平家物語 巻第三
医師問答の事
治承三年夏、重盛は熊野に詣で、父清盛の悪心が改まらないなら自分の命を縮めて来世を救ってほしいと祈った。帰ると間もなく病に倒れたが、療治も祈祷もしない。清盛が宋の名医に診させるよう勧めても、異国の医師を都に入れるのは国の恥であり、定業ならば医療も益がないと断った。重盛は七月に出家し、八月一日に四十三歳で没した。
- 1同同おなじきじきじき夏夏なつののの頃頃ころ、、、小小こ松松まつののの大大おと臣臣どはははかやうかやうかようののの事事ことどもどもどもににに、、、よろづよろづよろず心心こころ細細ぼそくくくややや思思おもははわれれれけんけんけん、、、そのそのその頃頃ころ熊熊くま野野の參參さん詣詣けいののの事事ことありありありけりけりけり。。。本本ほん宮宮ぐう證證しょう誠誠じょう殿殿でんののの御御おん前前まえにににててて靜靜しずかかかににに法法ほっ施施せ進進まいらせらせらせててて、、、夜夜よもすがらもすがらもすがら敬敬けい白白びゃくせせせられられられけるけるけるははは、、、
- 2「「「親親しん父父ぶ入入にゅう道道どう相相しょう國國こくののの體體ていををを見見みるるるににに、、、惡惡あく逆逆ぎゃく無無ぶ道道どうにににしてしてして、、、やゝやゝややもももすれすれすればばば君君きみををを惱惱なやましましまし奉奉たてまつるるる。。。重重しげ盛盛もり長長ちょう子子しとととしてしてして、、、頻頻しきりりりににに諫諫いさめめめををを致致いたすすすととといへいへいえどもどもども、、、身身み不不ふ肖肖しょうののの間間あいだ、、、かれかれかれ以以もっててて服服ふく膺膺ようせせせずずず。。。そのそのその振振ふる舞舞まいををを見見みるるるににに、、、一一いち期期ごののの榮榮えい花花が猶猶なお危危あやうししし。。。枝枝し葉葉よう連連れん續續ぞくしてしてして、、、親親しんををを顯顯あらはしはしわし名名なををを揚揚あげげげんんん事事こと難難かたししし。。。このこのこの時時ときににに當當あたつつっててて、、、重重しげ盛盛もり苟苟いやしゅうううももも思思おもへへえりりり。。。なまじひなまじひなまじいににに列列れつしししててて世世よににに浮浮ふ沉沉ちんせせせんんんことことこと、、、敢敢あえててて良良りょう臣臣しん孝孝こう子子しののの法法ほうにににあらあらあらずずず。。。如如しかかかじじじ名名なををを遁遁のがれれれ、、、身身みををを退退しりぞいいいててて、、、今今こん生生じょうののの名名みょう望望もうををを投投なげげげ棄棄すてててててて、、、來來らい世世せののの菩菩ぼ提提だいををを求求もとめめめんんんににに。。。
- 3但但ただししし凡凡ぼん夫夫ぶ薄薄はく智智ち、、、是是ぜ非非ひににに惑惑まどへへえるるるががが故故ゆえににに、、、志志こころざしをををなほなほなお恣恣ほしいままにににせせせずずず。。。南南な無無む權權ごん現現げん、、、金金こん剛剛ごう童童どう子子じ、、、願願ねがはくはくわくははは子子し孫孫そん繁繁はん榮榮えい絶絶たえええずずずしてしてして、、、仕仕つかへへえててて朝朝ちょう廷廷ていににに交交まじはるはるわるべくべくべくばばば、、、入入にゅう道道どうののの惡惡あく心心しんををを和和やわらげげげててて、、、天天てん下下かののの安安あん全全せんををを得得えしめしめしめたまへたまへたまえ。。。榮榮えい耀耀ようまたまたまた一一いち期期ごににに限限かぎつつっててて、、、後後こう昆昆こん恥恥はじににに及及およぶぶぶべくべくべくばばば、、、重重しげ盛盛もりががが運運うん命命めいををを縮縮ちぢめめめててて、、、來來らい世世せののの苦苦く輪輪りんををを助助たすけけけ給給たまへへえ。。。兩兩りょう箇箇かののの求求ぐ願願がん、、、ひとへひとへひとえににに冥冥みょう助助じょををを仰仰あうぐぐぐ。。。」」」ととと、、、肝肝かん膽膽たんををを碎碎くだいいいててて祈祈き念念ねんせせせられられられけれけれければばば、、、燈燈とう籠籠ろうののの火火ひのののやうやうようなるなるなる物物ものののの、、、大大おと臣臣どののの御御おん身身みよりよりより出出いでででててて、、、はつはつはっととと消消きゆるゆるゆるががが如如ごとくくくしてしてして失失うせせせにににけりけりけり。。。人人ひとあまたあまたあまた見見み奉奉たてまつりりりけれけれけれどもどもども、、、恐恐おそれれれてててこれこれこれををを申申もうさささずずず。。。
