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魏志倭人伝 第3章

投馬国・邪馬壹国と女王に属する国々

南へ水行二十日で五万戸の投馬国、さらに水行十日・陸行一月で、女王の都する七万戸の邪馬壹国に至る。斯馬国から奴国まで女王に属する二十一の国の名が挙げられ、その南には女王に従わない狗奴国がある。帯方郡から女王国までは一万二千里あまり。

女王に属する国々へ続く道と集落(AI生成)
女王に属する国々への道を描いた想像図(AI生成)。所在地や経路を特定するものではありません。
  1. 1南みなみ南みなみみなみのかたのかたのかた馬ま馬まま國こく國こくこくににに至いた至いたいたることることること行かう行かうこう二十日はつか二十日はつかはつか。。。官くわん官くわんかんををを彌み彌みみ彌み彌みみととと曰い曰いいひひい、、、副ふく副ふくふくををを彌み彌みみ彌み彌みみ那な那なな利り利りりととと曰い曰いいふふう。。。五ご五ごご萬まん萬まんまん餘よ餘よよ戶こ戶ここ可ばか可ばかばかりりり。。。南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戶
  2. 2南みなみ南みなみみなみのかたのかたのかた馬ま馬まま壹いち壹いちいち國こく國こくこくににに至いた至いたいたるるる。。。王わう王わうおうののの都みやこ都みやこみやこするするする所ところ所ところところなりなりなり。。。水すい水すいすい行かう行かうこう十日とをか十日とをかとをか、、、陸りく陸りくりく行かう行かうこう一ひと一ひとひと月つき月つきつき。。。官くわん官くわんかんににに支き支きき馬ま馬まま有あ有あありりり、、、次つぎ次つぎつぎををを彌み彌みみ馬ま馬まま升しよう升しようしょうととと曰い曰いいひひい、、、次つぎ次つぎつぎををを彌み彌みみ馬ま馬まま獲かく獲かくかく支き支ききととと曰い曰いいひひい、、、次つぎ次つぎつぎををを奴な奴なな佳か佳かか鞮てい鞮ていていととと曰い曰いいふふう。。。七しち七しちしち萬まん萬まんまん餘よ餘よよ戶こ戶ここ可ばか可ばかばかりりり。。。南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戶
  3. 3女ぢよ女ぢよじょ王わう王わうおう國こく國こくこくよりよりより以い以いい北ほく北ほくほくははは、、、其そ其そそののの戶こ戶ここ數すう數すうすう・・・道だう道だうどう里り里りりははは得え得ええててて略りやく略りやくりゃく載さい載さいさいすべきもすべきもすべきも、、、其そ其そそののの餘よ餘よよののの國こく國こくこくははは遠ゑん遠ゑんえん絕ぜつ絕ぜつぜつにしてにしてにして、、、得え得ええててて詳つまび詳つまびつまびらかにすべからずらかにすべからずらかにすべからず。。。自女王國以北其戶數道里可得略載其餘旁國遠絕不可得詳
  4. 4次つぎ次つぎつぎににに斯し斯しし馬ま馬まま國こく國こくこく有あ有あありりり、、、次つぎ次つぎつぎににに已い已いい百は百はは支き支きき國こく國こくこく有あ有あありりり、、、次つぎ次つぎつぎににに伊い伊いい邪や邪やや國こく國こくこく有あ有あありりり、、、次つぎ次つぎつぎににに都と都とと支き支きき國こく國こくこく有あ有あありりり、、、次つぎ次つぎつぎににに彌み彌みみ奴な奴なな國こく國こくこく有あ有あありりり、、、次つぎ次つぎつぎににに好こ好ここ古こ古ここ都と都とと國こく國こくこく有あ有あありりり、、、次つぎ次つぎつぎににに不ふ不ふふ呼こ呼ここ國こく國こくこく有あ有あありりり、、、次つぎ次つぎつぎににに姐さ姐ささ奴な奴なな國こく國こくこく有あ有あありりり、、、次つぎ次つぎつぎににに對つ對つつ蘇そ蘇そそ國こく國こくこく有あ有あありりり、、、次つぎ次つぎつぎににに蘇そ蘇そそ奴な奴なな國こく國こくこく有あ有あありりり、、、次つぎ次つぎつぎににに呼こ呼ここ邑お邑おお國こく國こくこく有あ有あありりり、、、次つぎ次つぎつぎににに華か華かか奴な奴なな蘇そ蘇そそ奴な奴なな國こく國こくこく有あ有あありりり、、、次つぎ次つぎつぎににに鬼き鬼きき國こく國こくこく有あ有あありりり、、、次つぎ次つぎつぎににに爲ゐ爲ゐい吾ご吾ごご國こく國こくこく有あ有あありりり、、、次つぎ次つぎつぎににに鬼き鬼きき奴な奴なな國こく國こくこく有あ有あありりり、、、次つぎ次つぎつぎににに邪や邪やや馬ま馬まま國こく國こくこく有あ有あありりり、、、次つぎ次つぎつぎににに躬く躬くく臣し臣しし國こく國こくこく有あ有あありりり、、、次つぎ次つぎつぎににに巴は巴はは利り利りり國こく國こくこく有あ有あありりり、、、次つぎ次つぎつぎににに支き支きき惟ゐ惟ゐい國こく國こくこく有あ有あありりり、、、次つぎ次つぎつぎににに烏を烏をお奴な奴なな國こく國こくこく有あ有あありりり、、、次つぎ次つぎつぎににに奴な奴なな國こく國こくこく有あ有あありりり。。。此こ此ここれれれ女ぢよ女ぢよじょ王わう王わうおうののの境きやう境きやうきょう界かい界かいかいののの盡つ盡つつくるくるくる所ところ所ところところなりなりなり。。。次有斯馬國次有已百支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼國次有爲吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次有奴國此女王境界所盡
  5. 5其そ其そそののの南みなみ南みなみみなみににに奴な奴なな國こく國こくこく有あ有あありりり。。。男だん男だんだん子し子ししををを王わう王わうおうととと爲な爲ななすすす。。。其そ其そそののの官くわん官くわんかんににに古こ古ここ智ち智ちち卑ひ卑ひひ狗こ狗ここ有あ有あありりり。。。女ぢよ女ぢよじょ王わう王わうおうににに屬ぞく屬ぞくぞくせずせずせず。。。其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王
  6. 6郡ぐん郡ぐんぐんよりよりより女ぢよ女ぢよじょ王わう王わうおう國こく國こくこくににに至いた至いたいたることることること二に二にに千せん千せんせん餘よ餘よよ里り里りり。。。自郡至女王國萬二千餘里

