徒然草 第37章(第220段〜第229段)
楽の音と平家物語の作者
天王寺の舞楽が都に劣らないのは聖徳太子の時代の鐘を音の基準にしているからだという伶人の話、祭の放免の飾りの移り変わり、追善には念仏より光明真言をと答えた乗願房、庭を畑にせよと勧めた陰陽師、白拍子の起こり、『平家物語』の作者は信濃前司行長であるという有名な記事、六時礼讃や千本釈迦念仏の始まり、名工の鈍い刀の話を収める。

- 1「「「何事何事なにごとももも邊土邊土へんどははは卑卑いやしくかたくななれどもしくかたくななれどもしくかたくななれども、、、ののの舞樂舞樂ぶがくのみのみのみ都都みやこににに恥恥はぢずぢずじず」」」といへばといへばといえば、、、天王寺天王寺てんのうじののの伶人伶人れいじんののの申申もうしししはべりしはべりしはべりしははは、、、「「「當寺當寺とうじののの樂樂がくはははよくよくよくをををしらべしらべしらべ合合あわせてせてせて、、、ものゝものゝものの音音おとのめでたくとゝののめでたくとゝののめでたくととのほりほりほり侍侍はべることることること、、、外外ほかよりもすぐれたるゆゑよりもすぐれたるゆゑよりもすぐれたるゆえははは、、、太子太子たいしののの御時御時おおんときののの圖今圖今といまにににはべるはべるはべるをををはははかせとすかせとすかせとす。。。いいいはははゆるゆるゆる六時堂六時堂ろくじどうののの前前まえののの鐘鐘かねなりなりなり。。。そのこゑそのこゑそのこえのもなかなりのもなかなりのもなかなり。。。寒暑寒暑かんしょににに隨隨したがひてあがりさがりあるべきゆゑにひてあがりさがりあるべきゆゑにいてあがりさがりあるべきゆえに、、、よりよりよりまでのまでのまでの中間中間ちゅうげんををを指南指南しなんとすとすとす。。。秘藏秘藏ひそうのことなりのことなりのことなり。。。このこのこの一調子一調子いっちょうしをもをもをもちていづれのこゑちていづれのこゑちていずれのこえをもをもをもとゝのとゝのととのへへへ侍侍はべるなりるなりるなり」」」ととと申申もうしきしきしき。。。
- 2およそおよそおよそ鐘鐘かねのこゑのこゑのこえははは黃鐘調黃鐘調おうしきじょうなるべしなるべしなるべし。。。これこれこれ無常無常むじょうののの調子調子ちょうし、、、ののの無常院無常院むじょういんのこゑなりのこゑなりのこえなり。。。西園寺西園寺さいおんじののの鐘鐘かね、、、黃鐘調黃鐘調おうしきじょうにいらるべしとてにいらるべしとてにいらるべしとて、、、あまたゝびあまたゝびあまたたび鑄替鑄替いかへられけれどもへられけれどもえられけれども、、、かなはざりけるかなはざりけるかなわざりけるををを、、、遠國遠國おんごくよりたづねよりたづねよりたずね出出いだされけりされけりされけり。。。法金剛院法金剛院ほうこんごういんののの鐘鐘かねののの聲聲こえ、、、またまたまた黃鐘調黃鐘調おうしきじょうなりなりなり。。。
- 3建治建治けんじ弘安弘安こうあんのころのころのころははは、、、祭祭まつりののの日日ひののののつけものにのつけものにのつけものに、、、ことやうなることやうなることようなる紺紺こんののの布四五端布四五端ぬのしごたんにてにてにて馬馬うまをををつくりてつくりてつくりて尾髮尾髮おがみにににはははとととうじみうじみうじみをををしてしてして、、、くものいかきたるくものいかきたるくものいかきたる水干水干すいかんにつけてにつけてにつけて、、、歌歌うたののの心心こころなどいひてわたりしことなどいひてわたりしことなどいいてわたりしこと、、、常常つねににに見及見及みおよびびび侍侍はべりしなどもりしなどもりしなども、、、興興きょうありてしたるありてしたるありてしたる心心こころちにてこそちにてこそちにてこそ侍侍はべりしかりしかりしか」」」ととと老老おいたるいたるいたるどものどものどもの今日今日きょうもかたりもかたりもかたり侍侍はべるなりるなりるなり。。。
