平家物語 巻第十
横笛の事
八島にいた小松三位中将維盛は、都に残した妻子を忘れられず、寿永三年三月十五日の暁、与三兵衛重景・石童丸・舎人武里の三人を連れてひそかに八島を抜け出し、紀伊の湊に着いた。都へ上れば叔父重衡のように恥をさらすと思い直し、高野山へ向かう。そこには旧知の聖、斎藤滝口時頼がいた。時頼はかつて建礼門院の雑司横笛を愛したが、父に諫められて十九で出家し、嵯峨の往生院に入った。訪ねて来た横笛を門違いだと追い返し、心が動くのを恐れて高野へ移った。横笛も出家して法華寺で間もなく亡くなり、滝口はいよいよ修行に励んだ。維盛は、まだ三十にもならないのに老僧の姿となった滝口をうらやましく思った。
- 1さるさるさる程程ほどににに小小こ松松まつののの三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう維維これ盛盛もりののの卿卿きょうははは、、、身身みがらがらがらははは八八や島島しまにににありありありながらながらながら、、、心心こころははは都都みやこへへへ通通かよははわれれれけりけりけり。。。故故ふる里里さとににに止止とどめめめ置置おきききたまひたまひたまいししし北北きたののの方方かた、、、をさなきをさなきおさなき人人ひと々々びとののの面面おも影影かげのみのみのみ、、、身身みにににひしひしひしととと立立たち添添そひひいててて、、、忘忘わするゝるゝるるひまひまひまもももなかりなかりなかりけれけれければばば、、、あるあるあるにににかひかひかいなきなきなきわがわがわが身身みかかかはははとととててて、、、壽壽じゅ永永えい三三さん年年ねん三三さん月月がつ十十じゅう五五ご日日にちののの曉曉あかつき、、、忍忍しのびびびつゝつゝつつ八八や島島しまののの館館たちをををばばばまぎれまぎれまぎれ出出いででで、、、與與よ三三さ兵兵ひょう衞衞え重重しげ景景かげ、、、石石いし童童どう丸丸まるととといふいふいう童童わらわ、、、船船ふねににに心心こころ得得えたれたれたればばばとととててて武武たけ里里さとととといふいふいう舎舎とね人人り、、、このこのこの三三さん人人にんををを召召めししし具具ぐしししててて、、、阿阿あ波波わののの國國くに結結ゆう城城きののの浦浦うらよりよりより船船ふねににに乘乘のりりり、、、鳴鳴なる門門とののの沖沖おきををを漕漕こぎぎぎ過過すぎぎぎててて、、、紀紀きののの路路じへへへ赴赴おもむききき給給たまひひいけりけりけり。。。和和わ歌歌か、、、吹吹ふき上上あげ、、、衣衣そと通通ほり姫姫ひめののの神神かみととと現現あらはれはれわれ給給たまへへえるるる玉玉たま津津つ島島しまののの明明みょう神神じん、、、日日にち前前ぜん、、、國國こく懸懸けんののの御御お前前まえををを過過すぎぎぎててて、、、紀紀きののの湊湊みなとにににこそこそこそ著著つききき給給たまへへえ。。。それそれそれよりよりより山山やまづたひづたひづたいににに都都みやこへへへ上上のぼりりり、、、こひしきこひしきこいしき者者ものどもどもどもをををももも今今いま一一ひと度度たび見見みもももししし、、、見見みえええばやばやばやととと思思おもははわれれれけれけれけれどもどもども、、、叔叔お父父じ本本ほん三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう殿殿どのののの生生いけ捕捕どりにににせせせられられられててて、、、京京きょう、、、鎌鎌かま倉倉くらににに恥恥はじをををさらささらささらさせせせ給給たまふふうだにだにだにももも口口くち惜惜おしきしきしきににに、、、このこのこの身身みさへさへさへ捕捕とらへへえられられられててて、、、父父ちちののの屍屍かばねににに血血ちをををあやさあやさあやさんんん事事ことももも心心こころうしうしうしとととててて、、、千千ちたびたびたび心心こころはははすゝめすゝめすすめどもどもども、、、心心こころににに心心こころををを爭爭あらそひひいててて、、、高高こう野野やののの御御お山山やまへへへ參參まいりりり給給たまふふう。。。
