者者ものはははいくらいくらいくらもももありありありけれけれけれどもどもども、、、そのそのその旨旨むね存存ぞん知知じせせせよよよ。。。」」」とてとてとて、、、生生いけ食食ずきをををばばば佐佐さ々々さ木木きにににたぶたぶたぶ。。。佐佐さ々々さ木木き畏畏かしこまつまつまっててて申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「今今こん度度どこのこのこの御御おん馬馬うまにてにてにて、、、宇宇う治治じ川川がわのののまつまつまっ先先さき渡渡わたししし候候そうろうべしべしべし。。。もしもしもし死死しにににたりたりたりととと聞聞きこし召召めささされれれ候候そうらははわばばば、、、人人ひとににに先先さきをををせせせられられられてててけりけりけりととと思思おぼし召召めささされれれ候候そうろうべしべしべし。。。未未いまだだだ生生いきききたりたりたりととと聞聞きこし召召めししし候候そうらははわばばば、、、定定さだめめめててて先先せん陣陣じんをををばばば高高たか綱綱つなぞぞぞしししつつつらんらんらんものものものをををととと思思おぼし召召めささされれれ候候そうらへへえ。。。」」」とてとてとて御御ご前前ぜんをををまかりまかりまかり立立たつつつ。。。參參さん會會かいしししたるたるたる大大だい名名みょう、、、小小しょう名名みょう、、、「「「あつぱれあつぱれあっぱれ荒荒こう涼涼りょうののの申申もうしししやうやうようかなかなかな。。。」」」とととぞぞぞ人人ひと々々びとさゝやきさゝやきささやき合合あははわれれれけるけるける。。。
- 3各各おのおの鎌鎌かま倉倉くらををを立立たつつっててて、、、足足あし柄柄がらををを經經へててて行行ゆくくくもももありありあり、、、箱箱はこ根根ねにににかゝるかゝるかかる勢勢せいもももありありあり、、、思思おもひ〳〵ひ〳〵いおもいににに上上のぼるるる程程ほどににに、、、駿駿する河河がののの國國くに浮浮うき島島しまががが原原はらにてにてにて、、、梶梶かじ原原はら源源げん太太た景景かげ季季すえ高高たかききき所所ところにににうちうちうち上上あがりりり、、、暫暫しばらくくくひかへひかへひかえててて、、、多多おおくくくののの馬馬うまどもどもどもををを見見みけるけるけるににに、、、思思おもひ〳〵ひ〳〵いおもいののの鞍鞍くら置置おかかかせせせ、、、いろ〳〵いろ〳〵いろいろののの鞦鞦しりがいかけかけかけ、、、或或あるいははは乘乘のり口口くちににに引引ひかかかせせせ、、、或或あるいははは諸諸もろ口口くちににに引引ひかかかせせせ、、、幾幾いく千千せん萬萬まんととといふいふいう數數かずををを知知しらららずずず、、、引引ひき通通とおし〳〵し〳〵しひきとおししししけるけるけるなかなかなかにににももも、、、景景かげ季季すえががが賜賜たまははわつつったるたるたる磨磨する墨墨すみにににまさるまさるまさる馬馬うまこそこそこそなかりなかりなかりけれけれけれととと、、、うれしううれしううれしゅうおもひおもひおもいててて見見みるるる所所ところににに、、、こゝこゝここににに生生いけ食食ずきとととおぼしきおぼしきおぼしき馬馬うまこそこそこそ一一いっ騎騎き出出いででで來來きたれたれたれ。。。金金きん覆覆ぷく輪輪りんののの鞍鞍くら置置おかかかせせせ、、、小小こ總總ぶさののの鞦鞦しりがいかけかけかけ、、、白白しろ轡轡くつわはげはげはげ、、、白白しら泡泡あわかませかませかませててて、、、舎舎とね人人りあまたあまたあまた附附つけけけたりたりたりけれけれけれどもどもども、、、猶猶なお引引ひきききもももためためためずずず、、、跳跳おどらららせせせてててこそこそこそ出出いででで來來きたれたれたれ。。。梶梶かじ原原はらうちうちうち寄寄よつつっててて、、、「「「これこれこれははは誰誰たががが御御おん馬馬うまぞぞぞ。。。」」」「「「佐佐さ々々さ木木き殿殿どのののの御御おん馬馬うま候候そうろう。。。」」」ととと申申もうすすす。。。「「「佐佐さ々々さ木木きははは三三さぶ郎郎ろう殿殿どのかかか四四し郎郎ろう殿殿どのかかか。。。」」」「「「四四し郎郎ろう殿殿どのののの御御おん馬馬うま候候そうろう。。。」」」とてとてとて引引ひき通通とおすすす。。。梶梶かじ原原はら、、、「「「やすからやすからやすからぬぬぬことことことなりなりなり。。。同同おなじじじやうやうようににに召召めし使使つかははわるゝるゝるる景景かげ季季すえををを、、、佐佐さ々々さ木木きににに思思おぼし召召めしししかへかへかえられられられけるけるけるこそこそこそ、、、遺遺い恨恨こんののの次次し第第だいなれなれなれ。。。