平家物語 巻第十
熊野参詣の事
維盛は岩田川を渡り、熊野本宮の証誠殿で一夜を祈り明かした。かつて父重盛がこの御前で、命を召して後世を助けよと祈ったことを思い出し、阿弥陀如来に浄土へ導いてくれるよう祈るとともに、都に残した妻子の無事を祈らずにはいられなかった。翌朝、船で新宮へ、さらに那智の御山へ参った。那智にこもる僧の中に、かつて都で維盛を見知っていた者がいて、安元の五十の御賀で桜の花をかざして青海波を舞った若き日の維盛の華やかな姿を語り、今のやつれ果てた姿との違いに涙を流した。
- 1やう〳〵やう〳〵ようようさしさしさし給給たまふふう程程ほどににに岩岩いわ田田た川川がわにににももも著著つききき給給たまひひいぬぬぬ。。。このこのこの川川かはののの流流ながれれれををを一一いち度度どももも渡渡わたるるる者者ものははは、、、惡惡あく業業ごう、、、煩煩ぼん惱惱のう、、、無無む始始しののの罪罪ざい障障しょう消消きゆゆゆなるなるなるものものものをををととと、、、たのもしうたのもしうたのもしゅうぞぞぞおぼしめすおぼしめすおぼしめす。。。本本ほん宮宮ぐう證證しょう誠誠じょう殿殿でんののの御御おん前前まえにににててて靜靜しずかかかににに法法ほっ施施せ參參まいらららせせせててて、、、夜夜よもすがらもすがらもすがら御御お山山やまののの體體ていをををながめながめながめ給給たまふふうににに、、、心心こころもももことばことばことばももも及及およばばばれれれずずず。。。大大だい悲悲ひ擁擁おう護護ごののの霞霞かすみははは熊熊ゆ野野や山山さんにににたなびきたなびきたなびき、、、靈靈れい驗驗げん無無ぶ雙雙そうののの神神しん明明めいははは音音おと無無なし川川がわににに跡跡あとををを垂垂たるるる。。。一一いち乘乘じょう修修しゅ行行ぎょうののの岸岸きしにににははは感感かん應應おうののの月月つき隈隈くまもももなくなくなく、、、六六ろく根根こん懺懺さん悔悔げののの庭庭にはにににははは妄妄もう想想ぞうののの露露つゆももも結結むすばばばずずず。。。いづれも〳〵いづれも〳〵いずれもいずれもたのもしからたのもしからたのもしからずずずととといふいふいう事事ことなしなしなし。。。
- 2夜夜よ更更ふけけけ人人ひと靜靜しずまつまつまっててて後後のち、、、啓啓けい白白びゃくししし給給たまひひいけるけるけるははは、、、父父ちちののの大臣大臣おとどのののこのこのこの御御おん前前まえにににててて、、、命命いのちををを召召めしししててて後後ご世世せををを助助たすけけけさせさせさせ給給たまへへえととと、、、祈祈いのりりり申申もうさささせせせ給給たまひひいししし御御おん事事ことなどなどなどまでまでまでももも、、、思思おぼし召召めししし出出いでででてててあはれあはれあわれなりなりなり。。。中中なかにににももも當當とう山山ざん權權ごん現現げんははは、、、本本ほん地地じ阿阿あ彌彌み陀陀だ如如にょ來來らいにににててておはしますおはしますおわします。。。攝攝せっ取取しゅ不不ふ捨捨しゃののの本本ほん願願がんあやまたあやまたあやまたずずず、、、淨淨じょう土土どへへへ導導みちびききき給給たまへへえととと祈祈いのりりり申申もうささされれれけるけるける。。。中中なかにににももも故故ふる鄕鄕さとににに止止とどめめめ置置おきききたまひたまひたまいししし妻妻さい子子し安安あん穩穩おんにににととと、、、祈祈いのららられれれけるけるけるこそこそこそ悲悲かなしけれしけれしけれ。。。憂憂うききき世世よをををいとひいとひいとい、、、まことまことまことののの道道みちににに入入いりりり給給たまへへえどもどもども、、、妄妄もう執執じゅうはははなほなほなお盡盡つきききずずずととと覺覺おぼえええててて、、、あはれあはれあわれなりなりなりししし事事ことどもどもどもなりなりなり。。。
