大鏡 第45章
堀河中宮と顕光
兼通の娘媓子は円融天皇の中宮(堀河中宮)となったが、皇子に恵まれず若くして亡くなった。幼いころ父に顧みられなかったが、稲荷詣でなどの祈りを重ねて后となったという。兼通の長男顕光は左大臣まで上ったが、死後「悪霊左府」と恐れられた。顕光の娘の延子は小一条院の妃となったが、院が道長の娘寛子のもとに移ったため、悲しみのうちに亡くなり、父とともに怨霊となって寛子に取り憑いたという。
- 1此此このとのゝとのゝとのの御御おんむすめむすめむすめ式部卿式部卿しきぶきょうののの宮宮みやのののみこみこみこののの御御おんむすめのむすめのむすめのはらのはらのはらの。。。圓融院圓融院えんゆういんののの御時御時おおんときののの女御女御にょうごにまいりにまいりにまいり給給たまててて。。。天延天延てんえん元年元年がんねん七月七月しちがつ十一日十一日じゅういちにち后后きさきにたゝせにたゝせにたたせ給給たまててて。。。
- 2ほりほりほり川川がわののの中宮中宮ちゅうぐうととと申申もうききき。。。みこむまれみこむまれみこむまれ給給たまはずなりにきはずなりにきわずなりにき。。。天延天延てんえん二年二年にねん六月六月ろくがつ二日二日ふつかうせうせうせ給給たまにきにきにき。。。おさなくおはしましゝおさなくおはしましゝおさなくおわしまししほどほどほどははは。。。いかなりけるにかいかなりけるにかいかなりけるにか。。。
- 3れいのれいのれいの御御おんおやのやうにつねにおやのやうにつねにおやのようにつねに見見み奉奉たてまつりなどもしりなどもしりなどもし給給たまはざりしかばはざりしかばわざりしかば。。。御心御心みこころいとかしこくいとかしこくいとかしこく又又また御御おんうしろうしろうしろ見見みなどこそなどこそなどこそははは申申もうすゝめけめすゝめけめすすめけめ。。。ものまうでいのりものまうでいのりものもうでいのりをををいみじうせさせいみじうせさせいみじゅうせさせ給給たまけるとかけるとかけるとか。。。
- 4此此この女女おんなどもどもども見見み奉奉たてまつりけりりけりりけり。。。いとくるしげにていとくるしげにていとくるしげにて御御おんうしろうしろうしろをををしやりてしやりてしやりて。。。あふがれさせあふがれさせあうがれさせ給給たまひけるひけるいける御御おんすがたつきすがたつきすがたつき。。。さしぬぎのこしぎさしぬぎのこしぎさしぬぎのこしぎはははなどもなどもなども。。。
- 5さささはははいへどおほくのいへどおほくのいえどおおくの人人ひとよりよりよりはははけだかくけだかくけだかく。。。なべてならずぞおはしましけるなべてならずぞおはしましけるなべてならずぞおわしましける。。。かやうにつとめさせかやうにつとめさせかようにつとめさせ給給たまつもりにやつもりにやつもりにや。。。やう〳〵やう〳〵ようようおとなびおとなびおとなび給給たままゝにまゝにままに。。。
- 6これよりおとなゝるこれよりおとなゝるこれよりおとななる御御おんむすめもおはしまさねばむすめもおはしまさねばむすめもおわしまさねば。。。さりとてさりとてさりとて后后きさきにににたて〳〵たて〳〵たてたてまつらであるべきならねばまつらであるべきならねばまつらであるべきならねば。。。かくかくかく參參まいらせたてまつらせらせたてまつらせらせたてまつらせ給給たまててて。。。いとやむごとなくてさぶらはせいとやむごとなくてさぶらはせいとやむごとなくてさぶらわせ給給たましぞかししぞかししぞかし。。。
- 7いまひとゝころのいまひとゝころのいまいとところのひめぎみひめぎみひめぎみははは給給たまへりしへりしえりし今今いまにおはしますにおはしますにおわします。。。六條左大臣殿六條左大臣殿ろくじょうのさだいじんどのののの御子御子みこのさぬきのかみののさぬきのかみののさぬきのかみのうへにておはするとかやうへにておはするとかやうえにておわするとかや。。。
