平家物語 巻第十
高野の巻の事
高野山で滝口入道に会った維盛は、八島で一門から頼盛のように二心ありと疑われ、妻子を思う心も止まず抜け出してきたと語り、出家する前に熊野へ参りたいと告げる。滝口を先達に堂塔を巡り、奥の院へ参った。高野山は都を遠く離れた静寂の地である。延喜の帝の夢告で檜皮色の御衣を奉った時、観賢僧正の祈りで霧が晴れて大師の姿が拝まれ、伸びた御髪を剃り奉ったこと、弟子淳祐の手に移った香りが石山の聖教に残ることなどが語られ、大師が五十六億七千万年後の弥勒の出世を待って入定していることの久しさが述べられる。
- 1瀧瀧たき口口ぐち入入にゅう道道どう、、、三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょうををを見見み奉奉たてまつりりり、、、「「「こここはははうつゝうつゝうつつとととももも覺覺おぼえええ候候そうらははわぬぬぬものものものかなかなかな。。。さてさてさてももも八八や島島しまをををばばば何何なにとととしししてててかかかははは遁遁のがれれれさせさせさせ給給たまひひいててて候候そうろうやらんやらんやらん。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう、、、「「「されされさればばばとととよよよ、、、都都みやこをををばばば人人ひとなみ〳〵なみ〳〵なみひとなみににに出出いでででててて、、、西西さい國國こくへへへ落落おちちち下下くだりりりたりたりたりしかしかしかどもどもども、、、故故ふる鄕鄕さとににに止止とどめめめ置置おきききたりたりたりししし、、、をさなきをさなきおさなき者者もの共共どもががが面面おも影影かげのみのみのみ、、、身身みにににひしひしひしととと立立たちちち添添そひひいててて、、、忘忘わするゝるゝるるひまひまひまもももなかりなかりなかりしかしかしかばばば、、、そのそのそのものものもの思思おもふふう心心こころややや、、、いはいはいわぬぬぬにににしるくしるくしるくややや見見みえええけんけんけん、、、大臣殿大臣殿おおいどのももも、、、二二に位位い殿殿どのももも、、、このこのこの人人ひとははは池池いけののの大大だい納納な言言ごんのののやうやうようににに、、、賴賴より朝朝ともににに心心こころををを通通かよははわしししててて二二ふた心心ごころありありありなんなんなんととと、、、思思おもひひい隔隔へだててて給給たまふふう閒閒あいだ、、、いとゞいとゞいとど心心こころももも止止とどまらまらまらででで、、、これこれこれまでまでまであくがれあくがれあくがれ出出いでででたんたんたんなりなりなり。。。これこれこれにににててて出出しゅっ家家けしししててて、、、火火ひののの中中なか、、、水水みずののの底底そこへへへももも入入いりりりなばやなばやなばやとととははは思思おもへへえどもどもども、、、但但ただししし熊熊くま野野のへへへ參參まいりりりたきたきたき宿宿しゅく願願がんありありあり。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、瀧瀧たき口口ぐち入入にゅう道道どう申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「夢夢ゆめ幻幻まぼろしののの世世よののの中中なかははは、、、とてもとてもとてもかくかくかくてててももも候候そうらひひいなんずなんずなんず。。。たゞたゞただ長長ながききき世世よののの闇闇やみこそこそこそ心心こころうかるうかるうかるべうべうびょう候候そうらへへえ。。。」」」とととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。
