平家物語 巻第七
一門の都落ちの事
平頼盛は、頼朝が常に好意を示していたことを頼みに、途中から都へ引き返して八条女院のもとにこもった。維盛ら小松殿の公達も遅れて行幸に追いつき、宗盛は涙ながらに迎えた。落ちて行く平家は一門の公卿・殿上人以下、七千余騎にすぎなかった。時忠は男山を伏し拝んで帰京を祈り、教盛・経盛は焼け落ちる都を振り返って歌を詠んだ。都に引き返した肥後守貞能は、重盛の墓を掘って遺骨を高野へ送り、東国へ落ちて行った。
- 1池池いけののの大大だい納納な言言ごん賴賴より盛盛もりののの卿卿きょうももも池池いけ殿殿どのににに火火ひかけかけかけててて出出いでででられられられたるたるたるががが、、、鳥鳥と羽羽ばののの南南みなみののの門門もんにてにてにて、、、忘忘わすれれれたるたるたる事事ことありありありとてとてとて、、、鎧鎧よろいにににつけつけつけたるたるたる赤赤あか印印じるしどもどもどもかなぐりかなぐりかなぐり捨捨すてててさせさせさせ、、、そのそのその勢勢せい三三さん百百びゃく餘餘よ騎騎き、、、都都みやこへへへ歸歸かえりりり上上のぼららられれれけりけりけり。。。越越えっ中中ちゅうののの次次じ郎郎ろう兵兵びょう衞衞え盛盛もり嗣嗣つぎ、、、弓弓ゆみ脇脇わき挾挾ばさみみみ、、、大臣殿大臣殿おおいどのののの御御ご前前ぜんににに馳馳はせせせ參參まいりりり、、、急急いそぎぎぎ馬馬うまよりよりより飛飛とんんんででで下下おりりり、、、畏畏かしこまつまつまっててて、、、「「「あれあれあれ御御ご覽覽らん候候そうらへへえ。。。池池いけ殿殿どの御御おん止止とどまりまりまりににに依依よつつっててて、、、多多おおくくくののの侍侍さぶらいどもどもども止止とどまりまりまり候候そうろうががが、、、奇奇き怪怪かいににに覺覺おぼえええ候候そうろう。。。池池いけ殿殿どのまでまでまではははそのそのその恐恐おそれれれももも候候そうらへへえばばば、、、侍侍さぶらいどもどもどもににに矢矢や一一ひとつつつ射射いかけかけかけ候候そうらははわばやばやばや。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、大臣殿大臣殿おおいどの、、、「「「今今いまこれこれこれ程程ほどのののありさまありさまありさまどもどもどもををを、、、見見みはてはてはてぬぬぬほどほどほどののの不不ふ當當とう人人にんははは、、、さささなくなくなくともともともありありありなななんんん。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、力力ちから及及およばばばででで射射いざりざりざりけりけりけり。。。「「「さてさてさて小小こ松松まつ殿殿どのののの公公きん達達だちはははいかにいかにいかに。。。」」」ととと宣宣のたまへへえばばば、、、「「「未未いまだだだ御御ご一一いっ所所しょももも見見みえええさせさせさせ給給たまひひい候候そうらははわずずず。。。」」」ととと申申もうすすす。。。大臣殿大臣殿おおいどの、、、「「「都都みやこををを出出いでででててて今今いま一一いち日日にちだにだにだに過過すぎぎぎざるざるざるににに、、、はやはやはや人人ひと々々びとののの心心こころどもどもどもののの變變かわりりりゆくゆくゆくうたてうたてうたてさささよよよ。。。」」」とととぞぞぞのたまひのたまひのたまいけるけるける。。。新新しん中中ちゅう納納な言言ごん知知とも盛盛もりののの卿卿きょう、、、「「「行行ゆく末末すえとてとてとてもももたのもしからたのもしからたのもしからずずず。。。たゞたゞただ都都みやこののの内内うちにてにてにていかにいかにいかにもももならならならせせせ給給たまへへえととと、、、さしもさしもさしも申申もうしししつるつるつるものものものををを。。。」」」とてとてとて、、、大臣殿大臣殿おおいどのののの御御おん方方かたををを、、、世世よにににもももうらめしげうらめしげうらめしげにににぞぞぞ見見み給給たまひひいけるけるける。。。