- 4大大おと臣臣ど下下げ向向こうののの時時とき、、、岩岩いわ田田た河河がわををを渡渡わたららられれれけるけるけるににに、、、嫡嫡ちゃく子子し權權ごんののの亮亮すけ少少しょう將將しょう維維これ盛盛もり以以い下下げののの公公きん達達だち、、、淨淨じょう衣衣えののの下下したににに薄薄うす色色いろののの衣衣きぬををを著著きててて、、、夏夏なつののの事事ことなれなれなればばば、、、何何なにとととなうなうのう水水みずににに戲戲たわぶれれれ給給たまふふう程程ほどににに、、、淨淨じょう衣衣えののの濡濡ぬれれれててて衣衣きぬにににうつつうつつうつったるたるたるががが、、、ひとへひとへひとえににに色色いろののの如如ごとくくくににに見見みえええけるけるけるををを、、、筑筑ちく後後ごののの守守かみ貞貞さだ能能よしこれこれこれををを見見み咎咎とがめめめててて、、、「「「何何なにとととやらやらやらんんんあのあのあの御御おん淨淨じょう衣衣えののの、、、世世よにににいまはしげいまはしげいまわしげににに見見みえええさせさせさせまし〳〵まし〳〵ましまし候候そうろう。。。急急いそぎぎぎ召召めししし更更かへへえなるなるなるべうべうびょうもももややや候候そうろうらんらんらん。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、
- 5大大おと臣臣ど、、、「「「さてさてさてはははわがわがわが所所しょ願願がん、、、既既すでににに成成じょう就就じゅしししにににけりけりけり。。。敢敢あえてててそのそのその淨淨じょう衣衣え改改あらたむむむべからべからべからずずず。。。」」」とてとてとて、、、岩岩いわ田田た河河がわよりよりより熊熊くま野野のへへへ、、、別別べつしてしてして悅悅よろこびびびののの奉奉ほう幣幣へいをををぞぞぞ立立たてててられられられけるけるける。。。人人ひとあやしみあやしみあやしみ思思おもへへえどもどもども、、、なほなほなおそのそのその心心こころをををばばば得得えしめしめしめ給給たまははわずずず。。。しかるにしかるにしかるにこのこのこの公公きん達達だち、、、程程ほどなくなくなくやがてやがてやがて、、、まことまことまことののの色色いろををを著著きたまひたまひたまいけるけるけるこそこそこそ不不ふ思思し議議ぎなれなれなれ。。。
- 6そのそのその後後のち大大おと臣臣ど下下げ向向こうののの時時とき、、、いくばくいくばくいくばくののの日日ひ數數かずををを經經へずずずしてしてして、、、病病やみみみつきつきつき給給たまひひいぬぬぬ。。。權權ごん現現げん既既すでににに御御ご納納のう受受じゅあるあるあるにににこそこそこそとてとてとて、、、療療りょう治治じをををもももししし給給たまははわずずず。。。ましてましてまして祈祈き禱禱とうをををももも致致いたささされれれずずず。。。
- 7そのそのその頃頃ころ宋宋そう朝朝ちょうよりよりよりすぐれすぐれすぐれたるたるたる名名めい醫醫い渡渡わたつつっててて、、、本本ほん朝朝ちょうにににやすらふやすらふやすらう事事ことありありありけりけりけり。。。折折おりふしふしふし入入にゅう道道どう相相しょう國國こくははは福福ふく原原はらののの別別べつ業業ぎょうにににおはしおはしおわしけるけるけるががが、、、越越えっ中中ちゅうののの前前ぜん司司じ盛盛もり俊俊としををを使使し者者じゃにににててて、、、小小こ松松まつ殿殿どのへへへ宣宣のたまひひい遣遣つかはさはさわされれれけるけるけるははは、、、「「「所所しょ勞勞ろういよ〳〵いよ〳〵いよいよ大大だい事事じなるなるなる由由よし、、、そのそのその聞聞きこえええありありあり。。。