- 2やがてやがてやがてこのこのこの瀧瀧たき口口ぐち入入にゅう道道どうををを先先せん達達だつにににててて、、、堂堂どう塔塔とう順順じゅん禮禮れいしししててて、、、奧奧おくののの院院いんへへへぞぞぞ參參まいららられれれけるけるける。。。高高こう野野や山山さんははは帝帝てい城城せいををを去去さつつっててて二二に百百はく里里り、、、鄕鄕きょう里里りををを離離はなれれれててて無無む人人にん聲聲じょう、、、晴晴せい嵐嵐らん梢梢こずえををを鳴鳴ならしらしらしてててははは、、、夕夕せき日日じつのののかげかげかげ靜靜しずかかかなりなりなり。。。八八はち葉葉ようののの峯峯みね、、、八八やつつつののの谷谷たに、、、まことまことまことににに心心こころもももすみすみすみぬぬぬべしべしべし。。。花花はなののの色色いろははは林林りん霧霧ぶののの底底そこににに綻綻ほころびびび、、、鈴鈴れいののの音音おとははは尾尾を上上のえののの雲雲くもにににひゞけりひゞけりひびけり。。。瓦瓦かわらににに松松まつ生生おひひい垣垣かきににに苔苔こけむしむしむしててて、、、星星せい霜霜そう久久ひさしくしくしく覺覺おぼえええたりたりたり。。。
- 3昔昔むかし延延えん喜喜ぎののの御御み門門かどののの御御おん時時とき、、、御御ご夢夢む想想そうののの御御おん告告つげげげあつあつあっててて、、、檜檜ひ皮皮はだ色色いろののの御御ぎょ衣衣いををを參參まいらららさせさせさせ給給たまふふうににに、、、敕敕ちょく使使し中中ちゅう納納な言言ごん資資すけ澄澄ずみののの卿卿きょう、、、般般はん若若にゃ寺寺じののの僧僧そう正正じょう觀觀かん賢賢けんををを相相あい具具ぐしししててて、、、このこのこの御御お山山やまににに上上のぼりりり、、、御御み廟廟みょうののの扉扉とびらをををおしおしおし開開ひらききき、、、御御おん衣衣ころもををを著著きせせせ奉奉たてまつらららんんんとととしししけるけるけるににに、、、霧霧きり厚厚あつううう隔隔へだたつたつたっててて大大だい師師し拜拜おがまままれれれさせさせさせ給給たまははわずずず。。。時時ときににに觀觀かん賢賢けん深深ふかくくく愁愁しゅう涙涙るいしししててて、、、「「「われわれわれ悲悲ひ母母もののの胎胎たい内内ないををを出出いでででててて、、、師師し匠匠しょうののの室室しつににに入入いつつっしししよりよりよりこのこのこのかたかたかた、、、未未いまだだだ禁禁きん戒戒かいををを犯犯ぼんぜぜぜずずず、、、されされさればばばなどなどなどかかか拜拜おがみみみ奉奉たてまつらららざるざるざるべきべきべき。。。」」」とととててて、、、五五ご體體たいををを地地ちににに投投なげげげ、、、發發ほっ露露ろ涕涕てい泣泣きゅうししし給給たまへへえばばば、、、やう〳〵やう〳〵ようよう霧霧きりはれはれはれててて、、、月月つきののの出出いづるづるずるががが如如ごとくくくににに大大だい師師し拜拜おがまままれれれさせさせさせ給給たまひひいけりけりけり。。。そのそのその時時とき觀觀かん賢賢けん、、、隨隨ずい喜喜きののの涙涙なみだををを流流ながいいいててて、、、御御おん衣衣ころもををを著著きせせせ奉奉たてまつりりり、、、御御おん髪髪ぐしののの長長なごううう生生おひひい延延のびびびさせさせさせ給給たまひひいたるたるたるをををももも、、、剃剃そりりり奉奉たてまつるるるぞぞぞありがたきありがたきありがたき。。。
- 4敕敕ちょく使使しととと僧僧そう正正じょうとととははは拜拜おがみみみ給給たまへへえどもどもども、、、僧僧そう正正じょうののの御御おん弟弟で子子し石石いし山山やまののの内内ない供供ぐ淳淳じゅん祐祐ゆう、、、そのそのその時時ときははは未未いまだだだ童童どう形形ぎょうにににててて供供ぐ奉奉ぶせせせられられられたりたりたりしししががが、、、大大だい師師しををを拜拜おがみみみ奉奉たてまつらららずずずしししててて、、、深深ふこううう歎歎なげききき沉沉しずんんんでででおはしおはしおわしけるけるけるををを、、、僧僧そう正正じょう手手てををを取取とつつっててて、、、大大だい師師しののの御御おん膝膝ひざにににおしおしおし當當あてててられられられたりたりたりけれけれければばば、、、そのそのその手手て、、、一一いち期期ごががが閒閒あいだかうばしかりかうばしかりこうばしかりけるけるけるとととかかかややや。。。