源氏物語 第35帖 若菜下(7)
住吉詣で
源氏は、住吉の願をとりあえず果たそうと、東宮の女御の祈りのために住吉に参詣することにし、明石の入道の文箱を開けて見る。年ごとの春秋の神楽に、必ず長い世の祈りを加えた願文など、源氏ほどの威勢がなければ果たせないものばかりで、入道は初めからそれを見越していたのであった。筆跡は走り書きだが、学識があり、仏神も聞き入れそうな言葉がはっきりしている。源氏は、あのような山伏がどうしてこのようなことを考えついたのかと感じ入り、前世の修行者が仮に身をやつしていたのかと思う。参詣は、入道の願のことは表に出さず、ただ源氏の物詣でとして行う。須磨・明石の頃の願はすでに果たしたが、神の助けは忘れがたく、紫の上も連れて行く。源氏は簡素にしようとするが、限りがあって盛大な行列となる。舞人は衛府の次官の中から容姿の美しい者を選び、陪従も名手をそろえる。女御と紫の上は一つの車に、明石の君と尼君は次の車に乗る。源氏は尼君を晴れがましく参詣させたいと言うが、明石の君は控え、尼君は名残の命を惜しんで、慕ってついて来る。

- 1すみよしすみよしすみよしののの御御おんぐわんぐわんがんかつがつかつがつかつがつはたしはたしはたし給給たまははわむむんとてとてとて春宮春宮とうぐうののの女御女御にょうごののの御御おんいのりいのりいのりにににまうでまうでもうで給給たまははわむむんとてとてとて、、、かのかのかの箱箱はこあけあけあけててて御覽御覽ごらんずれずれずればばばさまざまさまざまさまざまのののいかめしきいかめしきいかめしきことことことどもどもども多多おおかりかりかり年年としごとごとごとののの春春はる秋秋あきのののかぐらかぐらかぐらににに必必かならずずず長長ながききき世世よのののいのりいのりいのりををを加加くわへへえたるたるたるぐわんぐわんがんどもどもどもげにげにげにかゝるかゝるかかる御御おん勢勢いきおいならならならでででははははたしはたしはたし給給たまふふうべきべきべき事事ことどもどもども思思おもひひいおきおきおきてててざりざりざりけりけりけり。。。唯唯ただ走走はしりりり書書かきききたるたるたるおもむきおもむきおもむきのののざえざえしくざえざえしくざえざえしくはかばかしくはかばかしくはかばかしく佛佛ほとけ神神かみももも聞聞きききき入入いれれれ給給たまふふうべきべきべき言言ことののの葉葉はあきらかあきらかあきらかなりなりなり。。。いかでいかでいかでさるさるさるやまやまやまぶしぶしぶしのののひじりひじりひじりこゝろこゝろこころにににかゝるかゝるかかる事事ことどもどもどもををを思思おもひひいよりよりよりけむけむけんととと哀哀あわれにににおほけなくおほけなくおおけなくももも御覽御覽ごらんずずず。。。さるべきさるべきさるべきにてにてにて暫暫しばしししかりそめかりそめかりそめににに身身みをををやつしやつしやつしけるけるける昔昔むかしののの世世よのののおこなひおこなひおこないびとびとびとにににやややありありありけむけむけんなどなどなどおぼしおぼしおぼしめぐらすめぐらすめぐらすにににいとゞいとゞいとどかるがるしくかるがるしくかるがるしくもももおぼさおぼさおぼされれれざりざりざりけりけりけり。。。このこのこの度度たびはははこのこのこの心心こころをををばばば顯顯あらわししし給給たまははわずずず唯唯ただ院院いんのののものものものまうでまうでもうでにてにてにて出出いででで立立たちちち給給たまふふううらうらうらづたひづたひずたいののの物物ものさわがしかりさわがしかりさわがしかりしししほどほどほどそこらそこらそこらののの御御おんぐわんぐわんがんどもどもども皆皆みなはたしはたしはたし盡盡つくししし給給たまへへえれれれどもどもども、、、猶猶なお世世よののの中中なかにににかくかくかくおはしましおはしましおわしましてててかゝるかゝるかかるいろいろいろいろいろいろのののさかえさかえさかえををを見見み給給たまふふうにににつけつけつけてててももも神神かみののの御御おんたすけたすけたすけははは忘忘わすれれれ難難かたくくくててて對對たいののの上上うえもももぐしぐしぐし聞聞きこえええさせさせさせ給給たまひひいてててまうでまうでもうでさせさせさせたまふたまふたまう。。。ひゞきひゞきひびき世世よののの常常つねならならならずずずいみじくいみじくいみじくことことことどもどもどもそぎそぎそぎ捨捨すてててゝゝて世世よのののわづらひわづらひわずらいあるあるあるまじくまじくまじくとととはぶかはぶかはぶかせせせ給給たまへへえどどどかぎりかぎりかぎりありありありけれけれければばばめづらかめづらかめずらかににによそほしくよそほしくよそおしくなむなむなん、、、上達部上達部かんだちめもももおとゞおとゞおとどふたふたふた所所ところををを置置おききき奉奉たてまつりりりてててははは皆皆みなつかうまつりつかうまつりつこうまつり給給たまふふう。。。
