大鏡 第30章
師輔と中宮安子
巻四の始まり。忠平の次男師輔(九条殿)は右大臣のまま五十三歳で亡くなったが、その子孫からは十一人の男子と五、六人の女子が出て栄えた。長女安子は村上天皇の皇后となり、帝も一目置くほどの威勢だったが、嫉妬深い一面もあった。帝を締め出して女房たちに笑わせた話、壁の穴から宣耀殿女御芳子をのぞき見て、土器のかけらを投げつけさせた話が語られる。
- 1右大臣右大臣うだいじん
- 2このおとゞこのおとゞこのおとどはははこれたゞひらのおとゞのこれたゞひらのおとゞのこれただいらのおとどの御御おん二二に郎郎ろう君君きみ。。。御母御母みわわ右大臣右大臣うだいじん能有能有よしありののの御女御女おおんむすめ。。。いいいはははゆるゆるゆる九條九條くじょう殿殿どのにおはしますにおはしますにおわします。。。公卿公卿くぎょうにてにてにて廿六年廿六年にじゅうろくねん。。。大臣大臣だいじんののの位位くらいにてにてにて十四年十四年じゅうよねんぞおはしましゝぞおはしましゝぞおわしましし。。。
- 3二年二年にねん五月五月ごがつ二日二日ふつか出家出家しゅっけせさせせさせせさせ給給たまにきにきにき。。。御御おおんとしとしとし五十三五十三ごじゅうさんにてにてにて御御おんまごにてまごにてまごにて又又また宮宮みやをををみみみをををきたてまつゝてかくれきたてまつゝてかくれきたてまつつてかくれ給給たまけんけんけんははは。。。きききはははめてくちおしきめてくちおしきめてくちおしき御御おん事事ことぞやぞやぞや。。。
- 4御御おおんとしまだとしまだとしまだ六十六十ろくじゅうにもたらせにもたらせにもたらせ給給たまはははねばねばねば。。。ゆくすゑゆくすゑゆくすえはるかにゆかしきことおはるかにゆかしきことおはるかにゆかしきことおほかるべきほかるべきほかるべきほどにてとほどにてとほどにてと。。。よつぎせめてさゝやくものからてよつぎせめてさゝやくものからてよつぎせめてささやくものからてをををうちてあふぐうちてあふぐうちてあうぐ。。。
- 5其其その殿殿どのののの御御おん公達公達きんだち十一人十一人じゅういちにん女女おんな五六人五六人ろくにんぞおはせしぞおはせしぞおわせし。。。ののの御御おんむすめはむらかみのむすめはむらかみのむすめわむらかみの先帝先帝せんていののの御時御時おおんときののの女御女御にょうご。。。おほくのおほくのおおくの女御女御にょうご宮宮みやすどころのすどころのすどころの中中なかににに。。。すぐれてめでたくおはしますすぐれてめでたくおはしますすぐれてめでたくおわします。。。
- 6二年二年にねん十二月十二月じゅうにがつ廿六日廿六日にじゅうろくにち后后きさきにたゝせにたゝせにたたせ給給たま。。。皇后宮皇后宮こうごうぐうととと申申もうききき。。。御御おおんとしとしとし三十二三十二さんじゅうに。。。みかどもみかどもみかども此此この女御女御にょうご殿殿どのにににはははいみじういみじういみじゅう心心こころをををききき申申もうさせさせさせ給給たまききき。。。ありがたきありがたきありがたき事事ことをもをもをもそうせさせそうせさせそうせさせ給事給事たまうことをばをばをば。。。
- 7いなびさせいなびさせいなびさせ給給たまべくもあらざりけりべくもあらざりけりべくもあらざりけり。。。いいいはははんやじよのことんやじよのことんやじよのことをばをばをば申申もうべきならずべきならずべきならず。。。すこしすこしすこし御御おん。。。御物御物おおんものうらみなどもせさせうらみなどもせさせうらみなどもせさせ給給たまやうにぞよのやうにぞよのようにぞよの人人ひとにいはれおはしましゝにいはれおはしましゝにいわれおわしましし。。。