- 2そも〳〵そも〳〵そもそも池池いけ殿殿どのののの御御おん止止とどまりまりまりをををいかにいかにいかにととといふいふいうににに、、、兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ賴賴より朝朝とも、、、常常つねははは情情なさけをををかけかけかけ奉奉たてまつつつっててて、、、「「「全全まったくくく御御おん方方かたをををばばばおろそかおろそかおろそかににに思思おもひひい奉奉たてまつらららずずず、、、ひとへひとへひとえににに故故こ池池いけ殿殿どのののの御御おんわたりわたりわたりとととこそこそこそ存存ぞんじじじ候候そうらへへえ。。。八八はち幡幡まん大大だい菩菩ぼ薩薩さつももも御御ご照照しょう罰罰ばつ候候そうらへへえ。。。」」」などなどなど、、、度度たび々々たび誓誓せい狀狀じょうををを以以もっててて申申もうささされれれけりけりけり。。。平平へい家家け追追つい討討とうののの使使つかいののの上上のぼるるるごとごとごとににに、、、「「「相相あい構構かまへへえててて池池いけ殿殿どのののの侍侍さぶらいににに向向むかつつっててて弓弓ゆみ引引ひくくくななな。。。」」」なんどなんどなんど、、、事事ことにににふれふれふれててて芳芳ほう心心しんせせせられられられたりたりたりけれけれければばば、、、一一いち門門もんののの平平へい家家けははは運運うんつきつきつきててて都都みやこををを落落おちちちぬぬぬ。。。今今いまははは兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけにににこそこそこそ助助たすけけけられられられんずれんずれんずれとてとてとて、、、落落おちちち止止とどまらまらまられれれたりたりたりけるけるけるとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。
- 3八八はち條條じょうののの女女にょ院院いんははは、、、都都みやこをををばばば軍軍いくさににに恐恐おそれれれさせさせさせ給給たまひひいててて、、、仁仁にん和和な寺寺じののの常常とき盤盤は殿殿どのににに忍忍しのうううでででましましましましましましけるけるける所所ところへへへ參參まいりりり籠籠こもららられれれけりけりけり。。。このこのこの賴賴より盛盛もりののの卿卿きょうととと申申もうすすすははは、、、女女にょ院院いんののの御御おん乳乳め母母のと宰宰さい相相しょう殿殿どのととと申申もうすすす女女にょう房房ぼうににに、、、相相あい具具ぐせせせられられられたりたりたりけるけるけるににに依依よつつってててなりなりなり。。。「「「自自し然然ぜんののの事事ことももも候候そうらははわばばば、、、賴賴より盛盛もり助助たすけけけさせさせさせおはしませおはしませおわしませ。。。」」」ととと申申もうささされれれけれけれければばば、、、女女にょ院院いん、、、「「「今今いまははは世世よががが世世よででであらあらあらばばばこそこそこそ。。。」」」ととと、、、世世よにににたのもしげたのもしげたのもしげもももなうなうのうぞぞぞ仰仰おおせせせけるけるける。。。およそおよそおよそ兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけばかりばかりばかりこそこそこそ芳芳ほう心心しんををを存存ぞんずずずととといへいへいえどもどもども、、、自自じ餘餘よののの源源げん氏氏じ等等らはははいかゞいかゞいかがあらあらあらんずんずんずらんらんらん。。。なまじひなまじひなまじいににに一一いち門門もんにににははは引引ひき別別わかれれれててて落落おちちち止止とどまりまりまりぬぬぬ。。。波波なみにににももも磯磯いそにににもももつかつかつかぬぬぬ心心ここちちちぞぞぞせせせられられられけるけるける。。。
- 4さるさるさる程程ほどににに小小こ松松まつ殿殿どのののの公公きん達達だち兄兄きょう弟弟だい六六ろく人人にん、、、都都つ合合ごうそのそのその勢勢せい一一いっ千千せん餘餘よ騎騎き、、、淀淀よどののの六六むつ田田た河河かわ原原らにてにてにて行行ぎょう幸幸こうににに追追おひひいつきつきつき奉奉たてまつらららるるる。。。大臣殿大臣殿おおいどのなのめなのめなのめならならならずずずうれしげうれしげうれしげにてにてにて、、、「「「いかにいかにいかにややや今今いままでまでまでののの遲遲ち參參さん候候そうろう。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう、、、「「「幼幼おさなききき者者ものどもどもどもがががあまりあまりあまりににに慕慕したひひい候候そうろうををを、、、とかうとかうとこうこしらへこしらへこしらえ置置おかかかんんんととと仕仕つかまつるるるほどほどほどににに、、、存存ぞんじじじののの外外ほかののの遲遲ち參參さん候候そうろう。。。」」」