- 2まひまひまいびとびとびとははは衛衛え府府ふのののすけすけすけどもどもどものののかたちかたちかたち淸淸きよげげげにににたけたけたけだちだちだちひとしきひとしきひとしきかぎりかぎりかぎりをををえらえらえらせせせ給給たまふふう。。。このこのこのえらびえらびえらびににに入入いらららぬぬぬをををばばばはぢはぢはじににに憂憂うれへへえ歎歎なげきききたるたるたるすきすきすきものものものどもどもどもありありありけりけりけり。。。べいじうべいじうべいじゅうももも石石いわ淸淸し水水みず賀賀か茂茂もののの臨臨りん時時じののの祭祭まつりなどなどなどににに召召めすすす人々人々ひとびとののの道道みち々々みちのののことことことにににすぐれすぐれすぐれたるたるたるかぎりかぎりかぎり整整ととのへへえさせさせさせ給給たまへへえりりり。。。加加くわはりはりわりたるたるたる二二ふた人人りなむなむなんこのこのこのゑづかさゑづかさこのえづかさののの名名な高高だかきききかぎりかぎりかぎりををを召召めしししたりたりたりけるけるける。。。御御おん神神か樂樂ぐらのののかたかたかたにににはははいといといと多多おおくくく仕仕つかうまつれうまつれうまつれりりり。。。內內うち、、、春宮春宮とうぐう、、、院院いんののの殿上人殿上人てんじょうびとかたがたかたがたかたがたににに分分わかれれれててて心心こころ寄寄よせせせつかうまつるつかうまつるつこうまつる。。。數數かずももも知知しらららずずずいろいろいろいろいろいろにににつくしつくしつくしたるたるたる上達部上達部かんだちめののの御御おん馬馬うまくらくらくら、、、馬馬うまぞひぞひぞい、、、ずゐじんずゐじんずいじん、、、こどねりこどねりこどねりわらはわらはわらわ、、、つぎつぎつぎつぎつぎつぎのののとねりとねりとねりなどなどなどまでまでまで整整ととのへへえ飾飾かざりりりたるたるたる見見み物物ものまたまたまたなきなきなきさまさまさまなりなりなり。。。女御女御にょうご殿殿どの對對たいののの上上うえはははひとつひとつひとつににに奉奉たてまつりりりたりたりたり。。。次次つぎののの御御おん車車くるまにににははは明明あか石石しののの御御おんかたかたかた尼尼あま君君ぎみ忍忍しのびびびててて乘乘のりりり給給たまへへえりりり。。。女御女御にょうごののの御御おんめのとめのとめのと心心こころ知知しりりりにてにてにて乘乘のりりりたりたりたり。。。かたがたかたがたかたがたのののひとひとひとだまひだまひだまい上上うえののの御御おん方方かたののの五五いつつつつ女御女御にょうご殿殿どのののの五五いつつつつ明明あか石石しののの御御おんあかれあかれあかれのののみつみつみつ、、、目目めもももあやあやあやににに飾飾かざりりりたるたるたるさうぞくさうぞくそうぞく有樣有樣ありさまいへいへいえばばば更更さらなりなりなり。。。さるはさるはさるは尼尼あま君君ぎみをををばばば同同おなじくじくじくははは老老おいののの浪浪なみのののしわしわしわのぶのぶのぶばかりばかりばかりににに人人ひとめかしくめかしくめかしくてててまうでまうでもうでさせさせさせむむんととと院院いんはははのたまひのたまひのたまいけれけれけれどどどそのそのその度度たびはははかくかくかく大方大方おおかたのののひゞきひゞきひびきににに、、、立立たちちちまじらまじらまじらむむんもももかたはらいたしかたはらいたしかたわらいたし、、、もしもしもし思思おもふふうやうやうようならならならむむん世世よののの中中なかををを待待まちちち出出いでででたらたらたらばばばととと御御おん方方かたはははしづめしづめしずめ給給たまひひいけるけるけるをををのこりのこりのこりののの命命いのちうしろめたくうしろめたくうしろめたくてててかつがつかつがつかつがつ物物ものゆかしがりゆかしがりゆかしがりてててしたひしたひしたい參參まいりりり給給たまふふうなりなりなりけりけりけり。。。
現代語訳
