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大鏡 第28章

院号と悲しむ人々

東宮が院となった日、母皇后の御方から粗末な姿の女房が忍んで来て、「どうしてこんなことに」と震え声で嘆き、道長も心を打たれた。皇后や堀河女御延子の悲しみは計り知れず、延子が詠んだという歌も伝わる。道長は小一条院を娘寛子の婿に迎え、自ら膳を整えるほど手厚くもてなした。小一条院の皇子たちや、三条院の皇女で道雅との恋で知られた当子内親王、皇后娍子の兄弟のことも語られる。

  1. 1いとあはれにいとあはれにいとあわれに侍はべ侍はべはべけるけるける事こと事ことことははは。。。殿どの殿どのどののまださぶらはせのまださぶらはせのまださぶらわせ給たま給たまたまけるけるける時とき時ときとき。。。ののの御おん御おんおんかたよりいづかたのかたよりいづかたのかたよりいずかたの道だう道だうどうよりたづねまいりたるにかよりたづねまいりたるにかよりたずねまいりたるにか。。。あらあらあらはははににに御覽ごらん御覽ごらんごらんずるもしらぬけしきにてずるもしらぬけしきにてずるもしらぬけしきにて。。。
  2. 2いとあやしげなるすがたしたるいとあやしげなるすがたしたるいとあやしげなるすがたしたる女房にようばう女房にようばうにょうぼうののの。。。わなゝく〳〵わなゝく〳〵わななくわななくいかにかくはせさせいかにかくはせさせいかにかくわせさせ給たま給たまたまへるぞとへるぞとえるぞと。。。こゑもかはりてこゑもかはりてこえもかわりて申まう申まうもうつるなむつるなむつるなむ。。。あはれにもあかしうもとこそおほせられけれあはれにもあかしうもとこそおほせられけれあわれにもあかしゅうもとこそおおせられけれ。。。
  3. 3こそたれともえたしかにもきゝこそたれともえたしかにもきゝこそたれともえたしかにもきき侍はべ侍はべはべらねらねらね。。。はははかにていかにせられけんといへばかにていかにせられけんといへばかにていかにせられけんといえば。。。殿どの殿どのどのこそこそこそはせさせはせさせはせさせ給たま給たまたまけめけめけめ。。。さばかりのさばかりのさばかりの事こと事ことことになりてになりてになりて。。。
  4. 4うりうせさせうりうせさせうりゅうせさせ給たま給たまたまはんやはんやわんやははは。。。程ほど程ほどほどにこそにこそにこそ。。。えたへずしのびねなくえたへずしのびねなくえたえずしのびねなく人〳〵ひとびと人〳〵ひとびとひとびと侍はべ侍はべはべけれけれけれ。。。ましてましてまして皇后宮くわうごうぐう皇后宮くわうごうぐうこうごうぐう川がは川がはがわののの女御にようご女御にようごにょうご殿との殿とのとのなどなどなどははは。。。
  5. 5さささ計はか計はかはか心こころ心こころこころふかくおはしまさふふかくおはしまさふふかくおわしまさう御心みこころ御心みこころみこころどもにどもにどもに。。。いかばかりおぼしめしけんとおぼえいかばかりおぼしめしけんとおぼえいかばかりおぼしめしけんとおぼえ侍さぶらひ侍さぶらひさぶらいししし。。。世よ世よよののの中なか中なかなかののの人ひと人ひとひとほりかほりかほりかはははののの女御にようご女御にようごにょうご殿どの殿どのどのののの。。。
  6. 6までたちのぼるべきけぶりかとまでたちのぼるべきけぶりかとまでたちのぼるべきけぶりかと見み見みみえしえしえし思おも思おもおもひのひのいのほかにもあるかなほかにもあるかなほかにもあるかな。。。
  7. 7などいふなどいふなどいう歌うた歌うたうたよみよみよみ給たま給たまたまへりなどへりなどえりなど申まう申まうもうこそさらによもとおぼゆれどこそさらによもとおぼゆれどこそさらによもとおぼゆれど。。。いとさばかりのいとさばかりのいとさばかりの事こと事ことことににに和歌わか和歌わかわかのみちおぼしよらじかしなのみちおぼしよらじかしなのみちおぼしよらじかしな。。。御おん御おんおんこゝろのこゝろのこころの中なか中なかなかにににはははをををのづからのちにもおぼえさせのづからのちにもおぼえさせのずからのちにもおぼえさせ給たま給たまたまやうもありけめどやうもありけめどようもありけめど。。。
