平家物語 巻第十
維盛の出家の事
維盛は滝口入道の庵で語りあかし、聖の修行の姿に心をひかれて、東禅院の知覚上人を招いて出家しようとする。供の与三兵衛重景と石童丸には都へ帰って身を立てよと言ったが、重景は、父景康が平治の乱で重盛の身代わりに討たれて以来、重盛に育てられ名を与えられた恩を語り、自ら髻を切った。石童丸も髪を切り、維盛は「流転三界中」の偈を唱えて出家した。二十七歳であった。舎人武里には八島へ行って一門に事情を伝え、唐皮の鎧と小烏の太刀を六代に伝えよと命じたが、武里は最後まで供をすると願った。一行は山伏姿で熊野へ向かい、途中、湯浅宗光が維盛と気づきながら恭しく通り過ぎた。
- 1「「「維維これ盛盛もりががが身身みのののいついついつとととなくなくなく、、、雪雪せつ山山せんののの鳥鳥とりののの鳴鳴なくくくらんらんらんやうやうようににに、、、今日今日きょうよよよ、、、明日明日あすよよよととと思思おもふふう事事ことををを。。。」」」とととててて涙涙なみだぐみぐみぐみ給給たまふふうぞぞぞあはれあはれあわれなるなるなる。。。潮潮しお風風かぜににに黑黑くろみみみ、、、つきつきつきせせせぬぬぬものものものおもひおもひおもいににに痩痩やせせせ衰衰おとろへへえててて、、、そのそのその人人ひととととははは見見みえええ給給たまははわねねねどもどもども、、、なほなほなお世世よののの人人ひとにににはははすぐれすぐれすぐれ給給たまへへえりりり。。。そのそのその夜夜よははは瀧瀧たき口口ぐち入入にゅう道道どうががが庵庵あん室室じつににに歸歸かえりりりててて、、、昔昔むかし今今いまののの物物もの語語がたりどもどもどもししし給給たまひひいけりけりけり。。。更更ふけけけゆくゆくゆくまゝまゝままににに聖聖ひじりががが行行ぎょう儀儀ぎををを見見みたまへたまへたまえばばば、、、至至し極極ごく信信しん心心じんののの床床ゆかののの上上うえにににははは、、、眞眞しん理理りののの玉玉たまををを研研みがくくくらんらんらんととと見見みえええててて、、、後後ご夜夜や晨晨しん朝朝ちょうののの鐘鐘かねののの聲聲こえにににははは、、、生生しょう死死じののの眠眠ねぶりををを覺覺さますすすらんらんらんとととももも覺覺おぼえええたりたりたり。。。遁遁のがれれれぬぬぬべくべくべくははは、、、かくかくかくてててもももあらまほしうあらまほしうあらまほしゅうややや思思おもははわれれれけんけんけん、、、あけあけあけけれけれければばば東東とう禪禪ぜん院院いんののの知知ち覺覺がく上上しょう人人にんととと申申もうすすす聖聖ひじりををを請請しょうじじじ奉奉たてまつつつっててて、、、出出しゅっ家家けせせせんんんとととししし給給たまひひいけるけるけるががが、、、與與よ三三さ兵兵ひょう衞衞え重重しげ景景かげ、、、石石いし童童どう丸丸まるををを召召めしししてててのたまひのたまひのたまいけるけるけるははは、、、「「「維維これ盛盛もりこそこそこそ人人ひと知知しれれれぬぬぬ思思おもひひいををを身身みににに添添そへへえながらながらながら、、、道道みち狹狹せぼううう遁遁のがれれれ難難がたききき身身みなれなれなればばば、、、いかにいかにいかにもももなるなるなるととといふいふいうともともとも、、、汝汝なんじ等等らははは命命いのちををを捨捨すつつつへからへからべからずずず。。。このこのこの頃頃ごろははは世世よにににあるあるある人人ひとこそこそこそ多多おおけれけれけれ。。。われわれわれいかにいかにいかにもももなりなりなりなんなんなん後後のち、、、急急いそぎぎぎ都都みやこへへへ上上のぼつつっててて、、、各各おのおのががが身身みをををももも助助たすけけけ、、、且且かつうははは妻妻さい子子しをををもももはぐゝみはぐゝみはぐくみ、、、且且かつうははは維維これ盛盛もりががが後後ご世世せをををももも弔弔とぶらへへえかしかしかし。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、二二ふた人人りののの者者ものどもどもども涙涙なみだにににむせびむせびむせび、、、うつぶしうつぶしうつぶしててて、、、しばししばししばしはははとかうとかうとこうののの御御おん返返へん事事じにににももも及及およばばばずずず。。。
