平家物語 巻第七
維盛都落ちの事
都落ちにあたって、小松三位中将維盛は、最愛の北の方と十歳の若君六代、八歳の姫君を都に残すことにした。北の方は、同じ野原の露とも消えようと誓ったのにと恨んで袖にすがり、子どもたちは鎧の袖にとりついて泣く。弟たちに遅参をせかされた維盛は、御簾をかき上げて幼い者たちを見せ、泣きながら出発した。斎藤五・斎藤六の兄弟には六代を託して都に残らせた。平家は六波羅以下の邸宅と京・白川の民家四、五万軒に火をかけて都を落ちていった。
- 1越越えっ中中ちゅうののの次次じ郎郎ろう兵兵びょう衞衞え太太た刀刀ち脇脇わき挾挾ばさみみみ、、、攝攝せつ政政しょう殿殿どのののの御御おん止止とどまりまりまりあるあるあるをををおしおしおし止止とどめめめ參參まいらせらせらせんんんととと、、、頻頻しきりりりににに進進すすみみみけれけれけれどもどもども、、、人人ひと々々びとににに制制せいせせせられられられててて、、、力力ちから及及およばばばででで止止とどまりまりまりぬぬぬ。。。
- 2中中なかにににももも小小こ松松まつののの三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう維維これ盛盛もりののの卿卿きょうははは、、、日日ひ頃頃ごろよりよりより思思おもひひい設設もうけけけ給給たまへへえるるることことことなれなれなれどもどもども、、、さしさしさし當當あたつつってててははは悲悲かなしかりしかりしかりけりけりけり。。。このこのこの北北きたののの方方かたととと申申もうすすすははは、、、故故こ中中なかののの御御み門門かどののの新新しん大大だい納納な言言ごん成成なり親親ちかののの卿卿きょうののの女女むすめ、、、父父ちちにににももも母母ははにににもももおくれおくれおくれ給給たまひひいててて、、、孤孤みなしごにてにてにておはせおはせおわせしかしかしかどもどもども、、、桃桃とう顏顏がん露露つゆにににほころびほころびほころび、、、紅紅こう粉粉ふん眼眼まなこににに媚媚こびをををなしなしなし、、、柳柳りゅう髪髪はつ風風かぜににに亂亂みだるゝるゝるるよそほひよそほひよそおい、、、またまたまた人人ひとあるあるあるべしべしべしとととももも見見みえええ給給たまははわずずず。。。六六ろく代代だい御御ご前前ぜんとてとてとて生生しょう年年ねん十十とおににになりなりなり給給たまふふう若若わか君君ぎみ、、、そのそのその妹妹いもうと八八はっ歳歳さいののの姫姫ひめ君君ぎみおはしおはしおわしけりけりけり。。。このこのこの人人ひと々々びとももも面面めん々々めんにににおくれおくれおくれじじじととと慕慕したひひい給給たまへへえばばば、、、三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょうのたまひのたまひのたまいけるけるけるははは、、、「「「われわれわれははは日日ひごろごろごろ申申もうししししししやうやうようににに、、、一一いち門門もんににに具具ぐせせせられられられててて、、、西西さい國國こくののの方方かたへへへ落落おちちちゆくゆくゆくなりなりなり。。。いづくいづくいずくまでまでまでももも具具ぐ足足そくししし奉奉たてまつるるるべけれべけれべけれどもどもども、、、道道みちにににももも敵敵かたき待待まつつつなれなれなればばば、、、心心こころやすくやすくやすく通通とおらららんんん事事ことありありありがたしがたしがたし。。。たとひたとひたといわれわれわれ討討うたたたれれれたりたりたりととと聞聞きききき給給たまふふうともともとも、、、さまさまさまなどなどなどかへかへかへ給給たまふふう事事ことははは、、、ゆめ〳〵ゆめ〳〵ゆめゆめあるあるあるべからべからべからずずず。。。そのそのその故故ゆえはははいかならいかならいかならんんん人人ひとにににももも見見みもももししし見見みえええててて、、、あのあのあの幼幼おさなききき者者ものどもどもどもをををもももはぐゝみはぐゝみはぐくみ給給たまへへえ。。。情情なさけをををかくかくかくべきべきべき人人ひとももも、、、などなどなどかかかなくなくなくててて候候そうろうべきべきべき。。。」」」ととと、、、やう〳〵やう〳〵ようようににに慰慰なぐさめめめのたまへのたまへのたまえどもどもども、、、北北きたののの方方かたとかうとかうとこうののの返返へん事事じをををもももししし給給たまははわずずず、、、引引ひきききかづいかづいかずいてててぞぞぞ伏伏ふししし給給たまふふう。。。