今今こん度度ど都都みやこへへへ上上のぼりりり、、、木木き曾曾そ殿殿どのののの御御み内内うちににに四四し天天てん王王のうととと聞聞きこゆるゆるゆる、、、今今いま井井い、、、樋樋ひ口口ぐち、、、楯楯たて、、、根根ねの井井いととと組組くんんんででで死死しぬるぬるぬるかかか、、、しからしからしからずずずばばば西西さい國國こくへへへ向向むかつつっててて、、、一一いち人人にん當當とう千千ぜんととと聞聞きこゆるゆるゆる平平へい家家けののの侍侍さぶらいどもどもどもととと軍軍いくさしてしてして、、、死死しなななんんんとととこそこそこそおもひおもひおもいしにしにしに、、、このこのこの御御ご氣氣き色色しょくででではははそれそれそれももも詮詮せんなしなしなし。。。詮詮せんずるずるずる所所ところ、、、こゝこゝここにてにてにて佐佐さ々々さ木木きををを待待まちちち受受うけけけ、、、引引ひっ組組くみみみ、、、さしさしさし違違ちがへへえ、、、よきよきよき侍侍さぶらい二二ふた人人り死死しんんんででで、、、鎌鎌かま倉倉くら殿殿どのににに損損そん取取とらららせせせ奉奉たてまつらららんんん。。。」」」ととと、、、つぶやいつぶやいつぶやいてててこそこそこそ待待まちちちかけかけかけたれたれたれ。。。
- 4佐佐さ々々さ木木き何何なに心心ごころもももなうなうのう歩歩あゆままませせせててて出出いででで來來きたりたりたり。。。梶梶かじ原原はらおしおしおし竝竝ならべべべてててややや組組くむむむ、、、向向むこうううざまざまざまににに當當あててててててややや落落おとすすすべきべきべきととと思思おもひひいけるけるけるががが、、、まづまづまず詞詞ことばをををぞぞぞかけかけかけけるけるける。。。「「「いかにいかにいかに佐佐さ々々さ木木き殿殿どのははは、、、生生いけ食食ずき賜賜たまははわらららせせせ給給たまひひいててて上上のぼらららせせせ給給たまふふうななな。。。」」」ととといひいひいいけれけれければばば、、、佐佐さ々々さ木木き、、、あつぱれあつぱれあっぱれこのこのこの仁仁じんももも、、、内内ない々々ない所所しょ望望もう申申もうしししつるつるつるととと聞聞ききききしししものものものをををととと思思おもひひい、、、「「「さささ候候そうらへへえばばば、、、今今こん度度どこのこのこの御御おん大大だい事事じににに罷罷まかりりり上上のぼりりり候候そうろうががが、、、定定さだめめめててて宇宇う治治じ、、、勢勢せ多多たののの橋橋はしをををややや引引ひきききたるたるたるらんらんらん、、、乘乘のつつっててて河河かわををを渡渡わたすすすべきべきべき馬馬うまはははなしなしなし。。。生生いけ食食ずきををを申申もうさささばやばやばやとととははは存存ぞんじじじつれつれつれどもどもども、、、御御ご邊邊へんののの申申もうさささせせせ給給たまふふうだにだにだに、、、御御おん許許ゆるされされされなきなきなきととと承承うけたまわつつっててて、、、ましてましてまして高高たか綱綱つななどなどなどががが申申もうすすすとととももも、、、よもよもよも賜賜たまははわらららじじじととと思思おもひひい、、、後後ご日日にちにににいかなるいかなるいかなる御御ご勘勘かん當當どうもももあらあらあらばばばあれあれあれととと存存ぞんじじじつゝつゝつつ、、、曉曉あかつき立立たたたたんんんとてとてとてののの夜夜よ、、、舎舎とね人人りににに心心こころををを合合あははわせせせててて、、、さしもさしもさしも御御ご祕祕ひ藏藏ぞうののの生生いけ食食ずきををを、、、盜盜ぬすみみみすましすましすましててて上上のぼりりりさうさうそうはははいかにいかにいかに、、、梶梶かじ原原はら殿殿どの。。。」」」ととといひいひいいけれけれければばば、、、梶梶かじ原原はらこのこのこのことばことばことばににに腹腹はらがががゐゐいててて、、、「「「ねつたいねつたいねったい、、、さらばさらばさらば景景かげ季季すえももも盜盜ぬすむむむべかりべかりべかりけるけるけるものものものををを。。。」」」とてとてとて、、、どつどつどっととと笑笑わろうううてててぞぞぞ退退のきききにににけるけるける。。。
- 5佐佐さ々々さ木木き四四し郎郎ろうののの賜賜たまわららられれれたりたりたりけるけるける御御おん馬馬うまははは、、、黑黑くろ栗栗くり毛毛げなるなるなる馬馬うまののの、、、極極きわめめめててて太太ふとううう逞逞たくましきしきしきががが、、、馬馬うまをををももも人人ひとをををももも、、、あたりあたりあたりををを拂拂はらつつっててて食食くひひいけれけれければばば、、、生生いけ食食ずきとととはははつけつけつけられられられたりたりたり。。。八八や寸寸きののの馬馬うまとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。梶梶かじ原原はらががが賜賜たまつつったりたりたりけるけるける御御おん馬馬うまももも、、、極極きわめめめててて太太ふとううう逞逞たくましきしきしきががが、、、まことまことまことににに黑黑くろかりかりかりけれけれければばば、、、磨磨する墨墨すみとととはははつけつけつけられられられたりたりたり。。。いづれいづれいずれももも劣劣おとらららぬぬぬ名名めい馬馬ばなりなりなり。。。
