古典ライブラリー

大和物語 第11章(第95段〜第101段)

小倉山のもみぢ葉と季縄の少将

式部卿の宮に通われなくなった御息所と斎宮の便り、九の君の結婚と右衛門督の歌、太政大臣忠平の妻の一周忌と母の喪明けの歌、百人一首で名高い「小倉山峰のもみぢ葉」の由来、そして山吹の歌で帝を招いた季縄の少将と、その死まで、七つの段。

  1. 1おなじおなじおなじ御おん御おんおんやすやすやす所ところ所ところところ、、、帝みかど帝みかどみかどおはしまさずなりておはしまさずなりておわしまさずなりて後のち後のちのち、、、ののの宮みや宮みやみやなむすみなむすみなむすみ奉たてまつ奉たてまつたてまつりりり給たま給たまたもうけるうけるうけるををを、、、いかゞありけむいかゞありけむいかがありけむ、、、おはしまさゞりけるおはしまさゞりけるおわしまさざりける頃ごろ頃ごろごろ、、、ののの御許もと御許もともとよりよりより御文おほんふみ御文おほんふみおおんふみ奉たてまつ奉たてまつたてまつりりり給たま給たまたまへりけるにへりけるにえりけるに、、、御おん御おんおんやすやすやす所ところ所ところところ、、、宮みや宮みやみやのおはしまさぬのおはしまさぬのおわしまさぬ事こと事ことことなどなどなど聞きこ聞きこきこえええ給たま給たまたもうてうてうて、、、奧おく奧おくおくににに、、、
  2. 2「「「白山しらやま白山しらやましらやまにににふりにしふりにしふりにし雪ゆき雪ゆきゆきのあとのあとのあと絕た絕たたえてえてえて今いま今いまいまははは人ひと人ひとひともかよはずもかよはずもかよわず」」」
  3. 3となむありけるとなむありけるとなむありける。。。御おん御おんおんかへしあれどかへしあれどかえしあれどになしとありになしとありになしとあり。。。
  4. 4かくてかくてかくて九く九くくののの君きみ君きみきみ、、、ののの君きみ君きみきみにあはせにあはせにあわせ奉たてまつ奉たてまつたてまつりりり給たま給たまたもうてけりうてけりうてけり。。。同おな同おなおなじころじころじころ御おん御おんおんやすやすやす所ところ所ところところををを宮みや宮みやみやおはしまさずなりにければおはしまさずなりにければおわしまさずなりにければ、、、左ひだり左ひだりひだりのおとゞののおとゞののおとどのののの督かみ督かみかみにおはしけるにおはしけるにおわしける頃ごろ頃ごろごろ、、、御文おほんふみ御文おほんふみおおんふみ奉たてまつ奉たてまつたてまつりりり給たま給たまたまひけりひけりいけり。。。
  5. 5かのかのかの君きみ君きみきみ、、、聟むこ聟むこむことられとられとられ給たま給たまたまひぬとひぬといぬと聞き聞ききききき給たま給たまたまひてひていて、、、おとゞみやすおとゞみやすおとどみやす所ところ所ところところににに、、、
  6. 6「「「浪なみ浪なみなみのののうつかたもうつかたもうつかたも知し知ししらねどわたつみのらねどわたつみのらねどわたつみのうらやましくもうらやましくもうらやましくも思おも思おもおもほゆるかなほゆるかなおゆるかな」」」。。。