- 3中中ちゅう將將じょう既既すでにににうちうちうち立立たたたたんんんとととしししたまへたまへたまえばばば、、、北北きたののの方方かた袂袂たもとにににすがりすがりすがり、、、「「「都都みやこにににははは父父ちちもももなしなしなし、、、母母ははもももなしなしなし。。。棄棄すてててられられられ奉奉たてまつつつっててて後後のち、、、またまたまた誰誰たれにににかかかははは見見みゆゆゆべきべきべきににに、、、いかならいかならいかならんんん人人ひとにににももも見見みえええよよよなどなどなど承承うけたまわるるることことことそそそうらめしけれうらめしけれうらめしけれ。。。前前ぜん世世せののの契契ちぎりりりありありありけれけれければばば、、、人人ひとこそこそこそ憐憐あわれみみみたまふたまふたまうともともとも、、、またまたまた人人ひとごとごとごとにににしもしもしもややや情情なさけをををかくかくかくべきべきべき。。。いづくいづくいずくまでまでまでももも伴伴ともなひひい奉奉たてまつりりり、、、同同おなじじじ野野の原原はらののの露露つゆとととももも消消きえええ、、、一一ひとつつつ底底そこののの水水み屑屑くずととともももならならならんんんとととこそこそこそ契契ちぎりりりしししににに、、、さればさればさればさささ夜夜よののの寢寢ね覺覺ざめのののむつむつむつごとごとごとははは、、、みなみなみな僞僞いつわりりりににになりなりなりにににけりけりけり。。。せめてせめてせめてははは身身み一一ひとつつつならならならばばばいかゞいかゞいかがせせせんんん。。。棄棄すてててられられられ奉奉たてまつるるる身身みののの憂憂うさささををを、、、思思おもひひい知知しつつってててももも止止とどまりまりまりなななんんん。。。幼幼おさなききき者者ものどもどもどもをををばばば、、、誰誰たれににに見見みゆづりゆづりゆずり、、、いかにいかにいかにせせせよよよとととかかか思思おぼし召召めすすす。。。うらめしううらめしううらめしゅうももも止止とどめめめ給給たまふふうものものものかなかなかな。。。」」」とてとてとて、、、且且かつははは恨恨うらみみみ、、、且且かつははは慕慕したひひいたまへたまへたまえばばば、、、三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう、、、「「「まことまことまことににに人人ひとははは十十じゅう三三さん、、、われわれわれははは十十じゅう五五ごよりよりより見見みそめそめそめ奉奉たてまつつつったれたれたればばば、、、火火ひののの中中なか、、、水水みずののの底底そこへへへももも共共ともににに入入いりりり共共ともににに沉沉しずみみみ、、、限限かぎりりりあるあるある別別わかれ路路じまでまでまでももも、、、後後おくれれれ先先さき立立だたたたじじじとととこそこそこそ思思おもひひいしかしかしか。。。今日今日きょうはははかくかくかく物物もの憂憂うききき有有あり樣樣さまどもどもどもにてにてにて軍軍いくさののの陣陣じんへへへ赴赴おもむけけけばばば、、、具具ぐ足足そくししし奉奉たてまつつつっててて、、、行行ゆく末末すえももも知知しらららぬぬぬ旅旅たびののの空空そらにてにてにて憂憂うききき目目めををを見見みせせせ參參まいらせらせらせんんんももも、、、わがわがわが身身みながらながらながらうたてかるうたてかるうたてかるべしべしべし。。。そのそのその上上うえ今今こん度度どははは用用よう意意いももも候候そうらははわずずず、、、いづくいづくいずくののの浦浦うらにににももも心心こころやすうやすうやすう落落おちちちつきつきつきたらたらたらばばば、、、それそれそれよりよりより迎迎むかへへえににに人人ひとをををこそこそこそ參參まいらせらせらせめめめ。。。」」」とてとてとて、、、思思おもひひい切切きつつってててぞぞぞ立立たたたたれれれけるけるける。。。