- 2やゝやゝややあつあつあっててて重重しげ景景かげ、、、涙涙なみだをををおさへおさへおさえててて申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「重重しげ景景かげががが父父ちち與與よ三三さ左左ざ衞衞え門門もん景景かげ康康やすははは、、、平平へい治治じののの逆逆ぎやく亂亂らんののの時時とき、、、故故こ殿殿どのののの御御おん供供ともににに候候そうらひひいててて、、、二二に條條じょう堀堀ほり河河かわののの邊邊へんにににててて鎌鎌かま田田だ兵兵ひょう衞衞えととと組組くんんんででで、、、惡惡あく源源げん太太だににに討討うたたたれれれ候候そうらひひいぬぬぬ。。。重重しげ景景かげももも何何なじかかかははは劣劣おとりりり候候そうろうべきべきべきなれなれなれどもどもども、、、そのそのその時時ときははは未未いまだだだ二二に歳歳さいににになりなりなり候候そうらへへえばばば、、、少少すこしししももも覺覺おぼえええ候候そうらははわずずず。。。母母ははにににははは七七しち歳歳さいにににててておくれおくれおくれ候候そうらひひいぬぬぬ。。。なさけなさけなさけをををかくかくかくべきべきべき親親したしきしきしき者者もの一一ひと人人りももも候候そうらははわざりざりざりしししににに、、、故故こ大臣殿大臣殿おおいどの御御おん憐憐あわれみみみ候候そうらひひいててて、、、あれあれあれはははわがわがわが命命いのちににに代代かわりりりたりたりたりししし者者ものののの子子こなれなれなればばばとととててて、、、朝朝あさ夕夕ゆう御御お前前まえにににててて育育そだてててられられられ參參まいらららせせせててて、、、生生しょう年年ねん九九ここのつつつととと申申もうしししししし時時とき、、、君君きみののの御御ご元元げん服服ぶく候候そうらひひいししし夜夜よ、、、忝忝かたじけなくくくももも頭頭かしらををを取取とりりり上上あげげげられられられ參參まいらららせせせててて、、、盛盛もりののの字字じははは家家いえののの字字じなれなれなればばば五五ご代代だいにににつくつくつく。。。重重しげののの字字じをををばばば松松まつ王王おうにににととと仰仰おおせせせられられられててて、、、重重しげ景景かげとととははは召召めささされれれ參參まいらららせせせけるけるけるなりなりなり。。。そのそのその上上うえ童童わらわ名名なををを松松まつ王王おうととと申申もうしししけるけるける事事ことももも、、、生生うまれれれててて忌忌いみ五五ご十十じゅう日日にちととと申申もうすすすににに、、、父父ちちががが抱抱いだいいいててて參參まいりりりたりたりたりしかしかしかばばば、、、「「「このこのこの家家いえををを小小こ松松まつととといへいへいえばばば、、、祝祝いおうううてててつくるつくるつくるなりなりなり。。。」」」ととと仰仰おおせせせられられられててて、、、松松まつ王王おうとととはははつけつけつけられられられ參參まいらららせせせててて候候そうらひひいけるけるけるなりなりなり。。。父父ちちかやうかやうかようででで死死しにににけるけるけるももも、、、わがわがわが身身みののの冥冥みょう加加がととと覺覺おぼえええ候候そうろう。。。