土佐日記 第1章
門出
承平四年十二月二十一日、国司の任期を終えた「ある人」の一行が土佐の国府を発つ。見送りの人々との送別の宴が続き、二十七日に大津から船出するが、任地で亡くした幼い娘を思う悲しみが一行の胸をふさぐ。大湊で正月を迎え、都の正月をしのぶ。

- 1男男おとこもももすすすなるなるなる日日に記記きととといふいふいうものものものををを、、、女女おんなもももしししてててみみみむむんとてとてとてするするするなりなりなり。。。それそれそれののの年年としのののしはすしはすしわすののの二十日二十日はつかあまりあまりあまり一日一日ひとひののの、、、戌戌いぬののの時時ときににに門門かど出出ですすす。。。そのそのそのよしよしよしいさゝかいさゝかいささかものものものにににかきかきかきつくつくつく。。。
- 2あるあるある人人ひと縣縣あがたののの四四よ年年とせ五五いつ年年とせはてはてはてゝゝて例例れいのののことことことゞもゞもども皆皆みなしししをををへへへててて、、、解解げなどなどなど取取とりりりててて住住すむむむよりよりより出出いでででゝゝて船船ふねににに乘乘のるるるべきべきべき所所ところへへへわたるわたるわたる。。。かれかれかれこれこれこれ知知しるるる知知しらららぬぬぬおくりおくりおくりすすす。。。年年としごろごろごろよくよくよく具具ぐしししつるつるつる人人ひと々々びとなむなむなんわかれわかれわかれ難難がたくくく思思おもひひいてててそのそのその日日ひ頻頻しきりにににとかくとかくとかくしししつゝつゝつつのゝしるのゝしるののしるうちうちうちににに夜夜よ更更ふけけけぬぬぬ。。。
- 3廿二日廿二日にじゅうににち、、、和和い泉泉ずみののの國國くにまでまでまでとととたひらかたひらかたいらかにににねがひねがひねがいたつたつたつ。。。藤藤ふじ原原はらののの言言とき實實ざね船船ふな路路じなれなれなれどどど馬馬うまのののすすす。。。上上かみ中中なか下下しもながらながらながら醉醉えひひい過過すぎぎぎててていといといと怪怪あやしくしくしくしほしほしお海海うみのののほとりほとりほとりにににてててあざれあざれあざれあへあへあえりりり。。。
- 4廿三日廿三日にじゅうさんにち、、、八八や木木ぎののの康康やす敎敎のりととといふいふいう人人ひとありありあり。。。このこのこの人人ひと國國くにににに必必かならずずずしもしもしもいひいひいいつかふつかふつかう者者ものにににもももあらあらあらざるざるざるなりなりなり。。。これこれこれぞぞぞ正正まさしきしきしきやうやうようにににててて馬馬うまののの餞餞はなむけしししたるたるたる。。。かみかみかみにににやややあらあらあらむむん、、、國國くに人人ひとののの心心こころののの常常つねとしてとしてとして今今いまはははとてとてとて見見みえええざざざなるなるなるををを心心こころあるあるあるものものものははは恥恥はぢぢじずずずきききなむなむなんきききけるけるける。。。これこれこれははは物物ものににによりよりよりててて譽譽ほむるむるむるにににしもしもしもあらあらあらずずず。。。
- 5廿四日廿四日にじゅうしにち、、、講講こう馬馬うまののの餞餞はなむけしししににに出出いでででませませませりりり。。。ありとありとありとあるあるある上上かみ下下しも童童わらわまでまでまで醉醉えひひいしれしれしれててて、、、一一いち文文もん字字じをををだにだにだに知知しらららぬぬぬものものものしししががが、、、足足あしははは十十じゅう文文もん字字じににに踏踏ふみみみてててぞぞぞ遊遊あそぶぶぶ。。。
- 6廿五日廿五日にじゅうごにち、、、守守かみのののたちたちたちよりよりより呼呼よびびびににに文文ふみもてもてもて來來きたれれれりりり。。。呼呼よばばばれれれててて至至いたりりりててて日日ひひとひひとひひとひ夜夜よひとよひとよひとよとかくとかくとかく遊遊あそぶぶぶやうやうようにににててて明明あけけけにににけりけりけり。。。
