大和物語 第11章(第95段〜第101段)
小倉山のもみぢ葉と季縄の少将
式部卿の宮に通われなくなった御息所と斎宮の便り、九の君の結婚と右衛門督の歌、太政大臣忠平の妻の一周忌と母の喪明けの歌、百人一首で名高い「小倉山峰のもみぢ葉」の由来、そして山吹の歌で帝を招いた季縄の少将と、その死まで、七つの段。
- 1おなじおなじおなじ御御おんやすやすやす所所ところ、、、帝帝みかどおはしまさずなりておはしまさずなりておわしまさずなりて後後のち、、、ののの宮宮みやなむすみなむすみなむすみ奉奉たてまつりりり給給たもうけるうけるうけるををを、、、いかゞありけむいかゞありけむいかがありけむ、、、おはしまさゞりけるおはしまさゞりけるおわしまさざりける頃頃ごろ、、、ののの御許御許もとよりよりより御文御文おおんふみ奉奉たてまつりりり給給たまへりけるにへりけるにえりけるに、、、御御おんやすやすやす所所ところ、、、宮宮みやのおはしまさぬのおはしまさぬのおわしまさぬ事事ことなどなどなど聞聞きこえええ給給たもうてうてうて、、、奧奧おくににに、、、
- 2「「「白山白山しらやまにににふりにしふりにしふりにし雪雪ゆきのあとのあとのあと絕絕たえてえてえて今今いまははは人人ひともかよはずもかよはずもかよわず」」」
- 3となむありけるとなむありけるとなむありける。。。御御おんかへしあれどかへしあれどかえしあれどになしとありになしとありになしとあり。。。
- 4かくてかくてかくて九九くののの君君きみ、、、ののの君君きみにあはせにあはせにあわせ奉奉たてまつりりり給給たもうてけりうてけりうてけり。。。同同おなじころじころじころ御御おんやすやすやす所所ところををを宮宮みやおはしまさずなりにければおはしまさずなりにければおわしまさずなりにければ、、、左左ひだりのおとゞののおとゞののおとどのののの督督かみにおはしけるにおはしけるにおわしける頃頃ごろ、、、御文御文おおんふみ奉奉たてまつりりり給給たまひけりひけりいけり。。。
- 5かのかのかの君君きみ、、、聟聟むことられとられとられ給給たまひぬとひぬといぬと聞聞きききき給給たまひてひていて、、、おとゞみやすおとゞみやすおとどみやす所所ところににに、、、
- 6「「「浪浪なみのののうつかたもうつかたもうつかたも知知しらねどわたつみのらねどわたつみのらねどわたつみのうらやましくもうらやましくもうらやましくも思思おもほゆるかなほゆるかなおゆるかな」」」。。。
- 7おほきおとゞのおほきおとゞのおおきおとどの北北きたののの方方かたうせうせうせ給給たもうてうてうてはははてのてのての月月つきになりてになりてになりて、、、御御おんわざのわざのわざの事事こと急急いそがせがせがせ給給たまふころふころうころ、、、月月つきのおもしろかりけるにのおもしろかりけるにのおもしろかりけるにはしにはしにはしに出出いででで居居い給給たもうてうてうて物物もののいとのいとのいと哀哀あわれにおぼされければにおぼされければにおぼされければ、、、
- 8「「「隱隱かくれにしれにしれにし月月つきはははめぐりてめぐりてめぐりて來來きにしかどかげにもにしかどかげにもにしかどかげにも人人ひとははは見見みえずぞありけるえずぞありけるえずぞありける」」」。。。
- 9同同おなじおほきおとゞじおほきおとゞじおおきおとど、、、左左ひだりのおとゞののおとゞののおとどの御母御母みわわののの君君きみかくれかくれかくれ給給たまひにけるひにけるいにける御御おんはははててて給給たまひにけるころひにけるころいにけるころ、、、亭子亭子ていじのみかどうちにのみかどうちにのみかどうちに御御おんせうそこせうそこしょうそこ聞聞きこえええ給給たもうてうてうてゆるされゆるされゆるされ給給たもうけるうけるうける。。。