隨隨ずい分分ぶん同同どう隷隷れいどもどもどもにににももも芳芳ほう心心しんせせせられられられてててこそこそこそ、、、まかりまかりまかり過過すぎぎぎ候候そうらひひいしかしかしか。。。されされさればばば御御ご臨臨りん終終じゅうののの御御おん時時ときももも、、、このこのこの世世よののの中中なかののの事事ことをををばばば思思おぼし召召めししし捨捨すてててててて、、、一一いち事事じももも仰仰おおせせせられられられざりざりざりしししににに、、、重重しげ景景かげををを御御ご前前ぜんへへへ召召めしししててて、、、「「「あなあなあな無無む慙慙ざん、、、汝汝なんじははは重重しげ盛盛もりををを父父ちちがががかたみかたみかたみととと思思おもひひい、、、重重しげ盛盛もりははは汝汝なんじををを景景かげ康康やすがががかたみかたみかたみととと思思おもひひいてててこそこそこそ過過すぐしししつれつれつれ。。。今今こん度度どののの除除じ目目もくににに靫靫ゆき負負えののの尉尉じょうににになしなしなしててて、、、父父ちち景景かげ康康やすををを呼呼よびびびしししやうやうようににに、、、召召めさささばやばやばやとととこそこそこそ思思おぼし召召めしししつるつるつるににに、、、空空むなしうしうしゅうなるなるなるこそこそこそ悲悲かなしけれしけれしけれ。。。相相あい構構かまへへえててて少少しょう將將しょう殿殿どのののの御御おん心心こころにににばしばしばし違違たがひひいまゐらすまゐらすまいらすななな。。。」」」とととこそこそこそ仰仰おおせせせ候候そうらひひいしかしかしか。。。日日ひ頃頃ごろははは自自し然然ぜんののの事事ことももも候候そうらははわばばば、、、まづまづまずまつまつまつ先先さきににに命命いのちををを奉奉たてまつらうらうろうとととこそこそこそ存存ぞんじじじ候候そうらひひいしししににに、、、見見み捨捨すてててまゐらせまゐらせまいらせててて落落おつつつべきべきべき者者ものととと思思おぼし召召めささされれれ候候そうろう御御おん心心こころののの中中うちこそこそこそ恥恥はずかしうかしうかしゅう候候そうらへへえ。。。このこのこの頃頃ごろははは世世よにににあるあるある人人ひとこそこそこそ多多おおけれけれけれどどど、、、仰仰おおせせせををを蒙蒙こうぶりりり候候そうろうははは、、、當當とう時時じののの如如ごとくくくんんんばばば、、、みなみなみな源源げん氏氏じののの郎郎ろう等等どうどもどもどもこそこそこそ候候そうろうらめらめらめ。。。君君きみののの神神かみにににももも佛佛ほとけにににもももならならならせせせ給給たまひひいなんなんなん後後のち、、、樂樂たのしみしみしみ榮榮さかえええ候候そうろうともともとも、、、千千せん年年ねんののの齡齡よわいををを經經ふるるるべきべきべきかかか。。。たとひたとひたとい萬萬まん年年ねんををを保保たもちちち候候そうろうともともとも、、、遂遂ついにににははは終終おわりりりのののなかるなかるなかるべきべきべきかかかははは、、、これこれこれににに過過すぎぎぎたるたるたる善善ぜん知知ち識識しき、、、何何なに事事ごとかかか候候そうろうべきべきべき。。。」」」とととててて、、、手手てづからづからずから髻髻もとどり切切きつつっててて瀧瀧たき口口ぐち入入にゅう道道どうにににぞぞぞ剃剃そらららせせせけるけるける。。。