引用の仕方

レポート・論文で引用する場合の表記例です。行番号を選んでから開くと、その行へのリンクになります。

現代語訳

南へ船で二十日行くと投馬国に着く。長官を弥弥といい、副官を弥弥那利という。五万戸あまりの家がある。

南へ行くと邪馬壹国に着く。女王の都のある所である。船で十日、陸路で一か月かかる。官に伊支馬があり、次を弥馬升といい、次を弥馬獲支といい、次を奴佳鞮という。七万戸あまりの家がある。

女王国から北の国々は、その戸数や道のりをおおよそ記すことができるが、それ以外の周辺の国々は遠く隔たっていて、詳しく知ることができない。

次に斯馬国があり、次に已百支国、次に伊邪国、次に都支国、次に弥奴国、次に好古都国、次に不呼国、次に姐奴国、次に対蘇国、次に蘇奴国、次に呼邑国、次に華奴蘇奴国、次に鬼国、次に為吾国、次に鬼奴国、次に邪馬国、次に躬臣国、次に巴利国、次に支惟国、次に烏奴国、次に奴国がある。ここが女王の支配の及ぶ範囲の尽きる所である。

その南に狗奴国がある。男子が王である。その官に狗古智卑狗がある。女王には従属していない。

帯方郡から女王国までは一万二千里あまりである。

意訳

ここで道のりの書き方が「水行二十日」「水行十日、陸行一月」と日数に変わります。それまでの里程とは別の史料、たとえば倭の使者から聞いた所要日数をもとにしたものと考えられ、この日数をどこから数え、どの方向に当てはめるかが、邪馬台国九州説と畿内説の分かれ目になりました。