  7. 7おほきおとゞのおほきおとゞのおおきおとどの北きた北きたきたののの方かた方かたかたうせうせうせ給たま給たまたもうてうてうてはははてのてのての月つき月つきつきになりてになりてになりて、、、御おん御おんおんわざのわざのわざの事こと事ことこと急いそ急いそいそがせがせがせ給たま給たまたまふころふころうころ、、、月つき月つきつきのおもしろかりけるにのおもしろかりけるにのおもしろかりけるにはしにはしにはしに出い出いいででで居ゐ居ゐい給たま給たまたもうてうてうて物もの物ものもののいとのいとのいと哀あはれ哀あはれあわれにおぼされければにおぼされければにおぼされければ、、、
  8. 8「「「隱かく隱かくかくれにしれにしれにし月つき月つきつきはははめぐりてめぐりてめぐりて來き來ききにしかどかげにもにしかどかげにもにしかどかげにも人ひと人ひとひとははは見み見みみえずぞありけるえずぞありけるえずぞありける」」」。。。
  9. 9同おな同おなおなじおほきおとゞじおほきおとゞじおおきおとど、、、左ひだり左ひだりひだりのおとゞののおとゞののおとどの御母みはは御母みははみわわののの君きみ君きみきみかくれかくれかくれ給たま給たまたまひにけるひにけるいにける御おん御おんおんはははててて給たま給たまたまひにけるころひにけるころいにけるころ、、、亭子ていじ亭子ていじていじのみかどうちにのみかどうちにのみかどうちに御おん御おんおんせうそこせうそこしょうそこ聞きこ聞きこきこえええ給たま給たまたもうてうてうてゆるされゆるされゆるされ給たま給たまたもうけるうけるうける。。。
  10. 10さりければおとゞいとさりければおとゞいとさりければおとどいと淸きよ淸きよきよらにらにらになどなどなど着き着きき給たま給たまたもうてきさいのうてきさいのうてきさいの宮みや宮みやみやににに參まゐ參まゐまいりりり給たま給たまたもうてうてうて、、、「「「院ゐん院ゐんいんののの御おん御おんおんせうそこのいとせうそこのいとしょうそこのいと嬉うれ嬉うれうれしくしくしく侍はべ侍はべはべりてりてりて、、、かくかくかく色いろ色いろいろゆるされゆるされゆるされ侍はべ侍はべはべるるる」」」ことなどことなどことなど聞きこ聞きこきこえええ給たま給たまたまふふう。。。さてさてさて詠よ詠よよみみみ給たま給たまたもうけるうけるうける。。。
  11. 11「「「ぬぐぬぐぬぐをををのみのみのみ悲かな悲かなかなしとしとしと思おも思おもおもひしなきひしなきいしなき人ひと人ひとひとのかたみののかたみののかたみの色いろ色いろいろはははまたもありけりまたもありけりまたもありけり」」」
  12. 12とてなむとてなむとてなむ泣な泣ななききき給たま給たまたまひけるひけるいける。。。そのそのその程ほど程ほどほどはははになむになむになむ物もの物ものものししし給たま給たまたもうけるうけるうける。。。
  13. 13亭子ていじ亭子ていじていじののの帝みかど帝みかどみかどののの御供おほんとも御供おほんともおおんともににに、、、ににに仕つか仕つかつこうまつりうまつりうまつり給たま給たまたまへるにへるにえるに、、、もみぢもみぢもみじののの山やま山やまやまにいろいろいとおもしろかりけるにいろいろいとおもしろかりけるにいろいろいとおもしろかりけるををを限かぎり限かぎりかぎりなくめでなくめでなくめで給たま給たまたもうてうてうて「「「行幸ぎやうがう行幸ぎやうがうぎょうこうもあらむにいともあらむにいともあらむにいと興きよう興きようきょうあるあるある所ところ所ところところになむありけるになむありけるになむありける。。。必かなら必かならかならずずず奏そう奏そうそうしてせさせしてせさせしてせさせ奉たてまつ奉たてまつたてまつらむらむらむ」」」などなどなど申まう申まうもうししし給たま給たまたもうてついでにうてついでにうてついでに、、、