- 3石石いし童童どう丸丸まるもももこれこれこれををを見見みててて、、、元元もと結結ゆいぎはぎはぎわよりよりより髪髪かみををを切切きるるる。。。これこれこれももも八八やつつつよりよりよりつきつきつき參參まいらららせせせててて、、、重重しげ景景かげにににももも劣劣おとらららずずず不不ふ便便びんにににししし給給たまひひいしかしかしかばばば、、、同同おなじうじうじゅう瀧瀧たき口口ぐち入入にゅう道道どうにににぞぞぞ剃剃そらららせせせけるけるける。。。これこれこれらららががが先先さきだちだちだちてててかやうかやうかようににになるなるなるををを見見み給給たまふふうにににつけつけつけてててももも、、、いとゞいとゞいとど心心こころ細細ぼそうううぞぞぞならならなられれれけるけるける。。。「「「哀哀あわれれれいかにいかにいかにもももしししててて、、、變變かわらららぬぬぬ姿姿すがたををを、、、今今いま一一ひと度度たび戀戀こいしきしきしき者者ものどもどもどもににに見見みえええててて後後のち、、、かくかくかくならならならばばば、、、思思おもふふう事事ことあらあらあらじじじ。。。」」」とととのたまひのたまひのたまいけるけるけるこそこそこそ、、、せめてせめてせめてののの事事ことなれなれなれ。。。
- 4さてさてさてしもしもしもあるあるあるべきべきべき事事ことならならならねねねばばば、、、「「「流流る轉轉てん三三さん界界がい中中ちゅう、、、恩恩おん愛愛あい不不ふ能能のう斷斷だん、、、棄棄き恩恩おん入入にゅう無無む爲爲い、、、眞眞しん實實じつ報報ほう恩恩おん者者じゃ。。。」」」ととと三三さん遍遍べん唱唱となへへえ給給たまひひいててて、、、遂遂ついににに剃剃そりりりおろさおろさおろさせせせ給給たまひひいてててけりけりけり。。。三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょうととと與與よ三三さ兵兵ひょう衞衞えははは同同どう年年ねんにににててて、、、今今こ年年としははは二二に十十じゅう七七しち歳歳さいなりなりなり。。。石石いし童童どう丸丸まるははは十十じゅう八八はちにににぞぞぞなりなりなりにににけるけるける。。。やゝやゝややあつあつあっててて舎舎とね人人り武武たけ里里さとををを召召めしししててて、、、「「「あなあなあなかしこかしこかしこ、、、汝汝なんじはははこれこれこれよりよりより都都みやこへへへははは上上のぼるるるべからべからべからずずず。。。そのそのその故故ゆえははは終終ついにににはははかくれかくれかくれあるあるあるまじけれまじけれまじけれどもどもども、、、まさしうまさしうまさしゅう、、、このこのこのありさまありさまありさまををを聞聞きいいいてててははは、、、やがてやがてやがて樣樣さまをををもももかへかへかへんんんずずずらんらんらんととと覺覺おぼゆるゆるゆるぞぞぞ。。。唯唯ただこれこれこれよりよりより八八や島島しまへへへ參參まいつつっててて、、、人人ひと々々びとににに申申もうさささんんんずるずるずる事事ことはははよよよななな、、、かつかつかつ御御ご覽覽らんじじじ候候そうらひひいしししやうやうようににに、、、大大おお方方かたののの世世せ閒閒けんもももものものものうくうくうく、、、あぢきあぢきあじきなさなさなさもももよろづよろづよろず數數かずそひそひそいててて覺覺おぼえええししし程程ほどににに、、、人人ひと々々びとにににかくかくかくとととももも知知しらららせせせ參參まいらららせせせずずずしししててて、、、かやうかやうかようにににまかりまかりまかりなりなりなり候候そうらひひいぬるぬるぬる事事ことははは、、、西西さい國國こくにににててて左左さののの中中ちゅう將將じょう失失うせせせ候候そうらひひいぬぬぬ。。。一一いちののの谷谷たににににててて備備びっ中中ちゅうののの守守かみ討討うたたたれれれ候候そうらひひいぬぬぬ。。。