- 4このこのこの頃頃ごろはははつけものつけものつけもの年年としをををおくりておくりておくりて、、、過差過差かさことのことのことの外外ほかになりてになりてになりて、、、萬萬よろずののの重重おもきものきものきものををを多多おおくつけてくつけてくつけて、、、左右左右さゆうののの袖袖そでををを人人ひとにもたせてみづからにもたせてみづからにもたせてみずからはははほこほこほこをををだにもたずだにもたずだにもたず、、、息息いきつきくるしむありさまいとつきくるしむありさまいとつきくるしむありさまいと見見みぐるしぐるしぐるし。。。
- 5ののの乘願房乘願房じょうがんぼう、、、へへへまゐられたりけるにまゐられたりけるにまいられたりけるに、、、「「「亡者亡者もうじゃののの追善追善ついぜんにににははは何事何事なにごとかかか勝利勝利しょうりおほきおほきおおき」」」とたづねさせとたづねさせとたずねさせ給給たまひければひければいければ、、、「「「寶篋印陀羅尼寶篋印陀羅尼ほうきょういんだらに」」」ととと申申もうされたりけるされたりけるされたりけるををを、、、弟子弟子でしどもどもども「「「いかにかくいかにかくいかにかくははは申申もうししし給給たまひけるぞひけるぞいけるぞ。。。念佛念佛ねんぶつにまさることにまさることにまさること候候そうろうふまじとふまじとうまじとははは、、、などなどなど申申もうしたまはぬぞしたまはぬぞしたまわぬぞ」」」ととと申申もうしければしければしければ、、、「「「我我わががが宗宗しゅうなればさこそなればさこそなればさこそ申申もうさまほしかりつれどもさまほしかりつれどもさまほしかりつれども、、、まさしくまさしくまさしく稱名稱名しょうみょうををを追福追福ついうくににに修修しゅしてしてして、、、巨益巨益こやくあるべしとあるべしとあるべしと說說とけるけるける經文經文きょうもんををを見及見及みおよばねばばねばばねば、、、何何なにににに見見みえたるぞとえたるぞとえたるぞと重重かさねてねてねて問問とはせたまはゞはせたまはゞわせたまわば、、、いかゞいかゞいかが申申もうさむとさむとさむと思思おもひてひていて、、、本經本經ほんぎょうのたしかなるにつきてのたしかなるにつきてのたしかなるにつきて、、、このこのこの眞言陀羅尼眞言陀羅尼しんごんだらにをばをばをば申申もうしつるなりしつるなりしつるなり」」」とぞとぞとぞ申申もうされけるされけるされける。。。
- 6ほいどのほいどのほいどのははは、、、童名童名わらわなたづたづたず君君きみなりなりなり。。。鶴鶴つるををを飼飼かひひい給給たまひけるゆゑにとひけるゆゑにといけるゆえにと申申もうすはひがすはひがすわいが事事ことなりなりなり。。。
- 7有宗入道有宗入道ありむねにゅうどう、、、鎌倉鎌倉かまくらよりのぼりてよりのぼりてよりのぼりて尋尋たずねまうできたりしがねまうできたりしがねもうできたりしが、、、まづさしまづさしまずさし入入いりてりてりて、、、「「「このこのこの庭庭にわのいたづらにのいたづらにのいたずらに廣廣ひろきことあさましくあるべからぬことなりきことあさましくあるべからぬことなりきことあさましくあるべからぬことなり。。。道道みちををを知知しるものるものるものははは植植ううることうることうることをををつとむつとむつとむ。。。ほそほそほそ道道みちひとつのこしてひとつのこしてひとつのこして、、、みなみなみな畠畠はたけににに作作つくりりり給給たまへへえ」」」ととと諫諫いさめめめ侍侍はべりきりきりき。。。