- 8又又また太郎太郎たろう君君きみ聞聞きこえしえしえし。。。ほりかほりかほりかはははののの左大臣左大臣さだいじんととと申申もう。。。長德長德ちょうとく二年二年にねん丙申丙申ひのえさる七月七月しちがつ廿日廿日はつか右大臣右大臣うだいじんにならせにならせにならせ給給たまにきにきにき。。。治安治安じあん元年元年がんねん五月五月ごがつ廿五日廿五日にじゅうごにちぞぞぞうせうせうせ給給たまししし。。。
- 9御年御年おおんとし七十三四七十三四しちじゅうしにやおはしましけんにやおはしましけんにやおわしましけん。。。このこのこの五年五年ごねん計計ばかりにやなりぬらんにやなりぬらんにやなりぬらん。。。ののの左左ひだりのおのおのおほいとのとほいとのとほいとのと申申もうつたへたるつたへたるつたえたる。。。いといといと心心こころうきうきうき御名御名みなぞかしぞかしぞかし。。。そのゆくゑどもみなそのゆくゑどもみなそのゆくえどもみなはははかたりかたりかたり侍侍はべべしべしべし。。。
- 10このこのこの北北きた方方かたにににはむらかみのせんていのはむらかみのせんていのはむらかみのせんていの女御女御にょうごのののみやみやみやのののみやすみやすみやす所所ところののの御御おんはははらぞかしらぞかしらぞかし。。。そのそのその御御おんはははらにおとこらにおとこらにおとこ一人一人ひとり女女おんな二人二人ふたりぞおはしましゝぞおはしましゝぞおわしましし。。。
- 11おとこおとこおとこ君君きみははは少將少將しょうしょうとてとてとて。。。心心こころばへいうそくによおぼえばへいうそくによおぼえばえいうそくによおぼえをもをもをもくてまじらひくてまじらひくてまじらい給給たましししほどにほどにほどに。。。よによによにひさしくおはしもすまじかりければにやひさしくおはしもすまじかりければにやひさしくおわしもすまじかりければにや。。。
- 12出家出家しゅっけしてしてしてうせうせうせ給給たまにきにきにき。。。女君女君おんなぎみひとゝころひとゝころひとところははは。。。一條院一條院いちじょういんののの御時御時おおんときのののののの女御女御にょうごとておはせしかどとておはせしかどとておわせしかど。。。院院いんうせうせうせ給給たまてのちてのちてのち。。。すゑにすゑにすえにはははためひらのためひらのためいらの式部卿式部卿しきぶきょうののの宮宮みやののの御子御子みこ賴定賴定よりさだののの君君きみののの北北きた方方かたにてにてにて。。。
- 13あまたのあまたのあまたのきんだちきんだちきんだちうみつゞけておはすめりうみつゞけておはすめりうみつづけておわすめり。。。そのそのそのほどのほどのほどの御御おん事事ことどもどもどもはははみなみなみな人人ひとしろしめしたらむかししろしめしたらむかししろしめしたらむかし。。。其其その宰相宰相さいしょううせうせうせ給給たまてしかばあまになりておはしますてしかばあまになりておはしますてしかばあまになりておわします。。。
- 14一一ひとところところところははは今今いまののの小一條院小一條院こいちじょういんのまだのまだのまだ式部卿式部卿しきぶきょうののの宮宮みやととと申申もうしゝおりしゝおりししおり。。。むこにとりたてまつらせむこにとりたてまつらせむこにとりたてまつらせ給給たまへりしへりしえりしほどにほどにほどに。。。東宮東宮とうぐうにたゝせにたゝせにたたせ給給たまへりしへりしえりしをををうれしきうれしきうれしき事事ことにおぼしゝかどにおぼしゝかどにおぼししかど。。。