維維これ盛盛もりさへさへさへかやうかやうかようににになりなりなり候候そうらへへえばばば、、、いかにいかにいかに各各おのおののののたよりたよりたよりなうなうのう思思おぼし召召めささされれれ候候そうらははわんんんずずずらんらんらんととと、、、それそれそれのみのみのみこそこそこそ心心こころ苦苦ぐるしうしうしゅう候候そうらへへえ。。。そも〳〵そも〳〵そもそも唐唐から皮皮かわととといふいふいう鎧鎧よろい、、、小小こ烏烏がらすととといふいふいう太太た刀刀ちははは、、、平平へい將將しょう軍軍ぐん貞貞さだ盛盛もりよりよりよりこのこのこのかたかたかた當當とう家家けににに傳傳つたへへえててて、、、維維これ盛盛もりまでまでまでははは嫡嫡ちゃく々々ちゃく九九く代代だいににに相相あい當當あたるるる。。。このこのこの後後のちもしもしもし運運うん命命めい開開ひらけけけててて、、、都都みやこへへへ歸歸かえりりり上上のぼらららせせせ給給たまふふう事事ことももも候候そうらははわばばば、、、六六ろく代代だいににに賜賜たぶぶぶべしべしべしととと申申もうすすすべしべしべし。。。」」」とととぞぞぞのたまひのたまひのたまいけるけるける。。。
- 5武武たけ里里さと涙涙なみだにににむせびむせびむせび、、、うつぶしうつぶしうつぶしててて、、、しばししばししばしはははとかくとかくとかくののの御御おん返返へん事事じにににももも及及およばばばずずず。。。やゝやゝややあつあつあっててて涙涙なみだをををおさへおさへおさえててて申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「いづくいづくいずくまでまでまでももも御御おん供供とも申申もうししし、、、最最さい後後ごののの御御おんありさまありさまありさまをををももも見見みまゐらせまゐらせまいらせててて後後のちこそこそこそ、、、八八や島島しまへへへももも參參まいらららめめめ。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、さらばさらばさらばとととててて召召めししし具具ぐせせせらるらるらる。。。善善ぜん知知ち識識しきののの爲爲ためにににとととててて、、、瀧瀧たき口口ぐち入入にゅう道道どうをををももも具具ぐせせせられられられけりけりけり。。。高高こう野野やをををばばば山山やま伏伏ぶし修修しゅ行行ぎょう者者じゃのののやうやうようににに出出いで立立たつつっててて、、、同同おなじきじきじき國國くにののの内内うち、、、山山さん東東とうへへへこそこそこそ出出いでででられられられけれけれけれ。。。藤藤ふじ代代しろののの王王おう子子じををを始始はじめめめ奉奉たてまつつつっててて、、、王王おう子子じ々々おう々々じををを伏伏ふししし拜拜おがみみみ參參まいりりり給給たまふふうほどほどほどににに、、、千千せん里里りののの濱濱はまののの北北きた、、、岩岩いわ代代しろののの王王おう子子じののの御御おん前前まえにににててて、、、狩狩かり裝裝しょう束束ぞくなるなるなる者者もの七七しち八八はち騎騎きがががほどほどほど行行ゆきききあひあひあい奉奉たてまつるるる。。。既既すでににに搦搦からめめめ捕捕とらららんんんずるずるずるにににこそこそこそ。。。腹腹はらををを切切きらららんんんととと、、、各各おのおの腰腰こしののの刀刀かたなににに手手てをををかけかけかけ給給たまふふう所所ところににに、、、さささはははなくなくなくしししててて馬馬むまよりよりより下下おりりり、、、近近ちかづきづきづき奉奉たてまつつつったりたりたりけれけれけれどもどもども、、、少少すこしししももも過過あやまつつつべきべきべき氣氣き色色しょくもももなくなくなく、、、深深ふこううう畏畏かしこまつまつまっててて通通とおりりりぬぬぬ。。。