大鏡 第33章
安子の妹たちと高光の出家
賀茂の明神の加護によって、大斎院は五代の帝に仕えて栄えた。安子の妹の登子は重明親王の妻だったが、村上天皇に見初められ、安子も一度は見逃した。安子と重明親王の死後、登子は尚侍として寵愛を受けた。師輔の娘たちは皆それぞれの縁を得、十一人の息子のうち五人が太政大臣となった。中でも多武峯の少将高光は、若くして出家して人々を驚かせ、村上天皇と歌を交わした。
- 1げにかもげにかもげにかも明神明神みょうじんなどのなどのなどのうけたてまつりうけたてまつりうけたてまつり給給たまへればこそへればこそえればこそははは。。。五代五代ごだいまでまでまで打打うつゞきさかへさせつゞきさかへさせつづきさかえさせ給給たまわらめならめならめな。。。このこのこの事事こといとおかしうせさせいとおかしうせさせいとおかしゅうせさせ給給たまへりとよひとへりとよひとえりとよいと申申もうききき。。。
- 2前帥殿前帥殿さきのそちどののみぞのみぞのみぞ追從追從ついしょう。。。行行ぎょうなどなどなど申給申給もうしたまけるけるける。。。
- 3まとこのきさいのまとこのきさいのまとこのきさいの宮宮みやののの御御おん中中なかののの君君きみははは。。。ののの宮宮みやののの北北きた方方かたにてぞおはせしかしにてぞおはせしかしにてぞおわせしかし。。。そのみこそのみこそのみこははは村上村上むらかみののの御御おんはははらからにおはしますらからにおはしますらからにおわします。。。
- 4このみやのこのみやのこのみやの上上うえさるべきことのをりさるべきことのをりさるべきことのおりははは。。。物見物見ものみせたてまつりにとてせたてまつりにとてせたてまつりにとて。。。后后きさきむかへたてまつりむかへたてまつりむかえたてまつり給給たまへばへばえば。。。しのびつゝまいりしのびつゝまいりしのびつつまいり給給たまににに。。。御門御門みかどほのほのほの御御ごらんじてらんじてらんじて。。。
- 5いといといとうつくしうおはしましけるうつくしうおはしましけるうつくしゅうおわしましけるををを。。。いといろあるいといろあるいといろある御心御心みこころくせにてくせにてくせにて。。。宮宮みやにかくなんおもふとあながちにせめにかくなんおもふとあながちにせめにかくなんおもうとあながちにせめ申申もうさせさせさせ給給たまへばへばえば。。。一二度一二度にどしらずがほにてゆるししらずがほにてゆるししらずがおにてゆるし申申もうさせさせさせ給給たまけりけりけり。。。
- 6さてのちさてのちさてのち御御おんこゝろこゝろこころはははかよはせかよはせかよわせ給給たまげなるげなるげなる御御おんけしきなれどけしきなれどけしきなれど。。。さのみさのみさのみはははいかゞいかゞいかがはははとやおぼしめしけんとやおぼしめしけんとやおぼしめしけん。。。后后きさきさらぬさらぬさらぬ事事ことだにこのかたざまにだにこのかたざまにだにこのかたざまにはははなだらかにもえつくりあへさせなだらかにもえつくりあへさせなだらかにもえつくりあえさせ給給たまはざめるなかにはざめるなかにわざめるなかに。。。
- 7ましてこれましてこれましてこれはははよそのよそのよその事事ことよりよりよりははは心心こころづづづきなうもおぼしめすべけれどきなうもおぼしめすべけれどきのうもおぼしめすべけれど。。。御御おんあたりあたりあたりをををひろうかへりひろうかへりひろうかえり見見み給給たま御心御心みこころのののふかさにふかさにふかさに。。。人人ひとののの御御おんためきゝにくゝうたてあればためきゝにくゝうたてあればためききにくくうたてあれば。。。
- 8なだらかにいろにもいでずすぐさせなだらかにいろにもいでずすぐさせなだらかにいろにもいでずすぐさせ給給たまけるこそけるこそけるこそ。。。いとかたじけなふかなしきいとかたじけなふかなしきいとかたじけなうかなしき事事ことなれなれなれ。。。さてさてさて后后きさきののの宮宮みやもももうせおはしましゝうせおはしましゝうせおわしましし。。。式部卿式部卿しきぶきょうののの宮宮みやもももうせうせうせ給給たまててて。。。