- 6さるさるさる程程ほどににに東東とう國國ごくよりよりより攻攻せめめめ上上のぼるるる大大おお手手て、、、搦搦から手手めののの軍軍ぐん兵兵びょう、、、尾尾お張張はりののの國國くによりよりより二二ふた手手てににに分分わかつつっててて攻攻せめめめ上上のぼるるる。。。大大おお手手てののの大大たい將將しょう軍軍ぐんにににははは蒲蒲かばののの御御おん曹曹ぞう司司し範範のり賴賴より、、、相相あい伴伴ともなふふう人人ひと々々びと、、、武武たけ田田だののの太太た郎郎ろう、、、加加か賀賀が美美みののの次次じ郎郎ろう、、、一一いち條條じょうののの次次じ郎郎ろう、、、板板いた垣垣がきののの三三さぶ郎郎ろう、、、稻稻いな毛毛げののの三三さぶ郎郎ろう、、、榛榛はん谷谷がえののの四四し郎郎ろう、、、熊熊くま谷谷がえののの次次じ郎郎ろう、、、猪猪いの股股またののの小小こ平平へい六六ろくををを先先さきとととしてしてして、、、都都つ合合ごうそのそのその勢勢せい三三さん萬萬まん五五ご千千せん餘餘よ騎騎き、、、近近おう江江みののの國國くに野野の路路じ篠篠しの原原はらにににぞぞぞ陣陣じんををを取取とるるる。。。搦搦から手手めののの大大たい將將しょう軍軍ぐんにににははは九九く郎郎ろう御御おん曹曹ぞう司司し義義よし經經つね、、、同同おなじくじくじく伴伴ともなふふう人人ひと々々びと、、、安安やす田田だののの三三さぶ郎郎ろう、、、大大おお内内うちののの太太た郎郎ろう、、、畠畠はたけ山山やまののの莊莊しょう司司じ次次じ郎郎ろう、、、梶梶かじ原原はら源源げん太太た、、、佐佐さ々々さ木木き四四し郎郎ろう、、、糟糟かす屋屋やののの藤藤とう太太だ、、、澀澀しぶ谷谷やののの右右う馬馬まの允允じょう、、、平平ひら山山やまののの武武む者者しゃ所所どころををを先先さきとととしてしてして、、、都都つ合合ごうそのそのその勢勢せい二二に萬萬まん五五ご千千せん餘餘よ騎騎き、、、伊伊い賀賀がののの國國くにををを經經へててて宇宇う治治じ橋橋ばしののの詰詰つめにににぞぞぞおしおしおし寄寄よせせせたるたるたる。。。
- 7宇宇う治治じももも勢勢せ多多たももも橋橋はしををを引引ひききき、、、水水みずののの底底そこにににははは亂亂らん杭杭ぐい打打うつつっててて大大おお綱綱づな張張はりりり、、、逆逆さか木木もぎつないつないつないででで流流ながしししかけかけかけたりたりたり。。。頃頃ころははは睦睦むつ月月き二二は十十つ日日かあまりあまりあまりののの事事ことなれなれなればばば、、、比比ひ良良らののの高高たか根根ね、、、志志し賀賀がののの山山やま、、、昔昔むかしながらながらながらののの雪雪ゆきももも消消きえええ、、、谷谷たに々々だにののの氷氷こおりうちうちうちとけとけとけててて、、、水水みずははは折折おりふしふしふし增增まさりりりたりたりたり。。。白白はく浪浪ろうおびたゞしうおびたゞしうおびただしゅう漲漲みなぎりりり落落おちちち、、、瀨瀨せ枕枕まくら大大おおきききににに瀧瀧たき鳴鳴なつつっててて、、、逆逆さか卷卷まくくく水水みずももも早早はやかりかりかりけりけりけり。。。夜夜よははは既既すでにににほの〴〵ほの〴〵ほのぼのとととあけあけあけ行行ゆけけけどどど、、、川川かわ霧霧ぎり深深ふかくくくたちたちたち籠籠こめめめててて、、、馬馬うまののの毛毛けももも鎧鎧よろいののの毛毛けもももさだかさだかさだかならならならずずず。。。
- 8大大たい將將しょう軍軍ぐん九九く郎郎ろう御御おん曹曹ぞう司司し、、、河河かわののの端端はたにににうちうちうち出出いででで、、、水水みずののの面面おもてををを見見みわたいわたいわたいててて、、、人人ひと々々びとののの心心こころををを見見みんんんとととややや思思おもははわれれれけんけんけん、、、「「「淀淀よど、、、一一いも口口あらいへへへややや向向むかふふうべきべきべき、、、またまたまた河河こう内内ち路路じへへへややや廻廻まわるるるべきべきべき。。。水水みずののの落落おち足足あしをををややや待待まつつつべきべきべき、、、いかがいかがいかがせせせんんん。。。」」」