- 10さりければおとゞいとさりければおとゞいとさりければおとどいと淸淸きよらにらにらになどなどなど着着き給給たもうてきさいのうてきさいのうてきさいの宮宮みやににに參參まいりりり給給たもうてうてうて、、、「「「院院いんののの御御おんせうそこのいとせうそこのいとしょうそこのいと嬉嬉うれしくしくしく侍侍はべりてりてりて、、、かくかくかく色色いろゆるされゆるされゆるされ侍侍はべるるる」」」ことなどことなどことなど聞聞きこえええ給給たまふふう。。。さてさてさて詠詠よみみみ給給たもうけるうけるうける。。。
- 11「「「ぬぐぬぐぬぐをををのみのみのみ悲悲かなしとしとしと思思おもひしなきひしなきいしなき人人ひとのかたみののかたみののかたみの色色いろはははまたもありけりまたもありけりまたもありけり」」」
- 12とてなむとてなむとてなむ泣泣なききき給給たまひけるひけるいける。。。そのそのその程程ほどはははになむになむになむ物物ものししし給給たもうけるうけるうける。。。
- 13亭子亭子ていじののの帝帝みかどののの御供御供おおんともににに、、、ににに仕仕つこうまつりうまつりうまつり給給たまへるにへるにえるに、、、もみぢもみぢもみじののの山山やまにいろいろいとおもしろかりけるにいろいろいとおもしろかりけるにいろいろいとおもしろかりけるををを限限かぎりなくめでなくめでなくめで給給たもうてうてうて「「「行幸行幸ぎょうこうもあらむにいともあらむにいともあらむにいと興興きょうあるあるある所所ところになむありけるになむありけるになむありける。。。必必かならずずず奏奏そうしてせさせしてせさせしてせさせ奉奉たてまつらむらむらむ」」」などなどなど申申もうししし給給たもうてついでにうてついでにうてついでに、、、
- 14「「「小倉小倉おぐら山山やまみねのもみぞみねのもみぞみねのもみぞ葉葉は心心こころあらばあらばあらば今今いまひとたびのみゆきひとたびのみゆきひとたびのみゆき待待またなむたなむたなむ」」」
- 15となむありけるとなむありけるとなむありける。。。かくてかくてかくて歸歸かえりりり給給たもうてうてうて奏奏そうししし給給たもうければうければうければ、、、いといといと興興きょうあるあるある事事ことなりとてなりとてなりとて大井大井おおいののの行幸行幸みゆきといふといふという事事こと始始はじめめめ給給たもうけるうけるうける。。。
- 16大井大井おおいににに繩繩なわののの少將少將しょうしょうすみけるすみけるすみける頃頃ごろ、、、帝帝みかどのたまうけるのたまうけるのたもうける、、、「「「花花ばなおもしろくなりなばおもしろくなりなばおもしろくなりなば必必かならずずず御覽御覽ごらんせむせむせむ」」」とありけるとありけるとありけるをををおぼしおぼしおぼし忘忘わすれておはしまさゞりければれておはしまさゞりければれておわしまさざりければ、、、少將少將しょうしょう、、、
- 17「「「散散ちりぬればくやしきものりぬればくやしきものりぬればくやしきものををを大井川大井川おおいがわ岸岸きしののの山吹山吹やまぶきけふけふきょうさかりなりさかりなりさかりなり」」」
- 18とありければとありければとありければ、、、いたういたういとう哀哀あわれがりがりがり給給たもうてうてうて、、、急急いそぎおはしましてなむぎおはしましてなむぎおわしましてなむ御覽御覽ごらんじけるじけるじける。。。