- 8誠誠まことにすこしのにすこしのにすこしの地地じをもをもをも、、、徒徒とにおかむことにおかむことにおかむことははは益益えきなきことなりなきことなりなきことなり。。。くふくふくう物藥種物藥種ものやくしゅなどなどなどうゑおくべしうゑおくべしうえおくべし。。。
- 9ががが申申もうしけるしけるしけるははは、、、舞舞まいののの手手てののの中中なかににに興興きょうあることゞもあることゞもあることどもをををえらびてえらびてえらびて、、、ののの禪師禪師ぜんじといひけるといひけるといいける女女おんなににに敎敎おしへてまはせけりへてまはせけりえてまわせけり。。。白白しろききき水干水干すいかんをををさゝせさゝせささせ、、、烏帽子烏帽子えぼうしをををひきひきひき入入いれたりければれたりければれたりければ、、、男舞男舞おとこまいとぞいひけるとぞいひけるとぞいいける。。。
- 10禪師禪師ぜんじ、、、このこのこの藝藝げいをををつげりつげりつげり。。。これこれこれののの根源根源こんげんなりなりなり。。。佛神佛神ぶつじんののの本緣本緣ほんえんをををうたふうたふうたう。。。そのそのその後源後源のちみなもとののの光行光行みつゆき、、、おほくのおほくのおおくの事事ことをををつくれりつくれりつくれり。。。
- 11後鳥羽院後鳥羽院ごとばのいんののの御作御作ぎょさくもありもありもあり。。。ににに敎敎おしへさせへさせえさせ給給たまひけるとぞひけるとぞいけるとぞ。。。
- 12後鳥羽院後鳥羽院ごとばのいんののの御時御時おおんとき、、、ののの前司前司ぜんじ行長行長ゆきなが稽古稽古けいこのののほまれありけるがほまれありけるがほまれありけるが、、、樂府樂府がくうののの御論義御論義みろんぎののの番番ばんにめされてにめされてにめされてののの舞舞まいををを二二ふたつつつ忘忘わすれたりければれたりければれたりければ、、、五德五德ごとくののの冠者冠者かんじゃととと異名異名いみょうをををつきにけるつきにけるつきにけるををを、、、心心こころうきことにしてうきことにしてうきことにして、、、學問學問がくもんをををすてゝすてゝすてて遁世遁世とんせいしたりけるしたりけるしたりけるををを、、、、、、一藝一藝いちげいあるものあるものあるものをばをばをば下部下部しもべまでもまでもまでも召召めしおきてしおきてしおきて、、、不便不便ふびんにせさせにせさせにせさせ給給たまひければひければいければ、、、このこのこの信濃入道信濃入道しなののにゅうどうををを扶持扶持ふじししし給給たまひけりひけりいけり。。。
- 13このこのこの行長入道行長入道ゆきながにゅうどう平家物語平家物語へいけものがたりををを作作つくりてりてりて、、、といひけるといひけるといいける盲目盲目もうもくににに敎敎おしへてかたらせけりへてかたらせけりえてかたらせけり。。。さてさてさて山門山門さんもんのことのことのことををを殊殊ことにゆゝしくかけりにゆゝしくかけりにゆゆしくかけり。。。九郞判官九郞判官くろうほうがんのことのことのことははは委委くわしくしくしく知知しりてりてりて書書かききき載載のせたりせたりせたり。。。
- 14蒲冠者蒲冠者かばのかんじゃのことのことのことはははよくよくよく知知しらざりけるにやらざりけるにやらざりけるにや、、、多多おおくのくのくの事事ことどもどもどもをををしるしもらせりしるしもらせりしるしもらせり。。。武士武士ぶしのことのことのこと弓馬弓馬きゅうばのわざのわざのわざははは、、、生佛東國生佛東國しょうぶつとうごくのものにてのものにてのものにて、、、武士武士ぶしににに問問とひひい聞聞ききてかゝせけりきてかゝせけりきてかかせけり。。。
