魏志倭人伝 第1章
倭人の国々と対馬国・一大国
倭人は帯方郡の東南の海の中の島々に国をつくって住む。帯方郡から海岸沿いに船で韓国を経て狗邪韓国に至り、海を渡って対馬国、さらに瀚海を越えて一大国(壱岐)に至る。どちらも田が少なく、船で南北に交易して暮らしている。

- 1倭倭わ人人じんははは方方ほうののの東東とう南南なん大大たい海海かいののの中中うちににに在在ありりり。。。山山さん島島とうににに依依よりてりてりて國國こく邑邑ゆうををを爲爲なすすす。。。百百ひゃく餘餘よ國國こく。。。漢漢かんののの時時とき朝朝ちょう見見けんするするする者者もの有有ありりり。。。今今いま譯譯やく通通つうずるずるずる所所ところ三三さん十十じゅう國國こく。。。倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國
- 2郡郡ぐんよりよりより倭倭わににに至至いたるるるにはにはには、、、海海かい岸岸がんににに循循したがひてひていて水水すい行行こうししし、、、韓韓かん國國こくををを歷歷へててて、、、乍乍たちまちちち南南みなみししし乍乍たちまちちち東東ひがししてしてして、、、其其そののの北北ほく岸岸がん邪邪や韓韓かん國國こくににに到到いたるるる。。。千千せん餘餘よ里里り。。。從郡至倭循海岸水行歷韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里
- 3始始はじめてめてめて一一いつ海海かいををを度度わたることることること千千せん餘餘よ里里りにしてにしてにして、、、馬馬しま國國こくににに至至いたるるる。。。其其そののの大大たい官官かんををを狗狗こととと曰曰いひひい、、、副副ふくををを卑卑ひ奴奴な母母も離離りととと曰曰いふふう。。。居居おるるる所所ところははは絕絕ぜつ島島とうにしてにしてにして、、、方方ほう四四し百百ひゃく餘餘よ里里り可可ばかりりり。。。土土と地地ちははは山山やま險險けわしくしくしく深深しん林林りん多多おおくくく、、、道道どう路路ろははは禽禽きん鹿鹿ろくののの徑徑みちののの如如ごとししし。。。千千せん餘餘よ戶戶こ有有ありりり。。。良良りょう田田でん無無なくくく、、、海海かい物物ぶつををを食食くらひてひていて自自じ活活かつししし、、、船船ふねににに乘乘のりてりてりて南南なん北北ぼくににに糴糴てきすすす。。。始度一海千餘里至對馬國其大官曰卑狗副曰卑奴母離所居絕島方可四百餘里土地山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戶無良田食海物自活乘船南北市糴
- 4又又また南南みなみににに一一いつ海海かいををを渡渡わたることることること千千せん餘餘よ里里り、、、名名なづけづけづけててて海海かいととと曰曰いふふう。。。大大だい國國こくににに至至いたるるる。。。官官かんををを亦亦また卑卑ひ狗狗こととと曰曰いひひい、、、副副ふくををを卑卑ひ奴奴な母母も離離りととと曰曰いふふう。。。方方ほう三三さん百百びゃく里里り可可ばかりりり。。。竹竹ちく木木ぼく叢叢そう林林りん多多おおくくく、、、三三さん千千ぜん許許ばかりのりのりの家家いえ有有ありりり。。。差差やや田田でん地地ち有有ありりり。。。田田たををを耕耕たがやせどもせどもせども猶猶なほほお食食しょくするにするにするに足足たらずらずらず。。。亦亦また南南なん北北ぼくににに市市し糴糴てきすすす。。。又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國官亦曰卑狗副曰卑奴母離方可三百里多竹木叢林有三千許家差有田地耕田猶不足食亦南北市糴
現代語訳
倭人は、帯方郡の東南の大海の中に住んでいる。山の多い島によって国や村をつくっている。もとは百あまりの国があり、漢の時代には朝見に来る者もいた。いま、使者や通訳が往来しているのは三十国である。
帯方郡から倭に行くには、海岸に沿って船で進み、韓の国々を経て、南へ進んだり東へ進んだりしながら、倭の北岸にあたる狗邪韓国に着く。ここまで七千里あまりである。
ここで初めて一つの海を渡り、千里あまり行くと対馬国に着く。その長官を卑狗といい、副官を卑奴母離という。住んでいるところは離れ島で、広さは四百里四方ほどである。土地は山が険しく、深い林が多く、道は獣の通う小道のようである。千戸あまりの家がある。よい田はなく、海産物を食べて自活し、船に乗って南北に行き来して穀物を買い入れている。