女王の都する国の官は伊支馬・弥馬升・弥馬獲支・奴佳鞮の四つが並び、ほかの国の「官」と「副」の二つだけの書き方とは違います。七万戸という戸数も最大で、女王国が多くの国を束ねる中心であったことがうかがえます。二十一の国名を列挙したあと「女王の境界の尽くる所」とし、その南に女王と対立する狗奴国を置いて、倭の勢力図を描いています。

語釈・文法注

投馬國
所在は定まらない。九州説では宮崎県の都万(つま)・鹿児島県の薩摩、畿内説では瀬戸内海沿岸の鞆(広島県福山市)や出雲などにあてる。
邪馬壹國
女王の都する国。底本(紹興本)も紹熙本も「邪馬壹国」に作るが、『後漢書』『梁書』『北史』などは「邪馬臺国」に作り、一般には「臺」が正しいとして「邪馬台国(やまたいこく)」と呼ぶ。「壹」のままとする説もある。所在は北部九州説と畿内(大和)説を中心に論争が続く。
女王
女王卑弥呼。名は第9章で初めて出る。
水行
「水行十日、陸行一月」を、「水行なら十日、陸行なら一月」と読む説と、「水行十日のうえ陸行一月」と読む説がある。
伊支馬
女王国の官名。「いきま」と読み、垂仁天皇の名「活目(いくめ)」との関係を説くものなどがあるが、確かでない。弥馬升・弥馬獲支・奴佳鞮も読みと意味は定まらない。
旁國
周辺の国々。以下の二十一国(斯馬国〜奴国)を指す。最後の「奴国」は第2章の奴国と同じ名で、重出か別の国かで説が分かれる。
狗奴國
女王国の南にあって女王に従わない国。熊本県の球磨地方(熊襲)にあてる九州説、東海地方などにあてる畿内説がある。第13章で女王国との争いが記される。
狗古智卑狗
狗奴国の官名。「くこちひこ」と読み、「菊池彦(きくちひこ)」、すなわち熊本県の菊池地方の首長とする説がある。
萬二千餘里
帯方郡から女王国までの総距離。郡から不弥国までの里数を足すと約一万七百里で、残りは千三百里ほどにしかならず、日数の記述と合わない。

文法

南至〜
「南至投馬國」は「南のかた投馬国に至る」と訓む。方角の語の後に「のかた」を補うのは漢文訓読の慣用。
可得〜・不可得〜
「可得略載」は「得て略載すべし(おおよそ記すことができる)」、「不可得詳」は「得て詳らかにすべからず(詳しくすることができない)」。
此〜所盡
「此女王境界所盡」は「此れ女王の境界の尽くる所なり」。「所+動詞」で「〜する所」の意の名詞句になる。

解説

邪馬台国の所在をめぐる論争は、江戸時代の新井白石・本居宣長にさかのぼり、明治43年(1910)に白鳥庫吉が北部九州説、内藤湖南が畿内説を発表して本格化しました。九州説は「南」の方角を重んじ、日数を短く見積もるか、伊都国から放射状に読みます。畿内説は「南」を「東」の誤りとみて、瀬戸内海または日本海を進む道筋に当てはめます。近年は奈良県の纒向遺跡や箸墓古墳の調査から畿内説が有力視されていますが、決着はついていません。

二十一の国名は、女王国に属する国を、おそらく倭人から聞き取った音のまま漢字で写したものです。「斯馬」「巴利」「対蘇」などを各地の地名にあてる試みがありますが、どれも確かではありません。中国の史書は、周辺の民族の名に「卑」「奴」「狗」「邪」などのよくない意味の字を当てることが多く、倭人伝の国名・人名にもその傾向が見られます。

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出典

底本
紹興版魏志倭人傳縮寫(橋本増吉『東洋史上より観たる日本上古史研究』第一 巻頭) 大岡山書店、昭和7年(1932)。国立国会図書館デジタルコレクション コマ11(保護期間満了)
校訂・訳・注
古典ライブラリー編集部(原文は底本による。訓み下し・現代語訳・注は当サイト)
更新日