- 3あくれあくれあくればばば本本ほん宮宮ぐうよりよりより船船ふねににに乘乘のりりり、、、新新しん宮宮ぐうへへへぞぞぞ參參まいららられれれけるけるける。。。神神かんののの座座くらををを拜拜おがみみみ給給たまふふうににに、、、岩岩がん松松しょう高高たかくくく聳聳そびえええててて、、、嵐嵐あらし妄妄もう想想ぞうののの夢夢ゆめををを破破やぶりりり、、、流流りゅう水水すい淸淸きよくくく流流ながれれれててて、、、浪浪なみ塵塵じん埃埃あいののの垢垢あかをををすゝぐすゝぐすすぐらんらんらんとととももも覺覺おぼえええたりたりたり。。。飛飛あ鳥鳥すかののの社社やしろ伏伏ふししし拜拜おがみみみ、、、佐佐さ野野のののの松松まつ原原ばらさしさしさし過過すぎぎぎててて、、、那那な智智ちののの御御お山山やまににに參參まいりりり給給たまふふう。。。三三さん重重じゅうににに漲漲みなぎりりり落落おつるつるつる瀧瀧たきののの水水みず、、、數數すう千千せん丈丈じょうまでまでまで攀攀よぢぢじ上上のぼりりり、、、觀觀かん音音おんののの靈靈れい像像ぞうははは岩岩いわののの上上うえにににあらはれあらはれあらわれててて、、、補補ふ陀陀だ落落らく山山せんととともももいひいひいいつつつべしべしべし。。。霞霞かすみののの底底そこにににははは法法ほっ華華け讀讀どく誦誦じゅののの聲聲こえ聞聞きこゆゆゆ。。。靈靈りょう鷲鷲じゅ山山せんとととももも申申もうしししつつつべしべしべし。。。
- 4抑抑そもそも權權ごん現現げん當當とう山山ざんににに跡跡あとををを垂垂たれれれさせさせさせまし〳〵まし〳〵ましましてててよりよりよりこのこのこのかたかたかた、、、わがわがわが朝朝ちょうののの貴貴き賤賤せん上上じょう下下げ、、、歩歩あゆみみみををを運運はこびびび、、、頭頭こうべををを傾傾かたぶけけけ、、、掌掌たなごころををを合合あははわせせせててて、、、利利り生生しょうににに預預あずからららずずずととといふいふいう事事ことなしなしなし。。。僧僧そう侶侶りょされされさればばば甍甍いらかををを竝竝ならべべべ、、、道道どう俗俗ぞく袖袖そでををを聯聯つらねねねたりたりたり。。。寛寛かん和和わののの夏夏なつのののころころころ、、、花花か山山ざんののの法法ほう皇皇おう十十じゅう善善ぜんののの帝帝てい位位いをををすべらすべらすべらせせせ給給たまひひいててて、、、九九く品品ほんののの淨淨じょう刹刹せつををを行行おこなははわせせせ給給たまひひいけんけんけん御御おん庵庵あん室室じつののの舊舊きゅう跡跡せきにににははは、、、昔昔むかしをををしのぶしのぶしのぶとととおぼしくおぼしくおぼしくててて、、、老老ろう木木ぼくののの櫻櫻さくらぞぞぞ咲咲さきききにににけるけるける。。。いくらいくらいくらもももなみなみなみゐゐいたりたりたりけるけるける那那な智智ちごもりごもりごもりののの僧僧そうどもどもどもののの中中なかににに、、、このこのこの三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう殿殿どのををを都都みやこにににてててよくよくよく見見み知知しりりり參參まいらららせせせたるたるたるとととおぼしくおぼしくおぼしくててて、、、同同どう行行ぎょうののの僧僧そうににに語語かたりりりけるけるけるははは、、、「「「これこれこれなるなるなる修修しゅ行行ぎょう者者じゃををを誰誰たれやらんやらんやらんととと思思おもひひいゐゐいたれたれたればばば、、、あなあなあな事事こともももおろかおろかおろかややや、、、小小こ松松まつののの大臣殿大臣殿おおいどのののの御御おん嫡嫡ちゃく子子し三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう殿殿どのにににてててましますましますましますなりなりなり。。。あのあのあの殿殿とのののの未未いまだだだ四四し位位いののの少少しょう將將しょうなりなりなりししし安安あん元元げんののの春春はるののの頃頃ころ、、、院院いんののの御御ご所所しょ法法ほう住住じゅう寺寺じ殿殿どのにににててて五五ご十十じゅうののの御御ご賀賀がのののありありありしししににに、、、父父ちち小小こ松松まつ殿殿どのははは内内ない大大だい臣臣じんののの左左さ大大だい將將しょうにににててておはしますおはしますおわします。。。叔叔お父父じ宗宗むね盛盛もりののの卿卿きょうははは大大だい納納な言言ごんののの右右う大大だい將將しょうにににててて、、、階階かい下下かににに著著ちゃく座座ざせせせられられられききき。。。