かねかねかねてててははは又又また宋宋そう朝朝ちょうよりよりよりすぐれすぐれすぐれたるたるたる名名めい醫醫い渡渡わたれれれりりり。。。折折おりふしふしふしこれこれこれををを悅悅よろこびびびとととすすす。。。よつよつよってててかれかれかれををを召召めししし請請しょうじじじててて、、、醫醫い療療りょうををを加加くわへへえしめしめしめ給給たまへへえ。。。」」」とととのたまひのたまひのたまい遣遣つかはさはさわされれれたりたりたりけれけれければばば、、、大大おと臣臣ど扶扶たすけけけ起起おこささされれれ、、、盛盛もり俊俊としををを御御ご前前ぜんへへへ召召めしししててて對對たい面面めんありありあり。。。
- 8「「「まづまづまず醫醫い療療りょうののの事事こと、、、畏畏かしこまつまつまっててて承承うけたまわりりり候候そうらひひいぬぬぬととと申申もうすすすべしべしべし。。。但但ただししし汝汝なんじもももよくよくよく承承うけたまわれれれ。。。延延えん喜喜ぎののの御御み門門かどははは、、、さばかりさばかりさばかりののの賢賢けん王王おうにににててて渡渡わたらららせせせ給給たまひひいしかしかしかどもどもども、、、異異い國國こくののの相相そう人人にんををを都都みやこののの中中うちへへへ入入いれれれられられられたりたりたりししし事事ことをををばばば、、、末末まつ代代だいまでまでまでももも賢賢けん王王おうののの御御おん誤誤あやまりりり、、、本本ほん朝朝ちょうののの恥恥はじとととこそこそこそ見見みえええたれたれたれ。。。況況いわんんんややや重重しげ盛盛もり程程ほどののの凡凡ぼん人人にんががが、、、異異い國國こくののの醫醫い師師しををを王王おう城城じょうへへへ入入いれれれんんん事事こと、、、全全まったくくく國國くにののの恥恥はじにににあらあらあらずずずややや。。。
- 9漢漢かんののの高高こう祖祖そははは三三さん尺尺じゃくののの劒劒けんををを提提ひっさげげげててて天天てん下下かををを治治おさめめめしししににに、、、淮淮わい南南なんののの黥黥げい布布ふををを討討うちちちししし時時とき、、、流流ながれ矢矢やににに當當あたつつっててて疵疵きずををを蒙蒙こうぶるるる。。。后后きさき呂呂りょ太太たい后后こう良良りょう醫醫いををを迎迎むかへへえててて見見みせせせしむるしむるしむるににに、、、醫醫いののの曰曰いわくくく、、、このこのこの疵疵きず治治じしししつつつべしべしべし。。。但但ただししし五五ご十十じっ斤斤きんののの金金かねををを與與あたへへえばばば治治じせせせんんんととといふいふいう。。。高高こう祖祖そのたまはくのたまはくのたまわく、、、われわれわれ守守まもりりり強強つよかつかつかっしししほどほどほどははは、、、多多おおくくくののの戰戰たたかひひいにににあうあうおうててて疵疵きずををを蒙蒙こうぶりりりしかしかしかどもどもども、、、そのそのその痛痛いたみみみなしなしなし。。。運運うん既既すでににに盡盡つきききぬぬぬ。。。命命めいはははすなはちすなはちすなわち天天てんにににありありあり、、、扁扁へん鵲鵲じゃくととといふいふいうともともとも何何なんののの益益えきかかかあらあらあらんんん。。。しかれしかれしかればばば又又また金金かねををを惜惜おしむしむしむににに似似にたりたりたりとてとてとて、、、五五ご十十じっ斤斤きんののの金金かねををを醫醫い師師しににに與與あたへへえながらながらながら、、、遂遂ついににに治治じせせせざりざりざりききき。。。先先せん言言げん耳耳みみにににありありあり、、、今今いま以以もっててて甘甘かん心心しんすすす。。。