- 7廿六日廿六日にじゅうろくにち、、、なほなほなお守守かみのののたちたちたちにににてててあるじあるじあるじしししのゝしりのゝしりののしりてててをのこをのこおのこらららまでまでまでににに物物ものかづけかづけかずけたりたりたり。。。からからからうたうたうた聲聲こえあげあげあげててていひいひいいけりけりけり。。。やまとやまとやまとうたうたうた、、、あるじあるじあるじもももまらうどまらうどまろうどもももことことこと人人びともももいひいひいいあへあへあえりりりけりけりけり。。。からからからうたうたうたはははこれこれこれにににはははえええ書書かかかかずずず。。。やまとやまとやまとうたうたうたあるじあるじあるじののの守守かみのののよめよめよめりりりけるけるける、、、「「「都都みやこいでいでいでゝゝて君君きみににに逢逢あははわむむんとととこここしししものものものをををこここしししかひかひかいもももなくなくなく別別わかれれれぬるぬるぬるかなかなかな」」」とととなむなむなんありありありけれけれければばば、、、かへるかへるかえる前前さきののの守守かみのののよめよめよめりりりけるけるける、、、「「「しろしろしろたへたへたえののの浪浪なみ路路じををを遠遠とおくくくゆきゆきゆきかひかひかいててて我我われににに似似にべきべきべきはははたれたれたれならならならなくなくなくににに」」」。。。ことことことひとひとひとびとびとびとのののもももありありありけれけれけれどどどさかしきさかしきさかしきもももなかるなかるなかるべしべしべし。。。とかくとかくとかくいひいひいいててて前前さきののの守守かみももも今今いまのののももも諸諸もろ共共ともにににおりおりおりててて、、、今今いまのののあるじあるじあるじももも前前さきのののももも手手て取取とりりりかはしかはしかわしてててゑひゑひえいごとごとごとににに心心こころよげよげよげなるなるなることことことしししててて出出いでででにににけりけりけり。。。
- 8廿七日廿七日にじゅうしちにち、、、大大おお津津つよりよりより浦浦うら戶戶どをををさしさしさしててて漕漕こぎぎぎ出出いづづず。。。かくかくかくあるあるあるうちうちうちににに京京きょうにににててて生生うまれれれたりたりたりししし女女おんな子子ごこゝこゝここにににててて俄俄にはかにににうせうせうせにににしかしかしかばばば、、、このこのこの頃頃ごろののの出出いで立立たちいそぎいそぎいそぎををを見見みれれれどどど何何なに事事ごともももえええいはいはいわずずず。。。京京きょうへへへ歸歸かえるるるににに女女おんな子子ごのののなきなきなきのみのみのみぞぞぞ悲悲かなしびしびしび戀戀こふるふるうる。。。あるあるある人人ひと々々びともももえええ堪堪たへへえずずず。。。このこのこの間間あいだにににあるあるある人人ひとのののかきかきかきててて出出いだせせせるるる歌歌うた、、、「「「都都みやこへへへとととおもふおもふおもうもももものものものゝゝのかなしきかなしきかなしきはははかへらかへらかえらぬぬぬ人人ひとのののあれあれあればばばなりなりなりけりけりけり」」」又又また、、、或或ある時時ときにににははは、、、「「「あるあるあるものものものととと忘忘わすれれれつゝつゝつつなほなほなおなきなきなき人人ひとをををいづらいづらいずらととと問問とふふうぞぞぞ悲悲かなしかりしかりしかりけるけるける」」」ととといひいひいいけるけるける間間あいだににに