  14. 14「「「小倉をぐら小倉をぐらおぐら山やま山やまやまみねのもみぞみねのもみぞみねのもみぞ葉は葉はは心こころ心こころこころあらばあらばあらば今いま今いまいまひとたびのみゆきひとたびのみゆきひとたびのみゆき待ま待ままたなむたなむたなむ」」」
  15. 15となむありけるとなむありけるとなむありける。。。かくてかくてかくて歸かへ歸かへかえりりり給たま給たまたもうてうてうて奏そう奏そうそうししし給たま給たまたもうければうければうければ、、、いといといと興きよう興きようきょうあるあるある事こと事ことことなりとてなりとてなりとて大井おほゐ大井おほゐおおいののの行幸みゆき行幸みゆきみゆきといふといふという事こと事ことこと始はじ始はじはじめめめ給たま給たまたもうけるうけるうける。。。
  16. 16大井おほゐ大井おほゐおおいににに繩なは繩なはなわののの少將せうしやう少將せうしやうしょうしょうすみけるすみけるすみける頃ごろ頃ごろごろ、、、帝みかど帝みかどみかどのたまうけるのたまうけるのたもうける、、、「「「花ばな花ばなばなおもしろくなりなばおもしろくなりなばおもしろくなりなば必かなら必かならかならずずず御覽ごらん御覽ごらんごらんせむせむせむ」」」とありけるとありけるとありけるをををおぼしおぼしおぼし忘わす忘わすわすれておはしまさゞりければれておはしまさゞりければれておわしまさざりければ、、、少將せうしやう少將せうしやうしょうしょう、、、
  17. 17「「「散ち散ちちりぬればくやしきものりぬればくやしきものりぬればくやしきものををを大井川おほゐがは大井川おほゐがはおおいがわ岸きし岸きしきしののの山吹やまぶき山吹やまぶきやまぶきけふけふきょうさかりなりさかりなりさかりなり」」」
  18. 18とありければとありければとありければ、、、いたういたういとう哀あはれ哀あはれあわれがりがりがり給たま給たまたもうてうてうて、、、急いそ急いそいそぎおはしましてなむぎおはしましてなむぎおわしましてなむ御覽ごらん御覽ごらんごらんじけるじけるじける。。。
  19. 19同おな同おなおなじじじ少將せうしやう少將せうしやうしょうしょう、、、病やまひ病やまひやまいにいといたうにいといたうにいといとう煩わづら煩わづらわずらひてひていて少すこ少すこすこししし怠おこた怠おこたおこたりてりてりてうちにうちにうちに參まゐ參まゐまいりたりけりりたりけりりたりけり。。。近江あふみ近江あふみおうみののの守かみ守かみかみ公忠きんたゞ公忠きんたゞきんただののの君きみ君きみきみののの助すけ助すけすけにてにてにて藏人くらうど藏人くらうどくろうどなりけるなりけるなりける頃ころ頃ころころなりけりなりけりなりけり。。。そのかもりのそのかもりのそのかもりの助すけ助すけすけににに逢あ逢ああひてひていて言い言いいひけるやうひけるやういけるよう「「「みだりごゝちみだりごゝちみだりごこちはははまだまだまだをををこたりこたりこたりはははてねどてねどてねど、、、いとむつかしういとむつかしういとむつかしゅう心こころ心こころこころもとなくもとなくもとなく侍はべ侍はべはべればなむればなむればなむ參まゐ參まゐまいりつるりつるりつる。。。後のち後のちのちははは知し知ししらねどかくまでらねどかくまでらねどかくまで侍はべ侍はべはべるるる」」」事こと事ことこと、、、「「「罷まか罷まかまかりりり出い出いいでゝあさてばかりまゐりでゝあさてばかりまゐりでてあさてばかりまいり來こ來ここむむむ。。。よきによきによきに奏そう奏そうそうししし給たま給たまたまへへえ」」」などなどなど言い言いいひひい置お置おおきてまかでぬきてまかでぬきてまかでぬ。。。
