大鏡 第36章
伊尹の栄華
巻五の始まり。師輔の長男伊尹(一条摂政)は、自ら「豊蔭」と名のって家集を作った風流人で、帝の叔父・東宮の外祖父として摂政となったが、大臣となって三年、四十九歳で亡くなった。父の遺言に背いて葬送を簡略にしなかったためだと噂された。豪奢を好み、大饗のとき寝殿の裏板の黒ずみを陸奥紙で張らせたという。娘の懐子は花山天皇の母となり、尊子内親王(火の宮)のために『三宝絵』が作られた。
- 1太政大臣太政大臣だいじょうだいじん
- 2このおとゞこのおとゞこのおとど一條攝政一條攝政いちじょうのせっしょうととと申申もうききき。。。これこれこれ九條九條くじょう殿殿どのののの一男一男いちなんにおはしますにおはしますにおわします。。。いみじきいみじきいみじき御集御集おおんしゅう給給たまへりへりえり。。。大臣大臣だいじんになりになりになり榮榮さかへへへ給給たまててて三年三年さんねん。。。
- 3いとわかくていとわかくていとわかくて天祿天祿てんろく三年三年さんねん十一月十一月じゅういちがつ一日一日ついたちにににうせうせうせ給給たまにきにきにき。。。御歲御歲おおんとし四十九四十九しじゅうく。。。御御おんいみないみないみなととと申申もうききき。。。いとわかくていとわかくていとわかくてうせおはしましたるうせおはしましたるうせおわしましたる事事ことははは。。。九條九條くじょう殿殿どのののの御御おん遺言遺言ゆいごんをををたがへさせたがへさせたがえさせ給給たまへるけとぞへるけとぞえるけとぞ人申人申ひともうけるけるける。。。
- 4されどいかでかされどいかでかされどいかでかはははさらでもおはしまさむさらでもおはしまさむさらでもおわしまさむ。。。御葬御葬みわぶり送送そうのさたのさたのさたをををむげにむげにむげににかきにかきにかきをををかせかせかせ給給たまへりければへりければえりければ。。。いかでかいとさいかでかいとさいかでかいとさはははとてとてとて。。。れいのれいのれいの作法作法さほうにおこなはせにおこなはせにおこなわせ給給たまとぞとぞとぞ。。。
- 5それそれそれはははことはりのことはりのことわりの御御おんしわざぞかししわざぞかししわざぞかし。。。たゞたゞただ御御おんかたちかたちかたち身身みのざえなにのざえなにのざえなに事事こともあまりすぐれさせもあまりすぐれさせもあまりすぐれさせ給給たまへればへればえれば。。。御御おんいのちのみとゝのいのちのみとゝのいのちのみととのはせはせはせ給給たまはざりけるにこそはざりけるにこそわざりけるにこそ。。。
- 6おり〳〵おり〳〵おりおりののの御御おん和歌和歌わかなどこそめでたくなどこそめでたくなどこそめでたく侍侍はべれなれなれな。。。ののの使使つかいにおはしましてにおはしましてにおわしまして。。。かへさにかへさにかえさに女女おんなのもとにつかはしたりけるのもとにつかはしたりけるのもとにつかわしたりける。。。
- 7くればとくゆきてかたらんあふくればとくゆきてかたらんあふくればとくゆきてかたらんあう事事ことのとのとのとをををちのさとのすみちのさとのすみちのさとのすみうかりしもうかりしもうかりしも
- 8御返御返おおんかえしししし。。。
- 9あふあふあう事事ことはははをををちのちのちの里里さとにににほどへしもよしほどへしもよしほどえしもよし野野のののの山山やまとおもふなりけんとおもふなりけんとおもうなりけん。。。
- 10少將少將しょうしょう使使つかいにてにてにて下下くだられしにられしにられしに。。。殿上殿上てんじょうにてにてにて餞餞はなむけににに菊菊きくののの花花はなうつろひたるうつろひたるうつろいたるををを題題だいにてにてにて別別わかれののの歌歌うたよませよませよませ給給たまへるへるえる。。。
- 11さとさとさとをををくうつろひぬとかきくのくうつろひぬとかきくのくうつろいぬとかきくの花花ばなおりておりておりて見見みるだにあかぬこゝろるだにあかぬこゝろるだにあかぬこころををを。。。
- 12御門御門みかどののの御御おんおぢおぢおじ東宮東宮とうぐうののの御御おんおほぢにておほぢにておおじにて攝政攝政せっしょうせさせせさせせさせ給給たまへばへばえば。。。世世よののの中中なかはははわがわがわが御心御心みこころにかなはぬことなくにかなはぬことなくにかなわぬことなく。。。ことのことのことのほかにこのませほかにこのませほかにこのませ給給たまててて大饗大饗だいきょうせさせせさせせさせ給給たまににに。。。