- 9鹿鹿か兒兒こののの崎崎さきととといふいふいう所所ところににに守守かみのののはらからはらからはらからまたまたまたことことことひとひとひとこれこれこれかれかれかれ酒酒さけなにどなにどなにど持持もててて追追おひひいきききててて、、、磯磯いそにににおりおりおり居居いててて別別わかれれれ難難がたきききことことことをををいふいふいう。。。守守かみのののたちたちたちののの人人ひと々々びとののの中中なかにににこのこのこの來來くるるる人人ひと々々びとぞぞぞ心心こころあるあるあるやうやうようにににはははいはいはいわれれれほのめくほのめくほのめく。。。かくかくかく別別わかれれれ難難がたくくくいひいひいいててて、、、かのかのかの人人ひと々々びとののの口口くち網網あみももももろもちもろもちもろもちにににてててこのこのこの海海うみ邊邊べにににててて荷荷になひひいいだせいだせいだせるるる歌歌うた、、、「「「をしをしをしととと思思おもふふう人人ひとやややとまるとまるとまるとととあしあしあし鴨鴨がものののうちうちうち群群むれれれてててこそこそこそ我我われはははきききにににけれけれけれ」」」ととといひいひいいてててありありありけれけれければばば、、、いといといといたくいたくいたく愛愛めでででゝゝて行行ゆくくく人人ひとのののよめよめよめりりりけるけるける、、、「「「棹棹さおさせさせさせどどど底底そこひひいももも知知しらららぬぬぬわたつみわたつみわたつみのののふかきふかきふかきこゝろこゝろこころををを君君きみににに見見みるるるかなかなかな」」」
- 10ととといふいふいう間間あいだににに楫楫かじ取取とりものものものゝゝの哀哀あわれももも知知しらららでででおのれおのれおのれししし酒酒さけをををくらひくらひくらいつれつれつればばば、、、早早はやくくくいないないなむむんとてとてとて「「「潮潮しお滿滿みちちちぬぬぬ。。。風風かぜももも吹吹ふきききぬぬぬべしべしべし」」」とととさわげさわげさわげばばば船船ふねににに乘乘のりりりなむなむなんとととすすす。。。このこのこの折折おりにににあるあるある人人ひと々々びと折折おり節節ふしにににつけつけつけててて、、、からからからうたうたうたどもどもども時時ときににに似似につかはしきつかはしきつかわしきいふいふいう。。。又又またあるあるある人人ひと西西にし國國ぐになれなれなれどどど甲甲か斐斐ひ歌歌うたなどなどなどいふいふいう。。。かくかくかくうたふうたふうたうににに、、、ふなふなふなやかたやかたやかたののの塵塵ちりももも散散ちりりり、、、空空そらゆくゆくゆく雲雲くももももたゞよひたゞよひただよいぬぬぬとととぞぞぞいふいふいうなるなるなる。。。今今こ宵宵よい浦浦うら戶戶どにににとまるとまるとまる藤藤ふじ原原はらのののときときとき實實ざね、、、橘橘たちばなののの季季すえ衡衡ひら、、、ことことこと人人びと々々びと追追おひひいきききたりたりたり。。。
- 11廿八日廿八日にじゅうはちにち、、、浦浦うら戶戶どよりよりより漕漕こぎぎぎ出出いでででゝゝて大大おお湊湊みなとをををおふおふおう。。。このこのこの間間あいだにににはやくはやくはやくののの國國くにののの守守かみののの子子こ山山やま口口ぐちののの千千ち岑岑みね、、、酒酒さけよきよきよき物物ものどもどもどももてもてもてきききててて船船ふねににに入入いれれれたりたりたり。。。ゆくゆくゆくゆくゆくゆく飮飮のみみみくふくふくう。。。
- 12廿九日廿九日にじゅうくにち、、、大大おお湊湊みなとにににとまれとまれとまれりりり。。。くすくすくす師師しふりはへふりはへふりはえててて屠屠と蘇蘇そ白白びゃく酒酒さけ加加くわへへえてててもてもてもて來來きたりたりたり。。。志志こころざしあるあるあるににに似似にたりたりたり。。。元元がん日日にち、、、なほなほなお同同おなじじじとまりとまりとまりなりなりなり。。。白白びゃく散散さんをををあるあるあるものものもの夜夜よのののまままとてとてとてふなふなふなやかたやかたやかたにににさしさしさしはさめはさめはさめりりりけれけれければばば、、、風風かぜににに吹吹ふきききならさならさならさせせせててて海海うみににに入入いれれれてててえええ飮飮のまままずずずなりなりなりぬぬぬ。。。芋芋いもしししあらめあらめあらめももも齒齒は固固がたもももなしなしなし。。。