- 15かのかのかの生佛生佛しょうぶつがががうまれつきのうまれつきのうまれつきの聲聲こえををを、、、今今いまののの琵琶法師琵琶法師びわほうしははは學學まなびたるなりびたるなりびたるなり。。。
- 16ははは、、、法然法然ほうねん上人上人しょうにんののの弟子弟子でし安樂安樂あんらくといひけるといひけるといいける僧僧そう、、、經文經文きょうもんををを集集あつめてめてめて作作つくりてつとめにしけりりてつとめにしけりりてつとめにしけり。。。そのそのその後太秦後太秦のちうずまさののの善觀房善觀房ぜんかんぼうといふといふという僧僧そう、、、ふしふしふしはははかせかせかせををを定定さだめてめてめて聲明聲明しょうみょうになせりになせりになせり。。。
- 17一念一念いちねんののの念佛念佛ねんぶつののの最初最初さいしょなりなりなり。。。後嵯峨院後嵯峨院ごさがのいんののの御代御代みよよりよりよりはじまれりはじまれりはじまれり。。。法事讃法事讃ほうじさんももも、、、おなじくおなじくおなじく善觀房善觀房ぜんかんぼうはははじめたるなりじめたるなりじめたるなり。。。
- 18釋迦念佛釋迦念佛しゃかねんぶつははは、、、文永文永ぶんえいのころのころのころ如輪如輪にょりん上人上人しょうにんこれこれこれをををはじめられけりはじめられけりはじめられけり。。。
- 19よきよきよき細工細工さいくははは、、、少少すこしにぶきしにぶきしにぶき刀刀かたなをををつかふといふつかふといふつかうという。。。ががが刀刀かたなはははいたくたゝずいたくたゝずいたくたたず。。。
現代語訳
〔第220段〕「何事も田舎は卑しく粗野だけれども、天王寺の舞楽だけは都に劣らない」と言うと、天王寺の楽人が申しましたことには、「当寺の楽は、よく音の基準を調べ合わせて、楽器の音がすばらしく整っておりますことが、よそよりすぐれているわけは、聖徳太子の御時の基準が今も残っておりますのを手本としているからです。いわゆる六時堂の前の鐘です。その音は、黄鐘調のちょうど真ん中です。寒さ暑さにしたがって高くなったり低くなったりするはずなので、二月の涅槃会から聖霊会までの間の音を手本とします。秘伝のことです。この一つの調子をもとにして、どの音も整えるのでございます」と申した。およそ鐘の音は黄鐘調であるべきである。これは無常の調子で、祇園精舎の無常院の鐘の音である。西園寺の鐘を、黄鐘調に鋳ようとして、何度も鋳かえられたけれども、うまくいかなかったので、遠国から探し出された。法金剛院の鐘の音も、また黄鐘調である。
〔第221段〕「建治・弘安のころは、祭の日の放免のつけ物に、変わった紺の布四、五反で馬を作って、尾やたてがみには灯心を使い、蜘蛛の巣を描いた水干につけて、歌の心などを言いながら練り歩いたことを、いつも見ておりましたが、それも趣があってやっている気がしたものでした」と、年老いた道志たちが、今でも語っております。このごろは、つけ物が年を追ってぜいたくになり、何でも重いものをたくさんつけて、左右の袖を人に持たせて、自分は鉾さえ持たず、息を切らして苦しんでいる様子は、まことに見苦しい。
〔第222段〕竹谷の乗願房が東二条院へ参上されたところ、「亡くなった人の追善には、何がいちばん功徳が多いか」とお尋ねになったので、「光明真言と宝篋印陀羅尼でございます」と申されたのを、弟子たちが「どうしてそのように申されたのですか。念仏にまさるものはございますまいと、なぜ申しあげなかったのですか」と申したところ、「わが宗派だから、そう申しあげたかったのだが、念仏を追善のために修めて大きな功徳があると説いた経文を見たことがないので、『何に書いてあるのか』と重ねてお尋ねになったら、何と申しあげようかと思って、典拠のたしかなものによって、この真言と陀羅尼を申しあげたのだ」と申された。