- 19同同おなじじじ少將少將しょうしょう、、、病病やまいにいといたうにいといたうにいといとう煩煩わずらひてひていて少少すこししし怠怠おこたりてりてりてうちにうちにうちに參參まいりたりけりりたりけりりたりけり。。。近江近江おうみののの守守かみ公忠公忠きんただののの君君きみののの助助すけにてにてにて藏人藏人くろうどなりけるなりけるなりける頃頃ころなりけりなりけりなりけり。。。そのかもりのそのかもりのそのかもりの助助すけににに逢逢あひてひていて言言いひけるやうひけるやういけるよう「「「みだりごゝちみだりごゝちみだりごこちはははまだまだまだをををこたりこたりこたりはははてねどてねどてねど、、、いとむつかしういとむつかしういとむつかしゅう心心こころもとなくもとなくもとなく侍侍はべればなむればなむればなむ參參まいりつるりつるりつる。。。後後のちははは知知しらねどかくまでらねどかくまでらねどかくまで侍侍はべるるる」」」事事こと、、、「「「罷罷まかりりり出出いでゝあさてばかりまゐりでゝあさてばかりまゐりでてあさてばかりまいり來來こむむむ。。。よきによきによきに奏奏そうししし給給たまへへえ」」」などなどなど言言いひひい置置おきてまかでぬきてまかでぬきてまかでぬ。。。
- 20三日三日みかばかりありてばかりありてばかりありて少將少將しょうしょうののの許許もとよりよりより文文ふみをををなむおこせたりけるなむおこせたりけるなむおこせたりけるををを見見みればればれば、、、
- 21「「「悔悔くやしくぞしくぞしくぞ後後のちににに逢逢あはむとはむとわむと契契ちぎりけるりけるりける今日今日きょうをををかぎりといかぎりといかぎりといはははましものましものましものををを」」」
- 22とのみとのみとのみ書書かきたりきたりきたり。。。いとあさましくていとあさましくていとあさましくて涙涙なみだをををこぼしてこぼしてこぼして使使つかいににに問問とふふう。。。「「「いかゞいかゞいかが物物ものししし給給たまふふう」」」ととと問問とへばへばへば使使つかいももも「「「いといといと弱弱よわくなりくなりくなり給給たまひにたりひにたりいにたり」」」といひてといひてといいて泣泣なくくくををを聞聞きくにくにくに、、、更更さらにもにもにも聞聞きこえずえずえず。。。
- 23「「「みづからみづからみずから唯今唯今ただいま參參まいりてりてりて」」」ととと言言いひてひていて里里さとににに車車くるまとりにやりてとりにやりてとりにやりて待待まつつつほどいとほどいとほどいと心心こころもとなしもとなしもとなし。。。ののの御門御門みかどににに出出いででで立立たちてちてちて、、、待待まちつけてちつけてちつけて乘乘のりてりてりて馳馳はせゆくせゆくせゆく。。。
- 24五條五條ごじょうにぞにぞにぞ少將少將しょうしょうののの家家いえあるにいきつきてあるにいきつきてあるにいきつきて見見みればればれば、、、いといみじういといみじういといみじゅう騒騒さわぎのゝしりてぎのゝしりてぎののしりて門門かどさしつさしつさしつ。。。死死しぬるなりけりぬるなりけりぬるなりけり。。。せうそこいひせうそこいひしょうそこいい入入いるれどるれどるれど何何なにのかひなしのかひなしのかいなし。。。
- 25いみじういみじういみじゅう悲悲かなしくてしくてしくて泣泣なくくく泣泣なくくく歸歸かえりにけりりにけりりにけり。。。かくてありけるとかくてありけるとかくてありけるとをををかんのくだりかんのくだりかんのくだり奏奏そうしければしければしければ、、、帝帝みかどももも限限かぎりなくなくなく哀哀あわれがりがりがり給給たまひけるひけるいける。。。
現代語訳
〔第95段〕同じ右大臣家の御息所(定方の娘、醍醐天皇の女御)のもとに、帝が崩御なさってのち、式部卿の宮(敦実親王)が通っていらっしゃったが、どうしたことか、おいでにならなくなったころ、斎宮から御手紙をおさし上げになったので、御息所は、宮がおいでにならないことなどを申し上げなさって、手紙の終わりに、
「白山に降り積もった雪に足跡が絶えるように、今は越路の人――通ってくる人もいません」
とあった。御返事はあったが、もとの本にはないとある。
〔第96段〕こうして九の君を、侍従の君(師尹)にめあわせ申し上げなさった。同じころ、御息所のもとにも宮がおいでにならなくなっていたので、左大臣(実頼)が右衛門督でいらっしゃったころ、御息所にお手紙をさし上げなさった。その君は、侍従の君が婿として迎えられなさったとお聞きになって、大臣(定方)の御息所に、
