平家物語 巻第五
都がへりの事
福原遷都は天皇・上皇から臣下まで嘆き、比叡山や興福寺をはじめ諸寺諸社も反対したので、清盛もついに折れて、治承四年十二月二日、にわかに都を京へ戻した。人々は造りかけた新都の家を捨てて、我先にと旧都へ上った。遷都の本意は、寺社の強訴を避けることにあったという。同じ月、知盛・忠度らが近江源氏を攻めて美濃・尾張へ進んだ。
- 1今今こん度度どののの都都みやこうつりうつりうつりをををばばば、、、君君きみももも、、、臣臣しんもももなのめなのめなのめならならならずずず御御おんなげきなげきなげきありありありけりけりけり。。。山山やま、、、奈奈な良良らををを始始はじめめめててて諸諸しょ寺寺じ、、、諸諸しょ社社しゃににに至至いたるるるまでまでまで、、、然然しかるるるべからべからべからざるざるざる由由よし、、、訴訴うつたへへえ申申もうしししたりたりたりけれけれければばば、、、さしもさしもさしも横横よこ紙紙がみををを破破やぶららられれれししし太太だい政政じょうののの入入にゅう道道どう殿殿どの、、、「「「さらばさらばさらば都都みやこがへりがへりがえりあるあるあるべしべしべし。。。」」」とてとてとて、、、同同おなじきじきじき十十じゅう二二に月月がつ二二ふつ日日かののの日日ひ、、、俄俄にはかににに都都みやこがへりがへりがえりありありありけりけりけり。。。新新しん都都とははは北北きたははは山山やま々々やま聳聳そびえええててて高高たかくくく、、、南南みなみははは海海うみ近近ちかくくくしてしてして下下くだれれれりりり。。。浪浪なみののの音音おと常常つねにににかまびすしくかまびすしくかまびすしく、、、鹽鹽しお風風かぜはげしきはげしきはげしき所所ところなりなりなり。。。さればさればされば新新しん院院いん、、、いついついつとととなくなくなく御御ご惱惱のうのみのみのみしげかりしげかりしげかりけれけれければばば、、、これこれこれににに依依よつつっててて急急いそぎぎぎ福福ふく原原はらををを出出いでででさせさせさせおはしますおはしますおわします。。。中中ちゅう宮宮ぐう、、、一一いち院院いん、、、上上じょう皇皇こうももも御御ご幸幸こうなるなるなる。。。攝攝せつ政政しょう殿殿どのををを始始はじめめめ奉奉たてまつりりりててて、、、太太だい政政じょう大大だい臣臣じん以以い下下げののの卿卿けい相相しょう雲雲うん客客かく、、、われわれわれも〳〵も〳〵もわれもととと供供ぐ奉奉ぶせせせらるらるらる。。。平平へい家家けにににははは太太だい政政じょうののの入入にゅう道道どうををを始始はじめめめ奉奉たてまつりりりててて、、、一一いち門門もんののの人人ひと人人びとみなみなみな上上のぼららられれれけりけりけり。。。さしもさしもさしも心心こころうううかりかりかりつるつるつる新新しん都都とににに誰誰たれかかか片片かた時時ときももも殘殘のこるるるべきべきべき、、、われわれわれ先先さきに〳〵に〳〵にわれさきにとととぞぞぞ上上のぼららられれれけるけるける。。。去去いんんんぬるぬるぬる六六ろく月月がつよりよりより屋屋やどもどもども少少しょう々々しょう毀毀こぼちちち下下くだししし、、、かたかたかたののの如如ごとくくく取取とり立立たてててられられられしかしかしかどもどもども、、、今今いままたまたまたものぐるはしうものぐるはしうものぐるおしゅう、、、俄俄にはかににに都都みやこがへりがへりがえりありありありけれけれければばば、、、何何なにののの沙沙さ汰汰たにににももも及及およばばばずずず、、、みなみなみなうちうちうち捨捨すて〳〵て〳〵てうちすて上上のぼららられれれけりけりけり。。。
