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魏志倭人伝 第13章

卑弥呼の死と壹与

正始八年、女王卑弥呼は狗奴国の男王卑弥弓呼と争い、使者を帯方郡に送って戦いのさまを訴えた。郡は張政らを遣わして難升米に詔書と黄幢を授け、檄文で諭した。卑弥呼は死に、径百歩あまりの大きな塚が作られ、奴婢百人あまりが殉葬された。男王を立てたが国中が従わず争いが続き、卑弥呼の一族の娘で十三歳の壹与を王に立てると国中が治まった。壹与は使者を送って張政らを送り返し、生口や白珠などを献上した。

卑弥呼の塚を遠景に壹与を立てる人々(AI生成)
壹与を女王に立てる人々の想像図(AI生成)。塚の形や即位の儀礼は確定していません。
  1. 1其そ其そそののの八はち八はちはち年ねん年ねんねん、、、太たい太たいたい守しゆ守しゆしゅ頎き頎きき官くわん官くわんかんににに到いた到いたいたるるる。。。倭わ倭わわののの女ぢよ女ぢよじょ王わう王わうおう卑ひ卑ひひ彌み彌みみ呼こ呼ここ、、、狗く狗くく奴な奴なな國こく國こくこくののの男だん男だんだん王わう王わうおう彌み彌みみ弓きゆう弓きゆうきゅう呼こ呼ここととと素もと素もともとよりよりより和わ和わわせずせずせず。。。倭わ倭わわののの載さい載さいさい斯し斯しし烏う烏うう越ゑつ越ゑつえつ等ら等ららををを遣つか遣つかつかはしてはしてわして郡ぐん郡ぐんぐんににに詣いた詣いたいたりりり、、、相あひ相あひあい攻こう攻こうこう擊げき擊げきげきするするする狀じやう狀じやうじょうををを說と說ととかしむかしむかしむ。。。塞さい塞さいさい曹さう曹さうそう掾えん掾えんえん史し史しし政せい政せいせい等ら等ららををを遣つか遣つかつかはしはしわし、、、因よ因よよりてりてりて詔せう詔せうしょう書しよ書しよしょ・・・黃くわう黃くわうこう幢どう幢どうどうををを齎もたら齎もたらもたらしてしてして難な難なな升しよう升しようしょう米まい米まいまいににに拜はい拜はいはい假か假かかせしめせしめせしめ、、、ををを爲つく爲つくつくりてりてりて之これ之これこれををを告こく告こくこく喻ゆ喻ゆゆすすす。。。其八年太守王頎到官倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和遣倭載斯烏越等詣郡說相攻擊狀遣塞曹掾史張政等因齎詔書黃幢拜假難升米爲檄告喻之
  2. 2卑ひ卑ひひ彌み彌みみ呼こ呼ここててて死し死ししすすす。。。大おほ大おほおおいにいにいに冢ちよう冢ちようちょうををを作つく作つくつくるるる。。。徑けい徑けいけい餘よ餘よよ步ぶ步ぶぶ、、、葬さう葬さうそうするするする者もの者ものものははは奴ぬ奴ぬぬ婢ひ婢ひひ百ひやく百ひやくひゃく餘よ餘よよ人にん人にんにん。。。更さら更さらさらににに男だん男だんだん王わう王わうおうををを立た立たたつれどもつれどもつれども國こく國こくこく中ちゆう中ちゆうちゅう服ふく服ふくふくせずせずせず、、、更こもごも更こもごもこもごも相あひ相あひあい誅ちゆう誅ちゆうちゅう殺さつ殺さつさつししし、、、時とき時ときときににに當あた當あたあたりてりてりて千せん千せんせん餘よ餘よよ人にん人にんにんををを殺ころ殺ころころすすす。。。復ま復ままたたた卑ひ卑ひひ彌み彌みみ呼こ呼ここののの宗そう宗そうそう女ぢよ女ぢよじょ與よ與よよ、、、年とし年としとし十じふ十じふじゅう三さん三さんさんなるなるなるををを立た立たたてててててて王わう王わうおうととと爲な爲ななししし、、、國こく國こくこく中ちゆう中ちゆうちゅう遂つひ遂つひついににに定さだ定さださだまるまるまる。。。卑彌呼以死大作冢徑百餘步徇葬者奴婢百餘人更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王國中遂定
  3. 3政せい政せいせい等ら等らら、、、檄げき檄げきげきををを以もつ以もつもつててて壹い壹いい與よ與よよををを告こく告こくこく喻ゆ喻ゆゆすすす。。。壹い壹いい與よ與よよ、、、倭わ倭わわののの大たい大たいたい夫ふ夫ふふ率そつ率そつそつ善ぜん善ぜんぜん中ちゆう中ちゆうちゅう郎らう郎らうろう將しやう將しやうしょう掖えき掖えきえき邪や邪やや狗く狗くく等ら等らら二に二にに十じふ十じふじゅう人にん人にんにんををを遣つか遣つかつかはしてはしてわして政せい政せいせい等ら等ららののの還かへ還かへかえるるるををを送おく送おくおくらしむらしむらしむ。。。因よ因よよりてりてりてににに詣いた詣いたいたりりり、、、男だん男だんだん女ぢよ女ぢよじょののの生せい生せいせい口こう口こうこう三さん三さんさん十じふ十じふじゅう人にん人にんにんををを獻けん獻けんけん上じやう上じやうじょうししし、、、珠しゆ珠しゆしゅ五ご五ごご千せん千せんせん孔こう孔こうこう・・・青せい青せいせい大だい大だいだい珠しゆ珠しゆしゅ二に二にに枚まい枚まいまい・・・異い異いい文もん文もんもん雜ざふ雜ざふぞう錦きん錦きんきん二に二にに十じふ十じふじゅう匹ひき匹ひきひきををを貢こう貢こうこうすすす。。。政等以檄告喻壹與壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還因詣臺獻上男女生口三十人貢白珠五千孔青大句珠二枚異文雜錦二十匹