ととと申申もうささされれれけれけれければばば、、、大臣殿大臣殿おおいどの、、、「「「などなどなど六六ろく代代だい殿殿どのをををばばば召召めししし具具ぐせせせられられられ候候そうらははわぬぬぬぞぞぞ。。。心心こころ強強づよくくくももも止止とどめめめ給給たまふふうものものものかなかなかな。。。」」」ととと宣宣のたまへへえばばば、、、三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう、、、「「「行行ゆく末末すえとてとてとてもももたのもしうたのもしうたのもしゅうももも候候そうらははわずずず。。。」」」とてとてとて、、、問問とふふうにににつらさつらさつらさののの涙涙なみだををを流流ながささされれれけるけるけるこそこそこそ悲悲かなしけれしけれしけれ。。。
- 5落落おちちちゆくゆくゆく平平へい家家けははは誰誰たれ々々たれぞぞぞ。。。前前さきののの内内ない大大だい臣臣じん宗宗むね盛盛もり公公こう、、、平平へい大大だい納納な言言ごん時時とき忠忠ただ、、、平平へい中中ちゅう納納な言言ごん教教のり盛盛もり、、、新新しん中中ちゅう納納な言言ごん知知とも盛盛もり、、、修修しゅ理理りののの大大だい夫夫ぶ經經つね盛盛もり、、、右右う衞衞え門門もんののの督督かみ清清きよ宗宗むね、、、本本ほん三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう重重しげ衡衡ひら、、、小小こ松松まつ三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう維維これ盛盛もり、、、同同おなじきじきじき新新しん三三ざん位位みののの中中ちゅう將將じょう資資すけ盛盛もり、、、越越えち前前ぜんののの三三さん位位み通通みち盛盛もり、、、殿殿てん上上じょう人人びとにににははは内藏内藏くらののの頭頭かみ信信のぶ基基もと、、、讚讚さぬ岐岐きののの中中ちゅう將將じょう時時とき實實ざね、、、左左さ中中ちゅう將將じょう清清きよ經經つね、、、同同おなじきじきじき少少しょう將將しょう有有あり盛盛もり、、、丹丹たん後後ごののの侍侍じ從從じゅう忠忠ただ房房ふさ、、、皇皇こう后后ごう宮宮ぐうののの亮亮すけ經經つね正正まさ、、、左左さ馬馬まののの頭頭かみ行行ゆき盛盛もり、、、薩薩さつ摩摩まののの守守かみ忠忠ただ度度のり、、、武武む藏藏さしののの守守かみ知知とも章章あきら、、、能能の登登とののの守守かみ教教のり經經つね、、、備備びっ中中ちゅうののの守守かみ師師もろ盛盛もり、、、尾尾お張張はりののの守守かみ清清きよ定定さだ、、、淡淡あわ路路じののの守守かみ清清きよ房房ふさ、、、若若わか狹狹さののの守守かみ經經つね俊俊とし、、、藏藏くら人人うどののの大大たい夫夫ふ業業なり盛盛もり、、、經經つね盛盛もりののの乙乙おと子子ご大大たい夫夫ふ敦敦あつ盛盛もり、、、兵兵ひょう部部ぶののの少少しょう輔輔ふ正正まさ明明あきら、、、僧僧そうにににははは二二に位位いののの僧僧そう都都ず專專せん親親しん、、、法法ほっ勝勝しょう寺寺じののの執執しゅ行行ぎょう能能のう圓圓えん、、、中中ちゅう納納な言言ごんののの律律りつ師師し仲仲ちゅう快快かい、、、經經きょう誦誦じゅ坊坊ぼうののの阿阿あ闍闍じゃ梨梨り祐祐ゆう圓圓えん、、、武武ぶ士士しにににははは受受ずりょ領領う、、、檢檢けん非非び違違い使使し、、、衞衞え府府ふ、、、諸諸しょ司司しののの尉尉じょう百百ひゃく六六ろく十十じゅう人人にん、、、都都つ合合ごうそのそのその勢勢せい七七しち千千せん餘餘よ騎騎き、、、これこれこれはははこのこのこの三三さん箇箇か年年ねんががが閒閒あいだ、、、東東とう國國ごく、、、北北ほっ國國こく、、、度度ど々々どののの軍軍いくさににに討討うちちちもらさもらさもらされれれててて、、、纔纔わずかににに殘殘のこるるる所所ところなりなりなり。。。