  20. 20三日みか三日みかみかばかりありてばかりありてばかりありて少將せうしやう少將せうしやうしょうしょうののの許もと許もともとよりよりより文ふみ文ふみふみをををなむおこせたりけるなむおこせたりけるなむおこせたりけるををを見み見みみればればれば、、、
  21. 21「「「悔くや悔くやくやしくぞしくぞしくぞ後のち後のちのちににに逢あ逢ああはむとはむとわむと契ちぎ契ちぎちぎりけるりけるりける今日けふ今日けふきょうをををかぎりといかぎりといかぎりといはははましものましものましものををを」」」
  22. 22とのみとのみとのみ書か書かかきたりきたりきたり。。。いとあさましくていとあさましくていとあさましくて涙なみだ涙なみだなみだをををこぼしてこぼしてこぼして使つかひ使つかひつかいににに問と問ととふふう。。。「「「いかゞいかゞいかが物もの物ものものししし給たま給たまたまふふう」」」ととと問と問ととへばへばへば使つかひ使つかひつかいももも「「「いといといと弱よわ弱よわよわくなりくなりくなり給たま給たまたまひにたりひにたりいにたり」」」といひてといひてといいて泣な泣ななくくくををを聞き聞ききくにくにくに、、、更さら更さらさらにもにもにも聞きこ聞きこきこえずえずえず。。。
  23. 23「「「みづからみづからみずから唯今ただいま唯今ただいまただいま參まゐ參まゐまいりてりてりて」」」ととと言い言いいひてひていて里さと里さとさとににに車くるま車くるまくるまとりにやりてとりにやりてとりにやりて待ま待ままつつつほどいとほどいとほどいと心こころ心こころこころもとなしもとなしもとなし。。。ののの御門みかど御門みかどみかどににに出い出いいででで立た立たたちてちてちて、、、待ま待ままちつけてちつけてちつけて乘の乘ののりてりてりて馳は馳ははせゆくせゆくせゆく。。。
  24. 24五條ごでう五條ごでうごじょうにぞにぞにぞ少將せうしやう少將せうしやうしょうしょうののの家いへ家いへいえあるにいきつきてあるにいきつきてあるにいきつきて見み見みみればればれば、、、いといみじういといみじういといみじゅう騒さわ騒さわさわぎのゝしりてぎのゝしりてぎののしりて門かど門かどかどさしつさしつさしつ。。。死し死ししぬるなりけりぬるなりけりぬるなりけり。。。せうそこいひせうそこいひしょうそこいい入い入いいるれどるれどるれど何なに何なになにのかひなしのかひなしのかいなし。。。
  25. 25いみじういみじういみじゅう悲かな悲かなかなしくてしくてしくて泣な泣ななくくく泣な泣ななくくく歸かへ歸かへかえりにけりりにけりりにけり。。。かくてありけるとかくてありけるとかくてありけるとをををかんのくだりかんのくだりかんのくだり奏そう奏そうそうしければしければしければ、、、帝みかど帝みかどみかどももも限かぎり限かぎりかぎりなくなくなく哀あはれ哀あはれあわれがりがりがり給たま給たまたまひけるひけるいける。。。