そのそのそのうつりうつりうつり香香がははは、、、石石いし山山やまののの聖聖しょう教教ぎょうににに殘殘のこつつっててて、、、今今いまにににありありありとととぞぞぞ承承うけたまわるるる。。。大大だい師師し、、、御御み門門かどののの御御おん返返へん事事じににに申申もうさささせせせ給給たまひひいけるけるけるははは、、、「「「われわれわれ昔昔むかし薩薩さっ埵埵たににに逢逢あひひいててて、、、まのあたりまのあたりまのあたり盡盡ことごとくくく印印いん明明みょうををを傳傳つたふふう。。。無無む比比ひののの請請せい願願がんををを起起おこしししててて、、、邊邊へん里里りののの異異い域域いきににに侍侍はんべりりり、、、晝晝ちゅう夜夜やににに萬萬ばん民民みんををを憐憐あわれんんんででで、、、普普ふ賢賢げんののの悲悲ひ願願がんににに住住じゅうししし、、、肉肉にく身身しん三三さん昧昧まいををを證證しょうじじじててて、、、慈慈じ氏氏しののの化化け生生しょうををを待待まつつつ。。。」」」とととぞぞぞ申申もうさささせせせ給給たまひひいけるけるける。。。かのかのかの摩摩ま訶訶か迦迦か葉葉しょうののの鷄鷄けい足足そくののの洞洞ほらににに籠籠こもつつっててて、、、氏氏し頭頭ずののの春春はるののの風風かぜををを期期ごししし給給たまふふうらんらんらんももも、、、かくかくかくやややとととぞぞぞ覺覺おぼえええけるけるける。。。御御ご入入にゅう定定じょうははは承承じょう和和わ二二に年年ねん三三さん月月がつ二二に十十じゅう一一いち日日にち寅寅とらののの一一いっ點點てんののの事事ことなれなれなればばば、、、過過すぎぎぎにににししし方方かたははは三三さん百百びゃく餘餘よ歳歳さい、、、行行ゆく末末すえもももなほなほなお五五ご十十じゅう六六ろく億億おく七七しち千千せん萬萬まん歳歳ざいののの後後のち、、、慈慈じ尊尊そんののの出出しゅっ世世せ、、、三三さん會會えののの曉曉あかつきををを待待またたたせせせ給給たまふふうらんらんらんこそこそこそ久久ひさしけれしけれしけれ。。。
現代語訳
滝口入道は三位中将(維盛)を見申して、「これは現実とも思われません。それにしても八島をどうやって逃れておいでになったのですか」と申したので、三位中将は、「そのことよ。都を人並みに出て西国へ落ちて下ったが、故郷に残しておいた幼い者たちの面影ばかりが身にぴたりと寄り添って、忘れるひまもなかったので、その物思う心が、言わなくてもはっきり見えたのであろうか、大臣殿(宗盛)も二位殿も、この人は池の大納言(頼盛)のように頼朝に心を通じて二心があるだろうと、隔てを置かれるので、いよいよ心もとどまらず、ここまでさまよい出て来たのだ。ここで出家して、火の中、水の底へも入ってしまいたいとは思うが、ただし熊野へ参りたい宿願がある」とおっしゃると、滝口入道が申すには、「夢幻の世の中は、どうあっても同じことでございましょう。ただ長い来世の闇こそつらいことでございましょう」と申した。
やがてこの滝口入道を先達にして、堂塔を順に拝んで、奥の院へ参られた。高野山は都を去って二百里、人里を離れて人の声もなく、山の風が梢を鳴らし、夕日の影は静かである。八葉の峰、八つの谷は、まことに心も澄みわたりそうである。花の色は林の霧の底にほころび、鈴の音は峰の雲に響いている。瓦に松が生え、垣に苔がむして、長い年月がしのばれる。