- 15院院いんにならせにならせにならせ給給たまにしにしにし後後のちははは。。。高松殿高松殿たかまつどの殿殿どのにわたらせにわたらせにわたらせ給給たまててて。。。御心御心みこころ計計はかはははかよはせかよはせかよわせ給給たまながらかよはせながらかよはせながらかよわせ給事給事たまうことたえにしかばたえにしかばたえにしかば。。。女御女御にょうごもちゝおとゞもいみじうおぼしなげきしもちゝおとゞもいみじうおぼしなげきしもちちおとどもいみじゅうおぼしなげきしほどにほどにほどに。。。
- 16御御おんやまひにもなりにけるにややまひにもなりにけるにややまいにもなりにけるにや。。。すぎにしすぎにしすぎにしのののとしとしとしののの二月二月にがつ計計ばかりにににうせうせうせ給給たまにきにきにき。。。いみじきものになりていみじきものになりていみじきものになりて。。。ちゝおとゞぐしてころしありきちゝおとゞぐしてころしありきちちおとどぐしてころしありき給給たまなれなれなれ。。。
- 17院院いんののの女御女御にょうごにににはははつねにつきわづらはせつねにつきわづらはせつねにつきわずらわせ給給たま也也なり。。。其其その腹腹はらににに宮宮みやだちあまたところおはすだちあまたところおはすだちあまたところおわす。。。
現代語訳
この殿(兼通)の御娘で、式部卿の宮元平親王の御娘の腹の姫君(媓子)は、円融院の御時に女御として入内なさって、天延元年七月十一日に后にお立ちになって、堀河の中宮と申し上げた。皇子はお生まれにならずに終わった。天延二年六月二日にお亡くなりになった。幼くていらしたころは、どういうわけか、普通の親のようにいつも見申し上げなどもなさらなかったので、(姫君の)お心がたいそう賢く、また後見の人などが勧め申し上げたのでしょう、物詣でや祈りをたいそうなさったとか。稲荷の坂でもこの女ども(私の家の者)がお見かけしたのでした。たいそう苦しそうで、後ろを押させて、扇であおがれていらしたお姿、指貫の腰際なども、そうはいってもほかの人よりは気高く、並々でなくいらっしゃった。このように努めなさった積み重ねでしょうか、だんだん大人びていかれるにつれて、これより年長の御娘もいらっしゃらないので、そうかといって后にお立て申し上げないでいるわけにもいかないので、このように入内させ申し上げなさって、たいそう重々しくお仕えなさったのですよ。
もうお一人の姫君は、尚侍におなりになって今もいらっしゃる。六条左大臣殿(重信)のお子の讃岐守の北の方でいらっしゃるとか。
また長男の顕光と申し上げた方は、堀河の左大臣と申し上げる。長徳二年丙申七月二十日に右大臣におなりになった。治安元年五月二十五日にお亡くなりになった。御年七十三、四でいらしたでしょうか。(亡くなって)五年ほどになるでしょうか。「悪霊の左の大臣」と申し伝えているのは、たいへん情けないお名前ですよ。その末々のことはみなお話ししましょう。この(顕光の)北の方は、村上の先帝の女御の宮で、広幡の御息所の御腹(の盛子内親王)ですよ。その御腹に男一人、女二人がいらっしゃった。男君は重家の少将といって、心ばえも故実に通じて評判も重々しく宮仕えなさっていたが、世に長くいるつもりもなかったからでしょうか、出家して亡くなった。女君のお一人(元子)は、一条院の御時の承香殿の女御といっていらしたが、院がお亡くなりになったのち、最後には為平式部卿の宮の御子、源宰相頼定の君の北の方となって、たくさんのお子たちを産み続けていらっしゃるようです。そのころのことはみなさんご存じでしょう。その宰相がお亡くなりになったので、尼になっていらっしゃる。もうお一人(延子)は、今の小一条院がまだ式部卿の宮と申し上げていたとき、婿にお迎え申し上げなさっていたところ、(宮が)東宮にお立ちになったのをうれしいことにお思いになったが、院におなりになってのちは、高松殿の御匣殿(寛子)のもとにお渡りになって、お心だけは通わせながら、お通いになることは絶えてしまったので、女御も父大臣もたいそう嘆いていらしたうちに、ご病気にもなったのでしょうか、過ぎた未の年の二月ごろにお亡くなりになった。恐ろしいもの(怨霊)になって、父大臣を連れて取り殺して歩いていらっしゃるそうです。院の女御(寛子)にはいつも取り憑いてお悩ませになるのです。その(延子の)腹に宮たちが大勢いらっしゃる。