- 10重重しげ盛盛もり苟苟いやしくくくももも九九きゅう卿卿けいににに列列れつししし三三さん台台たいににに昇昇のぼるるる。。。そのそのその運運うん命命めいををを量量はかるるるににに、、、以以もっててて天天てん心心しんにににありありあり。。。何何なんぞぞぞ天天てん心心しんををを察察さつせせせずずずしてしてして、、、愚愚おろかかかににに醫醫い療療りょうををを痛痛いたはしうはしうわしゅうせせせんんんややや。。。所所しょ勞勞ろうもしもしもし定定じょう業業ごうたらたらたらばばば、、、醫醫い療療りょうををを加加くわふるふるうるともともとも益益えきなからなからなからんんんかかか。。。またまたまた非非ひ業業ごうたらたらたらばばば、、、療療りょう治治じををを加加くわへへえずずずともともとも、、、助助たすかるかるかる事事ことををを得得うべしべしべし。。。かのかのかの耆耆ぎ婆婆ばががが醫醫い術術じゅつ及及およばばばずずずしてしてして、、、大大だい覺覺がく世世せ尊尊そん滅滅めつ度度どををを跋跋ばつ提提だい河河がのののほとりほとりほとりににに唱唱となふふう。。。これこれこれすなはちすなはちすなわち定定じょう業業ごうののの病病やまい癒癒いやさささざるざるざる事事ことををを示示しめさささんんんががが爲爲ためなりなりなり。。。治治じするするするははは佛佛ぶつ體體たいなりなりなり。。。療療りょうするするするははは耆耆ぎ婆婆ばなりなりなり。。。定定じょう業業ごうもしもしもし醫醫い療療りょうにににかゝはるかゝはるかかわるべうべうびょう候候そうらははわばばば、、、あにあにあに釋釋しゃく尊尊そん入入にゅう滅滅めつあらあらあらんんんややや。。。定定じょう業業ごうなほなほなお治治じするするするににに堪堪たへへえざるざるざる旨旨むねあきらけしあきらけしあきらけし。。。しかれしかれしかればばば重重しげ盛盛もりががが身身み、、、佛佛ぶつ體體たいにににあらあらあらずずず、、、名名めい醫醫いまたまたまた耆耆ぎ婆婆ばににに及及およぶぶぶべからべからべからずずず。。。たとひたとひたとい四四し部部ぶののの書書しょををを鑑鑑かんがみみみててて、、、百百ひゃく療療りょうににに長長ちょうずずずととといふいふいうともともとも、、、いかでいかでいかでかかか有有う待待だいののの穢穢え身身しんををを救救く療療りょうせせせんんん。。。たとひたとひたとい又又また五五ご經經きょうののの說說せつににに詳詳つまびらかかかにににしてしてして、、、衆衆しゅ病病びょうををを癒癒いやすすすととといふいふいうともともとも、、、豈豈あに先先せん世世ぜののの業業ごう病病びょうををを治治じせせせんんんややや。。。もしもしもしかのかのかの醫醫い術術じゅつににに依依よつつっててて存存ぞん命命めいせせせばばば、、、本本ほん朝朝ちょうののの醫醫い道道どうなきなきなきににに似似にたりたりたり。。。醫醫い術術じゅつ效效こう驗驗げんなくなくなくばばば、、、面面めん謁謁えつそのそのその詮詮せんなしなしなし。。。なかんづくなかんづくなかんずく本本ほん朝朝ちょう鼎鼎てい臣臣しんののの外外げ相相そうををを以以もっててて、、、異異い朝朝ちょう浮浮ふ遊遊ゆうののの來來らい客客かくににに見見まみえええんんん事事こと、、、かつうかつうかつうははは國國くにののの恥恥はじ、、、かつうかつうかつうははは道道みちののの陵陵りょう遲遲ちなりなりなり。。。たとひたとひたとい重重しげ盛盛もり命命めいははは亡亡ぼうずずずととといふいふいうともともとも、、、いかでいかでいかでかかか國國くにののの恥恥はじををを思思おもふふう心心こころををを存存ぞんせせせざらざらざらんんん。。。このこのこの由由よしををを申申もうせせせ。。。」」」とととこそこそこそ宣宣のたまひひいけれけれけれ。。。