「波の打ち寄せる方もわかりませんが、海の浦――あなたのところが、うらやましく思われることです」。
〔第97段〕太政大臣(藤原忠平)の北の方がお亡くなりになって、一周忌の月になって、法事の準備を急いでいらっしゃるころ、月が美しかったので、端近くに出ていらっしゃって、物事がたいへんしみじみと思われなさったので、
「隠れてしまった月は、めぐって再び来たけれど、その光にも、亡き人の姿は見えないことです」。
〔第98段〕同じ太政大臣は、左大臣(実頼)の御母である菅原の君がお亡くなりになって、その喪服を脱ぎなさったころ、亭子の帝(宇多法皇)が、内裏にお便りを申し上げなさって、禁色を許されなさった。そこで大臣は、たいへん美しく蘇芳襲などをお召しになって、后の宮(穏子)のもとに参上なさって、「院のお便りがたいへんうれしゅうございまして、このように色を許されました」ことなどを申し上げなさる。そうしておよみになった歌、
「喪服を脱ぐことばかりを悲しいと思っていたが、亡き人の形見の色は、また別にあったのだ」
と言ってお泣きになった。そのころは中弁でいらっしゃった。
〔第99段〕亭子の帝(宇多法皇)のお供として、太政大臣が大井にお仕えなさった時に、小倉山の紅葉が色とりどりにたいへん美しかったのを、限りなくおほめになって、「行幸もあってしかるべき、たいへん趣のある所であった。きっと奏上して、行幸をおさせ申し上げよう」などと申し上げなさって、そのついでに、
「小倉山の峰の紅葉よ、もし心があるなら、もう一度の行幸を、散らずに待っていてほしい」
とよんだ。こうして帰りなさって奏上なさったところ、たいへん趣のあることだといって、大井の行幸ということを始めなさった。
〔第100段〕大井に季縄の少将が住んでいたころ、帝(醍醐天皇)が「花が美しくなったら、きっと見に行こう」とおっしゃったのを、お忘れになっておいでにならなかったので、少将が、
「散ってしまったら悔やまれるでしょうに。大井川の岸の山吹は、今日が盛りです」
とあったので、帝はたいへん感じ入りなさって、急いでおいでになってご覧になった。
〔第101段〕同じ少将が、病気でたいへんひどく苦しんで、少しよくなって内裏に参上した。近江守公忠の君が掃部助で蔵人であったころのことである。少将はその掃部助に会って、「病気はまだすっかりよくはなっていないが、とても気がかりでじっとしていられないので参ったのです。この先はわかりませんが、ここまでは来られました」と言い、「退出して、あさってごろ参りましょう。よろしく奏上してください」などと言い置いて退出した。三日ほどたって、少将のもとから手紙をよこしたのを見ると、
「悔やまれることだ。あとで逢おうと約束したことよ。今日が最後だと言えばよかったのに」
とだけ書いてあった。たいへん驚いて、涙をこぼして使いに尋ねる。「どうしていらっしゃるか」と尋ねると、使いも「たいへん弱っておしまいになりました」と言って泣くのを聞くと、もう何も言えない。「自分ですぐに参ります」と言って、里に車を取りにやって待つ間も、たいへん気がもめる。近衛の御門に出て立って、車を待ち受けて乗って走らせて行く。五条に少将の家があるのに行き着いて見ると、ひどく騒ぎ立てていて、門を閉ざしている。亡くなったのであった。案内を請うても何のかいもない。たいへん悲しくて、泣く泣く帰った。こうして、あったことを、事の次第として奏上したところ、帝も限りなく悲しがりなさった。
意訳
〔第95・96段〕醍醐天皇の崩御後、女御だった御息所は敦実親王を迎えたが、親王の足は遠のいた。斎宮への手紙の終わりに「雪に足跡が絶えた白山のように、通う人もない」と書き添えたのは、親しい相手だからこその打ち明け話である。一方、妹の九の君は、師尹を婿に迎える。右衛門督の実頼は「浦やましい」とよんで、その縁組をうらやんでみせた。