かやうかやうかようののの物物ものもももなきなきなき國國くになりなりなり。。。求求もとめめめもももおかおかおかずずず。。。唯唯ただおしおしおしののの口口くちをををのみのみのみぞぞぞ吸吸すふふう。。。このこのこのすふすふすう人人ひと々々びとののの口口くちををを押押おし年年あ魚魚ゆもしもしもし思思おもふふうやうやうようあらあらあらむむんややや。。。今日今日きょうははは都都みやこのののみみみぞぞぞ思思おもひひいやらやらやらるゝるゝるる。。。「「「九重九重ここのえののの門門かどのののしりくめしりくめしりくめ繩繩なわのののののの頭頭かしらひゝらひゝらひひら木木ぎらららいかにいかにいかに」」」とととぞぞぞいひいひいいあへあへあえるるる。。。
現代語訳
男も書くと聞いている日記というものを、女の私も書いてみようと思って書くのである。ある年の十二月二十一日の、午後八時ごろに出発する。そのときのことを、少しばかり書きつけておく。
ある人が、国司としての四、五年の任期が終わって、決まりの事務もすべて済ませ、解由状などを受け取って、住んでいた官舎から出て、船に乗る所へ移る。あの人この人、知っている人も知らない人も見送りをする。長年親しくつきあってきた人々は、別れがたく思って、その日は一日中あれこれと世話をやきながら騒いでいるうちに夜が更けた。
二十二日。和泉の国まで無事であるようにと願を立てる。藤原のときざねが、船旅なのに「馬のはなむけ」(送別の宴)をする。身分の上の者も中の者も下の者も、みなすっかり酔っぱらって、ひどく不思議なことに、塩のきいた海のほとりで、ふざけ合っている。
二十三日。八木のやすのりという人がいる。この人は、国府で必ずしも召し使っている者でもないのだという。この人が、いかにもきちんとした様子で送別の宴をしてくれた。国守の人柄のためだろうか、国の人の心の常として、「今はもうこれまで」と顔を見せなくなるものなのに、真心のある人は、人目を気にせずにやって来たのだった。これは、贈り物をもらったからほめるのではない。
二十四日。国分寺の講師が、送別の宴をしにおいでになった。そこにいた身分の上下の者は子どもまで酔いしれて、「一」という字さえ知らない者が、足は「十」の字を踏んで遊び興じている。
二十五日。新しい国守の官舎から、呼び出しの手紙を持って来た。呼ばれて行って、一日中、一晩中あれこれと遊び興じるうちに夜が明けた。
二十六日。やはり新しい国守の官舎で、主人がもてなして大騒ぎをし、従者たちにまで贈り物を与えた。漢詩を声高らかに吟じた。和歌は、主人も客も、ほかの人もみな詠み合った。漢詩はここには書くことができない。和歌で、主人の国守が詠んだのは、「都を出てあなたに会おうとやって来たのに、来たかいもなく別れてしまうことだ」とあったので、帰って行く前の国守が詠んだのは、「白い波の立つ海路をはるばると行き来して、私と同じ思いをするのは、ほかならぬあなたなのですよ」。ほかの人々の歌もあったけれど、気のきいたものはなかったようだ。あれこれ言って、前の国守も今の国守もいっしょに庭に下りて、今の主人も前の国守も手を取り合って、酔った勢いで調子のよいことを言って、出て行った。
二十七日。大津から浦戸をめざして漕ぎ出す。こうしているうちにも、京で生まれた女の子が、この土佐で急に亡くなってしまったので、このごろの出発の準備を見ても、何も言うことができない。京へ帰るのに、女の子がいないことばかりが悲しく恋しい。そばにいる人々も、こらえきれない。このときに、ある人が書いて差し出した歌は、「都へ帰ると思うのに何となく悲しいのは、一緒に帰らない人がいるからなのだ」。またあるときには、「まだ生きているものと、ついうっかりして、もういない子を『どこにいるの』と尋ねてしまうのが悲しいことだ」と詠んでいるうちに、