- 11盛盛もり俊俊とし泣泣なく〳〵く〳〵くなく福福ふく原原はらへへへ馳馳はせせせ下下くだりりり、、、このこのこの由由よしををを申申もうしししけれけれければばば、、、入入にゅう道道どう相相しょう國國こく、、、「「「國國くにののの恥恥はじををを思思おもふふう大大おと臣臣ど、、、上上じょう古古こににに未未いまだだだ聞聞きかかかずずず。。。ましてましてまして末末まつ代代だいにににあるあるあるべしべしべしともともとも覺覺おぼえええずずず。。。日日に本本ほんににに相相そう應應おうせせせぬぬぬ大大おと臣臣どなれなれなればばば、、、いかさまいかさまいかさまにににももも今今こん度度ど失失うせせせられられられなななんんんずずず。。。」」」とてとてとて、、、急急いそぎぎぎ都都みやこへへへ上上のぼららられれれけりけりけり。。。
- 12七七しち月月がつ二二に十十じゅう八八はち日日にち、、、小小こ松松まつ殿殿どの出出しゅっ家家けししし給給たまひひいぬぬぬ。。。法法ほう名名みょうははは淨淨じょう蓮蓮れんとととこそこそこそつきつきつきたまへたまへたまえ。。。やがてやがてやがて八八はち月月がつ一一ひと日日ひののの日日ひ、、、臨臨りん終終じゅう正正しょう念念ねんににに住住じゅうしししててて失失うせせせ給給たまひひいぬぬぬ。。。御御おん年年とし四四し十十じゅう三三さん。。。世世よはははさかりさかりさかりとととこそこそこそ見見みえええつるつるつるににに、、、あはれあはれあわれなりなりなりししし事事ことどもどもどもなりなりなり。。。入入にゅう道道どう相相しょう國國こくのののさしもさしもさしも横横よこ紙紙がみををを破破やぶららられれれしししにににももも、、、このこのこの人人ひとのののおはしおはしおわしててて、、、やう〳〵やう〳〵ようようににに宥宥なだめめめ宣宣のたまひひいつれつれつればばばこそこそこそ、、、世世よははは今日今日きょうまでまでまでもももおだしかりおだしかりおだしかりつれつれつれ。。。このこのこの後後のち天天てん下下かにににいかばかりいかばかりいかばかりののの事事ことかかか出出いででで來來こんんんずずずらんらんらんとてとてとて、、、上上じょう下下げみなみなみな歎歎なげきききあへあへあえりりり。。。またまたまた前前さきののの右右う大大だい將將しょう宗宗むね盛盛もりののの卿卿きょうののの方方かたざまざまざまののの人人ひと々々びと、、、世世よはははたゞたゞただ今今いま大大たい將將しょう殿殿どのへへへ參參まいりりりなななんんんずずずとてとてとて、、、勇勇いさみみみ悅悅よろこびびび合合あははわれれれけりけりけり。。。
- 13人人ひとののの親親おやののの子子こををを思思おもふふうならひならひならいはははおろかおろかおろかなるなるなるががが、、、先先さき立立だつつつだにだにだにももも悲悲かなしきしきしきぞぞぞかしかしかし。。。況況いわんんんやややこれこれこれははは當當とう家家けののの棟棟とう梁梁りょう、、、當當とう世世せいののの賢賢けん人人じんにににてててましませましませましませばばば、、、恩恩おん愛愛あいののの別別わかれれれ、、、家家いえののの衰衰すい微微び、、、悲悲かなしんしんしんでででももも猶猶なおあまりあまりあまりありありあり。。。さればさればされば世世よにににははは良良りょう臣臣しんををを失失うしなへへえるるることことことををを歎歎なげききき、、、家家いえにににははは武武ぶ畧畧りやくのののすたれすたれすたれぬるぬるぬる事事ことををを悲悲かなしむしむしむ。。。およそおよそおよそはははこのこのこの大大おと臣臣ど、、、文文ぶん章章しょううるはしううるはしううるわしゅうしてしてして、、、心心こころににに忠忠ちゅうををを致致いたししし、、、才才さい藝藝げいすぐれすぐれすぐれててて、、、言言こと葉葉ばににに德德とくををを兼兼かねねね給給たまへへえりりり。。。
現代語訳
同じ年の夏ごろ、小松の大臣(重盛)はこうしたことどもにつけて、何かと心細く思われたのであろうか、そのころ熊野に参詣することがあった。本宮の証誠殿の御前で静かに経を読み上げて、夜通し申し上げられたことには、