昔、延喜の帝(醍醐天皇)の御時、夢のお告げがあって、檜皮色の御衣を(大師に)お贈りになったとき、勅使中納言資澄卿が般若寺の僧正観賢を連れてこの御山に上り、御廟の扉を押し開いて御衣をお着せ申そうとしたところ、霧が厚くたちこめて大師のお姿が拝めなかった。そのとき観賢は深く愁いの涙を流して、「私は母の胎内を出て師匠の室に入ってからこのかた、まだ戒律を犯したことがありません。それなのにどうしてお姿を拝み申せないことがありましょう」といって、五体を地に投げ伏し、罪を告白して泣いて祈られると、しだいに霧が晴れて、月が出るように大師のお姿が拝まれた。そのとき観賢は随喜の涙を流して、御衣をお着せ申し、御髪が長く伸びておいでになったのを剃り申したのは、ありがたいことである。
勅使と僧正とは拝まれたが、僧正の御弟子で石山の内供淳祐は、そのときはまだ稚児の姿でお供していたが、大師を拝み申せないで深く嘆き沈んでおられたのを、僧正が手を取って大師の御膝に押し当てられたところ、その手は一生の間よい香りがしたという。その移り香は石山の聖教に残って、今もあると聞いている。大師は帝へのご返事に申されたのは、「私は昔、薩埵(金剛薩埵)にお会いして、目の当たりにことごとく印と真言を伝えられた。比類のない誓願を起こして、辺境の異国に住み、昼夜に万民を憐れんで、普賢の悲願にとどまり、肉身のまま三昧を証して、弥勒の出現を待っている」と申された。あの摩訶迦葉が鶏足山の洞にこもって、弥勒の出世の春の風を待っておられるというのも、このようであろうかと思われた。御入定は承和二年三月二十一日寅の一点のことなので、過ぎ去った年月は三百余年、これから先もなお五十六億七千万年の後、慈尊(弥勒)の出世、三会の暁を待っておられるのは、まことに久しいことである。
意訳
高野山にたどりついた維盛が、出家の前に熊野へ参りたいと願う場面から、奥の院の弘法大師入定の霊験譚へと移る章段である。一門から二心を疑われ、妻子への思いも断ちきれない維盛の孤独が、俗世を遠く離れた高野山の静寂と対比されている。
観賢が大師の御髪を剃った話や、淳祐の手に移った香りの話は、大師が今も生身のまま奥の院に入定しているという信仰を伝える。五十六億七千万年後の弥勒の出世を待つという気の遠くなるような時間は、維盛のはかない命と鮮やかな対照をなしている。
語釈・文法注
文法
- 「さればとよ」
- そのことだよ。相手の問いを受けて話しはじめる言葉。
- 「池の大納言のやうに」
- 清盛の弟頼盛は、母池禅尼が頼朝の命を救った縁で頼朝に厚遇され、都落ちにも加わらなかった(巻第七)。
- 「とてもかくても候ひなんず」
- どうなってもかまわないでしょう。
- 「無人聲」
- 人の声がない。
- 「八葉の峯、八つの谷」
- 高野山の山上は八つの峰に囲まれ、蓮華の八葉にたとえられる。
- 「愁涙」
- 愁えて流す涙。
- 「發露涕泣」
- 罪をさらけ出して懺悔し、涙を流して泣くこと。
- 「邊里の異域」
- 辺地の異国。仏国土から遠い日本をさす。
- 「慈氏の化生」
- 慈氏は弥勒菩薩。底本は「化生」と刷る。通行本文は「下生(げしょう)」。
- 「氏頭の春の風」
- 弥勒の出世を待つ意。通行本文は「翅頭(しず)の春の風」で、翅頭末城は弥勒が出世する都城の名。
- 「三會の曉」
- 弥勒が出世して竜華樹の下で三度の説法の会を開く暁。
解説
弘法大師空海は承和二年(835)三月二十一日に高野山で入定した。延喜二十一年(921)、醍醐天皇から「弘法大師」の諡号と檜皮色の御衣が贈られ、観賢が奥の院の御廟を開いて大師に御衣を着せたという伝承は、『今昔物語集』などにも見える。この話は、大師が今も奥の院で生きて衆生を見守っているという入定信仰のもとになった。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、736–738頁(コマ397–398)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日