- 2高高こう野野やににに年年ねん來來らい知知しりりり給給たまへへえるるる聖聖ひじりありありあり。。。三三さん條條じょうののの齋齋さい藤藤とう左左さ衞衞え門門もん茂茂もち賴賴よりががが子子こににに齋齋さい藤藤とう瀧瀧たき口口ぐち時時とき賴賴よりとととててて、、、もともともとははは小小こ松松まつ殿殿どのののの侍侍さぶらいなりなりなりしししががが、、、十十じゅう三三さんののの年年とし本本ほん所所じょへへへ參參まいりりりたりたりたり。。。建建けん禮禮れい門門もん院院いんののの雜雜ぞう司司し横横よこ笛笛ぶえととといふいふいう女女おんなありありあり。。。瀧瀧たき口口ぐちこれこれこれににに最最さい愛愛あいすすす。。。父父ちちこのこのこの由由よしををを傳傳つたへへえ聞聞きいいいててて、、、世世よにににあらあらあらんんん者者ものののの聟聟むこ子子ごにににもももなしなしなし、、、出出しゅっ仕仕しなんどなんどなんどをををももも心心こころやすうやすうやすうせせせさせさせさせんんんととと思思おもひひい居居いたれたれたればばば、、、よしなきよしなきよしなき者者ものををを思思おもひひいそめそめそめてててなどなどなど、、、あながちあながちあながちににに諫諫いさめめめけれけれければばば、、、瀧瀧たき口口ぐち申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「西西せい王王おう母母ぼととといついついっししし人人ひとももも、、、昔昔むかしはははありありありててて今今いまはははなしなしなし。。。東東とう方方ほう朔朔さくととと聞聞ききききししし者者ものももも、、、名名なをををのみのみのみ聞聞ききききててて目目めにににははは見見みずずず。。。老老ろう少少しょう不不ふ定定じょうののの境境さかいははは、、、たゞたゞただ石石せっ火火かののの光光ひかりににに異異ことならならならずずず。。。たとひたとひたとい人人ひと長長ちょう命命めいととといへいへいえどもどもども、、、七七しち十十じゅう八八はち十十じゅうをををばばば過過すぎぎぎずずず。。。そのそのその中中なかににに身身みのののさかりさかりさかりなるなるなる事事ことははは、、、僅僅わずかににに二二に十十じゅう餘餘よ年年ねんなりなりなり。。。夢夢ゆめ幻幻まぼろしののの世世よののの中中なかににに、、、見見みにくきにくきにくき者者ものををを片片かた時時ときももも見見みててて何何なにかかかはははせせせんんん、、、おもはしきおもはしきおもわしき者者ものををを見見みんんんとととすれすれすればばば、、、父父ちちののの命命めいををを背背そむくくくににに似似にたりたりたり。。。これこれこれ善善ぜん知知ち識識しきなりなりなり。。。しかじしかじしかじうきうきうき世世よをををいとひいとひいとい、、、まことまことまことののの道道みちににに入入いりりりなんなんなん。。。」」」とととててて、、、十十じゅう九九くののの年年とし髻髻もとどりををを切切きつつっててて、、、嵯嵯さ峨峨がののの往往おう生生じょう院院いんににに行行おこなひひいすましすましすましてててぞぞぞゐゐいたりたりたりけるけるける。。。横横よこ笛笛ぶえこのこのこの由由よしををを傳傳つたへへえ聞聞ききききててて、、、われわれわれをををこそこそこそ捨捨すてててめめめ、、、樣樣さまをををさへさへさへかへかへかへけんけんけん事事ことのののうらめしうらめしうらめしさささよよよ。。。たとひたとひたとい世世よをををばばば背背そむくくくともともとも、、、などなどなどかかかはははかくかくかくととと知知しらららせせせざらざらざらんんん。。。人人ひとこそこそこそ心心こころ強強づよくくくともともとも、、、尋尋たずねねねててて恨恨うらみみみんんんととと思思おもひひいつゝつゝつつ、、、あるあるある暮暮くれがたがたがたににに都都みやこををを出出いでででててて、、、嵯嵯さ峨峨がののの方方かたへへへぞぞぞあくがれあくがれあくがれけるけるける。。。