「父の入道相国の様子を見ると、悪逆無道で、ややもすれば君を悩まし申し上げる。重盛は長子としてしきりに諫めているが、わが身が至らないので、父はまったく聞き入れない。そのふるまいを見ると、一代の栄華さえなお危うい。子孫が続いて、親の名を顕し名を揚げることは難しい。この時にあたって、重盛はひそかに思う。なまじ高位に列して世に浮き沈みすることは、決して良臣孝子の道ではない。名を逃れ、身を退いて、この世の名誉を投げ捨てて、来世の菩提を求めるにこしたことはない。
しかし凡夫で知恵が浅く、是非に迷うために、志を思うままに遂げられない。南無権現、金剛童子、願わくは、子孫の繁栄が絶えず、朝廷に仕え続けられるのならば、入道の悪心を和らげて、天下の安泰を得させてください。栄華が父一代に限って、子孫が恥を受けるのであれば、重盛の命を縮めて、来世の苦しみの輪廻からお救いください。この二つの願いは、ひとえに神仏のお助けを仰ぎます」と、心を砕いて祈念されると、灯籠の火のようなものが大臣の御身から出て、ぱっと消えるようにしてなくなった。大勢の人が見申し上げたが、恐れてこれを口にしなかった。
大臣が帰る途中、岩田川を渡られたとき、嫡子の権亮少将維盛以下の公達が、浄衣の下に薄色の衣を着て、夏のことなので何となく水遊びをされているうちに、浄衣が濡れて下の衣の色が移ったのが、まるで喪服の色のように見えたのを、筑後守貞能が見とがめて、「何やらあの御浄衣は、まことに不吉に見えます。急いでお召し替えになるのがよろしいのではありませんか」と申したので、
大臣は、「さてはわが願いはもう成就したのだ。決してその浄衣を改めてはならない」といって、岩田川から熊野へ、特に喜びの奉幣を立てられた。人々は不審に思ったが、大臣はやはりその心を明かされなかった。ところがこの公達は、まもなく本当の喪服をお召しになることになったのは不思議なことであった。
その後、大臣は帰京してからいくらも日数がたたないうちに病気になられた。権現がすでに願いを受け入れてくださったのだといって、療治もなさらない。まして祈祷もなさらなかった。
そのころ宋の国から優れた名医が渡って来て、日本に滞在していた。ちょうど入道相国は福原の別荘におられたが、越中前司盛俊を使者として小松殿へおっしゃるには、「ご病気がいよいよ重いと聞いている。ちょうど宋から優れた名医が渡って来ている。折よいことと喜んでいる。そこでその者を招いて治療を受けなさい」とおっしゃったので、大臣は助け起こされて、盛俊を御前に召して対面された。
「まず治療のこと、謹んで承りましたと申し上げよ。ただしお前もよく聞け。延喜の帝(醍醐天皇)は、あれほどの賢王でいらっしゃったが、異国の人相見を都の中へ入れられたことは、後の世まで賢王のお誤り、日本の恥と思われている。まして重盛ほどの凡人が、異国の医師を都へ入れることは、まさしく国の恥ではないか。
漢の高祖は三尺の剣を提げて天下を治めたが、淮南の黥布を討ったとき、流れ矢に当たって傷を負った。后の呂太后が良医を迎えて診させると、医師は「この傷は治せます。ただし五十斤の金をくだされば治しましょう」と言った。高祖が言うには、「わしの運が強かった間は、多くの戦に出て傷を受けても痛みはなかった。運はもう尽きたのだ。命は天にある。扁鵲のような名医であっても何の益があろう」。それではまた金を惜しんでいるようだといって、五十斤の金を医師に与えながら、ついに治療させなかった。その先人の言葉は耳に残っており、今こそ深く納得する。
重盛はかりそめにも九卿に列し、大臣の位に昇った。その運命をはかると、天の心にある。どうして天の心を察せずに、愚かに医療を求めて騒ごうか。病がもし定業であるなら、医療を加えても益はないだろう。また定業でないなら、治療を加えなくても助かるはずである。あの耆婆の医術も及ばず、釈迦は跋提河のほとりで入滅された。これは定業の病は癒せないことを示すためである。治す者が仏であり、療治する者が耆婆であった。定業がもし医療で左右されるものなら、どうして釈尊が入滅されようか。定業はやはり治せないことは明らかである。それゆえ重盛の身は仏ではなく、名医もまた耆婆には及ばない。たとえ四部の医書に通じて多くの療法に長じていても、どうしてはかない汚れた身を救えようか。たとえまた五経の説に詳しくて多くの病を癒すとしても、どうして前世の業による病を治せようか。もしその医術によって命を長らえたら、日本には医道がないかのようである。医術の効き目がないなら、会っても意味がない。とりわけ日本の大臣の身で、異国から来た旅の客に会うことは、一つには国の恥、一つには道の衰えである。たとえ重盛の命は滅びても、どうして国の恥を思う心を持たないでいられようか。このことを申し上げよ」とおっしゃった。