〔第223段〕鶴の大臣殿は、幼名が「たづ君」である。鶴を飼っておられたからというのは、まちがいである。
〔第224段〕陰陽師の有宗入道が、鎌倉から上京して訪ねてきたが、まず(わが家に)入ってくるなり、「この庭がむやみに広いのはあきれたことで、あってはならないことだ。道を知る者は、物を植えることに努める。細い道一つを残して、みな畑にしなさい」と諫めました。ほんとうに、わずかな土地でも、むだにしておくのは益のないことである。食べる物や薬草などを植えておくのがよい。
〔第225段〕多久助が申したことには、通憲入道(信西)が、舞の手の中で趣のあるものを選んで、磯の禅師という女に教えて舞わせた。白い水干に鞘巻をささせ、烏帽子をかぶらせたので、男舞と言った。禅師の娘の静という者が、この芸を継いだ。これが白拍子の起こりである。仏や神の由来を歌う。その後、源光行が多くの歌を作った。後鳥羽院のお作りになったものもある。亀菊にお教えになったということだ。
〔第226段〕後鳥羽院の御時、信濃前司行長は、学問の誉れがあったが、楽府の論議の番に召されて、七徳の舞のうち二つを忘れてしまったので、「五徳の冠者」とあだ名をつけられたのを、つらいことに思って、学問を捨てて遁世してしまったのを、慈鎮和尚(慈円)は、一芸のある者は下の者まで召しかかえて大事にしておられたので、この信濃入道を扶養なさった。この行長入道が『平家物語』を作って、生仏という盲人に教えて語らせた。そして比叡山のことをとりわけ立派に書いた。九郎判官(義経)のことは詳しく知っていて書き載せた。蒲冠者(範頼)のことはよく知らなかったのだろうか、多くのことを書きもらしている。武士のことや弓馬の技は、生仏が東国の者で、武士に尋ね聞いて書かせた。あの生仏の生まれつきの声を、今の琵琶法師はまねているのである。
〔第227段〕六時礼讃は、法然上人の弟子の安楽という僧が、経文を集めて作って、勤行にしたものである。その後、太秦の善観房という僧が、節回しを定めて声明とした。一念の念仏の最初である。後嵯峨院の御代から始まった。法事讃も、同じく善観房が始めたものである。
〔第228段〕千本の釈迦念仏は、文永のころ、如輪上人がこれを始められた。
〔第229段〕よい細工師は、少し切れ味の鈍い刀を使うという。妙観の刀は、たいして切れない。
意訳
〔第220段〕天王寺の舞楽が都に劣らないのは、聖徳太子の時代の鐘の音を基準にしているからだ。鐘の音はみな黄鐘調であるべきで、それは祇園精舎の無常の響きでもある。
〔第221段〕〔第222段〕昔の祭の放免の飾りは趣があったが、今は重いばかりで見苦しい。追善に念仏を勧めなかった乗願房は、経典の根拠のないことは言わないという誠実さを示した。
〔第223段〜第225段〕「鶴の大臣」の名の由来の誤り、庭を畑にして食べ物や薬草を植えよと勧めた陰陽師の言葉、信西が磯の禅師に舞を教え、その娘の静御前が継いだという白拍子の起こりを記す。
〔第226段〕『平家物語』は、学問の失敗で遁世した信濃前司行長が、慈円の庇護のもとで作り、盲目の琵琶法師生仏に語らせたものだという。比叡山を立派に書き、義経に詳しく範頼に疎いのも、作者の事情による――『平家物語』の成立を伝える、もっとも古い記録として名高い段である。
〔第227段〜第229段〕六時礼讃と千本釈迦念仏の始まり、名工は少し鈍い刀を使うという話。
語釈・文法注
- 天王寺