  8. 8人ひと人ひとひとのきゝつたふばかりのきゝつたふばかりのききつたうばかりはははいかがありけんといへばいかがありけんといへばいかがありけんといえば。。。おきなげにそれおきなげにそれおきなげにそれはははさるさるさる事こと事ことことににに侍はべ侍はべはべれどれどれど。。。むかしもいまもいみじきとのおりかゝるむかしもいまもいみじきとのおりかゝるむかしもいまもいみじきとのおりかかる事こと事ことこといとおほくぞきこえいとおほくぞきこえいとおおくぞきこえ侍さぶらひ侍さぶらひさぶらいしとてさゝめくしとてさゝめくしとてささめく。。。
  9. 9さていかなるさていかなるさていかなる事こと事ことことにかにかにか東宮とうぐう東宮とうぐうとうぐう御位みくらゐ御位みくらゐみくらいせめおろしとりたてまつりせめおろしとりたてまつりせめおろしとりたてまつり給たま給たまたまてててははは。。。又また又またまた御おん御おんおんむこにとりたてまつらせむこにとりたてまつらせむこにとりたてまつらせ給たま給たまたまほどほどおど。。。もてかしづきたてまつらせもてかしづきたてまつらせもてかしずきたてまつらせ給たま給たまたま御おん御おんおんありさまありさまありさま。。。
  10. 10まことにまことにまことに御心みこころ御心みこころみこころもなぐさませもなぐさませもなぐさませ給たま給たまたまばかりこそきこえばかりこそきこえばかりこそきこえ侍さぶらひ侍さぶらひさぶらいしかしかしか。。。はははばんどころにおはしましてばんどころにおはしましてばんどころにおわしまして。。。御おん御おんおんだいやばんなどまでだいやばんなどまでだいやばんなどまで手て手ててづからのごはせづからのごはせずからのごわせ給たま給たまたま。。。
  11. 11なになになにをもをもをもめしこゝろみつゝなんまいらせめしこゝろみつゝなんまいらせめしこころみつつなんまいらせ給たま給たまたまけるけるける。。。さうしぐちまでもておはしましてさうしぐちまでもておはしましてそうしぐちまでもておわしまして女房にようばう女房にようばうにょうぼうにたまはせにたまはせにたまわせ。。。殿上てんじやう殿上てんじやうてんじょうにいだすにいだすにいだす程ほど程ほどほどにもたちそひてよかるべきさまにをしへなどにもたちそひてよかるべきさまにをしへなどにもたちそいてよかるべきさまにおしえなど。。。
  12. 12これこそこれこそこれこそははは御おん御おんおんほいよとあはれにぞほいよとあはれにぞほいよとあわれにぞ。。。このきこのきこのきはははにこしきぶきやうのにこしきぶきやうのにこしきぶきょうの宮みや宮みやみやののの御おん御おんおん事こと事ことことありけりといふありけりといふありけりという事こと事ことこともろらごとなりもろらごとなりもろらごとなり。。。なにゆへあるとにもあらなくにむかしとどもこそなにゆへあるとにもあらなくにむかしとどもこそなにゆえあるとにもあらなくにむかしとどもこそ侍はべ侍はべはべれれれ。。。おはしましおはしましおわしまし人ひと人ひとひとののの御おん御おんおんことことこと申まう申まうもうすぢなきとなりしかしなすぢなきとなりしかしなすじなきとなりしかしな。。。
  13. 13さてさてさて式部卿しきぶきやう式部卿しきぶきやうしきぶきょうののの宮みや宮みやみやととと申まう申まうもうははは。。。故こ故ここ一條院いちでうゐん一條院いちでうゐんいちじょういんののの一いち一いちいちのみこにおはしますのみこにおはしますのみこにおわします。。。そのそのその宮みや宮みやみやをばをばをばとしごろとしごろとしごろののの宮みや宮みやみやととと申まう申まうもうしししををを。。。小一條院こいちでうゐん小一條院こいちでうゐんこいちじょういんののの式部卿しきぶきやう式部卿しきぶきやうしきぶきょうにておはしましゝがにておはしましゝがにておわしまししが東宮とうぐう東宮とうぐうとうぐうにたゝせにたゝせにたたせ給たま給たまたま。。。
  14. 14あくところにそちのあくところにそちのあくところにそちの宮みや宮みやみやをばをばをばのかせのかせのかせ給たま給たまたまててて式部卿しきぶきやう式部卿しきぶきやうしきぶきょうののの宮みや宮みやみやととと申まう申まうもうしぞかししぞかししぞかし。。。其その其そのそののちのたびののちのたびののちのたびの春宮とうぐう春宮とうぐうとうぐうにもにもにもはははづれづれずれ給たま給たまたまておぼしなげきしておぼしなげきしておぼしなげきしほどにほどにほどに。。。うせうせうせ給たま給たまたまてのちてのちてのち又また又またまたこのこのこの小一條院こいちでうゐん小一條院こいちでうゐんこいちじょういん御おん御おんおんさしつぎのさしつぎのさしつぎの二に二にに親王しんわう親王しんわうしんのうをををこそこそこそははは。。。