- 3頃頃ころははは二二きさら月月ぎ十十とお日日かあまりあまりあまりののの事事ことなれなれなればばば、、、梅梅うめ津津ずののの里里さとののの春春はる風風かぜににに、、、よそよそよそのののにほひにほひにおいもももなつかしなつかしなつかしくくく、、、大大おお井井い川川がわののの月月つき影影かげももも、、、霞霞かすみにににこめこめこめててておぼろおぼろおぼろなりなりなり。。。一一ひと方方かたならならならぬぬぬあはれあはれあわれさささももも、、、誰誰たれ故故ゆえとととこそこそこそ思思おもひひいけめけめけめ。。。往往おう生生じょう院院いんとととははは聞聞ききききつれつれつれどもどもども、、、さだかさだかさだかにににいづれいづれいずれののの坊坊ぼうとととももも知知しらららざれざれざればばば、、、こゝこゝここにににやすらひやすらひやすらい、、、かしこかしこかしこにににたたずみたたずみたたずみ、、、尋尋たずねねねかぬるかぬるかぬるぞぞぞ無無む慙慙ざんなるなるなる。。。住住すみみみ荒荒あらしらしらしたるたるたる僧僧そう坊坊ぼうににに念念ねん誦誦じゅののの聲聲こえしししけるけるけるををを、、、瀧瀧たき口口ぐち入入にゅう道道どうががが聲聲こえととと聞聞ききききすましすましすましててて、、、「「「御御おん樣樣さまののの變變かわりりりててておはすおはすおわすらんらんらんをををももも、、、見見みもももししし見見みえええ參參まいらららせせせんんんががが爲爲ためににに、、、妾妾わらわこそこそこそこれこれこれまでまでまで參參まいつつっててて候候そうらへへえ。。。」」」ととと、、、具具ぐしししたるたるたる女女おんなにににいはいはいわせせせけれけれければばば、、、瀧瀧たき口口ぐち入入にゅう道道どう胸胸むねうちうちうちさわぎさわぎさわぎ、、、淺淺あさましましましさささににに障障しょう子子じののの隙隙ひまよりよりよりのぞきのぞきのぞきててて見見みれれればばば、、、裾裾すそははは露露つゆ、、、袖袖そでははは涙涙なみだにににうちうちうちしをれしをれしおれつゝつゝつつ、、、少少すこししし面面おも痩痩やせせせたるたるたる顏顏かおばせばせばせ、、、まことまことまことににに尋尋たずねねねかねかねかねたるたるたるありさまありさまありさま、、、いかなるいかなるいかなる大大だい道道どう心心しん者者じゃももも心心こころ弱弱よおうううなりなりなりぬぬぬべしべしべし。。。瀧瀧たき口口ぐち入入にゅう道道どう人人ひとををを出出いだいいいててて、、、「「「全全まったくくくこゝこゝここにににはははさるさるさる人人ひとなしなしなし。。。もしもしもし門門かど違違たがへへえにににてててもももややや候候そうろうらんらんらん。。。」」」ととといはいはいわせせせたりたりたりけれけれければばば、、、横横よこ笛笛ぶえなさけなさけなさけなうなうのう、、、うらめしけれうらめしけれうらめしけれどもどもども力力ちから及及およばばばずずず、、、涙涙なみだをををおさへおさへおさえててて歸歸かえりりりけりけりけり。。。