- 6平平へい大大だい納納な言言ごん時時とき忠忠ただののの卿卿きょう、、、山山やま崎崎ざき關關せき戸戸どののの院院いんににに玉玉たまののの御御み輿輿こしをををかきかきかきすゑすゑすえさせさせさせ、、、男男おとこ山山やまののの方方かた伏伏ふししし拜拜おがみみみ、、、「「「南南な無無む歸歸き命命みょう頂頂ちょう禮禮らい八八はち幡幡まん大大だい菩菩ぼ薩薩さつ、、、願願ねがははわくくくははは君君きみををを始始はじめめめ參參まいらせらせらせててて、、、われらわれらわれらををを今今いま一一いち度度ど故故こ郷郷きょうへへへ歸歸かえししし入入いれれれさせさせさせ給給たまへへえ。。。」」」ととと祈祈いのららられれれけるけるけるこそこそこそ悲悲かなしけれしけれしけれ。。。各各おのおの後後うしろををを顧顧かえりみみみ給給たまへへえばばば、、、霞霞かすめめめるるる雲雲くもののの心心ここちちちしてしてして、、、煙煙けぶりのみのみのみ心心こころ細細ぼそうううぞぞぞ立立たちちちのぼるのぼるのぼる。。。平平へい中中ちゅう納納な言言ごん教教のり盛盛もり、、、
- 7はかなしはかなしはかなしなななぬしぬしぬしははは雲雲くも井井いににに隔隔へだつれつれつればばば宿宿やどははは煙煙けぶりとととたちたちたちのぼるのぼるのぼるかなかなかな
- 8修修しゅ理理りののの大大だい夫夫ぶ經經つね盛盛もり、、、
- 9ふるさとふるさとふるさとををを燒燒やけ野野のががが原原はらとととかへりみかへりみかえりみててて末末すえもももけぶりけぶりけぶりののの波波なみ路路じをををぞぞぞゆくゆくゆく
- 10まことまことまことににに故故こ郷郷きょうをををばばば一一いっ片片ぺんののの煙煙えん塵塵じんににに隔隔へだてててつゝつゝつつ、、、前前ぜん途途と萬萬ばん里里りののの雲雲うん路路ろににに赴赴おもむかかかれれれけんけんけん心心こころのののうちうちうち、、、推推おししし量量はかららられれれてててあはれあはれあわれなりなりなり。。。
- 11肥肥ひ後後ごののの守守かみ貞貞さだ能能よしははは、、、川川かわ尻尻じりににに源源げん氏氏じ待待まつつつととと聞聞きいいいててて、、、蹴蹴け散散ちらさらさらさんんんとてとてとて、、、そのそのその勢勢せい五五ご百百ひゃく餘餘よ騎騎きででで發發はっ向向こうしししたりたりたりけるけるけるががが、、、ひがひがひが事事ことなれなれなればばばとてとてとて取取とつつっててて返返かへしししててて上上のぼるるる程程ほどににに、、、宇宇う度度ど野野のののの邊邊へんにてにてにて行行ぎょう幸幸こうににに參參まいりりりあひあひあい、、、急急いそぎぎぎ馬馬うまよりよりより飛飛とんんんででで下下おりりり、、、大臣殿大臣殿おおいどのののの御御ご前前ぜんににに參參まいりりり、、、畏畏かしこまつまつまっててて、、、「「「あなあなあな心心こころ憂憂うややや、、、こここはははいづちいづちいずちへへへとてとてとて渡渡わたらららせせせ給給たまひひい候候そうろうやらんやらんやらん、、、西西さい國國こくへへへ下下くだらららせせせ給給たまひひいたらたらたらばばば、、、落落おち人人うどとてとてとて、、、あそあそあそここここゝこゝここにてにてにて討討うちちちもらさもらさもらされれれててて、、、うきうきうき名名なををを流流ながさささせせせましまさましまさましまさんんんことことこと、、、口口くち惜惜おしうしうしゅう候候そうろうべしべしべし。。。たゞたゞただ都都みやこののの内内うちにてにてにて、、、いかにいかにいかにもももならならならせせせ給給たまふふうべうべうびょうもももややや候候そうろうらんらんらん。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、大臣殿大臣殿おおいどの、、、「「「貞貞さだ能能よしははは未未いまだだだ知知しらららぬぬぬかかか。。。木木き曾曾そ既既すでににに北北ほっ國國こくよりよりより五五ご萬萬まん餘餘よ騎騎きででで攻攻せめめめ上上のぼりりり、、、比比ひ叡叡えい山山さん、、、東東ひがし坂坂さか本本もとににに充充みちちち滿滿みちちちたりたりたり。。。法法ほう皇皇おうももも過過すぎぎぎししし夜夜よ半半わににに失失うせせせさせさせさせたまひたまひたまいぬぬぬ。。。