源氏物語 第9帖 葵(5)
生霊の自覚
葵の上に取りつく霊が、自分の生霊だという噂を聞いた御息所は、夢の中で葵の上らしい人を打ちすえる自分を見て、魂が身を離れているのではないかと思い悩む。葵の上はにわかに産気づくが、しつこい物の怪は離れない。物の怪は源氏に話があると言い、源氏が近寄ると、葵の上の口を借りて歌を詠む。その声と様子は、まさに御息所であった。

- 1大殿大殿おおいとのにににははは御御おん物物もののけのけのけ痛痛いたくくく起起おこりりりててていみじういみじういみじゅうわづらひわづらひわずらい給給たまふふう。。。このこのこの御御おんいきすだまいきすだまいきすだま故故こ父父ちちおとゞおとゞおとどののの御御おん靈靈りょうなどなどなどいふいふいうものものものありありありととと聞聞きこえええ給給たまふふうにににつけつけつけててておぼしおぼしおぼしつゞくれつゞくれつづくればばば、、、
- 2身身み一一ひとつつつのののうきうきうき嘆嘆なげきききよりよりより外外ほかににに人人ひとをををあしかれあしかれあしかれなどなどなど思思おもふふう心心こころもももなけれなけれなけれどどど、、、物物もの思思おもふふうにににあくがるあくがるあくがるなるなるなるたましひたましひたましいはははさささもももやややあらあらあらむむんとととおぼしおぼしおぼし知知しらららるゝるゝるる事事こともももありありあり。。。
- 3年頃年頃としごろよろづよろづよろずににに思思おもひひい殘殘のこすすすことことことなくなくなく過過すぐしぐしぐしつれつれつれどどど、、、かうかうこうしもしもしも碎碎くだけけけぬぬぬをををはかなきはかなきはかなき事事ことののの折折おりににに人人ひとののの思思おもひひいけちけちけち、、、なきなきなきものものものにににもてなすもてなすもてなすさまさまさまなりなりなりしししみそぎみそぎみそぎののの後後のち、、、ひとひとひと節節ふしににに憂憂うしししとととおぼしおぼしおぼしうかれうかれうかれにににししし心心こころ靜靜しずまりまりまり難難がとうううおぼさるゝおぼさるゝおぼさるるけにけにけにややや、、、
- 4少少すこしししもももうちうちうちまどろみまどろみまどろみ給給たまふふう夢夢ゆめにににははは、、、かのかのかの姫君姫君ひめぎみとととおぼしきおぼしきおぼしき人人ひとのののいといといと淸淸きよらららにてにてにてあるあるある所所ところにににいきいきいきてててとかくとかくとかくひきひきひきまさぐりまさぐりまさぐり、、、現現うつつにににももも似似にずずず武武たけくくくいかきいかきいかきひたぶるひたぶるひたぶる心心こころいできいできいできてててうちうちうちかなぐるかなぐるかなぐるなどなどなど見見みえええ給給たまふふう事事ことたびたびたび重重かさなりなりなりにににけりけりけり。。。
- 5あなあなあな心心こころうううややや。。。實實げににに身身みををを捨捨すてゝてゝててやややいにいにいにけむけむけんとととうつしうつしうつし心心ごころならならならずずず覺覺おぼえええ給給たまふふう折々折々おりおりもももあれあれあればばば、、、
- 6さささならならならぬぬぬことことことだにだにだに人人ひとののの御御おんためためためにににはははよざまよざまよざまのののことことことをををしもしもしも言言いひひい出出いでででぬぬぬ世世よなれなれなればばば、、、ましてましてましてこれこれこれはははいといといとよくよくよく言言いひひいなしなしなしつつつべきべきべきたよりたよりたよりなりなりなりとととおぼすおぼすおぼすにににいといといと名名なだゝしうだゝしうだたしゅう
- 7ひたすらひたすらひたすら世世よににになくなくなくなりなりなりててて後後のちにににうらみうらみうらみ殘殘のこすすすはははよよよのののつねつねつねののの事事ことなりなりなり、、、それそれそれだにだにだに人人ひとののの上上うえにてにてにてははは罪罪つみ深深ふこうううゆゝしきゆゝしきゆゆしきををを、、、うつゝうつゝうつつののの我我わががが身身みながらながらながらさるさるさるうとましきうとましきうとましき事事ことをををいひいひいいつけつけつけらるゝらるゝらるる宿世宿世すくせのののうきうきうき事事こと、、、
