源氏物語 第53帖 手習(36)
紀伊守の来訪
大尼君の孫で紀伊守になっていた者が、この頃都に上って来た。三十歳ほどで容貌が清らかで、誇らしげな様子をしている。「何事ですか、一昨年から」などと尋ねるが、大尼君がぼけぼけしい様子なので、妹尼の方に来て、「たいそうこの上なく惚けておしまいになりましたね。哀れでございます。残り少ないご様子を拝見することも難しく、遠い所で年月を過ごしておりますよ。親たちが亡くなった後は、お一方をその代わりとお思い申し上げておりました。常陸の北の方はお便り申し上げなさいますか」と言うのは、妹なのだろう。妹尼が「年月が経つにつれ、所在なく哀れなことばかりまさりまして。常陸殿はたいそう長くお便り申し上げなさらないようです。大尼君は常陸殿の帰りを待ちつけられそうにもないようにお見えになります」とおっしゃるので、浮舟は、自分の親の呼び名と同じなので、思わず耳にとまっていると、紀伊守がまた言うには、「都に上りまして日数が経ちましたが、公事がたいそう多く煩わしくばかりありますのにかかずらって。昨日もお伺いしようと存じましたが、右大将殿(薫)が宇治にいらっしゃったお供にお仕えして、故八の宮のお住みになっていた所にいらっしゃって、一日をお過ごしになりました。大将殿は故宮の御娘にお通いになっていましたが、まずお一方は先年お亡くなりになりました。その御妹をまた忍んで住まわせ申し上げていらっしゃったのを、去年の春またお亡くなりになったので、その一周忌の法要をおさせになることを、あの寺の律師に然るべきことをお命じになって、私にも『その女の装束一揃いを用意しなければならないのを、作らせてくれないか』と。織らせるべきものは急いで作らせましょう」と言うのを聞くと、浮舟はどうして哀れに思わずにいられようか。人が不審に思うのではないかと気が引けて、奥に向かって座っていらっしゃる。妹尼が「あの聖の親王の御娘は二人と聞きましたが、兵部卿の宮の北の方はどちらですか」とおっしゃると、紀伊守は「この大将殿の後の方は、劣り腹(身分の低い母の子)なのでしょう。大げさにも扱いなさらなかったのを、ひどく悲しんでいらっしゃるのです。最初の方もまた、ひどく悲しまれました。ほとんど出家もなさりそうでしたよ」などと語る。
- 1大大おお尼尼あま君君ぎみののの孫孫まごののの紀紀き守守のかみなりなりなりけるけるけるがががこのこのこの比比ころ上上のぼりりりててて來來きたりたりたり。。。三三み十十そじばかりばかりばかりにてにてにてかたちかたちかたち淸淸きよげげげににに誇誇ほこりりりかかかなるなるなるさまさまさましししたりたりたり。。。「「「何何なに事事ことかかかこそこそこそおとゝしおとゝしおととし」」」などなどなど問問とふふうににに、、、ぼけぼけしきぼけぼけしきぼけぼけしきさまさまさまなれなれなればばば、、、こなたこなたこなたににに來來きててて「「「いといといとこよなくこよなくこよなくこそこそこそひがみひがみひがみ給給たまひひいにににけれけれけれ、、、哀哀あわれにににももも侍侍はべるるるかなかなかな。。。のこりのこりのこりなきなきなき御御おんさまさまさまををを見見み奉奉たてまつるるることことことかたくかたくかたくててて遠遠とおききき程程ほどににに年年とし月月つきををを過過すぐししし侍侍はべるるるよよよ。。。