- 9みかどわりなくこひしとおぼしければみかどわりなくこひしとおぼしければみかどわりなくこいしとおぼしければ。。。めしとりていみじくめしとりていみじくめしとりていみじく時時ときめかさせめかさせめかさせ給給たまててて。。。内侍内侍ないしのかみとこそのかみとこそのかみとこそ申申もうしかしかしか。。。よになくおぼえおはしてよになくおぼえおはしてよになくおぼえおわして。。。
- 10ことことこと女御女御にょうご宮宮みやすどころそねみすどころそねみすどころそねみ給給たましかどしかどしかど。。。かひなかりけりかひなかりけりかいなかりけり。。。これにつけてもこれにつけてもこれにつけても九條九條くじょう殿殿どのののの御御おんさいはひはひとぞさいはひはひとぞさいわいわいとぞ人申人申ひともうけるけるける。。。
- 11又又また三三さん君君きみははは西宮西宮にしのみや殿殿どのののの北北きた方方かたにておはせしにておはせしにておわせしををを。。。御子御子みこうみてうみてうみてうせうせうせ給給たまにしかばにしかばにしかば。。。よよよ所所ところ人人ひとははは君君きみだちのだちのだちの御御おんためあしかりなんとてためあしかりなんとてためあしかりなんとて。。。またまたまた御御おんおとゝのおとゝのおととの五五ごにあたらせにあたらせにあたらせ給給たま宮宮みやととと申申もうにににうつらせうつらせうつらせ給給たまにきにきにき。。。
- 12四四し君君きみはははとくうせとくうせとくうせ給給たまにきにきにき。。。六六ろく君君きみはははれいぜいれいぜいれいぜい院院いんののの東宮東宮とうぐうにおはしましゝにまいらせにおはしましゝにまいらせにおわしまししにまいらせ給給たまなんどなんどなんど。。。女君女君おんなぎみだちだちだちははは皆皆みなかくなりかくなりかくなり。。。
- 13おとこおとこおとこ君君きみだちだちだちははは十一人十一人じゅういちにんののの御御おん中中なかににに五人五人ごにんははは太政大臣太政大臣だいじょうだいじんにならせにならせにならせ給給たまへりへりえり。。。それあさましくそれあさましくそれあさましくおどろ〳〵おどろ〳〵おどろおどろしきしきしき御御おんさいはひなりかしさいはひなりかしさいわいなりかし。。。其其その御御おんほかほかほかははは右兵衞督右兵衞督うひょうえのかみ又又また北野三位北野三位きたののさんみ。。。
- 14又大又大またおおき藏藏くら卿卿きょう。。。多武峯入道少將君多武峯入道少將君とうのみねにゅうどうしょうしょうぎみなりなりなり。。。法師法師ほうしにてにてにてははは。。。今今いまのののののの僧正僧正そうじょうなどにこそなどにこそなどにこそはははおはしますめれおはしますめれおわしますめれ。。。法師法師ほうしといへどよのといへどよのといえどよの中中なかのいちののいちののいちのにてにてにて。。。
- 15佛佛ほとけのごとくにのごとくにのごとくに公私公私おおやけわたくしたのみあふぎたのみあふぎたのみあうぎ申申もうさぬさぬさぬ人人ひとなしなしなし。。。又又また北野三位北野三位きたののさんみ御子御子みこははは尋空律師尋空律師じんくうりつし。。。朝源律師朝源律師ちょうげんりつしゝゝなり。。。又大又大またおおき藏藏くら卿卿きょうののの御女御女おおんむすめ子子こはははただどのゝただどのゝただどのの北北きた方方かた。。。いまのいまのいまの左衞門左衞門さえもんのかみののかみののかみのはゝはゝははうへうへうえ。。。このこのこの御御おんぞぞぞうかやうにておはしますべきなかにうかやうにておはしますべきなかにうかようにておわしますべきなかに。。。
- 16たうのみねのたうのみねのとうのみねの少將少將しょうしょうののの出家出家しゅっけしたまへりししたまへりししたまえりしほどほどほどははは。。。いかにあはれにもやさしくもいかにあはれにもやさしくもいかにあわれにもやさしくもさま〴〵さま〴〵さまざまなるなるなる事事ことどものどものどもの侍侍さぶらいしかばしかばしかば。。。なかにもみかどのなかにもみかどのなかにもみかどの御御おん消息消息しょうそこつかはしたりしこそつかはしたりしこそつかわしたりしこそ。。。