- 8御門御門みかどをもをもをもつねにつねにつねに申申もうさせさせさせ給給たまててて。。。いかなるいかなるいかなる事事ことのありけるおりにかのありけるおりにかのありけるおりにか。。。ゆふさりわたらせおはしましたりけるゆふさりわたらせおはしましたりけるゆうさりわたらせおわしましたりけるををを。。。みかうしみかうしみこうしをををたゝかせたゝかせたたかせ給給たまけれどあけさせけれどあけさせけれどあけさせ給給たまはざりければはざりければわざりければ。。。
- 9たゝきわづらはせたゝきわづらはせたたきわずらわせ給給たまててて。。。女房女房にょうぼうになどあけぬぞとゝへとになどあけぬぞとゝへとになどあけぬぞととえと。。。なにがしのぬしのわらなにがしのぬしのわらなにがしのぬしのわらははは殿上殿上てんじょうしたるがしたるがしたるが。。。御御おおんともなるにおほせられければともなるにおほせられければともなるにおおせられければ。。。あきたるあきたるあきたる所所ところやあるとこゝかしこやあるとこゝかしこやあるとここかしこ見見みたまひけれどたまひけれどたまいけれど。。。
- 10さるべきかたさるべきかたさるべきかたはははみなたてられてみなたてられてみなたてられて。。。。。。ひとのけはひしければひとのけはひしければひとのけわいしければ。。。よりてかくとのよりてかくとのよりてかくとの給給たまひければひければいければ。。。いらへいらへいらえはははともかくもせでいみじくともかくもせでいみじくともかくもせでいみじくわらひければわらひければわらいければ。。。
- 11まいりてありつるやうまいりてありつるやうまいりてありつるようをををそうしければそうしければそうしければ。。。みかどもみかどもみかどもうちはらはせうちはらはせうちわらわせ給給たまててて。。。れいのことなりとおほせられてぞれいのことなりとおほせられてぞれいのことなりとおおせられてぞ。。。かへりわたらせおはしましけるかへりわたらせおはしましけるかえりわたらせおわしましける。。。
- 12此此このはゝはゝはは。。。
- 13つぼつぼつぼ弘徽殿弘徽殿こきでんとのとのとのうへのうへのうえの御御おんつぼねつぼねつぼねははは。。。ほどもなくちかきにほどもなくちかきにほどもなくちかきに。。。ふぢつぼのふぢつぼのふじつぼの方方かたにににははは小一條女御小一條女御こいちじょうのにょうご。。。弘徽殿弘徽殿こきでんののの方方かたにににははは此此この后后きさきのぼりておはしましあへるのぼりておはしましあへるのぼりておわしましあえるををを。。。
- 14いとやすからずおぼしめしていとやすからずおぼしめしていとやすからずおぼしめして。。。えもやしづめがたくおはしましけんえもやしづめがたくおはしましけんえもやしずめがたくおわしましけん。。。中中なかへへへだてのかべにあなだてのかべにあなだてのかべにあなをををあけてのぞかせあけてのぞかせあけてのぞかせ給給たまけるにけるにけるに。。。女御女御にょうごののの御御おんかたちのいとかたちのいとかたちのいとうつくしうめでたくおはしければうつくしうめでたくおはしければうつくしゅうめでたくおわしければ。。。
- 15むべむべむべ時時ときめくにこそありけれとめくにこそありけれとめくにこそありけれと御御ごらんずるにらんずるにらんずるに。。。いとゞこゝろやましくならせいとゞこゝろやましくならせいとどこころやましくならせ給給たまててて。。。あなよりとあなよりとあなよりとをををるるる計計ばかりうたせうたせうたせ給給たまへりければへりければえりければ。。。
- 16御門御門みかどのおはしますのおはしますのおわします程程ほどにてにてにて。。。こればかりにこればかりにこればかりにはははえたへさせえたへさせえたえさせ給給たま。。。かうやうのことかうやうのことこうようのことははは女房女房にょうぼうはははえせじえせじえせじ。。。伊尹伊尹これただ兼通兼通かねみち兼家兼家かねいえなどがいひもよほしてせさするならんとおほせられてなどがいひもよほしてせさするならんとおほせられてなどがいいもよおしてせさするならんとおおせられて。。。