そのそのその外外ほか三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう知知とも盛盛もり、、、頭頭とうののの中中ちゅう將將じょう重重しげ衡衡ひら以以い下下げ、、、一一いち門門もんののの公公く卿卿ぎょう殿殿てん上上じょう人人びと、、、今日今日きょうをををはれはれはれととと時時ときめきめきめき、、、垣垣かい代代しろににに立立たちちち給給たまひひいししし中中なかよりよりより、、、このこのこの三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう殿殿どの、、、櫻櫻さくらののの花花はなをををかざいかざいかざいててて靑靑せい海海がい波波はををを舞舞もうううててて出出いでででられられられたりたりたりしかしかしかばばば、、、露露つゆにににこびこびこびたるたるたる花花はなののの御御おん姿姿すがた、、、風風かぜににに飜飜ひるがえるるる舞舞まいののの袖袖そで、、、地地ちををを照照てらしらしらし天天てんももも輝輝かがやくくく許許ばかりりりなりなりなり。。。女女にょう院院いんよりよりより關關かん白白ぱく殿殿どのををを御御おん使使つかいにににててて御御ぎょ衣衣いをををかけかけかけられられられしかしかしかばばば、、、父父ちちののの大臣殿大臣殿おおいどの座座ざををを立立たちちち、、、これこれこれををを賜賜たまはつはつわっててて右右みぎののの肩肩かたにににかけかけかけ、、、院院いんををを拜拜はいししし奉奉たてまつりりり給給たまふふう。。。面面めん目目ぼくたぐひたぐひたぐい少少すくなうなうのうぞぞぞ見見みえええししし。。。かたへかたへかたえののの殿殿てん上上じょう人人びともももいかいかいか許許ばかりりり羨羨うらやましうましうましゅうややや思思おもははわれれれけんけんけん。。。内内だい裏裏りののの女女にょう房房ぼうたちたちたちののの中中なかにににははは、、、深深み山山やま木木ぎののの中中なかののの楊楊よう梅梅ばいとととこそこそこそ覺覺おぼゆれゆれゆれなんどなんどなんどいはいはいわれれれ給給たまひひいししし人人ひとぞぞぞかしかしかし。。。たゞたゞただ今今いま大大だい臣臣じんののの大大たい將將しょうををを待待まちちちかけかけかけ給給たまへへえるるる人人ひととととこそこそこそ見見み奉奉たてまつりりりしししににに、、、今日今日きょうはははかくかくかくやつれやつれやつれはてはてはて給給たまへへえるるる御御おんありさまありさまありさま、、、かねかねかねてててははは思思おもひひい寄寄よらららざりざりざりしししをををややや。。。移移うつれれればばば變變かわるるる世世よのののならひならひならいとととはははいひいひいいながらながらながら、、、あはれあはれあわれなりなりなりけるけるける御御おん事事ことかなかなかな。。。」」」とととててて、、、袖袖そでををを顏顏かおにににおしおしおし當當あてててててて、、、さめざめさめざめさめざめととと泣泣なきききけれけれければばば、、、那那な智智ちごもりごもりごもり僧僧そうどもどもどもももも、、、みなみなみなうちうちうち衣衣ごろもののの袖袖そでをををぞぞぞしぼりしぼりしぼりけるけるける。。。
現代語訳
しだいに歩みを進められるうちに、岩田川にお着きになった。この川の流れを一度でも渡る者は、悪業・煩悩・無始以来の罪障が消えるというものをと、頼もしくお思いになる。本宮の証誠殿の御前で静かに法施を捧げ申して、夜通し御山のありさまを眺めておられると、心も言葉も及ばない。大悲擁護の霞は熊野山にたなびき、霊験無双の神明は音無川に跡を垂れておられる。一乗修行の岸には感応の月がくまなく照らし、六根懺悔の庭には妄想の露も結ばない。どれもこれも頼もしくないということはない。
夜が更けて人が寝静まった後、祈りを申し上げられたことには、父の大臣(重盛)がこの御前で、命を召して後世を助けてくださいと祈られたことまでも思い出されて哀れである。とりわけこの山の権現は、本地が阿弥陀如来でいらっしゃる。摂取不捨の本願にたがわず、浄土へお導きくださいと祈られた。その中でも、故郷に残しておかれた妻子が無事であるようにと祈られたのは悲しいことであった。憂き世をいとい、まことの道に入られたけれども、妄執はなお尽きないと思われて、哀れなことどもであった。
夜が明けると本宮から船に乗り、新宮へ参られた。神の御座を拝まれると、岩の上の松が高くそびえて、嵐が妄想の夢を破り、流れる水は清らかで、波が塵や埃の垢をすすぐかのように思われた。飛鳥の社を伏し拝み、佐野の松原を過ぎて、那智の御山に参られた。三段にみなぎり落ちる滝の水は数千丈の高さまでよじ登るようで、観音の霊像は岩の上に現れて、補陀落山ともいえそうである。霞の底には法華経を読誦する声が聞こえる。霊鷲山とも申せそうである。