- 17おぼろげならずおぼろげならずおぼろげならずははは。。。御心御心みこころもやみだれもやみだれもやみだれ給給たまけんとかたじけなくうけけんとかたじけなくうけけんとかたじけなくうけ給給たまはははりしかりしかりしか。。。
- 18みやこよりみやこよりみやこより雲雲くものやへたつおくのやへたつおくのやえたつおく山山やまのよがのよがのよがはははののの軒軒のきはははすみよかるらんすみよかるらんすみよかるらん。。。
- 19御返御返おおんかえしししし。。。
- 20こゝのこゝのここのへのへのへのうちのみつねうちのみつねうちのみつねはははこひしくてこひしくてこいしくて雲雲くものやへたつやまのやへたつやまのやえたつやまはははすみうしすみうしすみゅうし。。。
- 21はじめはじめはじめははははははにすませにすませにすませ給給たましぞかししぞかししぞかし。。。後後のちにににはははにすませにすませにすませ給給たまききき。。。いといみじくいといみじくいといみじく侍侍さぶらいしことぞかししことぞかししことぞかし。。。されどもそれされどもそれされどもそれははは九條九條くじょう殿殿どの后宮后宮きさいのみやなどなどなどうせおはしましてのちのうせおはしましてのちのうせおわしましてのちの事事こと也也なり。。。
- 22此此この殿殿どのののの御出家御出家ごしゅっけこそこそこそ。。。おやだちのさかへさせおやだちのさかへさせおやだちのさかえさせ給給たまことのことのことのはじめはじめはじめをををうちすてゝうちすてゝうちすてて。。。いと〳〵いと〳〵いといとありがたうかなしかりしありがたうかなしかりしありがとうかなしかりし御御おん事事ことよよよ。。。とととうよりさるうよりさるうよりさる御心御心みこころまうけまうけもうけはははおぼしよらせおぼしよらせおぼしよらせ給給たまにけるにやにけるにやにけるにや。。。
- 23御御おんはははらからのらからのらからの公達公達きんだちにぐしたてまつりてにぐしたてまつりてにぐしたてまつりて。。。正月正月しょうがつ二七二七しち夜夜よのののほどにほどにほどに。。。にのぼらせにのぼらせにのぼらせ給給たまへりけるにへりけるにえりけるに。。。さらにさらにさらに御御おんおこなひもせでおこなひもせでおこないもせで。。。おほとのごもりおほとのごもりおおとのごもり給給たまへりければへりければえりければ。。。
- 24殿殿とのばらあかつきになどかくてばらあかつきになどかくてばらあかつきになどかくてふしふしふし給給たまへるへるえる。。。おきておきておきて念誦念誦ねんじゅもせさせもせさせもせさせ給給たまへかしとへかしとえかしと申申もうさせさせさせ給給たまければければければ。。。今一度今一度いまひとたびにとのにとのにとの給給たましししををを。。。そのおりそのおりそのおりははは思思おもひもとがめられざりきひもとがめられざりきいもとがめられざりき。。。
- 25かやうのかやうのかようの御御おんありさまありさまありさまをををおぼしつゞけゝるにやとこそおぼしつゞけゝるにやとこそおぼしつづけけるにやとこそ。。。このをりにこのをりにこのおりにははは君君きみだちおぼしいでゝだちおぼしいでゝだちおぼしいでて申給申給もうしたまけれけれけれ。。。
現代語訳
なるほど、賀茂の明神などがお受け申し上げなさったからこそ、五代まで続いて栄えていらっしゃるのでしょうな。このこと(扇を見せたこと)は、たいそう趣深くなさったと世の人は申しました。前帥殿(伊周)だけが「追従深い老狐だな。ああ見苦しいふるまいだ」などと申しなさったということです。