とととのたまふのたまふのたまう所所ところににに、、、こゝこゝここににに武武む藏藏さしののの國國くにののの住住じゅう人人にん畠畠はたけ山山やまののの莊莊しょう司司じ次次じ郎郎ろう重重しげ忠忠ただ、、、生生しょう年年ねん二二に十十じゅう一一いちににになりなりなりけるけるけるががが進進すすみみみ出出いでででててて、、、「「「このこのこの河河かわののの御御ご沙沙さ汰汰たははは、、、鎌鎌かま倉倉くらにてにてにてもももよく〳〵よく〳〵よくよく候候そうらひひいしししぞぞぞかしかしかし。。。かねかねかねてててももも知知しろし召召めささされれれぬぬぬ海海うみ河河かわののの、、、俄俄にはかににに出出いででで來來きてててももも候候そうらははわばばばこそこそこそ。。。近近おう江江みののの湖湖みずうみののの末末すえなれなれなればばば、、、待待まつつつとととも〳〵も〳〵もまつとも水水みずひひひまじまじまじ、、、橋橋はしをををばばばまたまたまた誰誰たれかかか渡渡わたいいいてててまゐらすまゐらすまいらすべきべきべき。。。去去いんんんぬるぬるぬる治治じ承承しょうののの合合かっ戰戰せんににに足足あし利利かがののの又又また太太た郎郎ろう忠忠ただ綱綱つなががが、、、生生しょう年年ねん十十じゅう七七しち歳歳さいにてにてにて渡渡わたしししけるけるけるももも、、、鬼鬼おに神神がみにてにてにてはははよもよもよもあらあらあらじじじ。。。重重しげ忠忠ただまづまづまず瀨瀨せ蹈蹈ぶみ仕仕つかまつらららんんん。。。」」」とてとてとて丹丹たんののの黨黨とうををを宗宗むねとととしてしてして五五ご百百ひゃく餘餘よ騎騎きひし〳〵ひし〳〵ひしひしととと轡轡くつばみををを竝竝ならぶるぶるぶる所所ところににに、、、こゝこゝここににに平平びょう等等どう院院いんののの艮艮うしとら、、、橘橘たちばなののの小小こ島島じまががが崎崎さきよりよりより、、、武武む者者しゃ二二に騎騎き引引ひつつっかけ〳〵かけ〳〵けひっかけ出出いででで來來きたりたりたり。。。一一いっ騎騎きははは梶梶かじ原原はら源源げん太太た景景かげ季季すえ、、、一一いっ騎騎きははは佐佐さ々々さ木木き四四し郎郎ろう高高たか綱綱つななりなりなり。。。人人ひと目目めにににははは何何なにとととももも見見みえええざりざりざりけれけれけれどもどもども、、、内内ない々々ない先先さきににに心心こころをををかけかけかけたるたるたるらんらんらん、、、梶梶かじ原原はらははは佐佐さ々々さ木木きににに一一いっ反反たんばかりばかりばかりぞぞぞ進進すすんんんだるだるだる。。。
- 9佐佐さ々々さ木木き、、、「「「いかにいかにいかに梶梶かじ原原はら殿殿どの、、、このこのこの川川かわははは西西さい國國こく一一いちののの大大たい河河がぞぞぞややや。。。腹腹はる帶帶びののの延延のびびびててて見見みえええさうさうそうぞぞぞ、、、しめしめしめ給給たまへへえ。。。」」」ととといひいひいいけれけれければばば、、、梶梶かじ原原はらさもさもさもあるあるあるらんらんらんとととややや思思おもひひいけんけんけん、、、手手た綱綱ずなををを馬馬うまのののゆがみゆがみゆがみににに捨捨すててて、、、左左さ右右ゆうののの鐙鐙あぶみををを蹈蹈ふみみみすかしすかしすかし、、、腹腹はる帶帶びををを解解といいいてててぞぞぞ締締しめめめたりたりたりけるけるける。。。佐佐さ々々さ木木きそのそのその隙隙ひまににに、、、そこそこそこをををつつつととと馳馳はせせせ拔拔ぬいいいててて、、、河河かわへへへさつさつさっとととぞぞぞ打打うち入入いつつったるたるたる。。。梶梶かじ原原はらたばからたばからたばかられれれぬぬぬとととややや思思おもひひいけんけんけん、、、やがてやがてやがてつゞいつゞいつづいててて打打うち入入いつつったりたりたり。。。梶梶かじ原原はら、、、「「「いかにいかにいかに佐佐さ々々さ木木き殿殿どの、、、高高こう名名みょうせうせうしょうとてとてとて不不ふ覺覺かくしししたまふたまふたまうななな。。。水水みずののの底底そこにににははは大大おお綱綱づなあるあるあるらんらんらん、、、心心こころ得得え給給たまへへえ。。。」」」ととといひいひいいけれけれければばば、、、佐佐さ々々さ木木きさもさもさもあるあるあるらんらんらんやややととと思思おもひひいけんけんけん、、、太太た刀刀ちをををぬいぬいぬいててて、、、馬馬うまののの足足あしにににかゝりかゝりかかりけるけるける大大おお綱綱づなどもどもどもををを、、、ふつ〳〵ふつ〳〵ふつふつととと打打うち切切きり〳〵り〳〵りうちきり、、、宇宇う治治じ川川がわ早早はやしししととといへいへいえどもどもども、、、生生いけ食食ずきととといふいふいう世世よ一一いちののの馬馬うまにににははは乘乘のつつったりたりたりけりけりけり、、、一一いち文文もん字字じにににさつさつさっととと渡渡わたいいいててて、、、向向むかひひいののの岸岸きしにににぞぞぞ打打うち上上あげげげたるたるたる。。。梶梶かじ原原はらががが乘乘のつつったりたりたりけるけるける磨磨する墨墨すみははは、、、川川かわ中中なかよりよりより篦篦の檠檠ため形形がたにににおしおしおし流流ながささされれれ、、、遙遙はるかかかののの下下しもよりよりより打打うち上上あげげげたりたりたり。。。