このこのこの邊邊へんにににももも見見み知知しりりり參參まいらららせせせたるたるたる者者もののののあるあるあるにににこそこそこそ、、、誰誰たれなるなるなるらんらんらんととと恥恥はずかしくかしくかしくててて、、、いとゞいとゞいとど足足あし早早ばやにににぞぞぞさしさしさし給給たまふふう。。。これこれこれははは當當とう國國ごくののの住住じゅう人人にん湯湯ゆ淺淺あさののの權權ごんののの守守かみ宗宗むね重重しげががが子子こ、、、湯湯ゆ淺淺あさののの七七しち郎郎ろう兵兵ひょう衞衞え宗宗むね光光みつととといふいふいう者者ものなりなりなり。。。郎郎ろう等等どう共共ども、、、「「「あれあれあれはははいかにいかにいかに。。。」」」ととと問問とひひいけれけれければばば、、、「「「あれあれあれこそこそこそ小小こ松松まつののの大臣殿大臣殿おおいどのののの御御おん嫡嫡ちゃく子子し三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう殿殿どのよよよ、、、八八や島島しまをををばばば何何なにとととしししてててかかかははは遁遁のがれれれさせさせさせ給給たまひひいたりたりたりけるけるけるやらんやらんやらん、、、はやはやはや御御おんさまさまさまかへかへかへさせさせさせ給給たまひひいたりたりたり。。。與與よ三三さ兵兵ひょう衞衞え、、、石石いし童童どう丸丸まるももも同同おなじうじうじゅう出出しゅっ家家けしししててて御御おん供供ともにににぞぞぞ參參まいりりりけるけるける。。。近近ちかづきづきづき參參まいつつっててて御御ご見見げん參參ざんにににももも入入いりりりたかりたかりたかりつれつれつれどもどもども、、、御御おん憚憚はばかりりりもももぞぞぞ思思おぼし召召めすすすとととててて通通とおりりりぬぬぬ。。。あなあなあなあはれあはれあわれなりなりなりけるけるける御御おん事事ことかなかなかな。。。」」」とととててて、、、袖袖そでををを顏顏かおにににおしおしおし當當あてててててて、、、さめ〴〵さめ〴〵さめざめととと泣泣なきききけれけれければばば、、、郎郎ろう等等どう共共どももももみなみなみな狩狩かり衣衣ぎぬののの袖袖そでをををぞぞぞぬらしぬらしぬらしけるけるける。。。
現代語訳
「維盛の身がいつまでという定めもなく、雪山の鳥が鳴くというように、今日か明日かと思っていることよ」といって涙ぐまれるのは哀れである。潮風に黒ずみ、尽きない物思いにやせ衰えて、あの人とは見えなさらないが、それでもやはり世の人よりはすぐれておられた。その夜は滝口入道の庵室に帰って、昔や今の話をなさった。夜が更けるにつれて聖の修行のありさまをご覧になると、この上ない信心の床の上では真理の玉を磨いているように見え、後夜・晨朝の勤行の鐘の音には、生死の迷いの眠りを覚ますようにも思われた。逃れられるものなら、このようにしていたいと思われたのであろうか、夜が明けると東禅院の知覚上人という聖をお招きして出家しようとされたが、与三兵衛重景と石童丸を呼んでおっしゃるには、「維盛こそ人知れぬ思いを身に抱き、道が狭まって逃れがたい身だから、どうなるにしても、おまえたちは命を捨ててはならない。このごろは世に栄えている人も多い。私がどうにかなった後は、急いで都へ上って、それぞれ身を立て、一方では妻子をも養い、一方では維盛の後世をも弔ってくれ」とおっしゃると、二人は涙にむせび、うつ伏して、しばらくはご返事もできなかった。