- 4そのそのその後後のち瀧瀧たき口口ぐち入入にゅう道道どう、、、同同どう宿宿じゅくののの僧僧そうににに語語かたりりりけるけるけるははは、、、「「「これこれこれももも世世よににに靜靜しずかかかにににててて、、、念念ねん佛佛ぶつののの障障しょう碍碍げははは候候そうらははわねねねどもどもども、、、あかあかあかででで別別わかれれれししし女女おんなにににこのこのこの住住すま居居いををを見見みえええててて候候そうらへへえばばば、、、たとひたとひたとい一一ひと度度たびははは心心こころ強強づよくくくともともとも、、、またまたまたももも慕慕したふふう事事ことあらあらあらばばば、、、心心こころももも動動はたらききき候候そうらひひいなんずなんずなんず。。。暇暇いとま申申もうすすす。。。」」」とととててて、、、嵯嵯さ峨峨がをををばばば出出いでででててて高高こう野野やへへへ上上のぼりりり、、、淸淸しょう淨淨じょう心心しん院院いんににに行行おこなひひいすましすましすましてててぞぞぞゐゐいたりたりたりけるけるける。。。横横よこ笛笛ぶえもももやがてやがてやがて樣樣さまをををかへかへかへぬるぬるぬる由由よし聞聞きこえええしかしかしかばばば、、、瀧瀧たき口口ぐち入入にゅう道道どう、、、一一いっ首首しゅののの歌歌うたをををぞぞぞ送送おくりりりけるけるける
- 5剃剃そるるるまでまでまではははうらみうらみうらみしかしかしかどもどもども梓梓あずさ弓弓ゆみまことまことまことののの道道みちににに入入いるるるぞぞぞ嬉嬉うれしきしきしき
- 6横横よこ笛笛ぶえががが返返へん事事じににに、、、
- 7剃剃そるるるとととてててももも何何なにかかかうらみうらみうらみむむん梓梓あずさ弓弓ゆみ引引ひきききとゞむとゞむとどむべきべきべき心心こころならならならねねねばばば
- 8そのそのその後後のち横横よこ笛笛ぶえははは、、、奈奈な良良らののの法法ほっ華華け寺寺じにににありありありけるけるけるががが、、、そのそのその思思おもひひいのののつもりつもりつもりにににややや、、、いくいくいく程程ほどなくなくなくててて、、、遂遂ついにににはかなくはかなくはかなくなりなりなりにににけりけりけり。。。瀧瀧たき口口ぐち入入にゅう道道どうこのこのこの由由よしををを傳傳つたへへえ聞聞ききききててて、、、いよ〳〵いよ〳〵いよいよ深深ふかくくく行行おこなひひいすましすましすましてててゐゐいたりたりたりけれけれければばば、、、父父ちちももも不不ふ孝孝きょうををを許許ゆるしししけりけりけり。。。親親したしきしきしき者者ものどもどもどもみなみなみな用用もちゐゐいててて、、、高高こう野野やののの聖聖ひじりとととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょうこのこのこの聖聖ひじりににに尋尋たずねねねあひあひあいててて見見み給給たまふふうににに、、、都都みやこにににありありありししし時時ときははは布布ほ衣衣いににに立立たて烏烏え帽帽ぼ子子し、、、衣衣え紋紋もんをををつくろひつくろひつくろい、、、鬢鬢びんをををなでなでなで、、、はなやかはなやかはなやかなりなりなりししし男男おとこなりなりなり。。。出出しゅっ家家けののの後後のちははは、、、今日今日きょう始始はじめめめててて見見み給給たまふふうににに、、、未未いまだだだ三三さん十十じゅうにににもももならならならざるざるざるががが、、、老老ろう僧僧そう姿姿すがたににに痩痩やせせせ衰衰おとろへへえ、、、濃濃こききき墨墨すみ染染ぞめににに同同おなじじじ袈袈け裟裟さ、、、香香こうののの煙煙けぶりにににしみしみしみかをりかをりかおり、、、さかしさかしさかしげげげににに思思おもひひい入入いつつったるたるたる道道どう心心しん者者じゃ、、、うらやましううらやましううらやましゅうややや思思おもははわれれれけんけんけん。。。かのかのかの晉晉しんののの七七しち賢賢けん、、、漢漢かんののの四四し皓皓こうががが住住すみみみけんけんけん商商しょう山山ざん、、、竹竹ちく林林りんのののありさまありさまありさまももも、、、これこれこれにににははは過過すぎぎぎじじじとととぞぞぞ見見みえええししし。。。
現代語訳