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- 7北北きたののの方方かたははは、、、「「「年年とし來來ごろ日日ひ頃頃ごろ、、、かくかくかく情情なさけなきなきなき人人ひととととこそこそこそ、、、かけかけかけてててははは思思おもははわざりざりざりしかしかしか。。。」」」とてとてとて、、、引引ひきききかづいかづいかずいてててぞぞぞ臥臥ふししし給給たまふふう。。。若若わか君君ぎみ、、、姫姫ひめ君君ぎみ、、、女女にょう房房ぼう達達たちははは御御み簾簾すののの外外そとまでまでまでまろびまろびまろび出出いででで、、、聲聲こえをををはかりはかりはかりにににをめきをめきおめきさけびさけびさけび給給たまひひいけりけりけり。。。そのそのその聲聲こえ々々ごえ耳耳みみののの底底そこににに止止とどまりまりまりててて、、、さればさればされば西西さい海海かいののの立立たつつつ波波なみののの上上うえ、、、吹吹ふくくく風風かぜののの音音おとまでまでまでももも、、、聞聞きくくくやうやうようにににこそこそこそ思思おもははわれれれけれけれけれ。。。平平へい家家け都都みやこををを落落おちちちゆくゆくゆくににに、、、六六ろく波波は羅羅ら、、、池池いけ殿殿どの、、、小小こ松松まつ殿殿どの、、、八八はち條條じょう、、、西西にし八八はち條條じょう以以い下下げ、、、人人ひと々々びとののの家家いえ々々いえ二二に十十じゅう餘餘よ箇箇か所所しょ、、、そのそのその外外ほか次次つぎ々々つぎのののともがらともがらともがらののの宿宿しゅく所所しょ々々しゅく々々しょ、、、京京きょう、、、白白しら川川かわ、、、四四し五五ご萬萬まん軒軒げんががが在在ざい家家けににに火火ひをををかけかけかけててて、、、一一いち度度どにににみなみなみな燒燒やききき拂拂はらふふう。。。
現代語訳
越中次郎兵衛(盛嗣)は太刀を脇にはさんで、摂政殿がお残りになるのを押しとどめ申し上げようと、しきりに進み出たが、人々に制されて、どうしようもなくとどまった。
なかでも小松三位中将維盛卿は、日ごろから覚悟しておられたことではあったが、いざとなると悲しかった。この北の方というのは、故中御門新大納言成親卿の娘で、父にも母にも先立たれて孤児でいらっしゃったが、桃のような顔は露にほころびるように美しく、紅粉をさした目もとはなまめかしく、柳のような髪が風に乱れるさまは、ほかにこれほどの人はあるまいと見えた。六代御前という十歳になられる若君と、その妹で八歳の姫君がおられた。この人々もそれぞれ後に残るまいと慕われるので、三位中将がおっしゃるには、「わたしは日ごろ申していたように、一門に連れられて西国の方へ落ちて行くのだ。どこまでもお連れしたいが、道中にも敵が待っているそうだから、無事に通ることはむずかしい。たとえわたしが討たれたと聞かれても、尼姿などになられることは決してあってはならない。そのわけは、どのような人にでも縁づいて、あの幼い者たちを育てていただきたいからだ。情けをかけてくれる人もどうしていないことがあろうか」と、いろいろと慰められたが、北の方は何の返事もなさらず、衣をかぶって伏してしまわれた。
中将がいよいよ出発しようとされると、北の方は袂にすがって、「都には父もいません、母もいません。あなたに捨てられた後、また誰に縁づけというのでしょう。どのような人にでも縁づけなどとおっしゃるのは恨めしいことです。前世からの縁があったから、あなたは私をいとしく思ってくださったのでしょうが、ほかの人が誰でも情けをかけてくれるものでしょうか。どこまでもお供して、同じ野原の露とも消え、同じ水底の藻屑ともなろうと約束したのに、それでは夜の寝覚めの睦言は、みな偽りになってしまったのですね。せめてこの身一つならどうともなりましょう。捨てられる身のつらさを思い知って、都にとどまりもしましょう。でも幼い者たちを誰に託して、どうせよとお思いなのですか。恨めしくも引きとめなさるものですね」といって、恨んだり慕ったりなさるので、三位中将は、「まことにあなたが十三、わたしが十五のときから連れ添ったのだから、火の中、水の底へも一緒に入り一緒に沈み、限りある死出の別れ路までも、後れたり先立ったりすまいと思っていた。しかし今日はこのようなつらいありさまで戦の陣へ赴くのだから、お連れして行く末も知れない旅の空でつらい目を見せるのも、わが身ながら情けないことだろう。そのうえ今度は用意もない。どこかの浦にでも無事に落ち着いたら、そこから迎えの人を差し上げよう」といって、思い切って立ち上がられた。