引用の仕方

レポート・論文で引用する場合の表記例です。行番号を選んでから開くと、その行へのリンクになります。

現代語訳

〔第95段〕同じ右大臣家の御息所(定方の娘、醍醐天皇の女御)のもとに、帝が崩御なさってのち、式部卿の宮(敦実親王)が通っていらっしゃったが、どうしたことか、おいでにならなくなったころ、斎宮から御手紙をおさし上げになったので、御息所は、宮がおいでにならないことなどを申し上げなさって、手紙の終わりに、

「白山に降り積もった雪に足跡が絶えるように、今は越路の人――通ってくる人もいません」

とあった。御返事はあったが、もとの本にはないとある。

〔第96段〕こうして九の君を、侍従の君(師尹)にめあわせ申し上げなさった。同じころ、御息所のもとにも宮がおいでにならなくなっていたので、左大臣(実頼)が右衛門督でいらっしゃったころ、御息所にお手紙をさし上げなさった。その君は、侍従の君が婿として迎えられなさったとお聞きになって、大臣(定方)の御息所に、

「波の打ち寄せる方もわかりませんが、海の浦――あなたのところが、うらやましく思われることです」。

〔第97段〕太政大臣(藤原忠平)の北の方がお亡くなりになって、一周忌の月になって、法事の準備を急いでいらっしゃるころ、月が美しかったので、端近くに出ていらっしゃって、物事がたいへんしみじみと思われなさったので、

「隠れてしまった月は、めぐって再び来たけれど、その光にも、亡き人の姿は見えないことです」。

〔第98段〕同じ太政大臣は、左大臣(実頼)の御母である菅原の君がお亡くなりになって、その喪服を脱ぎなさったころ、亭子の帝(宇多法皇)が、内裏にお便りを申し上げなさって、禁色を許されなさった。そこで大臣は、たいへん美しく蘇芳襲などをお召しになって、后の宮(穏子)のもとに参上なさって、「院のお便りがたいへんうれしゅうございまして、このように色を許されました」ことなどを申し上げなさる。そうしておよみになった歌、

「喪服を脱ぐことばかりを悲しいと思っていたが、亡き人の形見の色は、また別にあったのだ」

と言ってお泣きになった。そのころは中弁でいらっしゃった。

〔第99段〕亭子の帝(宇多法皇)のお供として、太政大臣が大井にお仕えなさった時に、小倉山の紅葉が色とりどりにたいへん美しかったのを、限りなくおほめになって、「行幸もあってしかるべき、たいへん趣のある所であった。きっと奏上して、行幸をおさせ申し上げよう」などと申し上げなさって、そのついでに、

「小倉山の峰の紅葉よ、もし心があるなら、もう一度の行幸を、散らずに待っていてほしい」

とよんだ。こうして帰りなさって奏上なさったところ、たいへん趣のあることだといって、大井の行幸ということを始めなさった。

〔第100段〕大井に季縄の少将が住んでいたころ、帝(醍醐天皇)が「花が美しくなったら、きっと見に行こう」とおっしゃったのを、お忘れになっておいでにならなかったので、少将が、

「散ってしまったら悔やまれるでしょうに。大井川の岸の山吹は、今日が盛りです」

とあったので、帝はたいへん感じ入りなさって、急いでおいでになってご覧になった。

〔第101段〕同じ少将が、病気でたいへんひどく苦しんで、少しよくなって内裏に参上した。近江守公忠の君が掃部助で蔵人であったころのことである。少将はその掃部助に会って、「病気はまだすっかりよくはなっていないが、とても気がかりでじっとしていられないので参ったのです。この先はわかりませんが、ここまでは来られました」と言い、「退出して、あさってごろ参りましょう。よろしく奏上してください」などと言い置いて退出した。三日ほどたって、少将のもとから手紙をよこしたのを見ると、

「悔やまれることだ。あとで逢おうと約束したことよ。今日が最後だと言えばよかったのに」

とだけ書いてあった。たいへん驚いて、涙をこぼして使いに尋ねる。「どうしていらっしゃるか」と尋ねると、使いも「たいへん弱っておしまいになりました」と言って泣くのを聞くと、もう何も言えない。「自分ですぐに参ります」と言って、里に車を取りにやって待つ間も、たいへん気がもめる。近衛の御門に出て立って、車を待ち受けて乗って走らせて行く。五条に少将の家があるのに行き着いて見ると、ひどく騒ぎ立てていて、門を閉ざしている。亡くなったのであった。案内を請うても何のかいもない。たいへん悲しくて、泣く泣く帰った。こうして、あったことを、事の次第として奏上したところ、帝も限りなく悲しがりなさった。

意訳

〔第95・96段〕醍醐天皇の崩御後、女御だった御息所は敦実親王を迎えたが、親王の足は遠のいた。斎宮への手紙の終わりに「雪に足跡が絶えた白山のように、通う人もない」と書き添えたのは、親しい相手だからこその打ち明け話である。一方、妹の九の君は、師尹を婿に迎える。右衛門督の実頼は「浦やましい」とよんで、その縁組をうらやんでみせた。