- 8すべてすべてすべてつれなきつれなきつれなき人人ひとににに爭爭いかででで心心こころもももかけかけかけ聞聞きこえええじじじとととおぼしおぼしおぼし返返かえせせせどどど思思おもふふうももも物物ものををを。。。
- 9齋宮齋宮さいぐうははは去年去年こぞうちうちうちににに入入いりりり給給たまふふうべかりべかりべかりしししををを、、、さまざまさまざまさまざま障障さわるるる事事ことありありありてててこのこのこの秋秋あき入入いりりり給給たまふふう。。。ながつきながつきながつきにににはははやがてやがてやがて野野ののののににに移移うつろひろひろい給給たまふふうべけれべけれべければばば、、、再再ふたたびののの御御おんはらへはらへはらえのののいそぎいそぎいそぎ取取とりりり重重かさねねねてててあるあるあるべきべきべきににに唯唯ただ怪怪あやしくしくしくぼけぼけしうぼけぼけしうぼけぼけしゅうてててつくづくつくづくつくづくととと臥臥ふししし惱惱なやみみみ給給たまふふうををを、、、宮人宮人みやびといみじきいみじきいみじきだいじだいじだいじにてにてにて御御おん祈祈いのりなどなどなどさまざまさまざまさまざま仕仕つこううう奉奉まつるるる。。。
- 10おどろおどろしきおどろおどろしきおどろおどろしきさまさまさまにににはははあらあらあらずずずそこはかとなくそこはかとなくそこはかとなく煩煩わずらひひいててて月日月日つきひををを過過すぐしぐしぐし給給たまふふう。。。大將殿大將殿だいしょうどのももも常常つねにににとぶらひとぶらひとぶらい聞聞きこえええ給給たまへへえどどど、、、まさるまさるまさる方方かたののの痛痛いとううう煩煩わずらひひい給給たまへへえばばば御心御心みこころのののいとまいとまいとまなげなげなげなりなりなり。。。
- 11まだまだまださるべきさるべきさるべき程程ほどにににもももあらあらあらずずずととと皆皆みな人人ひともももたゆみたゆみたゆみ給給たまへへえるるるににに、、、俄俄にわかににに御御おん氣色氣色けしきありありありててて惱惱なやみみみ給給たまへへえばばばいとゞしきいとゞしきいとどしき御御おん祈祈いのりののの數數かずををを盡盡つくしししてててせせせさせさせさせ給給たまへへえれれれどどど、、、例例れいのののしうねきしうねきしゅうねき御御おんものゝけものゝけもののけひとつひとつひとつ更更さらににに動動うごかかかずずず、、、やんごとなきやんごとなきやんごとなきけんざけんざけんざどもどもども珍珍めずらからからかなりなりなりととともてもてもて惱惱なやむむむ。。。
- 12さすがさすがさすがにににいみじういみじういみじゅう調調ちょうぜぜぜられられられててて、、、心心こころ苦苦ぐるしげしげしげににに泣泣なきききわびわびわびててて、、、「「「少少すこしししゆるべゆるべゆるべ給給たまへへえややや。。。大將大將だいしょうににに聞聞きこゆゆゆべきべきべき事事ことありありあり」」」とととのたまふのたまふのたまう。。。「「「さればよさればよさればよ、、、あるあるあるやうやうようあらあらあらむむん」」」とととててて近近ちかききき御御おん几帳几帳きちょうのののもともともとににに入入いれれれ奉奉たてまつりりりたりたりたり。。。
- 13むげむげむげににに限限かぎりのののさまさまさまににに物物ものししし給給たまふふうををを、、、聞聞きこえええおかおかおかまほしきまほしきまほしきことことことももも坐坐おわするするするにににやややとととててておとゞおとゞおとどももも宮宮みやももも少少すこししししぞきしぞきしぞき給給たまへへえりりり。。。加持加持かじののの僧僧そうどもどもども聲聲こえしづめしづめしずめててて法華經法華經ほけきょうををを讀讀よみみみたるたるたるいみじういみじういみじゅうたふとしたふとしとうとし。。。
- 14御御おん几帳几帳きちょうのののかたびらかたびらかたびら引引ひききき上上あげげげててて見見み奉奉たてまつりりり給給たまへへえばばば、、、いといといとをかしげをかしげおかしげにてにてにて御御おん腹腹はらはははいみじういみじういみじゅう高高たこうううててて臥臥ふししし給給たまへへえるるるさまさまさまよそよそよそ人人びとだにだにだに見見み奉奉たてまつらららむむんににに心心こころ亂亂みだれれれぬぬぬべしべしべし。。。ましてましてまして惜惜おしうしうしゅう悲悲かなしうしうしゅうおぼすおぼすおぼす、、、ことわりことわりことわりなりなりなり。。。