意訳
兼通の娘媓子は円融天皇の中宮となったが、子に恵まれず二十代で亡くなった。世継は、幼いころ父に顧みられなかった媓子が、自ら物詣でや祈りを重ね、そのかいあって后になったと語る。苦しそうに稲荷の坂を登る少女の姿を、世継の家の女たちが見かけたという話には、哀れさとけなげさがある。
兼通の長男顕光は、無能と評されながらも左大臣まで上った。しかしその晩年は不幸だった。娘延子は敦明親王の妃となり、親王が東宮となったときは喜んだが、親王が東宮を退いて小一条院となると、道長の娘寛子を妻に迎え、延子のもとには通わなくなった。延子は悲しみのうちに亡くなり、顕光も後を追うように亡くなった。
二人は怨霊となって、寛子をはじめ道長の娘たちに祟ったと信じられ、顕光は「悪霊左府」と呼ばれた。世継は「たいへん情けないお名前だ」と言いながら、道長の栄華の陰にあった敗者の怨念を伝えている。
語釈・文法注
- もとひらのみこ
- 元平親王(?〜958)。陽成天皇の皇子。式部卿。
- 姫君
- 藤原媓子(947〜979)。兼通の娘。円融天皇の中宮。堀河中宮と呼ばれた。
- いなりのさか
- 稲荷山の坂。伏見稲荷の参詣道。
- ないしのかみ
- 尚侍。
- あきみつ
- 藤原顕光(944〜1021)。兼通の長男。左大臣。死後、怨霊となって道長一家に祟ったとされ、「悪霊左府」と呼ばれた。
- 惡靈の左のおほいとの
- 悪霊の左大臣。顕光のあだ名。
- ひろかたのみやす所
- 広幡の御息所。源計子。村上天皇の更衣。
- しげいへの少將
- 藤原重家(977〜?)。顕光の子。少将のとき出家した。
- 承香殿の女御
- 藤原元子。顕光の娘。一条天皇の女御。のち源頼定の妻となった。
- 源宰相賴定
- 源頼定(977〜1020)。為平親王の子。参議。
- いま一ところ
- 藤原延子(?〜1019)。顕光の娘。敦明親王の妃。堀河女御と呼ばれた。
- みくしげ殿
- 御匣殿。道長の娘寛子。母は源明子(高松殿)。
- ひつじのとし
- 未の年。寛仁三年(1019)己未。
文法
- 申すゝめけめ
- 「けめ」は過去推量「けむ」の已然形で「こそ」の結び。
- たて〳〵まつらで
- 「たてたてまつらで」。お立て申し上げないで。
- かたり侍べし
- お話しいたしましょう。
- ころしありき給なれ
- 「なれ」は伝聞推定。取り殺して歩いていらっしゃるそうだ。
解説
顕光(944〜1021)は兼通の長男で、儀式の作法の失敗を何度も記録され、道長や実資から無能と評された。しかし長く左大臣の地位にあり、死後は娘延子とともに道長一家に祟る怨霊として恐れられた。
底本は媓子が入内した天皇を「圓融院」とし、立后を天延元年とする。媓子の立后は天延元年(973)七月で、正しい。崩御は天元二年(979)で、底本の「天延二年」とは合わない。
「すぎにしひつじのとし」は寛仁三年(1019)。延子はこの年四月に亡くなったとされる。
関連
出典
- 底本
- 経済雑誌社編『国史大系』第17巻(大鏡) 経済雑誌社、明治34年(1901)、573〜575頁(コマ302–303)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
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