さて小松三位中将維盛卿は、身は八島にありながら、心は都へ通っておられた。故郷に残しておかれた北の方や幼い子どもたちの面影ばかりが身にぴたりと寄り添って、忘れるひまもなかったので、生きているかいもないわが身だと思って、寿永三年三月十五日の暁、ひそかに八島の館を抜け出し、与三兵衛重景、石童丸という童、船の扱いを心得ているからといって武里という舎人、この三人を連れて、阿波国結城の浦から船に乗り、鳴門の沖を漕ぎ過ぎて紀伊路へ向かわれた。和歌の浦、吹上の浜、衣通姫が神となって現れなさった玉津島の明神、日前・国懸の社の御前を過ぎて、紀伊の湊にお着きになった。そこから山伝いに都へ上り、恋しい者たちにもう一度会いもし、会われもしたいと思われたが、叔父の本三位中将殿(重衡)が生け捕りにされて、京・鎌倉で恥をさらしておられることさえ無念なのに、この身までも捕らえられて、父(重盛)の屍に血を注ぐようなことになっては情けないと思って、何度も都へと心は急いたが、心と心を争わせて思いとどまり、高野の御山へ参られた。
高野に、年来知っておられた聖がいた。三条の斎藤左衛門茂頼の子で斎藤滝口時頼といって、もとは小松殿(重盛)の侍であったが、十三の年に本所(滝口の陣)に参った。建礼門院の雑司で横笛という女がいた。滝口はこの女を深く愛した。父はこれを伝え聞いて、「世に時めく人の婿にもして、出仕なども心やすくさせようと思っていたのに、つまらない者を思いそめて」などと、しきりに諫めたので、滝口が申すには、「西王母といった人も、昔はいたが今はいない。東方朔と聞いた者も、名を聞くばかりで目には見ない。老少不定の世は、ただ火打ち石の火花のように一瞬である。たとえ人が長命だといっても、七十、八十を過ぎることはない。その中で身の盛りであることは、わずかに二十余年である。夢幻の世の中で、気に入らない者を片時でも見て何になろう。思う者を見ようとすれば、父の命にそむくことになる。これこそ仏道に導く善知識である。いっそ憂き世をいとって、まことの道に入ろう」といって、十九の年に髻を切って、嵯峨の往生院で修行に励んでいた。横笛はこれを伝え聞いて、「私を捨てるのはともかく、姿まで変えたとは恨めしいこと。たとえ世を捨てるにしても、どうしてこうと知らせてくれなかったのか。あの人がいくら心強くても、訪ねて恨みを言おう」と思って、ある夕暮れに都を出て、嵯峨の方へさまよい出た。
ころは二月十日過ぎのことなので、梅津の里の春風に、どこからともなく漂う梅の香もなつかしく、大井川の月影も霞にこめられておぼろである。ひとかたならぬ哀れさも、誰のためかと思ったことであろう。往生院とは聞いていたが、確かにどの坊とも知らないので、ここで休み、あそこにたたずみ、尋ねあぐねているのは痛ましい。住み荒らした僧坊に念誦の声がするのを、滝口入道の声と聞き分けて、「お姿が変わっておられるのも、見もし、見ていただきもしたいと思って、私はここまで参りました」と、連れて来た女に言わせたので、滝口入道は胸が騒ぎ、驚きあきれて障子の隙間からのぞいて見ると、裾は露に、袖は涙にぐっしょりと濡れて、少し面やつれした顔つき、まことに尋ねあぐねた様子は、どんな大道心者でも心が弱くなってしまうにちがいない。滝口入道は人を出して、「まったくここにはそのような人はいない。もしかしたら門違いではないか」と言わせたので、横笛は情けなく恨めしかったが、どうしようもなく、涙をこらえて帰っていった。
その後、滝口入道は同宿の僧に語って、「ここも世間から離れて静かで、念仏の妨げはございませんが、名残を惜しんで別れた女にこの住まいを見られてしまいましたので、たとえ一度は心を強く持ったとしても、また慕って来ることがあれば、心も動いてしまうでしょう。おいとまいたします」といって、嵯峨を出て高野へ上り、清浄心院で修行に励んでいた。横笛もやがて出家したと聞こえたので、滝口入道は一首の歌を送った。
(あなたが髪を剃るまでは恨めしくも思ったが、梓弓を引くように、まことの仏道に入ったのはうれしいことだ)
横笛の返事に、
