源氏物語 第35帖 若菜下(29)
柏木の告白
宮は、ひどく心外で恐ろしく、少しも返事をしない。柏木は、世に例がないことでもないのに、珍しくつれないお心なら、かえって一途な心もつきそうだ、せめて哀れとだけでもおっしゃってくだされば退出しようと言う。柏木は、宮は威厳があって近寄りがたいだろうと想像し、思いの一端だけを伝えて、色めいたことはせずに終わろうと思っていたが、宮はそれほど気高く気後れさせる様子ではなく、ただ親しみやすく、かわいらしく、なよなよとしている。その上品な様子に、柏木は分別も失い、宮をどこかへ連れ去って、自分も世を捨てて姿を消してしまいたいとまで思い乱れる。少しまどろんだ夢に、手なずけたあの猫がかわいらしく鳴いて来たのを、宮に返そうと自分が連れて来たと思ったところで目が覚め、どうしてこんな夢を見たのかと思う。宮は、あまりのことに現実とも思えず、胸がふさがって涙にくれる。柏木は、やはりこれは逃れられない深い宿縁だとお思いください、自分でも正気とは思えないと言い、あの御簾の端を猫の綱が引いた夕べのことも打ち明ける。宮は、本当にそんなことがあったのかと残念に思い、つらい宿縁の身を嘆く。源氏にも今はどうして顔を合わせられようかと、悲しく心細くて、ひどく子どものように泣く。柏木は恐れ多く哀れに思い、宮の涙までぬぐう袖は、いっそう露にぬれる。

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現代語訳
宮はたいそう心外で恐ろしくて、少しもお返事をなさらない。たいそうもっともなことだけれど、柏木は「世に例のないことでもございませんのに、珍しいほどつれないお心でしたら、たいそう情けなくて、かえって一途な心もついてしまいそうです。せめて哀れとだけでもおっしゃってくだされば、それを承って退出いたしましょう」と、何かと申し上げなさる。柏木は、よそながら想像していた時は、宮は威厳があって、物慣れた様子でお目にかかるのも恥ずかしいほどだろうと推し量っていたので、ただこれほど思いつめている心の一端をお知らせして、かえって色めいたことはせずに終わろうと思っていたけれど、宮はまったくそれほど気高く気後れさせるほどではなく、親しみやすくかわいらしく、なよなよとばかりお見えになる。ご様子が上品で、すばらしく思われるところは、ほかの人には似ていらっしゃらなかった。柏木は分別を持って思い静める心も失せて、どこへなりとも宮をお連れして隠し申し上げて、自分もこの世に暮らす様子でなく、跡を絶って消えてしまいたいとまで思い乱れた。ほんの少しまどろんだとも言えないような夢に、あの手なずけた猫がたいそうかわいらしく鳴いてやって来たのを、この宮にお返し申し上げようとして、自分が連れて来たと思ったが、どうしてお返し申し上げたのだろうと思ううちに目が覚めて、どうしてあのような夢を見たのだろうと思う。
宮はたいそうあまりのことに、現実ともお思いになれず、胸がふさがって涙にくれていらっしゃるのを、柏木は、「やはりこのように逃れられない御宿縁が浅くなかったのだとお思いなさいませ。自分の心でありながら、正気ではないように思われます」。あの思いがけなかった、御簾の端を猫の綱が引いた夕べのことも申し上げた。宮は、本当にそのようなことがあったのだろうかと残念で、宿縁のつらい御身であった。院(源氏)にも、今はどうしてお目にかかれようかと、悲しく心細くて、たいそう子どものようにお泣きになるのを、柏木はたいそう恐れ多く哀れと拝見して、宮の御涙までもぬぐう袖は、いっそう露っぽさがまさるばかりである。
意訳
柏木は思いの一端を伝えるだけのつもりだったが、宮の親しみやすくかわいらしい様子に分別を失う。まどろんだ夢に、あの猫が現れる。
宮は涙にくれ、源氏に顔向けできないと子どものように泣き、柏木は宮の涙をぬぐう。
語釈・文法注
文法
- 懸念の「もこそ…すれ」(なかなかひたぶるなる心もこそつき侍れ)
- 「…するといけない」。「かえって一途な心もついてしまいそうです」。
- 願望の「なばや」(跡絕えて止みなばやとまで)
- 完了の「ぬ」の未然形+願望の「ばや」。「跡を絶って消えてしまいたい」。
- 「猫の夢」(この手ならしゝ猫のいとらうたげに打ちなきて來たる)
- 獣の夢は懐妊の兆しとされた。この夢は、宮の懐妊を暗示している。
解説
柏木が見た猫の夢は、当時、獣の夢は懐妊の予兆とされていたことから、女三の宮の懐妊を暗示するものとされる。宮の形見として慈しんだ猫が夢に現れるという場面は、柏木の宮への執着と、その結果として生まれる子(のちの薫)とを結びつけている。
宮は「院にも今はいかでかは見え奉らむ」と、源氏に顔向けできないことを嘆いて泣く。宮の幼さは、この重大な事態にも子どものように泣くことしかできない姿に表れている。柏木もまた、宮の涙をぬぐいながら自らも泣く。二人の悲劇はここから始まる。
関連
出典
- 底本
- 丸岡桂・松下大三郎編『国文大観』物語部2(源氏物語 下) 板倉屋書房、明治36年(1903)、688–689頁(コマ55)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日