魏志倭人伝 第12章
正始の遣使
正始元年、帯方太守弓遵は梯儁らを倭国に遣わし、詔書と印綬を倭王に授けて品々を賜った。倭王は上表して感謝した。正始四年、倭王は再び大夫伊声耆・掖邪狗ら八人を遣わし、生口や倭錦などを献上し、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。正始六年、難升米に黄色の旗が賜られた。

- 1始始し元元がん年年ねん、、、太太たい守守しゅ遵遵じゅん、、、建建けん中中ちゅう校校こう尉尉い儁儁しゅん等等らををを遣遣つかはしはしわし、、、詔詔しょう書書しょ・・・印印いん綬綬じゅををを奉奉ほうじてじてじて倭倭わ國國こくににに詣詣いたりりり、、、倭倭わ王王おうににに假假かししし、、、并并ならびにびにびに詔詔みことのりををを齎齎もたらしてしてして金金きん・・・帛帛はく・・・錦錦きん・・・罽罽けい・・・刀刀とう・・・鏡鏡きょう・・・采采さい物物ぶつををを賜賜たまふふう。。。倭倭わ王王おう、、、使使つかいににに因因よりてりてりて表表ひょうししし、、、詔詔しょう恩恩おんををを答答とう謝謝しゃすすす。。。正始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王并齎詔賜金帛錦罽刀鏡采物倭王因使上表答謝詔恩
- 2其其そののの四四し年年ねん、、、倭倭わ王王おう、、、復復またたた使使つかいののの大大たい夫夫ふ聲聲せい耆耆き・・・掖掖えき邪邪や狗狗く等等ら八八はち人人にんををを遣遣つかはしはしわし、、、生生せい口口こう・・・錦錦きん・・・絳絳こう青青せい縑縑けん・・・緜緜めん衣衣い・・・帛帛はく布布ふ・・・丹丹に・・・𤝔𤝔ふ・・・短短たん弓弓きゅう矢矢しををを上上じょう獻獻けんすすす。。。掖掖えき邪邪や狗狗く等等ら、、、壹壹いつににに率率そつ善善ぜん中中ちゅう郎郎ろう將將しょうののの印印いん綬綬じゅををを拜拜はいすすす。。。其四年倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木𤝔短弓矢掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬
- 3其其そののの六六ろく年年ねん、、、詔詔みことのりしてしてして倭倭わののの難難な升升しょう米米まいににに幢幢どうををを賜賜たまひひい、、、郡郡ぐんににに付付ふしてしてして假假か授授じゅせしむせしむせしむ。。。其六年詔賜倭難升米黃幢付郡假授
現代語訳
正始元年、帯方太守の弓遵は、建中校尉の梯儁らを遣わして、詔書と印綬を持たせて倭国に行かせ、倭王に授けた。あわせて詔をもたらし、金・帛・錦・毛織物・刀・鏡・采物(色とりどりの品)を賜った。倭王は使者に託して上表文を奉り、詔の恩に感謝の言葉を述べた。
その四年、倭王は再び使者の大夫伊声耆・掖邪狗ら八人を遣わし、生口・倭錦・絳青縑(深紅と青の絹)・綿衣・帛布・丹・木𤝔(木の弓づか)・短い弓と矢を献上した。掖邪狗らは、そろって率善中郎将の印綬を授かった。
その六年、皇帝は詔して倭の難升米に黄色の旗を賜り、帯方郡に託して授けさせた。
意訳
景初の遣使へのお返しとして、正始元年(240)には魏の使者が実際に倭国まで来て、卑弥呼に詔書と金印を手渡しました。倭人伝の前半の道のりや風俗の記事は、このとき倭を訪れた梯儁らの報告をもとにしたものと考えられています。倭王は上表文、つまり漢文の公式の文書で感謝を伝えており、倭の側にも漢字で外交文書を書ける人がいたことがわかります。
正始四年(243)の二度目の遣使では、倭の側から倭錦や絹、丹、弓矢が献上されました。第5章の養蚕や絹織りの記事と合わせて読むと、倭が自国の産物をもって魏と対等に近い交わりを結ぼうとしていた様子がうかがえます。正始六年(245)に難升米に賜った「黄幢」は、軍の指揮を表す黄色の旗で、次の章の狗奴国との戦いへの伏線になっています。
語釈・文法注
- 正始
- 魏の少帝曹芳の年号(240〜249)。
- 弓遵
- 帯方郡の太守。正始七年(246)ごろ、韓の反乱との戦いで戦死したと『三国志』韓伝に見える。
- 梯儁
- 建中校尉。魏の使者として初めて倭国に来た人物とされる。
- 拜假
- 官位や印綬を授けること。「仮」は、皇帝に代わって授ける意。
- 上表
- 君主に文書を奉ること。またその文書。
- 伊聲耆
- 倭の大夫。掖邪狗(えきやく)とともに正始四年に魏に赴いた。掖邪狗は第13章で壹与の使者としても見える。
- 倭錦
- 倭で織られた錦。倭の絹織物の技術を示す。
- 木𤝔
- 木で作った弓づか(弓の握り)。あるいは木の弓そのものとする説もある。
- 黃幢
- 黄色の旗。魏の軍の指揮権を象徴するもので、難升米に与えられたのは、狗奴国との戦いで魏の後ろ盾を示すためと考えられる。
文法
- 并〜
- 「并齎詔賜…」の「并」は「并びに」と訓み、「あわせて、そのうえ」の意。
- 因〜
- 「因使上表」は「使に因りて上表す」で、「使者に託して上表文を奉る」。
- 壹
- 「壹拜率善中郎將印綬」の「壹」は「一」と同じで、「いつに(そろって、一様に)」と訓む。
解説
正始元年の魏の使者の来訪は、『日本書紀』神功皇后紀の注にも「魏志に云はく、正始元年、建忠校尉梯儁等を遣はして、詔書・印綬を奉りて倭国に詣らしむ」と引かれています。『日本書紀』の編者が倭人伝を読み、日本の歴史の中に位置づけようとしていたことがわかります。
景初二年(三年)・正始元年・正始四年と、数年の間に倭と魏の使者が何度も往来しています。倭の女王が魏との交わりを重んじた背景には、国内の対立、とくに南の狗奴国との争いがあったと考えられます。
関連
出典
- 底本
- 紹興版魏志倭人傳縮寫(橋本増吉『東洋史上より観たる日本上古史研究』第一 巻頭) 大岡山書店、昭和7年(1932)。国立国会図書館デジタルコレクション コマ14〜15(保護期間満了)
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部(原文は底本による。訓み下し・現代語訳・注は当サイト)
- 更新日