- 13寢殿寢殿しんでんのののうらうらうら板板いたのかべのすこしくろかりければのかべのすこしくろかりければのかべのすこしくろかりければ。。。俄俄にわかににに御御ごらんじつけてらんじつけてらんじつけて。。。國國くにがみがみがみをををつぶとつぶとつぶとをををさせさせさせ給給たまへりけるがへりけるがえりけるが。。。なか〳〵なか〳〵なかなかしろくきよらにしろくきよらにしろくきよらに侍侍はべけるけるける。。。おもひよるべきとかおもひよるべきとかおもいよるべきとかはははななな。。。
- 14御御おん家家けははは今今いまのののぞかしぞかしぞかし。。。御御おんぞぞぞうのうのうの氏寺氏寺うじでらにてにてにてをををかれたるかれたるかれたるををを。。。かやうのついでにかやうのついでにかようのついでにはははたちいりてたちいりてたちいりて見見み給給たまふればふればうれば。。。まだそのかみのまだそのかみのまだそのかみのをををされてされてされて侍侍はべこそこそこそ。。。
- 15むかしにあへるむかしにあへるむかしにあえる心心こころちしてあはれにちしてあはれにちしてあわれに見見み給給たまふれふれうれ。。。かくやうのかくやうのかくようの御御おんさかへさかへさかえををを御御ごらんじらんじらんじをををきてきてきて。。。御年御年おおんとし五十五十ごじゅうにだにたらでにだにたらでにだにたらでうせさせうせさせうせさせ給給たまへるあたらしさへるあたらしさえるあたらしさははは。。。
- 16ちゝおとゞにもおとらせちゝおとゞにもおとらせちちおとどにもおとらせ給給たまはずとこそよはずとこそよわずとこそよ人人ひとおしみたてまつりしかおしみたてまつりしかおしみたてまつりしか。。。
- 17其其その御御おんおとこおとこおとこ女女おんなののの君君きみだちあまたおはしましきだちあまたおはしましきだちあまたおわしましき。。。女君女君おんなぎみ一人一人ひとりははは。。。冷泉院冷泉院れいぜいいんののの御時御時おおんときののの女御女御にょうごにてにてにて花山院花山院かざんいんののの御母御母みわわ。。。にならせにならせにならせ給給たまにきにきにき。。。次〳〵次〳〵つぎつぎののの女君女君おんなぎみ二人二人ふたりははは法住寺法住寺ほうじゅうじののの大臣大臣だいじんののの北北きたののの方方かたにてにてにてうちつゞきうちつゞきうちつづきうせさせうせさせうせさせ給給たまにきにきにき。。。
- 18九九く君君きみははは冷泉院冷泉院れいぜいいんののの御御おんみこのみこのみこのととと申申もうししし御御おんうへにておはせしうへにておはせしうえにておわせしををを。。。其其その宮宮みやうせうせうせ給給たまてのちてのちてのち。。。あまにていみじうおこなひつとめておはすめりあまにていみじうおこなひつとめておはすめりあまにていみじゅうおこないつとめておわすめり。。。又又またさだきみのさだきみのさだきみの兵衞督兵衞督ひょうえのかみののの北北きたののの方方かたにておはせしがにておはせしがにておわせしが。。。
- 19のちにのちにのちにははは六條六條ろくじょうののの左大臣左大臣さだいじん殿殿どのののの御子御子みこののの左大辨左大辨さだいべんのののうへにておはしけるうへにておはしけるうえにておわしけるははは四四し君君きみとこそとこそとこそははは。。。又又また花山院花山院かざんいんののの御御おんいもいもいもうとのうとのうとの君君きみ。。。一一ひと宮宮みやはははうせうせうせ給給たまにきにきにき。。。二二に君君きみははは圓融院圓融院えんゆういんののの御時御時おおんときののの齋院齋院さいいんにたゝせにたゝせにたたせ給給たまててて。。。
- 20天延天延てんえん三年三年さんねんになりになりになり給給たまててて。。。貞元貞元じょうげん三年三年さんねんににに圓融院圓融院えんゆういんののの御時御時おおんとき女御女御にょうごにまいりにまいりにまいり給給たまへりしへりしえりし。。。ほどもなくうちのやけにしかばほどもなくうちのやけにしかばほどもなくうちのやけにしかばののの宮宮みやとよのとよのとよの人人ひともつけたてまつりきもつけたてまつりきもつけたてまつりき。。。