人人ひと々々びとははは都都みやこののの中中うちにてにてにて、、、いかにいかにいかにもももならならならんんんととと申申もうししし合合あははわれれれけれけれけれどもどもども、、、まのあたりまのあたりまのあたり女女にょう院院いん、、、二二に位位い殿殿どのににに憂憂うききき目目めををを見見みせせせ參參まいらせらせらせんんんももも、、、わがわがわが身身みながらながらながら口口くち惜惜おしけれしけれしければばば、、、せめてせめてせめて行行ぎょう幸幸こう許許ばかりりりをををもももなしなしなし奉奉たてまつりりり、、、各各おのおのをををももも引引ひき具具ぐしししててて西西さい國國こくののの方方かたへへへ落落おちちち下下くだりりり、、、ひとひとひとまづまづまずもももととと思思おもふふうぞぞぞかしかしかし。。。」」」ととと宣宣のたまへへえばばば、、、「「「さささ候候そうらははわばばば、、、貞貞さだ能能よしははは身身みののの暇暇いとま賜賜たまはつはつわっててて、、、都都みやこののの中中うちにてにてにていかにいかにいかにもももなりなりなり候候そうらははわんんん。。。」」」とてとてとて、、、召召めししし具具ぐしししたりたりたりけるけるける五五ご百百ひゃく餘餘よ騎騎きののの勢勢せいをををばばば小小こ松松まつ殿殿どのののの公公きん達達だちにににつけつけつけ參參まいらせらせらせ、、、手手て勢勢ぜい三三さん十十じっ騎騎きばかりばかりばかり、、、都都みやこへへへ取取とつつっててて返返かえすすす。。。平平へい家家けののの餘餘よ黨黨とうののの都都みやこににに殘殘のこりりり止止とどまつまつまったるたるたるををを討討うたたたんんんとてとてとて、、、貞貞さだ能能よしががが歸歸かえりりり入入いるるる由由よし聞聞きこえええしかしかしかばばば、、、池池いけののの大大だい納納な言言ごんははは賴賴より盛盛もりががが身身みののの上上うえでででぞぞぞあらあらあらんずんずんずらんらんらんととと、、、大大おおきききににに恐恐おそれれれ騷騷さわがががれれれけりけりけり。。。
- 12されどもされどもされども貞貞さだ能能よしははは西西にし八八はち條條じょうののの燒燒やけ跡跡あとににに大大おお幕幕まく引引ひかかかせせせ、、、一一いち夜夜や宿宿しゅくしししたりたりたりけれけれけれどもどもども、、、歸歸かえりりり入入いらららせせせ給給たまふふう平平へい家家けののの公公きん達達だち一一いち人人にんもももおはせおはせおわせざりざりざりけれけれければばば、、、さすがさすがさすが世世よのののありさまありさまありさま心心こころ細細ぼそくくくややや思思おもひひいけんけんけん、、、源源げん氏氏じののの駒駒こまののの蹄蹄ひずめにににかけかけかけさせさせさせじじじとてとてとて、、、小小こ松松まつ殿殿どのののの御御おん墓墓はか掘掘ほらららせせせ、、、御御おん骨骨こつににに向向むかひひい奉奉たてまつつつっててて、、、泣泣なく〳〵く〳〵くなく申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「あなあなあなあさましあさましあさまし、、、御御ご一一いち門門もんののの御御おんはてはてはて御御ご覽覽らん候候そうらへへえ。。。生生しょうあるあるあるものものものははは必必かならずずず滅滅めつすすす。。。樂樂たのしみしみしみ盡盡つきききててて悲悲かなしみしみしみ來來きたるるるととといふいふいう事事ことをををばばば、、、昔昔むかしよりよりより書書かききき置置おきききたるたるたる事事ことにてにてにて候候そうらへへえどもどもども、、、まのあたりまのあたりまのあたり斯斯かかるかるかる憂憂うききき事事こと候候そうらははわずずず。。。君君きみははは斯斯かかるかるかるべかりべかりべかりけるけるける事事ことををを、、、かねかねかねててて覺覺さとらららせせせ給給たまひひいててて、、、佛佛ぶつ神神じん三三さん寶寶ぼうににに御御ご祈祈き誓誓せいあつあつあっててて、、、御御おん世世よををを早早はようううせせせさせさせさせまし〳〵まし〳〵ましましけるけるける事事ことこそこそこそ、、、ありありありがたうがたうがとう候候そうらへへえ。。。いかにいかにいかにもももしてしてしてそのそのその時時とき、、、貞貞さだ能能よしももも後後ご世世せののの御御おん供供とも仕仕つかまつつるつるつるべうべうびょう候候そうらひひいしししものものものををを、、、かひかひかいなきなきなき命命いのちながらへながらへながらへててて、、、今日今日きょうははは斯斯かかるかるかる憂憂うききき目目めにににあひあひあい候候そうろう事事ことこそこそこそ、、、口口くち惜惜おしうしうしゅう候候そうらへへえ。。。死死し期期ごののの時時ときははは、、、必必かならずずず一一いち佛佛ぶつ土土どへへへ迎迎むかへへえさせさせさせ給給たまへへえ。。。」」」