- 10そのそのその後後のち佐佐さ々々さ木木き鐙鐙あぶみふんばりふんばりふんばり立立たちちち上上あがりりり、、、大大だい音音おん聲聲じょうをををあげあげあげててて、、、「「「宇宇う多多だののの天天てん皇皇おうににに九九く代代だいののの後後こう胤胤いん、、、近近おう江江みののの國國くにののの住住じゅう人人にん佐佐さ々々さ木木き三三さぶ郎郎ろう義義よし秀秀ひでががが四四し男男なん、、、佐佐さ々々さ木木き四四し郎郎ろう高高たか綱綱つな宇宇う治治じ川川がわののの先先せん陣陣じんぞぞぞややや。。。」」」とととぞぞぞ名名な乘乘のつつったるたるたる。。。畠畠はたけ山山やま五五ご百百ひゃく餘餘よ騎騎き打打うち入入いつつっててて渡渡わたすすす。。。向向むかひひいののの岸岸きしよりよりより山山やま田田だののの次次じ郎郎ろうががが放放はなつつつ矢矢やににに、、、畠畠はたけ山山やま馬馬うまののの額額ひたいををを篦篦の深深ぶかににに射射いさせさせさせ、、、はぬれはぬれはぬればばば弓弓ゆん杖杖づえをををついついついててて下下おりりり立立たつつったりたりたり。。。岩岩いわ波波なみ兜兜かぶとののの手手て先先さきへへへ、、、さつさつさっとととおしおしおしかけかけかけけれけれけれどもどもども、、、畠畠はたけ山山やまこれこれこれををを事事ことととともももせせせずずず、、、水水みずののの底底そこををを潛潛くぐつつっててて向向むかひひいののの岸岸きしにににぞぞぞつきつきつきにににけるけるける。。。うちうちうち上上あがらららんんんとととするするする所所ところににに、、、後後うしろよりよりよりものものものこそこそこそむずむずむずととと控控ひかへへえたれたれたれ。。。「「「誰誰たぞぞぞ。。。」」」ととと問問とへへへばばば、、、「「「重重しげ親親ちか。。。」」」ととと答答こたふふう。。。「「「大大おお串串ぐしかかか。。。」」」「「「さんさんさん候候そうろう。。。」」」大大おお串串ぐしののの次次じ郎郎ろうははは畠畠はたけ山山やまががが爲爲ためにににははは、、、烏烏え帽帽ぼ子子し子子ごにてにてにてぞぞぞ候候さぶらひひいけるけるける。。。「「「あまりあまりあまりににに水水みずががが早早はようううててて、、、馬馬うまをををばばば川川かわ中中なかよりよりよりおしおしおし流流ながささされれれ候候そうらひひいぬぬぬ。。。力力ちから及及およばばばでででこれこれこれまでまでまで著著つききき參參まいつつっててて候候そうろう。。。」」」ととといひいひいいけれけれければばば、、、畠畠はたけ山山やま、、、「「「いついついつもももわわわ殿殿どのばらばらばらがががやうやうようなるなるなる者者ものははは、、、重重しげ忠忠ただにににこそこそこそ助助たすけけけられられられんんんずれずれずれ。。。」」」ととといふいふいう儘儘ままににに、、、大大おお串串ぐしををを摑摑つかんんんででで岸岸きしののの上上うえへへへぞぞぞ投投なげげげ上上あげげげたるたるたる。。。投投なげげげ上上あげげげられられられてててたゞたゞただなほりなほりなおり、、、太太た刀刀ちをををぬいぬいぬいててて額額ひたいにににあてあてあて、、、大大だい音音おん聲聲じょうをををあげあげあげててて、、、「「「武武む藏藏さしののの國國くにののの住住じゅう人人にん大大おお串串ぐしののの次次じ郎郎ろう重重しげ親親ちか、、、宇宇う治治じ川川がわののの歩歩かち立立だちののの先先せん陣陣じんぞぞぞややや。。。」」」とととぞぞぞ名名な乘乘のつつったるたるたる。。。敵敵かたきももも御御み方方かたもももこれこれこれををを聞聞きいいいててて、、、一一いち度度どにににどつどつどっとととぞぞぞ笑笑わらひひいけるけるける。。。