  15. 15いはくらのいはくらのいわくらの式部卿しきぶきやう式部卿しきぶきやうしきぶきょうとととははは申まう申まうもうめれめれめれ。。。又また又またまたつぎのつぎのつぎの三さん三さんさんののの宮みや宮みやみや親王しんわう親王しんわうしんのうををを中務なかつかさ中務なかつかさなかつかさののの宮みや宮みやみやととと申まう申まうもう。。。つぎのつぎのつぎの四し四しし宮みや宮みやみやととと申まう申まうもう。。。おさなくよりおさなくよりおさなくより出家しゆつけ出家しゆつけしゅっけしてしてして仁和寺にんなじ仁和寺にんなじにんなじ僧正そうじやう僧正そうじやうそうじょう御おん御おんおんかしづきかしづきかしずき物もの物ものものにておはしますめりにておはしますめりにておわしますめり。。。
  16. 16此この此このこの宮みや宮みやみやだちのだちのだちの御おん御おんおんいもいもいもうとのうとのうとの女をんな女をんなおんな宮みや宮みやみや二人ふたり二人ふたりふたりひとゝころひとゝころひとところはやはやはやがてがてがて三條院さんでうゐん三條院さんでうゐんさんじょういんののの御時おほんとき御時おほんときおおんときのののにてくだらせにてくだらせにてくだらせ給たま給たまたまにしにしにしををを。。。のぼらせのぼらせのぼらせ給たま給たまたまてのちてのちてのち。。。荒三位あらさんみ荒三位あらさんみあらさんみにわたらせにわたらせにわたらせ給たま給たまたまければければければ。。。
  17. 17三條院さんでうゐん三條院さんでうゐんさんじょういんももも御おん御おんおんなやみのなやみのなやみのをををりいとあさましきことにおぼしなげきてりいとあさましきことにおぼしなげきてりいとあさましきことにおぼしなげきて。。。あまにならせあまにならせあまにならせ給たま給たまたまてててうせうせうせ給たま給たまたまにきにきにき。。。いまいまいま一所ひとところ一所ひとところひとところののの女をんな女をんなおんな宮みや宮みやみやはははおはしますおはしますおわします。。。
  18. 18小一條こいちでう小一條こいちでうこいちじょう大將だいしやう大將だいしやうだいしょう御おん御おんおんひめひめひめ君きみ君きみきみこそこそこそはははたゞいまのたゞいまのただいまの皇后宮くわうごうぐう皇后宮くわうごうぐうこうごうぐうととと申まう申まうもうつるよつるよつるよ。。。三條院さんでうゐん三條院さんでうゐんさんじょういんののの御時おほんとき御時おほんときおおんときににに后きさき后きさききさきにににたて〳〵たて〳〵たてたてまつらんとおぼしけるにまつらんとおぼしけるにまつらんとおぼしけるに。。。うちよりてうちよりてうちよりて大納言だいなごん大納言だいなごんだいなごんのむすめにてのむすめにてのむすめにて后きさき后きさききさきにたつれいなかりければにたつれいなかりければにたつれいなかりければ。。。
  19. 19御おん御おんおんちゝのおとゞちゝのおとゞちちのおとど小一條こいちでう小一條こいちでうこいちじょうののの大將だいしやう大將だいしやうだいしょうををを贈太政大臣ぞうだいじやうだいじん贈太政大臣ぞうだいじやうだいじんぞうだいじょうだいじんになしてこそになしてこそになしてこそははは。。。后きさき后きさききさきにたてさせにたてさせにたてさせ給たま給たまたまてしかてしかてしか。。。さればさればされば皇后宮くわうごうぐう皇后宮くわうごうぐうこうごうぐういとめでたくおはしますめりいとめでたくおはしますめりいとめでたくおわしますめり。。。御おん御おんおんせうとせうとしょうと一人ひとり一人ひとりひとりははは侍從入道じじゆうにふだう侍從入道じじゆうにふだうじじゅうにゅうどう。。。
  20. 20いまひとゝころいまひとゝころいまいとところははは大藏卿おほくらきやう大藏卿おほくらきやうおおくらきょう君きみ君きみきみこそこそこそはははおはすめれおはすめれおわすめれ。。。又また又またまたいよのいよのいよの入道にふだう入道にふだうにゅうどうもそれぞかしもそれぞかしもそれぞかし。。。