〔第97・98段〕藤原忠平の家族を悼む二首。亡き妻の一周忌の月を見て「月はめぐって来ても、人は見えない」と嘆き、母の喪が明けて晴れの衣を許されると「喪服を脱ぐことだけが悲しいと思っていたのに、色のある衣も母の形見だった」と泣く。宇多法皇の計らいで禁色を許されたことが、かえって亡き母を思い出させたのである。
〔第99段〕百人一首の「小倉山峰のもみぢ葉心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ」の由来を語る段。法皇が感心した小倉山の紅葉を、醍醐天皇にも見せたい――忠平は紅葉に「散らずに待っていてくれ」と呼びかけた。この歌がきっかけで、大井川への行幸が始まったという。
〔第100・101段〕季縄の少将の二つの話。花見の約束を忘れた帝を「山吹は今日が盛り」の一首で招き寄せた少将は、病をおして参内し、「あさって、また来る」と言い残して帰る。三日後に届いたのは「あとで逢おうと約束したのが悔やまれる、今日が最後と言えばよかった」という歌だった。駆けつけた公忠が見たのは、門を閉ざした喪の家であった。何気ない約束が永遠の別れになる、胸をうつ話である。
語釈・文法注
- おなじおほいとのゝ御やす所
- 三条右大臣藤原定方の娘、能子。醍醐天皇の女御。天皇の崩御後、敦実親王と結婚した。
- 式部卿の宮
- 宇多天皇の皇子、敦実親王(893〜967)。第8段などの敦慶親王(故式部卿の宮)の弟。
- 齋宮
- 雅子内親王か。第93段参照。
- こしぢ
- 越路。北陸道。「越し(来し)」を掛け、通って来る人をいう。
- 本になしとあり
- 書写のもとにした本には、その返歌は書かれていないとある、という注記的な言葉。
- 侍從の君
- 藤原師尹。第94段の「左兵衛督の君」。
- 右衞門の督
- 藤原実頼(900〜970)。忠平の子。のち関白・太政大臣。
- おほきおとゞ
- 太政大臣藤原忠平(880〜949)。貞信公。百人一首に「小倉山峰のもみぢ葉」がある。
- 御はて
- 一周忌。
- 菅原の君
- 実頼の母。宇多天皇の皇女、源順子とする説がある。
- 御服
- 喪服。服喪の期間。
- 色ゆるされ
- 禁色(深紫・深緋など、身分によって着ることを禁じられた色)を着ることを許されること。
- すはうがさね
- 蘇芳襲。表が蘇芳色の衣の重ね。
- 中辨
- 太政官の弁官の一つ。
- 大井
- 大堰川(大井川)のほとり。今の京都市右京区嵯峨・嵐山のあたり。
- 小倉山
- 大堰川の北岸の山。紅葉の名所。
- 季繩の少將
- 藤原季縄。右近の父(第81段)。
- 掃部の助
- 掃部寮(宮中の清掃や設営を担当)の次官。
- 近衞の御門
- 内裏の外郭の門の一つ、陽明門。
文法
- 御かへしあれど本になしとあり
- 物語を書き写した人の注記がそのまま本文に入ったものと考えられる。
- 聟とられ給ひぬ
- 「聟とる」は婿として迎えること。
- 浪のうつかたも知らねど
- 「かた」に「方」と「潟」を響かせる。
- 見えずぞありける
- 「ぞ」の結びで連体形「ける」。
- 色ゆるされ侍る」ことなど
- 底本は「」」を「侍る」のあとに置き、「ことなど」までを地の文とする。
- みねのもみぞ葉
- 底本は「もみぞ葉」と刷る。「もみぢ葉」の誤植であろう。
- 待たなむ
- 「なむ」は他にあつらえ望む終助詞。待っていてほしい。
- なりなば
- 「な」は完了の「ぬ」の未然形。なったならば。
- をこたりはてねど
- 「をこたる」は病気がよくなる。すっかりよくはなっていないが。
- 後は知らねどかくまで侍る」事
- 底本は「侍る」のあとに「」」を置き、続く「事」を地の文とする。