本当に、この后の宮(安子)の妹の中の君(登子)は、重明式部卿の宮の北の方でいらっしゃったのですよ。その親王は村上天皇の御兄弟でいらっしゃる。この宮の北の方は、しかるべきことの折には、物見をおさせ申し上げようと、后がお迎え申し上げなさるので、忍んで参上なさったのを、帝がちらりとご覧になって、たいそうかわいらしくていらしたので、たいそう色好みのお心癖で、宮(后)に「こう思う」としきりに迫り申しなさったので、(后は)一、二度は知らん顔をしてお許し申しなさった。その後、(帝の)お心は(登子に)通っているようなご様子だったが、そうばかりはどうかとお思いになったのでしょうか。后は、ほかのことでさえこの方面では穏やかにもお振る舞いになれないようなのに、まして(実の妹との)これは、よそのことよりは不愉快にお思いになるはずだったが、周りを広く気にかけなさるお心の深さで、人の聞こえも悪くいやなことなので、穏やかに顔色にも出さずにお過ごしになったのは、まことに恐れ多く悲しいことです。さて后の宮もお亡くなりになり、式部卿の宮もお亡くなりになって、帝はむやみに恋しくお思いになったので、(登子を)お召しになってたいそうご寵愛になって、貞観殿の尚侍と申し上げた。世にないほどのご寵愛で、ほかの女御・御息所がねたまれたけれど、そのかいもなかったのでした。これにつけても、九条殿のご幸運はたいしたものだと人は申しました。
また三の君は、西宮殿(源高明)の北の方でいらっしゃったが、お子を産んでお亡くなりになったので、「よその人ではお子たちのために悪いだろう」と言って、また(その)妹の五の君の愛宮と申し上げる方に(高明は)移られた。四の君は早くお亡くなりになった。六の君は冷泉院が東宮でいらしたときに入内なさるなど、女君たちはみなこのようである。
男君たちは十一人の中で五人が太政大臣におなりになった。それは驚くほどのたいへんなご幸運ですよ。そのほかは、右兵衛督忠君、また北野三位遠度、また大蔵卿遠量、多武峯入道少将君(高光)である。法師では飯室権僧正(尋禅)、今の禅林寺の僧正(深覚)などがいらっしゃるようです。法師といっても世の中第一の験者で、仏のように公私ともに頼み仰ぎ申さない人はない。また北野三位のお子は尋空律師・朝源律師である。また大蔵卿の御娘は、ただ殿(藤原為光か)の北の方で、今の左衛門督(兼隆か)の母上である。
この御一族はこのようでいらっしゃるはずのなかで、多武峯の少将が出家なさったときは、どんなにしみじみとも優雅とも、さまざまなことどもがございましたことか。中でも帝がお便りをおやりになったのは、なみなみのことでなければ、お心も乱れなさっただろうかと、恐れ多く承りました。
都より雲の八重たつ奥山の横川の軒は住みよかるらむ
御返し。
九重のうちのみつねは恋しくて雲の八重たつ山は住み憂し
(高光は)初めは横川にお住みになったのですよ。後には多武峯にお住みになった。たいそうすばらしいことでございました。けれどもそれは、九条殿や后宮などがお亡くなりになってのちのことである。この馬頭殿(高光)のご出家こそ、親たちがお栄えになることの始まりを打ち捨てて、まことにめったにない悲しいことでしたよ。早くからそういうお心づもりはお思い寄りになっていたのでしょうか、ご兄弟の君たちとご一緒に、正月の二七日(十四日)の夜ごろに根本中堂にお上りになったところ、まったくお勤めもなさらずにお休みになっていたので、殿方が「明け方なのに、どうしてこうして寝ていらっしゃるのか。起きて念誦もなさいませ」と申しなさったので、「もう一度(来たときに)」とおっしゃったのを、その時は気にもとめなかった。このようなご様子をお思い続けていらしたのだろうかと、この(出家の)時になって、君たちは思い出して申しなさったのでした。
意訳
師輔の娘たちの話である。安子の妹登子は、村上天皇の兄弟重明親王の妻だったが、姉の安子を訪ねてきたところを帝に見初められた。安子は一、二度は見て見ぬふりをし、その後も妹への帝の思いを知りながら、顔色にも出さずに過ごした。前の章で語られた嫉妬深い安子とは別の、我慢強い姿である。安子と重明親王が亡くなると、帝は登子を尚侍として迎えて深く寵愛した。
三の君は源高明の妻となり、その死後は妹の愛宮が高明の妻となった。師輔の娘たちは天皇家や有力な貴族と結びつき、息子たちは十一人のうち五人が太政大臣となった。世継は「おどろおどろしき御さいはひ」とその繁栄に驚嘆する。