ととと泣泣なく〳〵く〳〵くなくはるかはるかはるかにににかきかきかきくどきくどきくどき、、、骨骨こつをををばばば高高こう野野やへへへ送送おくりりり、、、あたりあたりあたりののの土土つちをををばばば賀賀か茂茂も川川がはへへへ流流ながさささせせせ、、、行行ゆく末末すえたのもしからたのもしからたのもしからずずずややや思思おもひひいけんけんけん、、、主主しゅうととと後後うしろあはせあはせあわせににに東東とう國國ごくののの方方かたへへへぞぞぞ落落おちちちゆきゆきゆきけるけるける。。。貞貞さだ能能よしははは先先せん年年ねん宇宇う都都つの宮宮みやををを申申もうししし預預あずかつつっててて、、、そのそのその時時とき情情なさけありありありしかしかしかばばば、、、今今こん度度どもももまたまたまた宇宇う都都つの宮宮みやををを賴賴たのうううででで下下くだりりりたりたりたりけれけれければばば、、、そのそのそのよしみよしみよしみにににややや芳芳ほう心心しんしししけるけるけるとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。
- 13平平へい家家けははは小小こ松松まつののの三三さん位位み中中ちゅう將將じょう維維これ盛盛もりののの卿卿きょうののの外外ほかははは、、、大臣殿大臣殿おおいどの以以い下下げ、、、妻妻さい子子しををを具具ぐせせせられられられけれけれけれどもどもども、、、次次つぎざまざまざまののの人人ひと々々びとはははさささのみのみのみ引引ひきききしらふしらふしらうにににももも及及およばばばねねねばばば、、、後後こう會會かいそのそのその期期ごををを知知しらららずずず、、、皆皆みなうちうちうち棄棄すててててててぞぞぞ落落おちちち行行ゆきききけるけるける。。。人人ひとはははいづれいづれいずれののの日日ひ、、、いづれいづれいずれののの時時とき、、、必必かならずずず立立たち歸歸かえるるるべしべしべしととと、、、そのそのその期期ごををを定定さだめめめ置置おくくくだにだにだにももも、、、別別わかれれれははは悲悲かなしきしきしきならひならひならいぞぞぞかしかしかし。。。況況いわんんんやややこれこれこれははは今日今日きょうををを最最さい後後ご、、、只只ただ今今いま限限かぎりりりののの事事ことなれなれなればばば、、、行行ゆくくくももも止止とどまるまるまるももも互互たがいににに袖袖そでをををぞぞぞしぼりしぼりしぼりけるけるける。。。相相そう傳傳でん譜譜ふ代代だいのののよしみよしみよしみ、、、年年とし來來ごろ日日ひ頃頃ごろののの重重じゅう恩恩おん、、、いかでいかでいかでかかか忘忘わするるるべきべきべきなれなれなればばば、、、老老おいいいたるたるたるももも若若わかきききももも、、、みなみなみな跡跡あとをををのみのみのみ顧顧かえりみみみててて、、、先先さきへへへははは進進すすみみみもももやらやらやらざりざりざりけりけりけり。。。或或あるいははは磯磯いそべべべののの浪浪なみ枕枕まくら、、、八八や重重へののの潮潮しお路路じににに日日ひををを暮暮くらししし、、、或或あるいははは遠遠とおきききをををわけわけわけ、、、けはしきけはしきけわしきををを凌凌しのいいいででで、、、駒駒こまににに鞭鞭むちつつつ人人ひともももありありあり、、、船船ふねににに棹棹さおさすさすさす者者ものもももありありあり、、、思思おもひ〳〵ひ〳〵いおもい心心こころ々々ごころにににぞぞぞ落落おちちちゆきゆきゆきけるけるける。。。
現代語訳
池の大納言頼盛卿も池殿に火をかけて出られたが、鳥羽の南の門で、忘れたことがあるといって、鎧につけていた赤印をかなぐり捨てさせ、その勢三百余騎で都へ引き返された。越中次郎兵衛盛嗣は弓を脇にはさんで大臣殿の御前に駆けつけ、急いで馬から飛び下り、かしこまって、「あれをご覧ください。池殿がお残りになるので、多くの侍たちも残っておりますのは、けしからぬことに思われます。池殿にはおそれ多いことですが、侍どもに矢を一本射かけてやりたいものです」と申したので、大臣殿は「今これほどのありさまを見届けられないような不心得者は、いなくてもよかろう」とおっしゃったので、どうしようもなく射なかった。「さて小松殿の公達はどうしたのか」とおっしゃると、「まだお一人もお見えになりません」と申す。大臣殿は「都を出てまだ一日もたたないのに、もう人々の心が変わっていくのは情けないことだ」とおっしゃった。新中納言知盛卿は「行く末も頼もしくはありません。ただ都の内でどうともなられよと、あれほど申しましたのに」といって、大臣殿の方を、ひどく恨めしそうにご覧になった。