中門の廊に出て、鎧を取って着、馬を引き寄せさせて、いよいよ乗ろうとなさると、若君と姫君が走り出て、父の鎧の袖や草摺に取りついて、「これはまあ、どちらへいらっしゃるのですか。わたしも参ります、わたしも行きます」と慕って泣かれるので、憂き世の絆と思われて、三位中将はますますどうしようもないようにお見えになった。
弟の新三位中将資盛、左中将清経、同じく少将有盛、丹後侍従忠房、備中守師盛の兄弟五騎が、馬に乗ったまま門の中へ乗り入れ、庭に控えて、大声で「行幸ははるか先へ進まれたでしょうに、どうして今まで遅れておられるのですか」と口々に申されたので、三位中将は馬に乗って出て行かれたが、また引き返して縁のきわに馬を寄せ、弓の弭で御簾をさっとかき上げて、「これをご覧ください。幼い者たちがあまりに慕いますのを、なんとかなだめておこうとしているうちに、思いのほか遅くなりました」とおっしゃるやいなや、はらはらと泣かれたので、庭に控えておられた人々もみな鎧の袖を濡らされた。
さてここに、三位中将の長年の侍で、斎藤五・斎藤六という、兄は十九、弟は十七になる侍がいた。三位中将の御馬の左右の轡に取りついて、どこまでもお供いたしましょうと申したので、三位中将がおっしゃるには、「おまえたちの父、長井の斎藤別当実盛が北国へ下ったとき、おまえたちが供をしようと言ったのを、思うところがあるといって止めおき、ついに北国で討死したのは、さすが年功を積んだ者で、このようになることをかねて悟っていたのだろう。あの六代を残して行くのに、安心して世話を頼める者がいないのだ。ただ無理を承知でとどまってくれ」とおっしゃったので、二人はどうしようもなく、涙をこらえてとどまった。
北の方は「長年連れ添って、これほど情けない人だとは少しも思わなかった」といって、衣をかぶって伏してしまわれた。若君・姫君・女房たちは御簾の外まで転げ出て、声をかぎりに泣き叫ばれた。その声々が耳の底にとどまって、西海の立つ波の上でも、吹く風の音までも、その声を聞くように思われたのであった。平家は都を落ちて行くにあたって、六波羅・池殿・小松殿・八条・西八条以下、人々の邸宅二十余か所、そのほか下々の者たちの宿所、京と白川の四、五万軒の民家に火をかけて、一度にみな焼き払った。
意訳
都落ちに際しての維盛と妻子との別れを描く、『平家物語』屈指の哀切な章段である。共に死のうと誓った北の方の嘆き、鎧の袖にすがる幼い子どもたち、御簾をかき上げて子らを見せる維盛の姿が、戦乱に引き裂かれる家族の悲しみを描き出している。
維盛は六代を斎藤五・斎藤六に託して都に残した。この六代はのちに北条時政に捕らえられ、文覚の助命で一時命を救われる(巻第十二「六代の事」)。物語の最後まで続く平家の嫡流の運命が、ここから始まっている。
語釈・文法注
文法
- 「桃顏露にほころび」
- 桃のような顔が露を受けてほころぶように美しく。
- 「見もし見えて」
- 夫婦の縁を結んで。
- 「うき世の覊」
- この世に心をつなぎとめる束縛。
- 「水つき」
- 馬の轡の、手綱をつける部分。
- 「ふるきもの」
- 年功を積んだ者、老練な者。
解説
平維盛(1159?〜1184?)は重盛の嫡男で、美貌で知られた。北の方は藤原成親の娘である。維盛は都落ち後も妻子を思い続け、のちに屋島の陣を抜け出して高野山に入り、熊野で入水する(巻第十「維盛入水の事」)。平家が都落ちの際に六波羅や西八条などの邸宅を焼き払ったのは、寿永二年(1183)七月二十五日のことである。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、582–584頁(コマ320–321)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日