- 17みなみなみな殿上殿上てんじょうにさぶらはせにさぶらはせにさぶらわせ給給たまほどなりければほどなりければおどなりければ。。。みところながらみところながらみところながら御御おん給給たましかばしかばしかば。。。そのおりにそのおりにそのおりに后后きさきいとゞおほきにいとゞおほきにいとどおおきにはらだゝせはらだゝせはらだたせ給給たまててて。。。
- 18わたらせわたらせわたらせ給給たまととと申申もうさせさせさせ給給たまへればへればえれば。。。思思おもふにふにうに此此この事事ことならんとおぼしめしてわたらせならんとおぼしめしてわたらせならんとおぼしめしてわたらせ給給たまはぬはぬわぬををを。。。たび〳〵たび〳〵たびたびなを〳〵なを〳〵なおなおととと御御おんせうそこありければせうそこありければしょうそこありければ。。。わたらずばいとゞこそむづからめとわたらずばいとゞこそむづからめとわたらずばいとどこそむずからめと。。。
- 19おそろしくいとをしくおぼしめしておはしましたるにおそろしくいとをしくおぼしめしておはしましたるにおそろしくいとおしくおぼしめしておわしましたるに。。。いかでかゝるいかでかゝるいかでかかる事事ことはははせさせせさせせさせ給給たまたるぞたるぞたるぞ。。。。。。此此この人〴〵人〴〵ひとびとをばをばをばおぼしゆるすべきなりおぼしゆるすべきなりおぼしゆるすべきなり。。。
- 20いいいはははんやまろがかたざまにてかくせさせんやまろがかたざまにてかくせさせんやまろがかたざまにてかくせさせ給給たまははわ。。。いとあるまじくいとあるまじくいとあるまじく心心こころうきうきうき事事ことなりなりなり。。。たゞたゞただ今今いまめしかへせとめしかへせとめしかえせと申申もうさせさせさせ給給たまければければければ。。。いかでかたゞいかでかたゞいかでかただ今今いまはははゆるさんゆるさんゆるさん。。。
- 21をとぎゝみぐるしきをとぎゝみぐるしきおとぎきみぐるしき事事ことなりときこえさせなりときこえさせなりときこえさせ給給たまけるけるけるををを。。。さらにあるべきさらにあるべきさらにあるべき事事ことならずとせめならずとせめならずとせめ申申もうさせさせさせ給給たまければければければ。。。さらばとてさらばとてさらばとて歸歸かえりわたらせりわたらせりわたらせ給給たまををを。。。おはしましなばたゞいましもゆるさせおはしましなばたゞいましもゆるさせおわしましなばただいましもゆるさせ給給たまはじはじわじ。。。
- 22只只ただこなたにてこなたにてこなたにてをををめせとてめせとてめせとて御袖御袖そでをををとらへたてまつりてとらへたてまつりてとらえたてまつりて。。。たてたてまつらせたてたてまつらせたてたてまつらせ給給たまはざりければはざりければわざりければ。。。いかゞはせんとおぼしめしていかゞはせんとおぼしめしていかがわせんとおぼしめして。。。此此この御方御方かたににに識事識事しきじめしてかへりまいるべきよしのめしてかへりまいるべきよしのめしてかえりまいるべきよしの宣旨宣旨せんじくださせくださせくださせ給給たまけるけるける。。。
- 23これのみにもあらずこれのみにもあらずこれのみにもあらず。。。かやうなるかやうなるかようなる事事ことどもいかにおほくきこえどもいかにおほくきこえどもいかにおおくきこえ侍侍さぶらいしかどしかどしかど。。。
現代語訳
右大臣師輔