そもそも池殿が残られたのはなぜかというと、兵衛佐頼朝がいつも好意を寄せて、「決してあなたをおろそかには思いません。ひとえに亡き池殿(池禅尼)がおいでになるのと同じに思っております。八幡大菩薩もご照覧ください」などと、たびたび誓状で申されていた。平家追討の使いが上るたびに、「よくよく池殿の侍に向かって弓を引くな」などと、事あるごとに好意を示されたので、一門の平家は運が尽きて都を落ちた。今は兵衛佐に助けてもらえるだろうといって、残られたのだと聞こえた。
八条女院は、都を戦に恐れられて、仁和寺の常盤殿に忍んでおられたが、頼盛はそこへ参ってこもられた。この頼盛卿というのは、女院の乳母の宰相殿という女房を妻にしておられたからである。「もしものことがございましたら、頼盛をお助けください」と申されたので、女院は「今は世が世であればこそ」と、まったく頼りなげにおっしゃった。およそ兵衛佐だけは好意を持っているとはいっても、ほかの源氏たちはどうであろうか。なまじ一門とは別れて残ってしまった。波にも磯にもつかないような、どっちつかずの心地がされた。
そのうちに小松殿の公達兄弟六人、総勢一千余騎が、淀の六田河原で行幸に追いつかれた。大臣殿はひととおりでなく嬉しそうで、「どうして今まで遅れたのか」とおっしゃると、三位中将(維盛)は「幼い者たちがあまりに慕いますのを、なんとかなだめておこうとしておりますうちに、思いのほか遅くなりました」と申されたので、大臣殿は「どうして六代殿をお連れにならないのか。気強くも残してこられたものだ」とおっしゃると、三位中将は「行く末も頼もしくはございませんので」といって、問われてかえってつらさの涙を流されたのは悲しいことであった。
落ちて行く平家は誰々か。前内大臣宗盛公、平大納言時忠、平中納言教盛、新中納言知盛、修理大夫経盛、右衛門督清宗、本三位中将重衡、小松三位中将維盛、同じく新三位中将資盛、越前三位通盛、殿上人には内蔵頭信基、讃岐中将時実、左中将清経、同じく少将有盛、丹後侍従忠房、皇后宮亮経正、左馬頭行盛、薩摩守忠度、武蔵守知章、能登守教経、備中守師盛、尾張守清定、淡路守清房、若狭守経俊、蔵人大夫業盛、経盛の末子大夫敦盛、兵部少輔正明、僧には二位僧都専親、法勝寺の執行能円、中納言律師仲快、経誦坊の阿闍梨祐円、武士には受領・検非違使・衛府・諸司の尉百六十人、総勢七千余騎。これはこの三年の間、東国・北国のたびたびの戦で討ちもらされて、わずかに残った人々である。
平大納言時忠卿は、山崎の関戸の院で天皇の御輿を据えさせ、男山(石清水八幡宮)の方を伏し拝んで、「南無帰命頂礼八幡大菩薩、どうか天皇をはじめとして、われらをもう一度故郷へ帰らせてください」と祈られたのは悲しいことであった。それぞれ後ろを振り返られると、霞んだ雲のような心地がして、煙だけが心細く立ちのぼっている。平中納言教盛は、
はかないことよ。主(天皇)は雲の上を離れて遠く隔たってしまわれたので、残された宿は煙となって立ちのぼることだ。
修理大夫経盛は、
故郷を焼け野が原となって振り返り、行く末も煙のような波路を進んで行くことだ。
まことに故郷を一片の煙と塵の向こうに隔てて、前途万里の雲路に赴かれた心の中が推し量られて哀れである。
肥後守貞能は、川尻に源氏が待ち構えていると聞いて、蹴散らそうと五百余騎で出向いたが、誤報であったので引き返して上って来るうちに、宇度野のあたりで行幸に参り会い、急いで馬から飛び下りて大臣殿の御前に参り、かしこまって、「ああ情けない。これはどちらへお移りになるのですか。西国へお下りになったら、落人として、あちこちで討ちもらされて浮き名を流されることは残念でございましょう。ただ都の内で、どうともなられるのがよろしいのではございませんか」と申したので、大臣殿は「貞能はまだ知らないのか。木曾はすでに北国から五万余騎で攻め上り、比叡山・東坂本に満ちている。法皇も昨夜お姿を消された。人々は都の内でどうともなろうと申し合わせていたが、目の前で女院や二位殿につらい目を見せるのも、わが身ながら残念なので、せめて行幸だけでもお供し、皆を連れて西国の方へ落ちて行き、ひとまずはと思うのだ」とおっしゃると、「それならば、貞能はお暇をいただいて、都の中でどうともなりましょう」といって、連れていた五百余騎を小松殿の公達につけ申し上げ、手勢三十騎ほどで都へ引き返した。平家の残党で都に残っている者を討とうとして貞能が帰って来ると聞こえたので、池の大納言は自分の身の上のことであろうと、たいそう恐れ騒がれた。