(剃ったからといって何を恨みましょう。梓弓を引きとどめるように、あなたを引きとめられる私の心ではなかったのですから)
その後、横笛は奈良の法華寺にいたが、その思いが積もったのであろうか、まもなくついに亡くなってしまった。滝口入道はこれを伝え聞いて、いよいよ深く修行に励んでいたので、父も不孝を許した。親しい者たちもみな敬って、高野の聖と申した。三位中将(維盛)がこの聖を訪ねて会ってご覧になると、都にいたときは布衣に立烏帽子、衣紋をととのえ、鬢をなでつけて、はなやかな男であった。出家の後は今日初めてご覧になったが、まだ三十にもならないのに老僧の姿にやせ衰え、濃い墨染の衣に同じ色の袈裟、香の煙がしみこんで香り、賢そうに思い入った道心者の姿を、うらやましく思われたのであろう。あの晋の竹林の七賢、漢の商山の四皓が住んだという商山や竹林のありさまも、これにはまさるまいと見えた。
意訳
維盛の高野への道行きと、滝口入道・横笛の恋物語を組み合わせた章段である。妻子への思いに引かれながら、父重盛の名を汚すまいと都への道を断念する維盛の苦悩が、のちの出家と入水への伏線となる。
滝口入道が横笛を門違いだと追い返す場面は、恋を捨てて仏道に入る者の厳しさと、それでも消しきれない情とを描く。二人の贈答歌は、互いに梓弓を詠みこみながら、仏道へ入ったことを喜ぶ心と、引きとめられなかった悲しみとを交わしている。この話は高山樗牛の小説『滝口入道』でも知られる。
語釈・文法注
文法
- 「あるにかひなきわが身かは」
- 生きているかいもないわが身ではないか。
- 「日前、國懸」
- 紀伊国の日前(ひのくま)神宮・国懸(くにかかす)神宮。底本のふりがなは「にちぜん」「こくけん」。
- 「父の屍に血をあやさん」
- 亡き父重盛の名に恥を塗る。「あやす」は血などをしたたらせる意。
- 「千たび心はすゝめども」
- 幾度も(都へ行こうと)心ははやるけれども。
- 「本所」
- 滝口の武士の詰所。
- 「雜司」
- 女院などに仕えて雑事をつとめる下級の女官。
- 「西王母」「東方朔」
- 西王母は崑崙山に住むという仙女、東方朔は漢の武帝に仕え、西王母の桃を盗んで長寿を得たと伝える人物。長寿の者でも今はいないという例。
- 「石火の光」
- 火打ち石の火花。ごく短い時間のたとえ。
- 「これ善知識なり」
- (この悩みこそ)自分を仏道に導くよい手引きである。
- 「しかじ」
- 「…にしかじ」の略。…に越したことはない。
- 「あくがれける」
- (心ひかれて)さまよい出た。
- 「歌をぞ送りける」
- 底本はここに句点がない。
- 「晉の七賢、漢の四皓」
- 晋の竹林の七賢と、秦末の乱を避けて商山に隠れた四人の老人(四皓)。世を逃れた隠者の代表。
和歌
剃るまではうらみしかども梓弓まことの道に入るぞ嬉しき
- 詠者
- 滝口入道(斎藤時頼)
- 状況
- 横笛が出家したと聞いて、滝口入道が送った歌。
修辞
- 梓弓
- 「入る(射る)」を導く枕詞的な用法。
剃るとても何かうらみむ梓弓引きとゞむべき心ならねば
- 詠者
- 横笛
- 状況
- 滝口入道の歌への返歌。
修辞
- 梓弓引きとゞむ
- 梓弓を引く意から「引きとどむ」を導き、相手を引きとめられなかった心をこめる。
解説
滝口入道の住んだ往生院は、のちの嵯峨の祇王寺のあたりとされる。高野山には滝口入道ゆかりの大円院があり、横笛の死後、鶯となって訪れたという伝説も残る。維盛の八島脱出は寿永三年(1184)三月のことで、この後、維盛は高野で出家し、熊野へ詣でて那智の沖で入水する。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、733–736頁(コマ395–397)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日