- 15白白しろききき御御おんぞぞぞににに色色いろあひあひあいいといといと花花はなやかやかやかにてにてにて御御おんぐしぐしぐしいといといと長長なごうううこちたきこちたきこちたきををを引引ひきききゆひゆひゆいてててうちうちうちそへそへそえたるたるたるももも、、、かうかうこうてててこそこそこそらうたげらうたげろうたげににになまめきなまめきなまめきたるたるたる方方かた添添そひひいててて、、、をかしかりをかしかりおかしかりけれけれけれととと見見みゆゆゆ。。。
- 16御手御手てををを執執とらへへえててて、、、「「「あなあなあないみじいみじいみじ。。。心心こころ憂憂うきききめめめををを見見みせせせ給給たまふふうかなかなかな」」」とととててて物物ものもももえええ聞聞きこえええ給給たまははわずずず泣泣なききき給給たまへへえばばば、、、例例れいはははいといといと煩煩わずらはしくはしくわしくはづかしげはづかしげはずかしげなるなるなる御御おんまみまみまみをををいといといとたゆげたゆげたゆげににに見見み上上あげげげてててうちうちうちまもりまもりまもり聞聞きこえええ給給たまふふうににに、、、淚淚なみだのののこぼるゝこぼるゝこぼるるさまさまさまををを見見み給給たまふふうはははいかゞいかゞいかが哀哀あわれののの淺淺あさからからからむむん。。。
- 17あまりあまりあまりいたくいたくいたく泣泣なききき給給たまへへえばばば心苦心苦こころぐるしきしきしき親親おやたちたちたちののの御御おん事事ことをををおぼしおぼしおぼし、、、又又またかくかくかく見見み給給たまふふうにににつけつけつけててて口惜口惜くちおしうしうしゅう覺覺おぼえええ給給たまふふうにににやややとととおぼしおぼしおぼしててて
- 18「「「何事何事なにごともももいといといと斯斯こうううなななおぼしおぼしおぼし入入いれれれそそそ。。。さりともさりともさりともけしうけしうけしゅうはははおはせおはせおわせじじじ。。。いかなりいかなりいかなりともともとも必必かならずずず逢逢あふふう瀨瀨せあああなれなれなればばばたいめんたいめんたいめんはははありありありなななむむん。。。おとゞおとゞおとど宮宮みやなどなどなどももも深深ふかききき契契ちぎりあるあるある中中なかはははめぐりめぐりめぐりてててももも絕絕たえええざざざなれなれなればばばあひあひあい見見みるるるほどほどほどありありありなななむむんとととおぼせおぼせおぼせ」」」ととと慰慰なぐさめめめ給給たまふふうににに、、、
- 19「「「いでいでいであらあらあらずずずややや。。。身身みののの上上うえのののいといといと苦苦くるしきしきしきをををしばししばししばし休休やすめめめ給給たまへへえととと聞聞きこえええむむんとととてててなむなむなん。。。かくかくかく參參まいりりり來來こむむんとととももも更更さらににに思思おもははわぬぬぬををを物物もの思思おもふふう人人ひとのののたましひたましひたましいははは實實げにににあくがるゝあくがるゝあくがるるものものものににになむなむなんありありありけるけるける」」」とととなつかしげなつかしげなつかしげにににいひいひいいててて、、、
- 20「「「歎歎なげきききわびわびわび空空そらにににみだるゝみだるゝみだるる我我わがががたまたまたまををを結結むすびびびとゞめよとゞめよとどめよのののつまつまつま」」」とととのたまふのたまふのたまう聲聲こえけはひけはひけわい、、、そのそのその人人ひとにににもももあらあらあらずずずかはりかはりかわり給給たまへへえりりり。。。いといといと怪怪あやしししとととおぼしおぼしおぼしめぐらすめぐらすめぐらすににに唯唯ただかのかのかの御御おんやすやすやす所所どころなりなりなりけりけりけり。。。
- 21淺淺あさましうましうましゅう人人ひとのののとかくとかくとかくいふいふいうををを、、、よからよからよからぬぬぬものものものどもどもどもののの言言いひひい出出いづるづるずる事事ことととと聞聞ききききにくゝにくゝにくくおぼしおぼしおぼしてててのたまひのたまひのたまいけつけつけつををを、、、目目めにににみすみすみすみすみすみす世世よにににはははかゝるかゝるかかる事事ことこそこそこそはははありありありけれけれけれとととうとましううとましううとましゅうなりなりなりぬぬぬ。。。