けれども貞能は西八条の焼け跡に大幕を引かせて一夜を明かしたが、帰って来られる平家の公達は一人もおられなかったので、さすがに世のありさまを心細く思ったのであろうか、源氏の馬の蹄にかけさせまいとして、小松殿(重盛)のお墓を掘らせ、遺骨に向かって泣く泣く申すには、「ああ情けない。ご一門の行く末をご覧ください。生ある者は必ず滅びる。楽しみが尽きて悲しみが来るということは、昔から書き置かれたことでございますが、目の当たりにこれほどつらいことはございません。君はこうなることをかねて悟られて、仏神三宝にお祈りなさって、早く世を去られたのはありがたいことでございました。どうにかしてそのとき、貞能も後世のお供をいたすべきでしたのに、かいのない命を長らえて、今日はこのようなつらい目にあいますのは残念でございます。死ぬときには必ず同じ仏国土へお迎えください」と泣く泣く遠くかきくどいて、遺骨は高野山へ送り、あたりの土は賀茂川へ流させ、行く末を頼もしくないと思ったのであろうか、主人と背中合わせに東国の方へ落ちて行った。貞能は先年宇都宮朝綱を預かって、そのとき情けをかけていたので、今度もまた宇都宮を頼って下ったところ、そのよしみで好意をもって迎えられたと聞こえた。
平家は小松三位中将維盛卿のほかは、大臣殿以下妻子を連れておられたが、身分の低い人々はそこまで連れて行くこともできないので、再会の時もわからないまま、皆残して落ちて行った。人は、いつの日、いつの時に必ず帰ると約束しておいてさえ、別れは悲しいものである。ましてこれは今日を最後、今かぎりのことなので、行く者も残る者も互いに袖をしぼった。先祖代々のよしみ、年来の重い恩を、どうして忘れられようか。老いた者も若い者も、みな後ろばかりを振り返って、先へは進めなかった。あるいは磯辺の波を枕にし、八重の潮路で日を暮らし、あるいは遠い道を分け、険しい道を越えて、馬に鞭打つ人もあり、船に棹さす者もあり、思い思いにばらばらに落ちて行った。
意訳
平家一門の都落ちの全体を描く章段である。頼朝の好意を頼みに一門を離れて都に残る頼盛、遅れて追いつく維盛、落ちて行く人々の名を連ねた列挙など、混乱の中の人々の姿がさまざまに描かれる。
時忠の祈り、教盛・経盛の歌、そして重盛の遺骨を高野へ送る貞能の姿は、二度と帰れない都への名残を伝えている。物語は「思ひ思ひ心々にぞ落ちゆきける」と結び、一門がばらばらに西海へ散っていくさまを印象深く描く。
語釈・文法注
文法
- 「不當人」
- けしからぬ者、不心得者。
- 「芳心」
- 好意、親切。
- 「波にも磯にもつかぬ心ち」
- どちらにもつかない、宙に浮いたような不安な心地。
- 「問ふにつらさの涙」
- 問われることでかえってつらさが増して流す涙。
- 「後あはせに」
- 背中合わせに。主人とは反対の方へ。
和歌
はかなしなぬしは雲井に隔つれば宿は煙とたちのぼるかな
- 詠者
- 平教盛
- 状況
- 都落ちの途中、焼け落ちる都を振り返って詠んだ歌。
修辞
- 掛詞
- 「雲井」に宮中と遠く隔たった空をかける。
ふるさとを燒野が原とかへりみて末もけぶりの波路をぞゆく
- 詠者
- 平経盛
- 状況
- 焼け野が原となった都を振り返り、西海へ向かう心を詠んだ歌。
修辞
- 縁語
- 「燒野」「けぶり」は縁語。
解説
平頼盛(1133〜1186)は清盛の異母弟で、母池禅尼が平治の乱の後に頼朝の助命を嘆願した縁から、頼朝に厚遇された。頼盛は都落ちに加わらず、のちに鎌倉へ下って頼朝に迎えられる。肥後守貞能(平貞能)は重盛に仕えた家人で、都落ちの後、宇都宮朝綱を頼って東国へ下った。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、592–597頁(コマ325–327)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日