親親おやたちたちたち物物ものししし給給たまははわででで後後のちははは一一ひと所所ところをををこそこそこそ御御おんかはりかはりかわりににに思思おもひひい聞聞きこえええ侍侍はべりりりつれつれつれ、、、常常ひた陸陸ちののの北北きたののの方方かたははは音音おとづれづれずれ聞聞きこえええ給給たまふふうややや」」」ととといふいふいうははは妹妹いもうとなるなるなるべしべしべし「「「年年とし月月つきにににそへそへそえてててはははつれづれつれづれつれずれににに哀哀あわれなるなるなる事事ことのみのみのみまさりまさりまさりてててなむなむなん、、、常常ひた陸陸ちはははいといといと久久ひさしくしくしく音音おとづれづれずれ聞聞きこえええ給給たまははわざざざめりめりめり、、、えええまちまちまちつけつけつけ給給たまふふうまじきまじきまじきさまさまさまににになむなむなん見見みえええ給給たまふふう」」」とととののの給給たまふふうににに、、、我我わががが親親おやののの名名なとととあいなくあいなくあいなく耳耳みみとまれとまれとまれるるるににに、、、またまたまたいふいふいうやうやうよう「「「まかりまかりまかりのぼりのぼりのぼりててて日日ひ比比ごろににになりなりなり侍侍はべりりりぬるぬるぬるににに、、、公公おおやけ事事ごとのののいといといとしげくしげくしげくむつかしくむつかしくむつかしくのみのみのみ侍侍はべるるるにににかゝづらひかゝづらひかかずらいてててなむなむなん、、、昨日昨日きのうももも侍侍さぶらははわむむんととと思思おもひひい給給たまへへえしししををを、、、右右う大大だい將將しょう殿殿どのののの宇宇う治治じにににおはせおはせおわせししし御御おん供供ともににに仕仕つこうううまつりまつりまつりててて故故こ八八はち宮宮のみやののの住住すみみみ給給たまひひいししし所所ところにににおはしおはしおわしててて日日ひくらしくらしくらし給給たまひひいししし。。。
- 2故故こ宮宮みやののの御御おんむすめむすめむすめににに通通かよひひい給給たまひひいしししをををまづまづまず一一ひと所所ところははは一一ひととせとせとせうせうせうせ給給たまひひいききき。。。そのそのその御御おん弟弟おとうとまたまたまた忍忍しのびびびてててすゑすゑすえ奉奉たてまつりりり給給たまへへえりりりけるけるけるををを、、、去去こ年年ぞののの春春はる又又またうせうせうせ給給たまひひいにににけれけれければばば、、、そのそのその御御おんはてはてはてのののわざわざわざせせせさせさせさせ給給たまははわむむん事事こと、、、かのかのかの寺寺てらののの律律りつ師師しににになむなむなんさるべきさるべきさるべきことことことのたまはせのたまはせのたまわせててて、、、某某なにがしもももかのかのかの女女おんなのののさうぞくさうぞくそうぞくひとひとひとくだりくだりくだり調調ちょうじじじ侍侍はべるるるべきべきべきをををせせせさせさせさせ給給たまひひいてててむむんややや。。。織織おらららすすすべきべきべきものものものははは急急いそぎぎぎせせせさせさせさせ侍侍はべりりりなななむむん」」」ととといふいふいうををを聞聞きくくくにににいかでいかでいかでかかか哀哀あわれならならならざらざらざらむむん。。。人人ひとやややあやしあやしあやしととと見見みむむんとととつゝましうつゝましうつつましゅうててて奧奧おくににに向向むかひひいててて居居い給給たまへへえりりり。。。尼尼あま君君ぎみ「「「かのかのかのひじりひじりひじりのののみこみこみこののの御御おんむすめむすめむすめははは、、、二二ふた人人りととと聞聞ききききしししををを、、、兵兵ひょう部部ぶ卿卿きょうののの宮宮みやののの北北きたののの方方かたはははいづれいづれいずれぞぞぞ」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、「「「このこのこの大大だい將將しょう殿殿どのののの御御おん後後のちのののはははおとりおとりおとり腹腹ばらなるなるなるべしべしべし。。。ことごとしくことごとしくことごとしくももももてもてもてなしなしなし給給たまははわざりざりざりけるけるけるをををいみじくいみじくいみじく悲悲かなしひひい給給たまふふうなりなりなり。。。はじめはじめはじめのののはたはたはた、、、いみじかりいみじかりいみじかりききき、、、ほどほどほどほどほどほどすけすけすけもももししし給給たまひひいつつつべかりべかりべかりきききかしかしかし」」」などなどなどかたるかたるかたる。。。