鹿児の崎という所で、国守の兄弟や、そのほかの人々があれこれ、酒などを持って追いかけて来て、磯に下りて座って、別れがたいことを言う。国守の官舎の人々の中で、このやって来た人々こそ真心があると、人々はうわさしてささやき合う。こうして別れがたく言って、その人々が網を引くように力を合わせて、この海辺で歌を詠み出した。「惜しいと思う人がとどまるかと、葦鴨が群れるように連れ立って、私たちはやって来たのです」と詠んだので、たいそう感じ入って、旅立つ人が詠んだのは、「棹をさしても底の知れない海のように深いお心を、あなたがたに見ることです」。
と言っているうちに、船頭はものの情けもわからず、自分だけ酒をくらってしまったので、早く出発しようとして「潮が満ちた。風も吹いてくるだろう」と騒ぐので、船に乗ろうとする。このときに、ある人々は折にふさわしい漢詩を口ずさむ。またある人は、西国なのに甲斐の国の歌などを歌う。このように歌うと、船屋形の塵も舞い散り、空を行く雲もただよって止まった、と言われる。今夜は浦戸に泊まる。藤原のときざね、橘のすえひら、そのほかの人々が追って来た。
二十八日。浦戸から漕ぎ出して、大湊をめざして進む。このあいだに、以前の国守の子の山口のちみねが、酒や結構な食べ物などを持って来て、船に入れてくれた。進みながら飲んだり食べたりする。
二十九日。大湊に泊まっている。医師がわざわざ屠蘇や白散を、酒を添えて持って来た。真心があるように見える。元日。やはり同じ港である。白散を、ある者が「夜のあいだだけ」と船屋形にはさんでおいたところ、風に吹かれて海に落ちてしまい、飲めなくなった。芋茎(ずいき)も荒布(あらめ)も、歯固めの品もない。こうした物もない国なのである。前もって買い求めておくこともしなかった。ただ押鮎の口ばかりを吸う。この吸う人々の口を、押鮎はどう思っているだろうか。今日は都のことばかりが思いやられる。「都の家々の門の注連縄に飾った鯔(ぼら)の頭や柊は、どうしているだろう」と言い合っている。
意訳
『土佐日記』は、「男が書く日記というものを、女の私も書いてみよう」という宣言で始まる。実際の筆者は土佐守の任期を終えた紀貫之だが、女性の書き手を装うことで、漢文ではなく仮名で、公の記録には書けない心の動きを自由に書くことができた。
出発に先立つ数日は、送別の宴の連続である。身分の上下なく酔いしれる人々を「一文字をだに知らぬものしが、足は十文字に踏みて」と文字遊びでからかい、「船路なれど馬のはなむけす」としゃれてみせる。筆致は軽やかだが、その陰で「京にて生れたりし女子」を任地で失った悲しみが、帰京の喜びをくもらせている。「あるものと忘れつつなほなき人を」の歌は、ついうっかり生きている子のように探してしまう親の心を詠み、この日記全体を貫く亡き子への思いの最初の表れとなっている。
見送りに来る人と来ない人を書き分けるところには、任期を終えた国守に対する人々の態度の変化への鋭い観察がある。正月の行事の品もない船上で、押鮎の口を吸いながら都の正月を思いやる結びには、旅のわびしさとユーモアが同居している。
語釈・文法注
- 解由
- 解由状。国司が交替するとき、後任者が前任者に事務の引き継ぎに問題がないことを証明して渡す文書。
- たち
- 「館」。国司の官舎。
- 餞
- 「馬のはなむけ」。旅立つ人の馬の鼻を行き先へ向けて無事を祈ったことから、送別の宴や贈り物をいう。船旅なのに「馬の」というところにおかしみがある。
- かみがら
- 「守柄」。国守の人柄。
- 講師
- 国ごとに置かれ、国分寺で経典を講じ、僧尼を監督した僧官。
- 白散
- 正月に酒に浸して飲み、一年の邪気を払う薬。屠蘇とともに用いた。
- 齒固め
- 正月の行事。長寿を願って、大根・瓜・押鮎・猪肉などの堅い物を食べる。
- おしあゆ
- 「押鮎」。塩をして重しで押した鮎。歯固めに用いた。
- なよし
- 鯔(ぼら)の幼魚の名。正月に柊とともに門の注連縄に飾り、邪気を払った。