しばらくして重景が涙をおさえて申すには、「重景の父与三左衛門景康は、平治の乱のとき、故殿(重盛)のお供をして、二条堀河のあたりで鎌田兵衛と組んで悪源太(義平)に討たれました。重景もどうして父に劣りましょうか。けれどもそのときはまだ二歳でしたので、少しも覚えておりません。母には七歳で死に別れました。情けをかけてくれる親しい者も一人もいなかったところ、故大臣殿(重盛)がお憐れみくださって、『あれはわが命に代わった者の子だから』といって、朝夕御前で育てていただき、九つと申したとき、君(維盛)のご元服の夜、恐れ多くも髪を結い上げていただいて、『盛の字は家の字だから五代(維盛)につける。重の字は松王につけよう』と仰せになって、重景と呼んでいただいたのです。そのうえ童名を松王と申しましたのも、生まれて忌の五十日というときに父が抱いて参ったところ、『この家を小松というから、祝ってつけるのだ』と仰せになって、松王と名づけていただいたのでございます。父があのように死にましたのも、わが身の冥加と思われます。仲間たちにも十分に目をかけられて過ごしてまいりました。ですからご臨終のときも、この世のことはお捨てになって一言も仰せにならなかったのに、重景を御前に呼んで、『ああ痛ましい。おまえは重盛を父の形見と思い、重盛はおまえを景康の形見と思って過ごしてきた。今度の除目で靫負の尉にして、父景康を呼んだように呼ぼうと思っていたのに、むなしくなるのが悲しい。決して少将殿(維盛)のお心にそむき申すな』と仰せになりました。日ごろは、万一のことがあれば真っ先に命を差し上げようと思っておりましたのに、お見捨て申して逃げるような者とお思いになるお心の中こそ恥ずかしゅうございます。このごろは世に栄えている人も多いと仰せですが、今の様子では、みな源氏の郎等ばかりでございましょう。君が神にも仏にもおなりになった後で、楽しみ栄えたとしても、千年の寿命を保てましょうか。たとえ万年を保ったとしても、最後には終わりがないことがありましょうか。これにまさる善知識が何かございましょうか」といって、自分で髻を切って、滝口入道に剃らせた。
石童丸もこれを見て、元結の際から髪を切った。これも八つの年からお仕え申して、重景にも劣らずかわいがっておられたので、同じく滝口入道に剃らせた。この者たちが先立ってこのようになるのをご覧になるにつけても、いっそう心細くなられた。「ああ、どうにかして、変わらない姿を、もう一度恋しい者たちに見せてから、このようになったのなら、思い残すこともあるまいに」とおっしゃったのは、せめてもの思いであった。
そうしてばかりもいられないので、「流転三界中、恩愛不能断、棄恩入無為、真実報恩者」と三度唱えられて、ついに髪を剃りおろされた。三位中将と与三兵衛は同じ年で、今年二十七歳である。石童丸は十八になっていた。しばらくして舎人の武里を呼んで、「決して、おまえはここから都へ上ってはならない。そのわけは、いつかは隠しおおせることではないが、確かにこのありさまを聞いたら、(妻も)すぐに姿を変えてしまうだろうと思われるからだ。ただここから八島へ行って、人々に申してほしいことは、『ご覧のとおり、世の中もすべてもの憂く、つまらなさもいろいろと重なって思われたので、人々にこうともお知らせ申さずに、このようになってしまいました。西国では左中将(清経)が亡くなりました。一の谷では備中守(師盛)が討たれました。維盛までもこのようになりましたので、さぞ皆さまは心細くお思いになるだろうと、それだけが心苦しゅうございます。そもそも唐皮という鎧と小烏という太刀は、平将軍貞盛以来、当家に伝えて、維盛までは嫡々九代にあたる。この後もし運が開けて都へお帰りになることがあれば、六代に与えよ』と申してくれ」とおっしゃった。