そもそも権現がこの山に跡を垂れておいでになってからこのかた、わが国の貴賤上下が歩みを運び、頭を垂れ、掌を合わせて、ご利益にあずからないということはない。だから僧侶は甍を並べ、出家も在家も袖を連ねて参っている。寛和の夏のころ、花山法皇が十善の帝位を退かれて、九品の浄土を願って修行なさったという御庵室の旧跡には、昔をしのぶかのように老木の桜が咲いていた。大勢並んでいた那智ごもりの僧の中に、この三位中将殿を都でよく見知り申していたらしい者がいて、同行の僧に語るには、「この修行者は誰だろうと思っていたら、なんと言うのも愚かなことだ、小松の大臣殿のご嫡子三位中将殿でいらっしゃる。あの殿がまだ四位少将であった安元の春のころ、院の御所法住寺殿で五十の御賀があったとき、父の小松殿は内大臣で左大将でいらした。叔父の宗盛卿は大納言で右大将として、階下に着座された。そのほか三位中将知盛、頭中将重衡以下、一門の公卿殿上人が今日を晴れと時めいて垣代に立たれた中から、この三位中将殿が桜の花をかざして青海波を舞って出てこられたので、露にしっとりとした花のようなお姿、風にひるがえる舞の袖は、地を照らし天も輝くほどであった。女院から関白殿を御使いとして御衣をかけられたので、父の大臣殿が座を立ち、これをいただいて右の肩にかけ、院を拝し申された。たぐいまれな面目と見えた。そばの殿上人もどれほどうらやましく思われたことか。内裏の女房たちの中には、『深山木の中の楊梅』と思われるなどと言われた人ではないか。今にも大臣の大将になるのを待っておられる人と見申していたのに、今日はこのようにやつれ果てたお姿になろうとは、前々には思いもよらなかったことよ。移れば変わる世のならいとはいいながら、お気の毒なことだ」といって、袖を顔に押し当ててさめざめと泣いたので、那智ごもりの僧たちも、みな衣の袖をしぼった。
意訳
出家した維盛が熊野三山を巡拝する道行きの章段である。本宮・新宮・那智の霊地のありさまが仏典の言葉を連ねて荘厳に描かれる一方で、維盛は父重盛の祈りを思い出し、妻子の無事を祈らずにはいられない。仏道に入ってもなお断ちきれない妄執が、哀れ深く語られている。
那智の僧の回想は、かつての維盛の栄華を鮮やかに描き出す。安元の御賀で青海波を舞った光り輝く若き公達と、今のやつれ果てた修行者の姿との落差は、「移れば変る世のならひ」という無常の思いを強く印象づける。
語釈・文法注
文法
- 「岩田川」
- 熊野参詣道の中辺路を流れる富田川。この川を渡ると罪障が消えるとされた。
- 「證誠殿」
- 熊野本宮の主神、家都御子大神(本地は阿弥陀如来)を祀る社殿。
- 「法施」
- 経を読み法文を唱えて神仏に捧げること。
- 「父の大臣のこの御前にて」
- 巻第三「医師問答の事」で、重盛が熊野に参って、一門の栄華が子孫に続かないならば命を縮めて後世を助けよと祈ったこと。
- 「垂れさせまし〳〵て」
- 底本はくの字点で「ましまし」と刷る。
- 「補陀落山」
- 観音の浄土とされる南海の山。那智は補陀落渡海の出発地としても知られた。
- 「靈鷲山」
- 釈迦が法華経を説いたというインドの山。
- 「十善の帝位をすべらせ給ひて」
- 帝位を退かれて。十善は前世で十善戒を保った果報として帝位につくという考え。
- 「垣代」
- 舞楽のとき、庭に垣のように並び立つ楽人や公卿の列。
- 「靑海波」
- 雅楽の曲名。二人で舞う優美な舞。
- 「深山木の中の楊梅」
- 深山の木々の中に咲く楊梅(やまもも)のように、ひときわ目立つ美しさのたとえ。
解説
安元二年(1176)三月、後白河法皇の五十の御賀が法住寺殿で行われ、維盛は青海波を舞ってその美しさをたたえられた(『安元御賀記』)。熊野は院政期に法皇や貴族の参詣が盛んで、本宮・新宮・那智の三山は阿弥陀・薬師・観音の浄土に見立てられた。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、742–744頁(コマ400–401)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日