文法
- 「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」
- 前の「なる」は伝聞の助動詞「なり」の連体形(男も書くと聞いている)、後の「なり」は断定の助動詞。終止形接続の「す」に付く「なる」は伝聞・推定と見る。
- 「見えざなるを」
- 「見えざるなるを」の撥音便「見えざんなる」の「ん」を表記しないかたち。「なる」は推定の助動詞。
- 「恥ぢずきなむきける」
- 底本の本文のまま。一般には「恥ぢずになむ来ける」とする本文が知られ、ここも人目を恥じずにやって来た、の意に解した。
- 「我に似べきはたれならなくに」
- 「ならなく」は断定「なり」の未然形+打消「ず」のク語法。「なくに」で、…ではないのに、の意。私と同じ思いをするはずなのは、ほかならぬあなたなのに。
- 「都へとおもふもものゝかなしきは」
- 「もの」は「ものかなし」(なんとなく悲しい)の接頭語的な用法。
和歌
都いでゝ君に逢はむとこしものをこしかひもなく別れぬるかな
- 詠者
- 新任の土佐守(あるじの守)
- 状況
- 新しい国守の官舎での送別の宴で、去って行く前の国守に贈った歌。
修辞
- 反復
- 「こしものを」「こしかひもなく」と「来し」をくり返し、会えたばかりで別れる惜しさを強める。
しろたへの浪路を遠くゆきかひて我に似べきはたれならなくに
- 詠者
- 前の土佐守(ある人)
- 状況
- あるじの守の歌への返歌。任期を終えれば、あなたも私と同じように波路をはるばる帰ることになると答える。
修辞
- 枕詞
- 「しろたへの」は白い色にかかり、ここでは白波を思わせる。
都へとおもふもものゝかなしきはかへらぬ人のあればなりけり
- 詠者
- ある人
- 状況
- 出発の準備のなかで、土佐で亡くなった娘を思って詠んだ歌。
あるものと忘れつゝなほなき人をいづらと問ふぞ悲しかりける
- 詠者
- ある人
- 状況
- 同じく亡き娘を思う歌。亡くなったことを忘れて、ついどこにいるのかと尋ねてしまう。
をしと思ふ人やとまるとあし鴨のうち群れてこそ我はきにけれ
- 詠者
- 見送りの人々
- 状況
- 鹿児の崎まで追って来た人々が、別れを惜しんで詠んだ歌。
修辞
- 掛詞
- 「をし」に「惜し」と鳥の「鴛鴦(をし)」をかけ、「あし鴨」と縁語にする。
棹させど底ひも知らぬわたつみのふかきこゝろを君に見るかな
- 詠者
- 旅立つ人(前の国守)
- 状況
- 見送りの人々の歌に感じ入って返した歌。
修辞
- 比喩
- 底の知れない海の深さに、人々の真心の深さをたとえる。
解説
『土佐日記』の筆者紀貫之(868?〜945?)は、『古今和歌集』の撰者の一人で、仮名序を書いたことでも知られる。延長八年(930)に土佐守に任じられ、承平四年(934)に任期を終えて京へ帰った。この日記はその帰途の五十五日間をつづったもので、「それの年」は承平四年をさす。
国司の帰任は、後任者から解由状を受け取って初めて完了する。書き手は前の国守を「ある人」と呼び、自分はその一行に加わる女性という立場をとる。冒頭の数日に送別の宴が続くのは、四、五年の任期のあいだに結ばれた人間関係のあらわれであり、見送りに来る人と来ない人を見分けるまなざしには、都に戻る官人の現実的な感覚がうかがえる。
大津・浦戸・大湊はいずれも土佐の国府(今の高知県南国市)に近い浦で、一行は浦戸湾から外海へ出る機会を待った。正月の元日を船の上で迎えた一行は、屠蘇や歯固めの品さえそろわない旅先で、都の正月の様子を思いやっている。
関連
出典
- 底本
- 丸岡桂・松下大三郎編『国文大観』日記草子部(土佐日記) 板倉屋書房、明治36年(1903)、1–4頁(コマ3–5)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日