武里は涙にむせび、うつ伏して、しばらくはご返事もできなかった。しばらくして涙をおさえて申すには、「どこまでもお供申して、最後のご様子をも見届け申してから、八島へも参りましょう」と申したので、それならばといって連れて行かれた。善知識のためにといって、滝口入道も連れて行かれた。高野を山伏修行者のような姿で出立して、同じ国のうち山東へ出られた。藤代の王子をはじめとして、王子社を一つ一つ伏し拝みながら参られるうちに、千里の浜の北、岩代の王子の御前で、狩装束の者七、八騎ほどに行き会われた。もう捕らえられるのであろう、腹を切ろうと、それぞれ腰の刀に手をかけられたところ、そうではなくて、馬から下りて近づき申したが、少しも害を加えそうな様子もなく、深くかしこまって通り過ぎた。このあたりにも見知り申している者がいるのだな、誰であろうと恥ずかしくて、いっそう足を早められた。これは当国の住人湯浅権守宗重の子、湯浅七郎兵衛宗光という者である。郎等たちが「あれはどなたですか」と問うたので、「あれこそ小松の大臣殿のご嫡子三位中将殿だ。八島をどうやって逃れてこられたのだろうか。もう出家しておられた。与三兵衛と石童丸も同じく出家してお供をしていた。近づいてお目にかかりたかったが、ご遠慮なさるだろうと思って通り過ぎたのだ。ああ、お気の毒なことだ」といって、袖を顔に押し当ててさめざめと泣いたので、郎等たちもみな狩衣の袖を濡らした。
意訳
維盛の出家を、供の重景・石童丸の出家とともに描く章段である。重景の長い述懐は、父景康が平治の乱で重盛の身代わりとなって討たれた恩と、重盛に名を与えられ育てられた主従の絆を語り、主君を見捨てて生きることはできないという思いをあらわしている。
出家してもなお、変わらぬ姿を妻子に見せたかったと嘆く維盛の言葉には、仏道に入りきれない人間の情がにじむ。唐皮の鎧と小烏の太刀を六代に伝えよという遺言は、平家嫡流としての維盛の自覚を示し、のちの六代の物語へとつながっていく。
語釈・文法注
文法
- 「雪山の鳥の鳴くらんやうに」
- 雪山(ヒマラヤ)に住むという寒苦鳥は、夜は寒さに苦しんで明日こそ巣を作ろうと鳴くが、朝になると忘れてしまうという。今日か明日かと命の終わりを待つ身のたとえ。
- 「後夜晨朝」
- 六時の勤行のうち、夜半過ぎの後夜と早朝の晨朝。
- 「命を捨つへからず」
- 底本は「へからず」と濁点のない形で刷る。「べからず」の意。
- 「何かは劣り候べき」
- 底本のふりがなは「なじかは」。どうして劣りましょうか。
- 「頭を取り上げられ」
- 元服の際に髪を結い上げてもらうこと。
- 「盛の字は家の字なれば五代につく」
- 五代は維盛の幼名。平家代々の「盛」の字は維盛につけ、重盛の「重」の字を松王(重景)に与えた。
- 「父かやうで死にける」
- 父がこのようにして(主君の身代わりとなって)死んだこと。「かやうで」は「かやうにて」の約。
- 「靫負の尉」
- 衛門府の三等官。
- 「ばし」
- 強めの係助詞。「…など決して」の意。
- 「流轉三界中、恩愛不能斷、棄恩入無爲、眞實報恩者」
- 出家のときに唱える偈。三界に流転する間は恩愛を断つことができない。恩を捨てて無為に入ることこそ真実に恩に報いることである、の意。
- 「嫡々九代」
- 貞盛から維盛まで、嫡子から嫡子へと伝えて九代にあたる。
- 「王子々々」
- 熊野街道の沿道に祀られた熊野権現の分社、九十九王子。
解説
維盛の出家は寿永三年(1184)三月のことで、高野山で出家した後、熊野三山に参詣し、那智の沖で入水したと伝える。唐皮の鎧と小烏の太刀は平家の重宝とされ、小烏丸と伝える太刀が現在も皇室の御物として伝わっている。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、738–742頁(コマ398–400)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日