- 21さてさてさて一二度一二度にどまいりまいりまいり給給たまてててほどもなくうせさせほどもなくうせさせほどもなくうせさせ給給たまにきにきにき。。。此此この宮宮みやににに御御ごらんぜさせむとてらんぜさせむとてらんぜさせむとてはつくれるはつくれるわつくれる也也なり。。。
現代語訳
太政大臣伊尹
この大臣は一条摂政と申し上げた。これは九条殿の長男でいらっしゃる。すばらしい御家集を作って、「豊蔭(とよかげ)」と名のりなさった。大臣になってお栄えになって三年。たいそう若くて、天禄三年十一月一日にお亡くなりになった。御年四十九。御諱を謙徳公と申し上げた。たいそう若くてお亡くなりになったことは、九条殿のご遺言にお背きになったためだと人は申した。けれどもどうしてそうでなくていられましょう。(九条殿が)ご葬送の指図をたいへん簡略に書き置きなさっていたので、「どうしてそのようには」と言って、普通の作法でお行いになったということです。それはもっともなおふるまいですよ。ただ、ご容貌も学才も何事もあまりにすぐれていらしたので、お命だけがそろわなかったのでしょう。折々の御和歌などはすばらしゅうございますな。春日の使いにいらして、帰りに女のもとに送りなさった(歌)。
くればとくゆきて語らむあふことのとをちの里の住み憂かりしも
御返し。
あふことはとをちの里にほど経しも吉野の山と思ふなりけむ
佐信の少将が宇佐の使いとして下られたときに、殿上で、餞別に「菊の花の移ろったもの」を題として、別れの歌をお詠ませになった(ときの歌)。
さとをくうつろひぬとか菊の花折りて見るだにあかぬ心を
(伊尹は)帝の叔父、東宮の外祖父として摂政をなさったので、世の中はご自分のお心にかなわないことがなく、華美をことのほかお好みになって、大饗をなさったとき、寝殿の裏板の壁が少し黒かったので、急にお目にとめて、とりあえず陸奥紙をすっかり張らせなさったのが、かえって白くきれいでございました。(普通の人が)思いつくことではありませんな。
お屋敷は今の世尊寺ですよ。ご一族の氏寺としておかれているのを、こういう機会には立ち寄って拝見しますと、まだその当時の紙が張られていますのは、昔に会った心地がしてしみじみと拝見します。このようなご繁栄をご覧になりながら、御年五十にもならずにお亡くなりになった惜しさは、父の大臣にも劣らないと、世の人は惜しみ申し上げた。
その男女のお子たちがたくさんいらっしゃった。女君のお一人は冷泉院の御時の女御で、花山院の御母、贈皇后宮におなりになった。次々の女君お二人は、法住寺の大臣(為光)の北の方として、続いてお亡くなりになった。九の君は冷泉院の皇子の弾正宮(為尊親王)と申し上げた方の北の方でいらっしゃったが、その宮がお亡くなりになってのち、尼としてたいそう修行に励んでいらっしゃるようです。また佐理の君……兵衛督の北の方でいらしたのが、のちには六条の左大臣殿(重信)の御子の左大弁の北の方でいらっしゃったのは四の君だとか。また花山院の御妹の君(懐子の産んだ皇女たち)のうち、一の宮はお亡くなりになった。女二の宮(尊子内親王)は円融院の御時の斎院にお立ちになって、天延三年に(斎院を退き)なさって、貞元三年に円融院の御時の女御として入内なさった。まもなく内裏が焼けたので、「火の宮」と世の人もおつけ申し上げた。そうして一、二度参内なさって、まもなくお亡くなりになった。この宮にご覧に入れようとして『三宝絵』は作ったのである。
意訳
巻五は伊尹の伝から始まる。伊尹は師輔の長男で、円融天皇の摂政となったが、わずか三年後に四十九歳で亡くなった。世継は、父師輔が「葬送は簡素に」と遺言したのに、伊尹が普通の作法で行ったため、その報いだと噂されたことを伝えつつ、「何事にもすぐれすぎて、命だけが欠けたのだろう」と惜しむ。
伊尹は「豊蔭」という架空の人物に託した歌物語風の家集(『一条摂政御集』)を作るほどの風流人であった。春日の使いの帰りに女と交わした歌、宇佐の使いを送る餞別の歌が紹介される。また、大饗の当日に寝殿の裏板が黒ずんでいるのに気づき、とっさに白い陸奥紙を張らせたという話には、華やかなことを好んだ伊尹の人柄がよく表れている。その紙は、世継のころまで世尊寺に残っていたという。