盛俊は泣く泣く福原へ馳せ下ってこのことを申し上げると、入道相国は、「国の恥を思う大臣は、昔にもまだ聞いたことがない。まして末の世にあろうとも思われない。日本には過ぎた大臣であるから、どうあっても今度は亡くなられるだろう」といって、急いで都へ上られた。
七月二十八日、小松殿は出家なさった。法名は浄蓮とおつけになった。やがて八月一日、臨終正念のうちにお亡くなりになった。御年四十三。まさに働き盛りと見えたのに、哀れなことであった。入道相国があれほど無理を通されたときにも、この人がおられて、いろいろになだめておっしゃったからこそ、世は今日まで穏やかであったのだ。これから先、天下にどんなことが起こるだろうかと、上下の者はみな嘆き合った。また前右大将宗盛卿の方の人々は、世の中はこれから大将殿のものになるといって、勇み喜び合われた。
人の親が子を思う情けは並ひととおりではなく、たとえ愚かな子でも先立たれるのは悲しいものである。ましてこれは一門の棟梁、当代の賢人でいらっしゃったので、恩愛の別れといい、家の衰えといい、いくら悲しんでも足りない。それゆえ世間では良臣を失ったことを嘆き、一門では武の支えが失われたことを悲しんだ。そもそもこの大臣は、文章が立派で、心から忠節を尽くし、才芸に優れ、言葉には徳を兼ね備えておられた。
意訳
重盛の死を描く章段である。重盛は熊野権現に、父清盛の悪心が改まらないなら、自分の命を縮めてほしいと祈る。浄衣が濡れて喪服の色に見えたのを、願いが聞き届けられたしるしと喜ぶ姿には、悲壮な覚悟がにじむ。
後半の宋の名医をめぐる問答では、重盛は漢の高祖や釈迦の入滅の例を引き、定業の病は医術では治せないこと、また異国の医師に大臣が診てもらうのは国の恥であることを理路整然と説いて、治療を拒む。清盛でさえ「日本に相應せぬ大臣」と嘆くほどの人物であった。重盛の死によって清盛を抑える者はいなくなり、物語はここから平家の没落へと大きく傾いていく。
語釈・文法注
文法
- 「苟うも」
- 「いやしくも」の音便。ここでは、ひそかに、思い切って、の意。
- 「如かじ…求めんに」
- …するにこしたことはあるまい、の意。
- 「後昆」
- 子孫、後世の人。
- 「相人」
- 人相見。延喜の帝が高麗の相人を都に入れたことは『大鏡』などに見える。
- 「定業」
- 前世の業によって定まっている報い、また寿命。「非業」はその反対。
- 「耆婆」
- 釈迦の時代のインドの名医。
- 「有待の穢身」
- 衣食などに頼らなければ保てない、けがれた人間の身。
- 「鼎臣」
- 国家を支える重臣、大臣。
- 「日本に相應せぬ大臣」
- 日本には過ぎた(もったいない)大臣、の意。
解説
平重盛(1138〜1179)は清盛の嫡男で、内大臣・左近衛大将に至った。治承三年(1179)七月に出家し、八月一日(一説に閏七月二十九日)に没した。『平家物語』は重盛を、父を諫める忠孝の人として理想化して描いており、その死は平家の運命の転機として位置づけられている。重盛の死後、清盛は同年十一月に後白河法皇を幽閉するクーデターを起こす(「法皇御遷幸の事」)。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、388–391頁(コマ222–224)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日