- 11そのそのその後後のち畠畠はたけ山山やま、、、乘乘のり替替かえににに乘乘のつつってててをめいをめいおめいててて驅驅かくくく。。。こゝこゝここににに魚魚ぎょ陵陵りょうののの直直ひた垂垂たれににに緋緋ひ縅縅おどしののの鎧鎧よろい著著きててて、、、連連れん錢錢ぜん葦葦あし毛毛げなるなるなる馬馬うまににに、、、金金きん覆覆ぷく輪輪りんののの鞍鞍くらををを置置おいいいててて乘乘のつつったりたりたりけるけるける武武む者者しゃ一一いっ騎騎き、、、まつまつまっ先先さきににに進進すすんんんだるだるだるををを、、、畠畠はたけ山山やま、、、「「「こゝこゝここににに驅驅かくるくるくるはははいかなるいかなるいかなる者者ものぞぞぞ、、、名名な乘乘のれれれややや。。。」」」ととといひいひいいけれけれければばば、、、「「「これこれこれははは木木き曾曾そ殿殿どのののの家家いえののの子子こににに、、、長長なが瀨瀨せののの判判ほう官官がん代代だい重重しげ綱綱つな。。。」」」ととと名名な乘乘のるるる。。。畠畠はたけ山山やまけふけふきょうののの軍軍いくさ神神がみ祝祝いわははわんんんとてとてとて、、、おしおしおし竝竝ならべべべてててむずむずむずととと組組くんんんででで引引ひき落落おとししし、、、わがわがわが乘乘のつつったりたりたりけるけるける鞍鞍くらののの前前まえ輪輪わにににおしおしおしつけつけつけ、、、ちつちつちっとととももも働働はたらかかかさささずずず、、、首首くびねぢねぢねじ切切きつつっててて、、、本本ほん田田だののの次次じ郎郎ろうががが鞍鞍くらのののとつつけとつつけとっつけにににこそこそこそつけつけつけさせさせさせけれけれけれ。。。これこれこれををを始始はじめめめててて、、、宇宇う治治じ橋橋ばし固固かためめめたりたりたりけるけるける兵兵つわものどもどもども、、、しばししばししばし支支ささへへえててて防防ふせぎぎぎ戰戰たたかふふうととといへいへいえどもどもども、、、東東とう國國ごくののの大大おお勢勢ぜいみなみなみな渡渡わたいいいててて攻攻せめめめけれけれければばば、、、力力ちから及及およばばばずずず、、、木木こ幡幡はた山山やま、、、伏伏ふし見見みをををさしさしさしてててぞぞぞ落落おちちち行行ゆきききけるけるける。。。勢勢せ多多たをををばばば稻稻いな毛毛げののの三三さぶ郎郎ろう重重しげ成成なりがががはからひはからひはからいにてにてにて、、、田田た上上がみののの供供く御御ごののの瀨瀨せをををこそこそこそ渡渡わたしししけれけれけれ。。。
現代語訳
同年正月十一日、木曾左馬頭義仲は院の御所に参って、平家追討のために西国へ向かうことを奏上した。同月十三日にいよいよ出発すると聞こえたが、鎌倉の前右兵衛佐頼朝が、木曾の狼藉を鎮めようとして、範頼・義経を先頭に数万騎の軍兵を上らせたところ、もう美濃国・伊勢国にも着いたと聞こえたので、木曾はたいそう驚き、宇治と勢多の橋を引き落として、軍兵を分けて差し向けた。折しも軍勢は少なかった。まず勢多の橋へは、大手であるからといって今井四郎兼平を八百余騎で差し向けた。宇治橋へは仁科・高梨・山田次郎を五百余騎で遣わした。一口(いもあらい)へは伯父の志田三郎先生義教が三百余騎で向かった。
さて東国から攻め上る大手の大将軍は蒲御曹司範頼、搦手の大将軍は九郎御曹司義経で、主だった大名三十余人、合わせてその勢六万余騎と聞こえた。そのころ鎌倉殿には、生食・磨墨という名高い名馬があった。生食を梶原源太景季がしきりに所望したが、「これは万一のことがあったとき、頼朝が武具をつけて乗るべき馬である。これも劣らぬ名馬だぞ」といって、梶原には磨墨をお与えになった。その後、近江国の住人佐々木四郎(高綱)がお暇乞いに参ったとき、鎌倉殿はどうお思いになったのか、「所望する者はいくらもあったが、そのことを心得よ」といって、生食を佐々木にお与えになった。佐々木はかしこまって申すには、「今度この御馬で、宇治川を真っ先に渡りましょう。もし死んだとお聞きになったら、人に先を越されたのだとお思いください。まだ生きているとお聞きになったら、きっと先陣は高綱がしたであろうとお思いください」といって御前を退出した。居合わせた大名・小名は、「なんと大胆な物言いよ」とささやき合った。
それぞれ鎌倉を発って、足柄を越えて行く者もあり、箱根を越える勢もあり、思い思いに上っていくうちに、駿河国の浮島が原で、梶原源太景季は高い所に上ってしばらく馬を止め、多くの馬を眺めていたが、思い思いの鞍を置かせ、色とりどりの鞦をかけ、乗り口で引かせたり両側から引かせたりして、幾千万とも数知れず引き通していくなかにも、景季が賜った磨墨にまさる馬はないと、うれしく思って見ていたところに、生食と思われる馬が一頭現れた。金覆輪の鞍を置かせ、小総の鞦をかけ、白い轡をはめ、白い泡をかませて、舎人が大勢ついていたが、それでも引き止めきれず、躍らせながら出てきた。梶原が近寄って、「これは誰の御馬か」「佐々木殿の御馬でございます」と申す。「佐々木は三郎殿か四郎殿か」「四郎殿の御馬でございます」といって引いて通る。梶原は「けしからぬことだ。同じように召し使われている景季を、佐々木に見かえられたとは残念なことだ。今度都へ上ったら、木曾殿の身内で四天王といわれる今井・樋口・楯・根井と組んで死ぬか、そうでなければ西国へ向かって、一騎当千といわれる平家の侍どもと戦って死のうと思っていたが、このお心ではそれもかいがない。結局、ここで佐々木を待ち受けて組み合い、刺し違えて、よい侍が二人死んで、鎌倉殿に損をさせ申そう」とつぶやいて待ち受けた。