- 22あなあなあな心心こころうううとととおぼさおぼさおぼされれれててて「「「かくかくかくのたまへのたまへのたまえどどど誰誰たれとととこそこそこそ知知しらららねねね。。。たしかたしかたしかにににのたまへのたまへのたまえ」」」とととののの給給たまへへえばばば唯唯ただそれそれそれなるなるなる御御おん有樣有樣ありさまにににあさましあさましあさましとととはははよよよのののつねつねつねなりなりなり。。。人々人々びと近近ちこううう參參まいるるるももも傍傍かたわら痛痛いとうううおぼさるおぼさるおぼさる。。。
現代語訳
左大臣家では、葵の上の物の怪がひどく起こって、たいそうお苦しみになる。この物の怪は、御息所ご自身の生霊だとか、亡き父大臣の霊だとか言う者があるとお聞きになるにつけて、御息所が思い続けてごらんになると、わが身一つのつらい嘆きのほかに、人を悪くなれなどと思う心もないけれど、物思いをすると身から抜け出していくという魂は、そういうこともあるのだろうかと、思い当たられることもある。
長年、何事も思い残すことのないほど物思いをして過ごしてきたが、これほどまでに心が砕けることはなかったのに、ちょっとした事の折に、あの人(葵の上)が私を無視し、ないもののように扱った様子だった御禊の後、あのひと事でつらいと思って浮かれ出た心が静まりがたくお思いになるせいか、
少しうとうとなさる夢には、あの姫君と思われる人が、たいそう美しい様子でいる所に行って、あれこれと引きかき回し、正気の時とは違って、荒々しく激しい一途な心が出てきて、乱暴に打ちすえるなどの様子を、たびたび見ていらっしゃった。ああ、情けない。本当に魂が身を捨てて出て行ってしまったのだろうかと、正気でないようにお感じになる時々もあるので、
そうでないことでさえ、人のためによいようには言い出さない世の中なので、ましてこれは、たいそううまく言い立てるのに格好の種だとお思いになると、たいそう評判になりそうで、ひたすら死んだ後に恨みを残すのは世の常のことだが、それでさえ他人のこととしては罪深く不吉なのに、生きている身でありながら、そんないとわしいことを言われる宿命のつらさよ、
もう決して、あのつれない人(源氏)に何とかして心をかけ申し上げまいと思い返しなさるが、「思はじと思ふも物を思ふなり」(思うまいと思うのも物思いである)というものである。
斎宮は、去年宮中の初斎院にお入りになるはずだったが、いろいろと差し障りがあって、この秋お入りになる。九月にはそのまま野宮にお移りになるはずなので、二度目の御祓の準備を重ねて行うはずなのに、御息所はただ妙にぼんやりとして、つくづくと臥して病んでいらっしゃるので、斎宮に仕える人々はたいへんな大事として、ご祈祷などをさまざまにお勤め申し上げる。
ひどく重い様子ではなく、どこということもなく患って、月日をお過ごしになる。大将殿も常にお見舞い申し上げなさるが、もっと大切な方(葵の上)がひどく患っていらっしゃるので、お心の暇がなさそうである。
まだ出産の時期ではないと誰もが油断していらっしゃったところ、葵の上はにわかに産気づいてお苦しみになるので、いっそう多くのご祈祷の限りを尽くしておさせになるが、例のしつこい物の怪が一つ、まったく動かず、尊い験者たちも、珍しいことだと手を焼いている。
それでもさすがにひどく調伏されて、苦しそうに泣きながら、「少し祈祷をゆるめてください。大将に申し上げたいことがあります」とおっしゃる。「やはりそうか、何かわけがあるのだろう」と言って、近くの御几帳のもとに源氏をお入れ申し上げた。もう最期のような様子でいらっしゃるので、言い残しておきたいこともおありなのだろうかと、大臣も大宮も少し退きなさった。加持の僧たちが声をひそめて法華経を読んでいるのが、たいそう尊い。
源氏が御几帳の帷子を引き上げてご覧になると、葵の上はたいそう美しい様子で、お腹がたいそう高くなって臥していらっしゃる様子は、他人でさえ拝見すれば心が乱れるに違いない。まして源氏が惜しく悲しくお思いになるのは、もっともである。白いお召し物に、色合いがたいそう華やかで、御髪がたいそう長く豊かなのを引き結んで、そばに添えているのも、こうしていてこそ、かわいらしくなまめいた趣が加わって、美しいのだったと見える。
