人物事典 / は行
藤原親経
ふじわらのちかつね
1151–1210
人物について
藤原俊経の子。文章博士・式部大輔などを務めた漢学者。後鳥羽院の立場で真名序を書いた。
古典ライブラリーで読める歌:『新古今和歌集』
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『新古今和歌集』の藤原親経
新古今和歌集・真名序(一)新古今和歌集夫れ和歌は群德の祖、百福の宗なり。玄象天成りて五際六情の義未だ著はれず、素鵞地靜かにして三十一字の詠甫めて興る。爾來源流寔に繁く、長短異なりと雖も、或は下情を舒べて聞に達し、或は上德を宣べて化を致し、或は遊宴に屬して懷を書し、或は艶色を採りて言を寄す。誠に是れ世を理め民を撫づるの鴻徽、心を賞し事を樂しむの龜鑑なる者なり。 是を以て聖代明時、集めて之を錄し、各精微を窮む、何を以てか漏脫せむ。然れども猶崑嶺の玉は之を採れども餘り有り、鄧林の材は之を伐れども盡くること無し。物既に此の如し。歌も亦宜しく然るべし。 仍りて參議右衞門督源朝臣通具、大藏卿藤原朝臣有家、左近衞權中將藤原朝臣定家、前上總介藤原朝臣家隆、左近衞權少將藤原朝臣雅經等に詔して、貴賤高下を擇ばず、錦句玉章を撫はしめ、神明の詞、佛佗の作も、希夷を表さむが爲に雜へて同じく隷せしむ。曩昔より始めて當時に迄るまで、彼此總べ編みて、各呈進せしむ。 玄圃花芳しき朝、璅砌風涼しき夕に至る每に、難波津の遺流を斟み、淺香山の芳躅を尋ね、式て吟じ式て詠じ、犀象の牙角を拔き、黨無く偏無く、翡翠の羽毛を採り、裁成して二千首を得、類聚して二十卷と爲し、名づけて新古今和歌集と曰ふ。原文・訳・解説を読む 新古今和歌集・真名序(二)新古今和歌集時令節物の篇は、四序を履みて星のごとく羅なり、衆作雜詠の什は、群品を並べて雲のごとく布く。綜緝の致、蓋し備はれりと云ふ。 伏して惟みれば、朕代邸より天子の位を踐み、漢宮を謝して汾陽の蹤を追ふ、今上陛下の嚴親なり。帝道の諮詢に隙無しと雖も、日域朝廷の本主なり。爭か我が國の習俗を賞せざらむ。方今荃宰體を合はせ、華夷仁を詠じ、風化萬春を樂しむ。春日野の草悉く靡き、月宴千秋を契り、秋津洲の塵惟れ靜かなり。誠に無爲有截の時に膺りて、毫を染め牋を採るの志を頤ふべし。故に此の一集を撰びて、永く百王に傳へむと欲す。 彼の上古の萬葉集は、蓋し是れ倭歌の源なり。編次の起り、因准の儀は、星序惟れ邈かにして、煙欝として披き難し。延喜に古今集有り、四人綸命を含みて之を成せり。天曆に後撰集有り、五人綸言を奉じて之を成せり。其の後拾遺、後拾遺、金葉、詞花、千載等の集有り。聖王數代の勅より出づと雖も、殊に恨むらくは撰者一身の最たることを。 茲に因りて、延喜天曆二朝の遺美を訪ひ、法河涉虛五輩の英豪を定め、神仙の居を排き、刊修の席を展ぶるのみ。斯の集の體たるや、先づ萬葉集の中を抽き、更に七代集の外を拾ひ、深く索めて微長も遺すこと無く、廣く求めて片善も必ず擧ぐ。 但し網を山野に張ると雖も、微禽自ら逃れ、筌を江湖に連ぬと雖も、小鮮偸かに漏る。誠に視聽の達せざるに當りて、定めて篇章の猶遺れる有らむ。今只採り得るに隨ひて、且つ勒し終ふる所なり。 抑古今に於ては當代の御製を載せず、後撰より初めて其の時の天章を加ふ。各一部を考ふるに十首に滿たず。而るに今入るる所の自詠、已に三十首に餘れり。六義若し相兼ねば、一兩も足るべしと雖も、風骨の絕妙無きに依りて、還りて露詞の多く加はる有り。偏に道に耽るの思ひを以て、多情の眼を顧みず。凡そ厥の取捨は、嘉尙の餘り、特に沖襟を運らす。 伏義皇德を基めてより四十萬年、異域自ら聖造の書史を觀ると雖も、神武帝功を開きてより八十二代、當朝未だ叡策の撰集を聽かず。定めて知る、天下の都人士女、斯の道の遭逢を謳歌せむことを。獨り仙洞無何の鄕に嘲風哢月の興有ることを記すのみにあらず、亦皇家元久の歲に溫故知新の心有ることを呈さむと欲す。修撰の趣、茲に在らずや。時に聖曆乙丑、王春三月と爾云ふ。原文・訳・解説を読む