〔第97・98段〕藤原忠平の家族を悼む二首。亡き妻の一周忌の月を見て「月はめぐって来ても、人は見えない」と嘆き、母の喪が明けて晴れの衣を許されると「喪服を脱ぐことだけが悲しいと思っていたのに、色のある衣も母の形見だった」と泣く。宇多法皇の計らいで禁色を許されたことが、かえって亡き母を思い出させたのである。

〔第99段〕百人一首の「小倉山峰のもみぢ葉心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ」の由来を語る段。法皇が感心した小倉山の紅葉を、醍醐天皇にも見せたい――忠平は紅葉に「散らずに待っていてくれ」と呼びかけた。この歌がきっかけで、大井川への行幸が始まったという。

〔第100・101段〕季縄の少将の二つの話。花見の約束を忘れた帝を「山吹は今日が盛り」の一首で招き寄せた少将は、病をおして参内し、「あさって、また来る」と言い残して帰る。三日後に届いたのは「あとで逢おうと約束したのが悔やまれる、今日が最後と言えばよかった」という歌だった。駆けつけた公忠が見たのは、門を閉ざした喪の家であった。何気ない約束が永遠の別れになる、胸をうつ話である。

語釈・文法注

おなじおほいとのゝ御やす所
三条右大臣藤原定方の娘、能子。醍醐天皇の女御。天皇の崩御後、敦実親王と結婚した。
式部卿の宮
宇多天皇の皇子、敦実親王(893〜967)。第8段などの敦慶親王(故式部卿の宮)の弟。
齋宮
雅子内親王か。第93段参照。
こしぢ
越路。北陸道。「越し(来し)」を掛け、通って来る人をいう。
本になしとあり
書写のもとにした本には、その返歌は書かれていないとある、という注記的な言葉。
侍從の君
藤原師尹。第94段の「左兵衛督の君」。
右衞門の督
藤原実頼(900〜970)。忠平の子。のち関白・太政大臣。
おほきおとゞ
太政大臣藤原忠平(880〜949)。貞信公。百人一首に「小倉山峰のもみぢ葉」がある。
御はて
一周忌。
菅原の君
実頼の母。宇多天皇の皇女、源順子とする説がある。
御服
喪服。服喪の期間。
色ゆるされ
禁色(深紫・深緋など、身分によって着ることを禁じられた色)を着ることを許されること。
すはうがさね
蘇芳襲。表が蘇芳色の衣の重ね。
中辨
太政官の弁官の一つ。
大井
大堰川(大井川)のほとり。今の京都市右京区嵯峨・嵐山のあたり。
小倉山
大堰川の北岸の山。紅葉の名所。
季繩の少將
藤原季縄。右近の父(第81段)。
掃部の助
掃部寮(宮中の清掃や設営を担当)の次官。
近衞の御門
内裏の外郭の門の一つ、陽明門。

文法

御かへしあれど本になしとあり
物語を書き写した人の注記がそのまま本文に入ったものと考えられる。
聟とられ給ひぬ
「聟とる」は婿として迎えること。
浪のうつかたも知らねど
「かた」に「方」と「潟」を響かせる。
見えずぞありける
「ぞ」の結びで連体形「ける」。
色ゆるされ侍る」ことなど
底本は「」」を「侍る」のあとに置き、「ことなど」までを地の文とする。
みねのもみぞ葉
底本は「もみぞ葉」と刷る。「もみぢ葉」の誤植であろう。
待たなむ
「なむ」は他にあつらえ望む終助詞。待っていてほしい。
なりなば
「な」は完了の「ぬ」の未然形。なったならば。
をこたりはてねど
「をこたる」は病気がよくなる。すっかりよくはなっていないが。
後は知らねどかくまで侍る」事
底本は「侍る」のあとに「」」を置き、続く「事」を地の文とする。
いはましものを
「まし」は反実仮想。言えばよかったのに。
ありけるとを
底本は「ありけるとを」と刷る。「ありけることを」の「こ」が落ちたものか。
かんのくだり
「勘のくだり」で、事の次第の意か。