現代語訳
大尼君の孫で紀伊守になっていた者が、この頃都に上って来た。三十歳ほどで容貌が清らかで、誇らしげな様子をしている。「何事ですか、一昨年から」などと尋ねるが、ぼけぼけしい様子なので、こちらに来て、「たいそうこの上なく惚けておしまいになりましたね。哀れでございます。残り少ないご様子を拝見することも難しく、遠い所で年月を過ごしておりますよ。親たちが亡くなった後は、お一方をその代わりとお思い申し上げておりました。常陸の北の方はお便り申し上げなさいますか」と言うのは、妹なのだろう。「年月が経つにつれ、所在なく哀れなことばかりまさりまして。常陸はたいそう長くお便り申し上げなさらないようです。待ちつけられそうにもないようにお見えになります」とおっしゃるので、自分の親の呼び名と同じなので、思わず耳にとまっていると、また言うには、「都に上りまして日数が経ちましたが、公事がたいそう多く煩わしくばかりありますのにかかずらって。昨日もお伺いしようと存じましたが、右大将殿が宇治にいらっしゃったお供にお仕えして、故八の宮のお住みになっていた所にいらっしゃって、一日をお過ごしになりました。
故宮の御娘にお通いになっていましたが、まずお一方は先年お亡くなりになりました。その御妹をまた忍んで住まわせ申し上げていらっしゃったのを、去年の春またお亡くなりになったので、その一周忌の法要をおさせになることを、あの寺の律師に然るべきことをお命じになって、私にもその女の装束一揃いを用意しなければならないのを、作らせてくれないかと。織らせるべきものは急いで作らせましょう」と言うのを聞くと、どうして哀れに思わずにいられようか。人が不審に思うのではないかと気が引けて、奥に向かって座っていらっしゃる。尼君が「あの聖の親王の御娘は二人と聞きましたが、兵部卿の宮の北の方はどちらですか」とおっしゃると、「この大将殿の後の方は、劣り腹なのでしょう。大げさにも扱いなさらなかったのを、ひどく悲しんでいらっしゃるのです。最初の方もまた、ひどく悲しまれました。ほとんど出家もなさりそうでしたよ」などと語る。
意訳
大尼君の孫の紀伊守が都に上り、小野を訪ねる。紀伊守は妹尼に、常陸の北の方(紀伊守の妹)から便りはあるかと尋ね、浮舟は母と同じ呼び名に耳を留める。紀伊守は、薫の供をして宇治の八の宮の旧居に行ったこと、薫が大君に続いて、去年の春に亡くなった浮舟の一周忌の法要を営もうとしていること、その女の装束を自分が用意することを語る。浮舟は自分の一周忌の話を聞き、哀れに思って奥を向いて座る。
語釈・文法注
文法
- 「おとゝし」(「何事かこそおとゝし」など問ふに)
- 一昨年。久しぶりに会った挨拶。
- 「御はてのわざ」(その御はてのわざせさせ給はむ事)
- 一周忌の法要。
- 「おとり腹」(この大將殿の御後のはおとり腹なるべし)
- 身分の劣る母から生まれた子。浮舟の母は八の宮の女房であった中将の君。
解説
浮舟は、紀伊守の口から自分の一周忌の準備を聞く。生きながら自分の死後の法要の話を聞く浮舟の心境は、言いようもなく複雑である。
紀伊守は、薫が浮舟の死を悲しんでいることを伝える。浮舟の知らないところで、薫はなお浮舟を思い続けていたのである。
関連
出典
- 底本
- 丸岡桂・松下大三郎編『国文大観』物語部2(源氏物語 下) 板倉屋書房、明治36年(1903)、1228–1229頁(コマ325)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日