- いはましものを
- 「まし」は反実仮想。言えばよかったのに。
- ありけるとを
- 底本は「ありけるとを」と刷る。「ありけることを」の「こ」が落ちたものか。
- かんのくだり
- 「勘のくだり」で、事の次第の意か。
和歌
白山に ふりにし雪の あと絕えて 今はこしぢの 人もかよはず
- 詠者
- 御息所(藤原能子)
- 状況
- 敦実親王が通わなくなったころ、斎宮への手紙の終わりに。
修辞
- 掛詞
- 「こしぢ」に「越路」と「来し路」を掛ける。
- 縁語
- 「白山」「雪」「越路」。
浪のうつ かたも知らねど わたつみの うらやましくも 思ほゆるかな
- 詠者
- 藤原実頼
- 状況
- 九の君が師尹を婿に迎えたと聞いて、御息所に。
修辞
- 掛詞
- 「うら」に「浦」と「うらやまし」を掛ける。
- 縁語
- 「浪」「わたつみ」「浦」。
隱れにし 月はめぐりて 來にしかど かげにも人は 見えずぞありける
- 詠者
- 藤原忠平
- 状況
- 北の方の一周忌の月、月を見て。
修辞
- 掛詞
- 「月」に天体の「月」と暦の「月(一周忌の月)」を掛ける。
ぬぐをのみ 悲しと思ひし なき人の かたみの色は またもありけり
- 詠者
- 藤原忠平
- 状況
- 母の喪が明け、禁色を許されて。
小倉山 みねのもみぞ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ
- 詠者
- 藤原忠平
- 状況
- 宇多法皇のお供で大井に行き、小倉山の紅葉を見て。『拾遺和歌集』雑秋に入り、百人一首にも選ばれた。
修辞
- 擬人法
- 紅葉に「心あらば」と呼びかける。
- 掛詞
- 「みゆき」に「行幸」と「深雪」を響かせるとする説もある。
散りぬれば くやしきものを 大井川 岸の山吹 けふさかりなり
- 詠者
- 藤原季縄
- 状況
- 花見の約束を忘れた醍醐天皇に。
悔しくぞ 後に逢はむと 契りける 今日をかぎりと いはましものを
- 詠者
- 藤原季縄
- 状況
- 病をおして参内した三日後、死を前にして公忠に。
修辞
- 反実仮想
- 「まし」で、言えばよかったのにと悔やむ。
解説
第99段は、百人一首の藤原忠平(貞信公)の歌「小倉山峰のもみぢ葉心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ」の由来を語る段として名高い。宇多法皇の大堰川への御幸の際、小倉山の紅葉に感動した法皇が、醍醐天皇にも見せたいと言ったのを受けて、忠平がよんだ歌とされる。『拾遺和歌集』の詞書にも同じ事情が記されている。この段では、この歌がきっかけで「大井の行幸」が始まったと結ばれている。
第101段の藤原季縄の死の話は、『大和物語』の前半の中でも特に印象深い段の一つである。病み上がりで参内し、「あさってまた来る」と言い残した人が、三日後には死の床から歌を送ってくる。駆けつけた源公忠の動きが、「車を取りにやる」「近衛の御門で待ち受ける」「馳せ行く」と短い文で重ねられ、閉ざされた門の前で終わる。季縄は第81段の右近の父である。
第95〜98段は、藤原定方・忠平・実頼など、当時の政界の中心にいた人々の家族の出来事を語る。醍醐天皇の崩御(930年)後の宮廷で、女御の再婚、娘の縁組、喪と喪明けなどが、歌とともに記録されている。第95段の「御かへしあれど本になしとあり」という言葉は、この物語が書き写されていく過程で加えられた注記と考えられ、作品の成り立ちを知る手がかりにもなっている。
関連
出典
- 底本
- 丸岡桂・松下大三郎編『国文大観』物語部四 雑下(大和物語) 板倉屋書房、明治36年(1903)、28〜30頁(コマ18–19)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日