この大臣は忠平公の次男。御母は右大臣源能有の御娘。いわゆる九条殿でいらっしゃる。公卿として二十六年、大臣の位に十四年いらっしゃった。天禄二年五月二日にご出家なさった。御年五十三で、御孫が東宮(憲平親王)、また四の宮・五の宮(為平親王・守平親王)でいらっしゃるのを見届けながら亡くなられたのは、まことに残念なことですよ。御年はまだ六十にもおなりにならないので、将来はるかに見届けたいことが多かったでしょうに」と、世継はしきりにささやきながら、手を打って扇をあおぐ。
その殿のお子は、男の子が十一人、女の子が五、六人いらした。第一の御娘(安子)は村上の先帝の御時の女御で、多くの女御・御息所の中で、すぐれてすばらしくいらっしゃる。天徳二年十二月二十六日に后にお立ちになる。皇后宮と申し上げた。御年三十二。帝もこの女御殿にはたいそう気を遣っていらっしゃった。めったにないことでも奏上なさることは、お断りになれそうもなかった。まして普通のことは申すまでもない。少しお心が意地悪で、恨み言などもおっしゃるようだと世の人に言われていらした。
帝をいつもすねてお困らせ申し上げなさって、どういうことがあった折だったか、夕方(帝が)お渡りになったのを、御格子をたたかせなさったけれど開けさせなさらなかったので、(帝は)たたきあぐねなさって、「女房に、どうして開けないのかと尋ねよ」と、なにがしのぬしの童で殿上童をしていた者が、お供していたのにおっしゃったので、(童は)開いている所はないかとあちこち見なさったけれど、しかるべき所はみな閉められていて、細殿の口だけが開いていたところに人の気配がしたので、寄ってこうこうとおっしゃったところ、返事はともかくもせずにひどく笑ったので、(童が帝の所に)参ってありのままを奏上したところ、帝もお笑いになって、「いつものことだ」とおっしゃって、お帰りになったということです。
この童は、伊賀の前司資国の祖父である。
藤壺と弘徽殿の上の御局は、ほど近いところにあって、藤壺の方には小一条女御(芳子)が、弘徽殿の方にはこの后(安子)が上っていらっしゃるのを、(后は)たいそう心穏やかでなくお思いになって、どうにもこらえきれなかったのでしょう、中の隔ての壁に穴をあけてのぞかせなさったところ、女御のご容貌がたいそうかわいらしくすばらしくていらしたので、「なるほど、ご寵愛を受けるはずだ」とご覧になるにつけ、いっそう腹立たしくおなりになって、穴から通るほどの土器のかけらで打たせなさったので、帝がいらっしゃるときで、これにはこらえることがおできにならず、ご立腹なさって、「このようなことは女房はしないだろう。伊尹・兼通・兼家などが言いそそのかしてさせているのだろう」とおっしゃって、みな殿上にお控えになっているときだったので、三人とも謹慎ということになりなさったので、そのときに后はいっそうたいへんお怒りになって、「お渡りください」と申し上げなさったので、(帝は)思うにこのことだろうとお思いになってお渡りにならないのを、たびたび「ぜひぜひ」とお便りがあったので、「行かなければますますお怒りになるだろう」と恐ろしくも気の毒にもお思いになっていらっしゃると、(后は)「どうしてこんなことをなさったのですか。たとえひどい大逆の罪があっても、この人々はお許しになるべきです。まして私のことでこうなさるとは、まったくあってはならない情けないことです。ただ今呼び戻しなさいませ」と申し上げなさったので、(帝は)「どうして今すぐは許せようか。外聞が見苦しいことだ」とお聞かせになったのを、(后は)「まったくあってはならないことです」と強く申し上げなさったので、「それならば」と言ってお帰りになろうとするのを、「お帰りになったら、すぐにはお許しにならないでしょう。ただここで(使いを)お呼びなさいませ」と言って、御袖をつかまえ申し上げて、お立たせにならなかったので、どうしようもないとお思いになって、この御方に職事を召して、(三人を)呼び戻すようにとの宣旨をお下しになったのでした。このことばかりでなく、こうしたことがたくさん聞こえましたけれど、