引用の仕方

レポート・論文で引用する場合の表記例です。行番号を選んでから開くと、その行へのリンクになります。

現代語訳

その八年、帯方太守の王頎が着任した。倭の女王卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼ともとから仲が悪かった。倭は載斯烏越らを遣わして帯方郡に至らせ、互いに攻め合っているありさまを訴えさせた。郡は塞曹掾史の張政らを遣わし、詔書と黄幢をもたらして難升米に授け、檄文を作ってこれを諭した。

卑弥呼はそのころ死んだ。大きな塚を作った。その直径は百歩あまりで、殉葬された奴婢は百人あまりであった。そののち男王を立てたが、国中が従わず、互いに殺し合い、そのとき千人あまりが殺された。そこでまた卑弥呼の一族の娘で十三歳の壹与を立てて王とすると、国中がようやく治まった。

張政らは檄文によって壹与を諭した。壹与は倭の大夫で率善中郎将の掖邪狗ら二十人を遣わして、張政らが帰るのを送らせた。使者たちはそのまま魏の都に行って、男女の生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大句珠二枚・異文雑錦二十匹を貢いだ。

意訳

倭人伝の結びは、女王卑弥呼の死と、跡を継いだ少女の女王壹与の物語です。狗奴国との戦いのさなか、魏の使者張政が来て難升米に黄幢を授け、檄文で諭した直後に、卑弥呼の死が記されます。「以て死す」の「以」を「そのころ」と読むか、「それによって」と読むかで、卑弥呼が戦いの責任を問われて殺されたとする説もあります。

卑弥呼の死後、男王を立てると国中が乱れ、十三歳の壹与を立てて初めて治まりました。倭の国々をまとめるには、祭祀の力を持つ女王が必要だったのです。卑弥呼の「径百余歩」の塚は、奈良県桜井市の箸墓古墳(後円部の径約150メートル)にあてる説が有名ですが、九州説では別の墓を考えます。最後に、壹与の使者が真珠五千と勾玉を献上する場面で、倭人伝は終わります。

語釈・文法注

王頎
帯方郡の太守。正始八年(247)に着任した。
卑彌弓呼
狗奴国の男王。「ひみくこ」と読む。「卑弓弥呼(ひこみこ)」の誤りとして「彦御子」と見る説もある。
張政
塞曹掾史(辺境の守備を担当する役人)。倭に来て難升米に黄幢を授け、檄文で諭した。壹与の使者に送られて帰国した。
檄
檄文。人々に告げて諭したり呼びかけたりする文書。
以
「卑弥呼以て死す」の「以」は、「すでに(已)」と同じとみて「そのころ死んだ」と読む説と、「それによって」と読み、戦いの責任をとらされて死んだとする説がある。
百餘步
一歩は約1.4メートル(六尺)で、百余歩は約145メートル。
徇葬
殉葬。死者に従わせて人を葬ること。
壹與
卑弥呼の宗女(一族の娘)。底本も紹熙本も「壹与」に作るが、『梁書』『北史』は「臺与(とよ)」に作り、一般に「台与(とよ)」とも呼ぶ。
臺
魏の都の朝廷。中央の役所。
白珠
真珠。「孔」は穴のあいた玉を数える単位。
句珠
勾玉(まがたま)。「青大句珠」は大きな青い勾玉で、ヒスイの勾玉とされる。

文法

素〜
「素不和」は「素より和せず」で、「もともと仲が悪い」。
更〜
「更立男王」の「更」は「さらに(改めて)」、「更相誅殺」の「更」は「こもごも(かわるがわる)」と訓み、読み方を変える。
遂〜
「國中遂定」の「遂」は「つひに」と訓み、「とうとう、ようやく」の意。

解説

卑弥呼の死は正始八年(247)ごろとされます。この年の前後、248年に皆既日食が北部九州で見られたとする計算があり、太陽にかかわる女王の死と日食を結びつけて、天照大御神の天の石屋戸の神話の由来とする説もありますが、確かではありません。

壹与の使者は、卑弥呼の時代と同じく掖邪狗が務めており、外交の担い手が引き継がれていたことがわかります。こののち、『晋書』に泰始二年(266)に倭人が朝貢したとあり、これを壹与の遣使とする説がありますが、それを最後に倭の記録は中国の史書から百五十年ほど途絶え、次に現れるのは五世紀の「倭の五王」の時代です。

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出典

底本
紹興版魏志倭人傳縮寫(橋本増吉『東洋史上より観たる日本上古史研究』第一 巻頭) 大岡山書店、昭和7年(1932)。国立国会図書館デジタルコレクション コマ15(保護期間満了)
校訂・訳・注
古典ライブラリー編集部(原文は底本による。訓み下し・現代語訳・注は当サイト)
更新日