- 四天王寺。大阪にある、聖徳太子が建てたと伝える寺。
- 圖
- 音の高さの基準。
- 黃鐘調
- 雅楽の六調子の一つ。
- 涅槃會
- 釈迦の入滅の日の二月十五日に行う法会。
- 聖靈會
- 聖徳太子の忌日の二月二十二日に行う法会。
- 祇園精舍の無常院
- インドの祇園精舎の中で、病気の僧が死を迎えるための堂。その鐘は無常を告げたという。
- 放免
- 検非違使の下で働いた、刑を許された元罪人。賀茂祭の行列に、派手な飾りをつけて加わった。
- 道志
- 検非違使の志(さかん)のうち、明法道(法律)の家の者。
- 竹谷の乘願房
- 宗源。法然の弟子。
- 東二條院
- 後深草天皇の中宮、藤原公子(1232〜1304)。
- 光明眞言
- 密教の真言の一つ。死者の追善に唱えられた。
- たづのおほいどの
- 藤原基家(1203〜1280)とされる。
- 陰陽師有宗入道
- 安倍有宗。鎌倉の陰陽師。
- 多久助
- 多久資。舞楽の家の楽人。
- 通憲入道
- 藤原通憲(信西、1106〜1159)。後白河院の側近。
- 磯の禪師
- 静御前の母。白拍子の祖とされる。
- さうまき
- 鞘巻。鍔のない短い刀。
- しづか
- 静御前。源義経の愛妾。
- 白拍子
- 平安末期から鎌倉時代に流行した歌舞。また、それを舞う女性。
- 龜菊
- 後鳥羽院に寵愛された白拍子。
- 信濃の前司行長
- 藤原(中山)行長。『平家物語』の作者とされる人物。
- 七德の舞
- 唐の太宗の徳をたたえる舞楽。白居易の新楽府の題。
- 慈鎭和尙
- 慈円(1155〜1225)。天台座主。
- 生佛
- 鎌倉時代初期の琵琶法師。東国の出身という。
- 六時禮讃
- 一日を六つに分けて、阿弥陀仏を礼拝し讃える勤行。
- 千本釋迦念佛
- 京都の千本の大報恩寺で行われる念仏会。
- 妙觀
- 奈良時代の仏師。
文法
- かたくななれども
- 粗野であるけれども。
- 常に見及び侍りしなども
- この段は底本では冒頭に「「」がなく、「…こそ侍りしか」」で閉じている。底本どおり。
- さこそ申さまほしかりつれども
- 「まほし」は願望。そう申しあげたかったけれども。
- 異名をつきにける
- 底本どおり。あだ名をつけられた。
- 不便にせさせ給ひければ
- 大事にしておられたので。
解説
第226段は、『平家物語』の成立を伝える最古の記録として、文学史上きわめて重要な段である。作者を信濃前司行長とし、琵琶法師の生仏に語らせたこと、慈円の庇護があったことなどを記す。比叡山の記事が詳しいこと、義経に詳しく範頼に疎いこと、武士の記事は東国出身の生仏が武士に聞いて書かせたことなど、作品の内容の特徴まで説明しており、具体的である。もっとも、これが事実かどうかは確かめられていない。
第220段は、聖徳太子ゆかりの鐘の音を音律の基準とする天王寺の楽人の話を記し、鐘の音は無常を告げる黄鐘調であるべきだと述べる。『平家物語』の冒頭の「祇園精舎の鐘の声」とも響き合う記事である。
第222段の乗願房は、念仏宗の僧でありながら、経典に根拠のないことは言わなかった。自分の宗派への忠誠よりも、真実への誠実さを選んだ態度を、兼好は評価している。
第225段の白拍子の起源の記事も、芸能史の資料として重要である。静御前が白拍子の芸を母から継いだという話は、ここから広まった。
関連
出典
- 底本
- 丸岡桂・松下大三郎編『国文大観』日記草子部(徒然草) 板倉屋書房、明治36年(1903)、849〜851頁(コマ438–439)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日