佐々木は何の気もなく馬を歩ませてやって来た。梶原は、馬を並べて組もうか、正面からぶつかって落とそうかと思ったが、まず声をかけた。「どうした佐々木殿は、生食を賜ってお上りか」と言ったので、佐々木は、ああこの人も内々に所望していたと聞いていたのにと思い、「そうでございます。今度のこの大事に上って参りますが、きっと宇治・勢多の橋も引き落としてあるでしょう。乗って川を渡れる馬はありません。生食を所望しようとは思いましたが、あなたが申されてさえお許しがなかったと承りましたので、まして高綱などが申しても、まさかいただけまいと思い、後日どんなおとがめがあろうともかまわないと思いながら、明け方出発しようという夜に、舎人としめし合わせて、あれほど大切になさっている生食を盗み出して上ってきたのですが、どうでしょう、梶原殿」と言ったので、梶原はこの言葉に腹の虫がおさまって、「しゃくだな。それなら景季も盗めばよかった」といって、どっと笑って立ち去った。
佐々木四郎が賜った御馬は、黒栗毛の馬で、とても太くたくましく、馬にも人にも、あたりかまわず噛みついたので、生食と名づけられた。八寸の馬と聞こえた。梶原が賜った御馬も、とても太くたくましく、まことに黒かったので、磨墨と名づけられた。どちらも劣らぬ名馬である。
そうするうちに、東国から攻め上る大手・搦手の軍兵は、尾張国から二手に分かれて攻め上った。大手の大将軍は蒲御曹司範頼で、従う人々は、武田太郎・加賀美次郎・一条次郎・板垣三郎・稲毛三郎・榛谷四郎・熊谷次郎・猪俣小平六を先頭として、合わせてその勢三万五千余騎、近江国の野路・篠原に陣を取った。搦手の大将軍は九郎御曹司義経で、同じく従う人々は、安田三郎・大内太郎・畠山荘司次郎・梶原源太・佐々木四郎・糟屋藤太・渋谷右馬允・平山武者所を先頭として、合わせてその勢二万五千余騎、伊賀国を経て宇治橋のたもとに押し寄せた。
宇治も勢多も橋板を引きはがし、川底には乱杭を打って大綱を張り、逆茂木をつないで流しかけてある。ころは正月二十日過ぎのことなので、比良の高嶺や志賀の山の古い雪も消え、谷々の氷も解けて、水は折しも増していた。白波がおびただしくみなぎり落ち、瀬の波は大きく滝のように鳴りとどろき、逆巻く水も速かった。夜はすでにほのぼのと明けていくが、川霧が深く立ちこめて、馬の毛色も鎧の縅の色もはっきりしない。
大将軍の九郎御曹司は川岸に出て、水面を見渡し、人々の心を試そうと思われたのであろうか、「淀・一口へ向かおうか、また河内路へ回ろうか。水が引くのを待とうか、どうしよう」とおっしゃったところに、武蔵国の住人畠山荘司次郎重忠が、生年二十一歳であったが進み出て、「この川のことは、鎌倉でもよくよく議論いたしました。前もってご存じない海や川が急に現れたというのならともかく。近江の湖の末ですから、待っても待っても水は引きますまい。橋をまた誰が架けてさしあげましょうか。去る治承の合戦で足利又太郎忠綱が生年十七歳で渡したのも、まさか鬼神ではありますまい。重忠がまず瀬踏みをいたしましょう」といって、丹党を中心に五百余騎がひしひしと轡を並べたところに、平等院の東北、橘の小島が崎から、武者が二騎、馬を駆けに駆けさせて出てきた。一騎は梶原源太景季、一騎は佐々木四郎高綱である。人目には何とも見えなかったが、内心先陣を心がけていたのであろう、梶原は佐々木より一段(約十一メートル)ほど先に進んでいた。
佐々木が「どうした梶原殿、この川は西国一の大河ですぞ。腹帯がゆるんで見えますぞ。締めなされ」と言ったので、梶原はそうかもしれないと思ったのであろうか、手綱を馬のたてがみに投げかけ、左右の鐙を踏み離して、腹帯を解いて締め直した。佐々木はその隙に、そこをさっと駆け抜けて、川へさっと乗り入れた。梶原はだまされたと思ったのであろうか、すぐに続いて乗り入れた。梶原が「どうした佐々木殿、手柄を立てようとして失敗なさるな。川底には大綱があるだろう。用心なされ」と言ったので、佐々木はそうかもしれないと思ったのであろうか、太刀を抜いて、馬の足にかかる大綱をぷつぷつと切りながら、宇治川は流れが速いといっても、生食という天下一の馬に乗っていたので、一文字にさっと渡って、向こう岸に上がった。梶原の乗った磨墨は、川の中ほどから斜めに押し流されて、ずっと下流から岸に上がった。