その中でただ一人、栄達を捨てたのが高光である。応和元年(961)、まだ若い右近少将の身で、突然比叡山の横川で出家した。村上天皇は「都から八重の雲を隔てた奥山の横川の住まいは住みよいのか」と歌を贈った。名門の御曹司の出家は世間を驚かせ、『多武峰少将物語』という作品にもなった。
語釈・文法注
- おいぎつね
- 老狐。ずる賢い年寄り。伊周が大斎院の機転をけなしたことば。
- あなあひ行
- 意味未詳。ああ見苦しい行いだ、の意か。
- 御おとゝの中の君
- 藤原登子(?〜975)。師輔の娘で、安子の妹。重明親王の妻となったが、のち村上天皇の寵愛を受けて尚侍となった。
- 重明式部卿の宮
- 重明親王(906〜954)。醍醐天皇の皇子で、村上天皇の兄。日記『吏部王記』で知られる。
- 貞觀殿内侍のかみ
- 貞観殿の尚侍。尚侍は内侍司の長官で、天皇の寵愛を受けることが多かった。
- あい宮
- 愛宮。師輔の五女で、源高明の妻。高明の左遷後に出家した。
- 忠君
- 藤原忠君(?〜968)。師輔の子。右兵衛督。
- 遠度
- 藤原遠度(?〜989)。師輔の子。北野三位。
- 遠量
- 藤原遠量。師輔の子。大蔵卿。
- 多武峯入道少將君
- 藤原高光(940?〜994)。師輔の子。右近少将のとき出家し、のち多武峰に住んだ。歌人で三十六歌仙の一人。
- 飯室權僧正
- 尋禅(943〜990)。師輔の子。天台座主。比叡山の飯室に住んだ。
- 禪林寺の僧正
- 深覚(955〜1043)。師輔の子。真言宗の僧。
- 驗者
- 加持祈禱の霊験のある僧。
- むまのかうの殿
- 馬頭殿。右馬頭であった高光のこと。
- 中堂
- 比叡山延暦寺の根本中堂。
- よがは
- 横川。比叡山の三塔の一つ。高光は出家後ここに住んだ。
文法
- うけたてまつり給へればこそは
- 「こそは」の下の結びは「さかへさせ給らめ」。
- ゆるし申させ給けり
- 「申させ給ふ」は謙譲+尊敬。帝への謙譲と、后への尊敬。
- えつくりあへさせ給はざめる
- 「え〜ず」は不可能、「ざめる」は「ざるめる」の撥音便の無表記。
- すぐさせ給けるこそ
- 「こそ」の結びは「事なれ」。
- 御心もやみだれ給けん
- 「や〜けん」は疑問。お心も乱れなさっただろうか。
- すみよかるらん
- 「らん」は現在推量。住みよいのだろうか。
和歌・漢詩
こゝのへのうちのみつねはこひしくて雲のやへたつやまはすみうし
- 作者
- 藤原高光
- 状況
- 村上天皇の歌への返歌。宮中のうちばかりがいつも恋しくて、雲が八重に立ちこめる山は住みにくうございます。
修辞
- 対比
- 「九重」(宮中)と「雲の八重たつ山」。
- 表現
- 帝の歌の「雲のやへたつ」を受けて答える。
みやこより雲のやへたつおく山のよがはの軒はすみよかるらん
- 作者
- 村上天皇
- 状況
- 藤原高光が比叡山の横川で出家したとき、村上天皇が贈った歌。都から雲が幾重にも立ちこめる奥山の、横川の住まいの軒は、住みよいのだろうか。
修辞
- 表現
- 「雲のやへたつ」で、都からはるかに隔たった山奥であることを表す。
解説
登子が村上天皇の寵愛を受けたことは『栄花物語』月の宴の巻にも詳しい。安子が妹のことで心を痛めながら耐えたという描き方は、前章の嫉妬深い安子像と対照をなし、安子の人柄の幅を示している。
高光の出家は応和元年(961)十二月、父師輔の死の翌年のことであった。妻子を捨てての出家は世間を驚かせ、その事情を描いた『多武峰少将物語』(高光日記)が残る。
師輔の息子のうち太政大臣となったのは、伊尹・兼通・為光・公季・兼家の五人。このうち伊尹・兼通・兼家の三人が摂政・関白となった(第35章)。
関連
出典
- 底本
- 経済雑誌社編『国史大系』第17巻(大鏡) 経済雑誌社、明治34年(1901)、542〜544頁(コマ287–288)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日