意訳
巻四は師輔の伝で始まる。師輔は右大臣止まりで、兄実頼より先に五十三歳で亡くなった。しかし娘安子が村上天皇の皇后となって冷泉・円融天皇を産み、その子孫(九条流)がのちの摂関家の本流となった。世継は、孫の東宮の即位を見ずに亡くなった師輔を惜しみ、手を打って扇をあおぐ。
安子は村上天皇の後宮で抜きん出た存在で、帝もその頼みは断れないほどだった。一方で嫉妬深く、帝を締め出して部屋に入れず、女房たちに笑わせたという話は、二人の親しい関係を感じさせる微笑ましい逸話でもある。
もっとも有名なのは、藤壺の宣耀殿女御芳子をめぐる話である。安子は隣の部屋との壁に穴をあけて芳子をのぞき、その美しさに腹を立てて、土器のかけらを投げつけさせた。帝は兄の伊尹らのしわざと考えて謹慎させるが、安子は帝を呼びつけ、袖をつかんで放さず、その場で兄たちの勘当を解かせた。激しい気性と、それを許してしまう帝との関係が、生き生きと描かれている。
語釈・文法注
- 右大臣師輔
- 藤原師輔(909〜960)。忠平の次男。九条殿と呼ばれ、その子孫は九条流と呼ばれる。
- 源能有
- 源能有(845〜897)。文徳天皇の皇子で臣籍に下った。右大臣。
- 天祿二年
- 底本の誤り。師輔は天徳四年(960)五月二日に出家し、四日に亡くなった。
- 春宮
- 憲平親王(のちの冷泉天皇)。
- 四五宮
- 為平親王と守平親王(のちの円融天皇)。
- 第一の御むすめ
- 藤原安子(927〜964)。師輔の長女。村上天皇の中宮。冷泉・円融天皇、為平親王らの母。
- 天德二年
- 958年。ただし安子が中宮となったのは天徳二年十月二十七日。
- こゝろさがなく
- 性格が悪い、意地が悪い。
- ふすべ
- 嫉妬して、すねて困らせる。
- わらは殿上したる
- 殿上童。貴族の子で、元服前に作法見習いとして殿上に仕える少年。
- ほそどの
- 細殿。殿舎の廂の間を仕切った細長い部屋。女房の局として使われた。
- すけくに
- 藤原資国か。伊賀の前司。伝未詳。
- 藤つぼ弘徽殿
- 藤壺(飛香舎)と弘徽殿。清涼殿の北にあり、上の御局は清涼殿の中の、后妃の控えの部屋。
- かはらけのわれ
- 素焼きの土器のかけら。
- むづがり
- 機嫌を損ねる、腹を立てる。
- 御かしこまり
- 勘当、謹慎処分。
- さかさまのつみ
- 逆さまの罪。大逆罪のような重罪。
文法
- かくれ給けんは
- 「けん」は過去推量の連体形で、下に「事」などを補う。
- いなびさせ給べくもあらざりけり
- お断りになれそうもなかった。
- いはれおはしましゝ
- 「れ」は受身。言われていらっしゃった。
- えもやしづめがたく
- 「え〜がたし」は強調。どうにもこらえることができなくて。
- こそむづからめ
- 「め」は推量「む」の已然形で「こそ」の結び。
- ゆるさん
- 「いかでか」と呼応して反語。どうして許せようか。
解説
底本は師輔の出家を「天祿二年」とするが、天禄二年(971)には師輔はすでに亡くなっている。師輔は天徳四年(960)に亡くなった。底本の誤りであろう。
安子が壁の穴から宣耀殿女御芳子をのぞき、土器のかけらを投げつけさせたという話は、『大鏡』のこの箇所で名高い。芳子が村上天皇の寵愛を受けて安子が嫉妬したことは、第23章で村上天皇自身のことばとしても語られている。
伊尹・兼通・兼家は安子の兄弟で、のちにそれぞれ摂政・関白となる。この三兄弟の争いは巻五で語られる。
関連
出典
- 底本
- 経済雑誌社編『国史大系』第17巻(大鏡) 経済雑誌社、明治34年(1901)、533〜536頁(コマ282–284)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日