和歌

白山に ふりにし雪の あと絕えて 今はこしぢの 人もかよはず

詠者
御息所(藤原能子)
状況
敦実親王が通わなくなったころ、斎宮への手紙の終わりに。

修辞

掛詞
「こしぢ」に「越路」と「来し路」を掛ける。
縁語
「白山」「雪」「越路」。

浪のうつ かたも知らねど わたつみの うらやましくも 思ほゆるかな

詠者
藤原実頼
状況
九の君が師尹を婿に迎えたと聞いて、御息所に。

修辞

掛詞
「うら」に「浦」と「うらやまし」を掛ける。
縁語
「浪」「わたつみ」「浦」。

隱れにし 月はめぐりて 來にしかど かげにも人は 見えずぞありける

詠者
藤原忠平
状況
北の方の一周忌の月、月を見て。

修辞

掛詞
「月」に天体の「月」と暦の「月(一周忌の月)」を掛ける。

ぬぐをのみ 悲しと思ひし なき人の かたみの色は またもありけり

詠者
藤原忠平
状況
母の喪が明け、禁色を許されて。

小倉山 みねのもみぞ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ

詠者
藤原忠平
状況
宇多法皇のお供で大井に行き、小倉山の紅葉を見て。『拾遺和歌集』雑秋に入り、百人一首にも選ばれた。

修辞

擬人法
紅葉に「心あらば」と呼びかける。
掛詞
「みゆき」に「行幸」と「深雪」を響かせるとする説もある。

散りぬれば くやしきものを 大井川 岸の山吹 けふさかりなり

詠者
藤原季縄
状況
花見の約束を忘れた醍醐天皇に。

悔しくぞ 後に逢はむと 契りける 今日をかぎりと いはましものを

詠者
藤原季縄
状況
病をおして参内した三日後、死を前にして公忠に。

修辞

反実仮想
「まし」で、言えばよかったのにと悔やむ。

解説

第99段は、百人一首の藤原忠平(貞信公)の歌「小倉山峰のもみぢ葉心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ」の由来を語る段として名高い。宇多法皇の大堰川への御幸の際、小倉山の紅葉に感動した法皇が、醍醐天皇にも見せたいと言ったのを受けて、忠平がよんだ歌とされる。『拾遺和歌集』の詞書にも同じ事情が記されている。この段では、この歌がきっかけで「大井の行幸」が始まったと結ばれている。

第101段の藤原季縄の死の話は、『大和物語』の前半の中でも特に印象深い段の一つである。病み上がりで参内し、「あさってまた来る」と言い残した人が、三日後には死の床から歌を送ってくる。駆けつけた源公忠の動きが、「車を取りにやる」「近衛の御門で待ち受ける」「馳せ行く」と短い文で重ねられ、閉ざされた門の前で終わる。季縄は第81段の右近の父である。

第95〜98段は、藤原定方・忠平・実頼など、当時の政界の中心にいた人々の家族の出来事を語る。醍醐天皇の崩御(930年)後の宮廷で、女御の再婚、娘の縁組、喪と喪明けなどが、歌とともに記録されている。第95段の「御かへしあれど本になしとあり」という言葉は、この物語が書き写されていく過程で加えられた注記と考えられ、作品の成り立ちを知る手がかりにもなっている。

関連

出典

底本
丸岡桂・松下大三郎編『国文大観』物語部四 雑下(大和物語) 板倉屋書房、明治36年(1903)、28〜30頁(コマ18–19)。国立国会図書館デジタルコレクション
校訂・訳・注
古典ライブラリー編集部
更新日