娘の懐子は花山天皇を産んだ。皇女の尊子内親王は円融天皇の女御となったが、入内してまもなく内裏が焼けたので「火の宮」とあだ名され、若くして亡くなった。源為憲が彼女のために作った仏教説話集が『三宝絵』である。
語釈・文法注
- 太政大臣伊尹
- 藤原伊尹(924〜972)。師輔の長男。円融天皇の摂政・太政大臣。一条摂政と呼ばれた。
- とよかげ
- 豊蔭。伊尹が家集『一条摂政御集』で自分を「大蔵史生倉橋豊蔭」という身分の低い男に仮託したもの。
- 謙德公
- 伊尹の諡。
- 略定
- 簡略な定め。
- 春日の使
- 春日祭の勅使。
- とをちのさと
- 十市の里。大和国の地名。「遠」をかける。
- すけのぶの少將
- 藤原佐信か。伝未詳。宇佐八幡宮への勅使となった。
- うさの使
- 宇佐使。宇佐八幡宮へ遣わされる勅使。
- くわさ
- 過差。身分を越えたぜいたく。
- みちの國がみ
- 陸奥紙。白く厚い上質の紙。
- 世尊寺
- 伊尹の一条の邸を、孫の行成が寺としたもの。
- 贈皇后宮
- 藤原懐子。伊尹の娘。冷泉天皇の女御で花山天皇の母。死後、皇太后を贈られた。
- 彈正宮
- 為尊親王(977〜1002)。冷泉天皇の皇子。和泉式部の恋人として知られる。
- 女二君
- 尊子内親王(966〜985)。冷泉天皇の皇女で、母は懐子。斎院を経て円融天皇の女御となった。
- 火の宮
- 尊子内親王の入内後まもなく内裏が焼けたことからのあだ名。
- 三寶給
- 『三宝絵』。源為憲が永観二年(984)に尊子内親王のために著した仏教説話集。底本は「給」とするが「絵」の誤り。
文法
- うせおはしましたる事は
- お亡くなりになったことは。
- さらでもおはしまさむ
- 「いかでかは」と呼応して反語。そうでなくていらっしゃれようか。
- とゝのはせ給はざりけるにこそ
- 「にこそ」の下に「あらめ」が省略。
- おもひよるべきとかはな
- 「かは」は反語。思いつくことであろうか。
- おしみたてまつりしか
- 「しか」は「こそ」の結び。
和歌・漢詩
くればとくゆきてかたらんあふ事のとをちのさとのすみうかりしも
- 作者
- 藤原伊尹
- 状況
- 春日祭の勅使として奈良に下った帰りに、女のもとに贈った歌。日が暮れたら早く行って話そう。逢うことの遠い十市の里に住みにくかった間のことも。
修辞
- 掛詞
- 「とをち」に地名の「十市」と「遠」をかける。
あふ事はとをちの里にほどへしもよし野の山とおもふなりけん
- 作者
- 女
- 状況
- 伊尹への返歌。逢うことが遠かった十市の里で日を過ごしていたのも、あなたは(私を)吉野の山のように遠いものと思っていたからなのでしょう。
修辞
- 掛詞
- 「とをち」に「十市」と「遠」をかける。
さとをくうつろひぬとかきくの花おりて見るだにあかぬこゝろを
- 作者
- 藤原伊尹
- 状況
- 宇佐の使いとして下る佐信を送る宴で、「移ろった菊」を題に詠んだ別れの歌。里遠く移ってしまう(旅立ってしまう)というのか。菊の花は折って見ているだけでも見飽きない心なのに。
修辞
- 掛詞
- 「うつろひ」に、菊の色が変わることと、遠くへ移っていくことをかける。
解説
伊尹は天禄元年(970)に摂政となり、翌年太政大臣、天禄三年(972)に病で辞して亡くなった。華美を好み、贅沢な生活が批判されたことは『大鏡』のほか『栄花物語』にも見える。
底本は女二の宮について「圓融院の御時の齋院にたゝせ給て」とするが、尊子内親王が斎院であったのは冷泉・円融朝で、天延三年(975)に退下し、天元三年(980)に円融天皇の女御となった。底本の年記(貞元三年)とは合わない。底本のとおりに訳した。
世尊寺は伊尹の一条の邸を孫の行成が寺としたもので、世継が「今も伊尹の張らせた紙が残っている」と語るのは、物語の現在とのつながりを感じさせる。
関連
出典
- 底本
- 経済雑誌社編『国史大系』第17巻(大鏡) 経済雑誌社、明治34年(1901)、552〜554頁(コマ292–293)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日