源氏は、住吉の御願をとりあえず果たそうとして、東宮の女御(明石の女御)の御祈りのために参詣なさろうとして、あの入道の文箱を開けてご覧になると、さまざまの大がかりなことが多かった。毎年の春秋の神楽に、必ず長い世の祈りを加えた願文など、なるほど、このようなご威勢でなくては果たすことができないことばかりを、入道は思い定めていたのだった。ただ走り書きしたような書きぶりは、学識があって、しっかりしていて、仏神もお聞き入れになるに違いない言葉がはっきりしている。どうしてあのような山伏の聖の心に、このようなことを思いついたのだろうと、しみじみと、恐れ多いほどにご覧になる。しかるべき因縁で、しばらく仮に身をやつしていた昔の世の修行者だったのであろうかなどとお思いめぐらしになると、いっそう軽々しくはお思いになれなかった。今回は、この入道の願のことは表にお出しにならず、ただ院(源氏)の物詣でとしてお出かけになる。浦伝いをした騒がしかった須磨・明石の頃の数多くの御願は皆果たし尽くしなさったけれど、やはりこの世にこうして生きていらっしゃって、このようなさまざまの栄華をご覧になるにつけても、神のご加護は忘れがたくて、対の上(紫の上)もお連れ申し上げて参詣なさる。評判は世の常でなく、源氏はたいそう多くのことを簡略にして、世の中の負担にならないようにと省かせなさったけれど、限りがあるので、珍しいほど立派で、上達部も、大臣お二人をおいては、皆お供申し上げなさる。
舞人は、衛府の次官たちの中で、容貌が美しく、背丈のそろった者だけをお選ばせになる。この選びに入らない者を恥として憂え嘆いた風流好みの者たちもいた。陪従も、石清水や賀茂の臨時の祭などに召す人々で、それぞれの道に特に優れた者だけをおそろえになった。加わった二人は、近衛府の名高い者だけをお召しになったのだった。御神楽の方には、たいそう多くお仕え申し上げた。帝、東宮、院(冷泉院)の殿上人が、それぞれに分かれて、心を寄せてお仕えする。数えきれないほど、さまざまに趣向を尽くした上達部の御馬の鞍、馬添い、随身、小舎人童、その次々の舎人などまで、整えて飾り立てた見ものは、またとない様子である。女御殿と対の上は、一つの車にお乗りになった。次の御車には、明石の御方と尼君が、ひそかにお乗りになった。女御の御乳母が、事情を知っている者として同乗した。それぞれの女房の車は、上の御方の五台、女御殿の五台、明石の御方のお付きの三台で、目もまばゆいほど飾り立てた装束や様子は、言うまでもない。実は、尼君のことを、院は「同じことなら、老いの波のしわが伸びるほど、晴れがましく参詣させよう」とおっしゃったけれど、御方は「今回はこのような大がかりな評判の中に立ち混じるのも気がひけます。もし思いどおりになる世(若宮の即位)を待ち受けることができたら」と、抑えていらっしゃったのを、尼君は残りの命が気がかりで、とりあえず物見をしたがって、慕ってついて参上なさったのだった。
意訳
源氏は明石の入道の願文を見て感じ入り、表向きは自分の物詣でとして、紫の上や明石の女御、明石の君らを連れて住吉に参詣する。
行列は盛大で、明石の尼君も、残りの命を惜しんで慕ってついて来る。
語釈・文法注
文法
- 「かつがつ」(すみよしの御ぐわんかつがつはたし給はむとて)
- とりあえず、ひとまず。
- 「べいじう」(べいじうも石淸水賀茂の臨時の祭などに召す人々の)
- 陪従。神楽などで歌や楽器を担当する地下の楽人。
- 「ひとだまひ」(かたがたのひとだまひ)
- 人給ひ。供の女房たちが乗る車。
解説
住吉詣では、明石の一族の宿願がかなったことを神に感謝するものである。源氏は入道の願文を見て、入道の深い学識と志に感じ入る。「さるべきにて暫しかりそめに身をやつしける昔の世のおこなひびと」とは、入道を前世の聖の仮の姿と見る源氏の敬意を表している。
明石の尼君がこの晴れの行列に加わることは、明石一族の栄華の象徴である。明石の君は控えめにしようとするが、尼君は「のこりの命うしろめたくて」ついて来る。明石の浦でともに苦労した日々を思えば、尼君にとってこの参詣は、生涯最大の晴れ舞台であった。
関連
出典
- 底本
- 丸岡桂・松下大三郎編『国文大観』物語部2(源氏物語 下) 板倉屋書房、明治36年(1903)、658–661頁(コマ40–41)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日