お手を取って、「ああ、ひどい。つらい目をお見せになることよ」と言って、何も申し上げられずにお泣きになると、いつもはたいそう気づまりで、こちらが気後れするようなまなざしを、たいそうだるそうに見上げて、じっと見つめ申し上げなさるうちに、涙がこぼれる様子をご覧になるのは、どうして愛情が浅いことがあろうか。
あまりひどくお泣きになるので、気の毒な親たちのことをお思いになり、また、こうして私を見るにつけて名残惜しくお思いになるのだろうかとお思いになって、「何事も、そんなにひどく思いつめなさるな。いくら何でも、悪いことにはならないでしょう。たとえどうなっても、必ず逢う瀬があるそうですから、また会えるでしょう。大臣や大宮なども、深い宿縁のある仲は、生まれ変わっても絶えないそうですから、また会える時があるだろうとお思いなさい」とお慰めになると、
「いいえ、そうではありません。わが身がたいそう苦しいので、しばらく祈祷をゆるめてくださいと申し上げようと思いまして。このように参上しようとはまったく思わないのに、物思いをする人の魂は、本当に身から抜け出していくものなのでした」と、親しげに言って、「嘆き悲しんで、身を離れて空にさまよう私の魂を、着物の下前の褄を結んで、つなぎとめてください」とおっしゃる声や様子は、葵の上その人ではなく、別人に変わっていらっしゃる。
たいそう妙だと考えめぐらしてごらんになると、まさにあの御息所であった。あきれたことに、人があれこれと噂するのを、よくない者たちが言い出すことだと、聞き苦しくお思いになって否定していらっしゃったのに、目の当たりに、世の中にはこんなこともあるのだったと、うとましくなってしまった。ああ、いやなことだとお思いになって、「そうおっしゃるが、誰とも知りません。はっきりとおっしゃってください」とおっしゃると、まさに御息所そのもののご様子なので、あきれるなどという言葉では言い尽くせない。女房たちが近くに参るのも、気がとがめてお思いになる。
意訳
御息所は、葵の上に取りつく霊が自分の生霊だという噂を耳にする。夢の中で、葵の上らしい人を打ちすえる自分を見て、本当に魂が身を離れているのではないかと恐れる。生きながら人を恨む霊になる自分の宿命を嘆く。
葵の上はにわかに産気づくが、しつこい物の怪は離れない。物の怪は源氏に話があると言い、源氏が几帳の中に入ると、葵の上の口を借りて歌を詠む。その声と様子は、まさに御息所だった。
語釈・文法注
- 思ふも物をなり
- 「思はじと思ふも物を思ふなり言はじと言ふもこれも言ふなり」(古歌)による。思うまいと思うことも、やはり物思いである。
- 野の宮
- 野宮(ののみや)。斎宮が伊勢へ下る前に、一年間こもって身を清める仮の宮。嵯峨野に設けられた。
- したかひ
- 下交(したがい)。着物の前を合わせた時、下になる方の前身頃。その褄を結ぶと、抜け出た魂がとどまるとされた。
文法
- 禁止の「な…そ」(斯うなおぼし入れそ)
- 「そんなに思いつめなさるな」。
- 伝聞推定の「なれ」(逢ふ瀨あなれば)
- 「あるなれ」の撥音便「あんなれ」の撥音の無表記。「逢う瀬があるそうだから」。
和歌
歎きわび空にみだるゝ我がたまを結びとゞめよしたかひのつま
- 詠者
- 六条御息所(生霊)
- 状況
- 葵の上に取りついた生霊が、葵の上の口を借りて源氏に詠みかけた歌。嘆き悲しんで、身を離れて空にさまよう私の魂を、着物の下前の褄を結んで、つなぎとめてください。
修辞
- 俗信
- 魂が抜け出た時、着物の下前の褄を結ぶと魂が戻るという言い伝えをふまえる。
解説
葵の巻の頂点となる場面である。御息所は、自分の魂が意志に反して身を離れ、葵の上を苦しめていることに、夢を通して気づいていく。「人をあしかれなど思ふ心もなけれど」という言葉には、恨みを抑えようとする理性と、抑えきれない情念との分裂が表れている。
源氏が葵の上の手を取って慰める言葉は、葵の上その人への愛情の表れであったが、それに答えたのは御息所の生霊だった。夫婦の情愛がようやく通い合おうとした瞬間に、別の女の霊が割って入るという、劇的な構成である。
関連
出典
- 底本
- 丸岡桂・松下大三郎編『国文大観』物語部1(源氏物語 上) 板倉屋書房、明治36年(1903)、170–173頁(コマ87–88)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日