- 2兩兩りょう院院いんははは六六ろく波波は羅羅ら池池いけ殿殿どのへへへ御御ご幸幸こうなるなるなる。。。行行ぎょう幸幸こうははは五五ご條條じょうののの内内だい裏裏りとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。各各おのおのののの宿宿しゅく所所しょもももなけれなけれなければばば、、、八八や幡幡はた、、、賀賀か茂茂も、、、嵯嵯さ峨峨が、、、太太うず秦秦まさ、、、西西にし山山やま、、、東東ひがし山山やまのののかたかたかたほとりほとりほとりににについついついててて、、、或或あるいははは御御み堂堂どうののの廻廻かい廊廊ろう、、、或或あるいははは社社やしろののの寶寶ほう殿殿でんなどなどなどににに、、、然然しかるるるべきべきべき人人ひとももも立立たちちち宿宿やどつつってててまし〳〵まし〳〵ましましけるけるける。。。
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現代語訳
今度の遷都を、天皇も臣下もひととおりでなく嘆かれた。比叡山・奈良をはじめ、諸寺・諸社に至るまで、よろしくないと訴え申したので、あれほど無理を押し通された太政入道殿も、「それなら都を戻そう」といって、同じ十二月二日、にわかに都がえりがあった。新都は北に山々がそびえて高く、南は海が近くて低く下っている。波の音がいつもやかましく、潮風の激しい所である。それで新院(高倉上皇)がいつとなくご病気がちであったので、そのため急いで福原をお出になる。中宮・一院(後白河法皇)・上皇もお移りになる。摂政殿をはじめとして、太政大臣以下の公卿・殿上人が、我も我もとお供をした。平家では太政入道をはじめとして、一門の人々がみな上られた。あれほどいやだった新都に、誰が片時でも残るだろうか、我先に我先にと上られた。去る六月から家々を少しずつ取り壊して運び下し、形ばかり建てられたが、今また気違いじみたことに、にわかに都がえりとなったので、何の処置もできず、みな捨て置いて上られた。
両院は六波羅の池殿へお移りになる。天皇は五条の内裏へと聞こえた。それぞれの宿所もないので、八幡・賀茂・嵯峨・太秦・西山・東山のはずれに身を寄せて、あるいは御堂の回廊、あるいは神社の宝殿などに、しかるべき身分の人も宿っておられた。
そもそも今度の遷都の本意は何かというと、旧都は比叡山や奈良に近くて、少しのことでも日吉の神輿や春日の神木などといって騒がしい。新都は山を隔て、入り江が重なって、距離もさすがに遠いので、そのようなこともたやすくはできまいと、入道相国が計らい申されたとかいうことである。
同じ二十三日、近江源氏が背いたのを攻めようとして、大将軍には左兵衛督知盛と薩摩守忠度、総勢三万騎が近江国へ出発した。山本・柏木・錦織などという、あふれ者の源氏たちを攻め落とし、そこからすぐに美濃・尾張へ越えて行かれた。
意訳
わずか半年で福原遷都が終わり、都が京に戻るまでを描く短い章段である。人々は造りかけた新都の家をすべて捨てて、我先にと旧都へ上った。遷都の本意が寺社の強訴を避けることにあったと語って、清盛の強引さと、その計画のあっけない挫折とを示している。
語釈・文法注
文法
- 「横紙を破られし」
- 無理を押し通した。和紙は縦に破りやすく、横には破りにくいことから。
- 「みだりがはし」
- 騒がしく、乱れている。
- 「あふれ源氏」
- 所領を失って各地にあふれ出た源氏の者たち。
解説
福原から京への還都は治承四年(1180)十一月の末から十二月にかけてのことで、『玉葉』などにも記されている。延暦寺や興福寺の反対に加え、東国・近江などで源氏の挙兵が相次いだことも、還都の理由であったと考えられている。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、504–505頁(コマ281)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日