魏志倭人伝 第4章
黥面文身
倭の男子は大人も子どもも皆、顔と体に入れ墨をしている。昔、夏の少康の子が会稽に封じられ、髪を切り入れ墨をして蛟竜の害を避けたように、倭の海人も入れ墨で大魚や水鳥を払い、やがて飾りとなった。国によって入れ墨の位置や大きさが違い、身分の差もある。倭の位置は会稽・東治の東にあたる。

- 1男男だん子子しははは大大だい小小しょうととと無無なくくく、、、皆皆みな面面めん文文ぶん身身しんすすす。。。古古いにしえよりよりより以來以來このかた、、、其其そののの使使つかいののの中中ちゅう國國ごくににに詣詣いたるやるやるや、、、皆皆みな自自みずかららら夫夫ふととと稱稱しょうすすす。。。男子無大小皆黥面文身自古以來其使詣中國皆自稱大夫
- 2夏夏か后后こう康康こうののの子子こ、、、稽稽けいににに封封ほうぜられぜられぜられ、、、髮髮ぱつ文文ぶん身身しんしてしてして、、、以以もつててて龍龍りゅうののの害害がいををを避避さくくく。。。今今いま倭倭わののの人人じん、、、好好このんでんでんで沈沈ちん沒沒ぼつしてしてして魚魚ぎょ蛤蛤こうををを捕捕とらへらへらえ、、、文文ぶん身身しんしてしてして亦亦また以以もつててて大大たい魚魚ぎょ・・・水水すい禽禽きんををを厭厭はらふふう。。。後後のち稍稍ようやくくく以以もつててて飾飾かざりととと爲爲なすすす。。。夏后少康之子封於會稽斷髮文身以避蛟龍之害今倭水人好沈沒捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽後稍以爲飾
- 3諸諸しょ國國こくののの文文ぶん身身しんははは各各おのおの異異ことなりなりなり、、、或或あるいははは左左ひだりにしにしにし或或あるいははは右右みぎにしにしにし、、、或或あるいははは大大おおきくきくきく或或あるいははは小小ちいさくさくさく、、、尊尊そん卑卑ぴ差差さ有有ありりり。。。諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差
- 4其其そののの道道どう里里りををを計計はかるにるにるに、、、當當まさににに會會かい稽稽けい・・・治治ちののの東東ひがしににに在在あるべしるべしるべし。。。計其道里當在會稽東治之東
現代語訳
男子は大人も子どもも皆、顔に入れ墨をし、体に入れ墨をしている。昔から、倭の使者が中国に来ると、皆自分のことを大夫と称している。
夏の王の少康の子は、会稽に封じられたとき、髪を短く切り体に入れ墨をして、蛟竜(水中の竜)の害を避けた。いま倭の海人は、好んで水にもぐって魚や貝をとり、体に入れ墨をして、やはり大きな魚や水鳥を払いのけている。のちにしだいに飾りとするようになった。
国々の入れ墨はそれぞれ違い、左にしたり右にしたり、大きくしたり小さくしたりして、身分の高い低いによって差がある。
その道のりを計算すると、ちょうど会稽・東治の東にあたるはずである。
意訳
「黥面文身」は、顔の入れ墨(黥面)と体の入れ墨(文身)です。陳寿は倭人の入れ墨を、中国の南方、長江下流の越の人々の「断髪文身」になぞらえて説明しています。夏王朝の少康の子が越の祖となったという伝えを引き、倭人も同じ風俗を持つ南方の人々だと見ていたのです。
最後の「会稽・東治の東に在るべし」は、倭をかなり南に置く見方を示します。郡からの里程を足していくと、倭は中国の南方の海上、今の台湾の北あたりの東に来る計算になります。倭を越の人々と似た南方の民と考えたことと、この位置の見積もりとが結びついているとも考えられています。
語釈・文法注
- 黥面
- 顔に入れ墨をすること。「文身」は体に入れ墨をすること。弥生時代の土器や古墳時代の埴輪に、顔に線を描いた人物の表現があり、これにあたるとされる。
- 大夫
- 周代の官の位で、卿の下、士の上。倭の使者が中国の官の名を名のったもので、のちの章でも使者を「大夫難升米」などと呼ぶ。
- 少康
- 夏王朝の中興の王。その庶子の無余が会稽に封じられて越の祖となったと伝える(『史記』越王勾践世家・『漢書』地理志)。
- 會稽
- 会稽郡。今の中国浙江省紹興市付近。越の国の地。
- 斷髮
- 髪を短く切ること。長江下流の越の人々の風俗として「断髪文身」がよく知られていた。
- 蛟龍
- 水中にすむ竜。みずち。入れ墨で竜の仲間のように見せて害を避けたという。
- 水人
- 海や川にもぐって漁をする人。海人(あま)。
- 東治
- 会稽郡の県名。「東冶(とうや。今の福建省福州市)」の誤りとする説が有力で、『後漢書』は「東冶」に作る。底本は「東治」。
文法
- 無大小
- 「男子無大小」は「男子は大小と無く」と訓み、「大人と子どもの区別なく」の意。
- 以〜
- 「以避蛟龍之害」の「以」は「以て」と訓み、前の「断髪文身」を受けて「それによって」の意。
- 當〜
- 「當在會稽東治之東」の「當」は再読文字で「当に〜べし」と訓み、「きっと〜のはずだ」の意。
解説
倭人の入れ墨の記述は、文献に残る日本列島の入れ墨の最も古い記録です。のちの『古事記』神武天皇の条には、大久米命が目の周りに入れ墨(黥ける利目)をしていたとあり、『日本書紀』履中天皇紀には、罪人に入れ墨をする刑が見えます。古代の日本では入れ墨が、海の民の習俗、身分のしるし、刑罰と、いくつもの意味を持っていたことがわかります。
倭の使者が「大夫」と名のったことは、『後漢書』東夷伝にも「使人自ら大夫と称す」とあります。中国の制度に通じた人が倭の外交にかかわっていたことを示すとも考えられます。
関連
出典
- 底本
- 紹興版魏志倭人傳縮寫(橋本増吉『東洋史上より観たる日本上古史研究』第一 巻頭) 大岡山書店、昭和7年(1932)。国立国会図書館デジタルコレクション コマ11(保護期間満了)
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部(原文は底本による。訓み下し・現代語訳・注は当サイト)
- 更新日