その後佐々木は鐙を踏んばって立ち上がり、大音声をあげて、「宇多天皇から九代の子孫、近江国の住人佐々木三郎秀義の四男、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣だぞ」と名のった。畠山は五百余騎で乗り入れて渡る。向こう岸から山田次郎が放った矢に、畠山は馬の額を深く射られ、馬がはねたので、弓を杖にして降り立った。岩に砕ける波が兜の手先へさっと押しかかったが、畠山はこれをものともせず、水の底をくぐって向こう岸に着いた。岸に上がろうとしたところに、後ろから何者かがむんずとつかまってきた。「誰だ」と問うと、「重親」と答える。「大串か」「さようでございます」。大串次郎は、畠山にとっては烏帽子子にあたる者であった。「あまりに水が速くて、馬は川の中ほどで押し流されてしまいました。力及ばず、ここまでつかまって参りました」と言ったので、畠山は「いつもおまえたちのような者は、重忠に助けられるのだな」と言うなり、大串をつかんで岸の上へ投げ上げた。投げ上げられた大串はすぐに立ち直り、太刀を抜いて額にかざし、大音声をあげて、「武蔵国の住人大串次郎重親、宇治川の徒歩の先陣だぞ」と名のった。敵も味方もこれを聞いて、一度にどっと笑った。
その後畠山は替え馬に乗って、わめいて駆けた。そこに魚綾の直垂に緋縅の鎧を着て、連銭葦毛の馬に金覆輪の鞍を置いて乗った武者が一騎、真っ先に進んできたので、畠山が「そこに駆けてくるのは何者か。名のれ」と言うと、「これは木曾殿の家の子、長瀬判官代重綱」と名のった。畠山は今日の軍神の血祭りにしようといって、馬を並べてむんずと組んで引き落とし、自分の乗った鞍の前輪に押しつけて、少しも動かさず、首をねじ切って、本田次郎の鞍の取りつけにつけさせた。これを手始めに、宇治橋を固めていた兵たちはしばらく支えて防ぎ戦ったが、東国の大軍がみな渡って攻めたので、力及ばず、木幡山・伏見をさして落ちて行った。勢多は稲毛三郎重成のはからいで、田上の供御の瀬を渡った。
意訳
『平家物語』の中でもとりわけ名高い、宇治川の先陣争いの章段である。頼朝の名馬生食をめぐる梶原と佐々木の確執が、浮島が原での一触即発の場面を経て、宇治川の先陣争いへとつながっていく。佐々木は梶原に「盗んで来た」と偽り、川では「腹帯がゆるんでいる」とだまして先を越すが、その機転と大胆さが東国武士の気風として生き生きと描かれている。
徒歩で渡りきった畠山重忠が、流された大串を岸へ投げ上げ、大串が「徒歩の先陣」と名のって敵味方を笑わせる場面は、緊迫した合戦のなかのおおらかな笑いである。雪解けで増水した川を押し渡る東国の大軍の勢いは、まもなく訪れる義仲の最期を予感させる。
語釈・文法注
文法
- 「一口」
- 「いもあらひ」と読む。山城国の地名で、巨椋池の西岸にあたる。
- 「先生」
- 「せんじやう」。帯刀先生(皇太子の護衛の長)の略。
- 「生食」「磨墨」
- 頼朝が持っていた名馬。生食は人にも馬にも噛みつく荒馬、磨墨は墨をすったように黒い馬の意。
- 「その旨存知せよ」
- 所望の多かった馬を特に与えるのだから、その心得でいよ。
- 「荒涼の申しやう」
- 大げさで大胆な物言い。
- 「腹がゐて」
- 腹の虫がおさまって。
- 「ねつたい」
- 「ねたし」の音便。しゃくだ、いまいましい。
- 「八寸の馬」
- 馬の背の高さが四尺八寸(約一四五センチ)ある大きな馬。
- 「待つとも〳〵水ひまじ」
- 待っても待っても水は引くまい。「ひ」は「干る」。
- 「一反」
- 「一段」に同じ。六間(約十一メートル)。
- 「篦檠形」
- 「のためがた」。矢柄(篦)を矯めるように、斜めに押し流されるさま。
- 「烏帽子子」
- 元服のときに烏帽子親から烏帽子をかぶせてもらった子。
- 「軍神祝はん」
- 軍神への血祭りにしよう。
- 「とつつけ」
- 「取りつけ」の音便。鞍の後ろにつけた紐。
解説
宇治川の合戦は寿永三年(1184)正月二十日に行われた。佐々木高綱と梶原景季の先陣争いは、『源平盛衰記』『吾妻鏡』にも記され、のちに浄瑠璃・歌舞伎・講談などで繰り返し語られた。宇治の平等院近くには、先陣争いの碑が建てられている。
佐々木高綱の父は佐々木秀義で、近江源氏の流れをくむ。底本は「義秀」と刷るが、ふつうは「秀義」と伝える。生食(池月とも書く)と磨墨の伝説は東国各地に残り、それぞれの産地を名のる土地がある。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、643–649頁(コマ350–353)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日