また南へ一つの海を千里あまり渡る。この海を瀚海という。一大国に着く。ここでも長官を卑狗といい、副官を卑奴母離という。広さは三百里四方ほどである。竹や木の茂った林が多く、三千ほどの家がある。いくらかは田畑があるが、田を耕しても食べるには足りないので、やはり船で南北に行き来して穀物を買い入れている。
意訳
書き出しの一文は、中国から見た倭の位置づけをよく表しています。倭は、朝鮮半島に置かれた魏の出先の役所、帯方郡(今のソウル付近から黄海道のあたり)から見て「東南の大海の中」にあり、中国の役人や商人がたどる海の道の先にある国として描かれます。「百余国」は前漢の『漢書』地理志の「楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国と為る」を受けた言い方で、魏の時代に使者が通っているのは「三十国」だと、時代の変化を示しています。
対馬・壱岐の描写は、今の地形と生活によく合います。山が険しく田が少ないので、海の幸をとり、船で九州と朝鮮半島の間を往来して穀物を手に入れる――島が交易の中継地として生きていたことが、短い文からうかがえます。
語釈・文法注
- 帶方
- 帯方郡。後漢の末に遼東の公孫氏が楽浪郡の南部を分けて置いた郡で、魏が238年に公孫氏を滅ぼして支配した。今のソウル付近から黄海道にかけての地にあったとされ、魏が韓・倭と交わる窓口だった。
- 舊百餘國
- 「もとは百余国」。『漢書』地理志の「夫れ楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国と為り、歳時を以て来り献見すと云ふ」をふまえる。
- 使譯
- 使者と通訳。「使訳通ずる所」は、使者と通訳を通じて往来している国の意。
- 狗邪韓國
- 韓の弁辰(弁韓)の一国で、のちの金官加耶。今の韓国慶尚南道金海市のあたりとされる。倭から見れば海を渡る前の最後の港だった。
- 對馬國
- 今の長崎県対馬。百衲本(紹熙本)などは「対海国」に作るが、底本の紹興本は「対馬国」に作る。
- 卑狗
- 卑狗(ひこ)は「彦」、卑奴母離(ひなもり)は「夷守(ひなもり)」すなわち辺境を守る役と見る説が古くからある。
- 市糴
- 穀物を買い入れること。「糴」は米を買う意。
- 瀚海
- 対馬と壱岐の間の海峡に付けられた名。「瀚」は広く大きい意。
- 一大國
- 今の長崎県壱岐。『梁書』『北史』などは「一支国」に作り、「一大」は「一支」の誤りとする説が有力。原の辻遺跡(壱岐市)がその中心とされる。
- 七千餘里
- 魏の一里は約430メートルとされるが、倭人伝の里程はそれよりずっと短い「短里」で書かれているとする説や、誇張とする説がある。郡から狗邪韓国までの七千余里、そこから各千余里の海の道は、実際の距離と比べると大きく合わない。
文法
- 「在り」と「爲す」
- 「倭人在帶方東南大海之中」の「在」は「〜に在り」と下から返って訓む。「依山島爲國邑」は「山島に依りて国邑を為す」で、「為」は「つくる・なす」の意。
- 乍〜乍〜
- 「乍南乍東」は「乍ち南し乍ち東す」と訓み、「南へ行ったり東へ行ったり」の意。「乍」は「たちまち、すぐに」の意で、二つ重ねて動作が入れかわる様子を表す。
- 可
- 「方可四百餘里」の「可」は「ばかり」と訓み、およその数を表す(「四百余里ほど」)。
解説
「魏志倭人伝」は『三国志』魏書の東夷伝のうち、夫余・高句麗・東沃沮・挹婁・濊・韓に続く最後の条で、正式には「倭人」の条です。『三国志』は西晋の陳寿(233〜297)が太康年間(280〜289)ごろにまとめた歴史書で、倭人の条にも、魏の役人の報告や、陳寿より少し前の魚豢の『魏略』などの史料が使われたと考えられています。
冒頭から一大国までの道のりは、帯方郡から朝鮮半島の西岸・南岸を船で進み、狗邪韓国から対馬・壱岐を経て九州北部へ渡るという、のちの遣唐使の時代まで変わらない海の道を伝えています。対馬・壱岐の官名がどちらも「卑狗」「卑奴母離」であることは、二つの島が同じしくみの下にあったことを思わせます。
里程の数字は、邪馬台国の位置論争の出発点です。郡から狗邪韓国まで七千余里、対馬・壱岐・末盧へそれぞれ千余里と、海を渡る区間がどれも「千余里」なのは実測ではなく目安の数だと考えられます。
関連
出典
- 底本
- 紹興版魏志倭人傳縮寫(橋本増吉『東洋史上より観たる日本上古史研究』第一 巻頭) 大岡山書店、昭和7年(1932)。国立国会図書館デジタルコレクション コマ10(保護期間満了)
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部(原文は底本による。訓み下し・現代語訳・注は当サイト)
- 更新日