引用の仕方

レポート・論文で引用する場合の表記例です。行番号を選んでから開くと、その行へのリンクになります。

現代語訳

「たいそう胸を打たれましたことは、殿(道長)がまだ(東宮御所に)いらしたとき、母宮(娍子)の御方から、どの道をたどって参ったのか、(道長が)すぐそこでご覧になっているとも知らない様子で、たいそうみすぼらしい姿をした女房が、震え震え『どうしてこのようなことをなさったのですか』と、声も変わって申したのが、しみじみとも痛ましくも思われた」と(道長は)おっしゃったということです。

「勅使が誰であったかは、はっきりとは聞いておりません。(勅使への)禄などは急なことで、どのようになさったのでしょう」と(侍が)言うと、(世継は)「殿がなさったのでしょう。それほどのことになって、手抜かりをなさることがありましょうか。火焚き屋(の火)や御膳屋などを引き払わせたころには、こらえきれずに忍び泣きする人々がおりました。まして皇后宮や堀河の女御殿(延子)などは、あれほど深くお思いになるお心の方々ですから、どれほどお思いになったことかと思われました。世の中の人は、堀河の女御殿が、

雲居まで立ちのぼるべき煙かと見えし思ひのほかにもあるかな

などという歌をお詠みになったなどと申しますが、それはとうていそうとは思われません。あれほどの事態に、和歌の道にお思いが向くこともないでしょうよ。お心の中では自然と、後になって思い浮かぶこともおありだったでしょうが、人が聞き伝えるほどにはどうだったでしょう」と言うと、翁が「なるほど、それはもっともなことですが、昔も今も、たいへんな折にはこういうことがとても多く聞こえたものです」と言ってささやく。

さて、どういうことか、東宮の御位を責め下ろし申し上げなさってからは、また(小一条院を)婿にお迎え申し上げなさるとき、大切にお世話申し上げなさるご様子は、本当にお心が慰められなさるほどだと聞きました。お食事を差し上げるときは(道長自ら)台盤所にいらして、御台や盤などまで自分の手でお拭きになる。何でも召し上がって味を見ながら差し上げなさった。御障子口まで(膳を)持っていらして女房にお渡しになり、殿上に出す時にも付き添って、よいようにと教えなどなさる。これこそが(道長の)本心からの願いなのだと、しみじみ心を打たれます。この時に、故式部卿の宮(敦康親王)のことがあったと言うのは、うそです。何の理由があるわけでもないのに、昔からそうしたことはございます。亡くなった方のことを申すのは、つまらないことでしたなあ。

さて式部卿の宮と申し上げるのは、故一条院の第一皇子でいらっしゃる。その宮を長年帥の宮と申していたのを、小一条院が式部卿でいらしたのが東宮にお立ちになったので、空いたところに、帥の宮を移されて式部卿の宮と申し上げたのですよ。その後のたびの東宮にも外れなさってお嘆きになっていたうちに、お亡くなりになってのち、またこの小一条院のお次の第二皇子敦儀親王を、岩倉の式部卿とは申すようです。また次の第三皇子敦平親王を中務の宮と申し上げる。次の第四皇子は師明親王と申し上げる。幼いころから出家して、仁和寺の僧正で、大切にされていらっしゃるようです。この宮たちの御妹の女宮二人のうちお一人は、そのまま三条院の御時の斎宮として(伊勢へ)お下りになったが、(都へ)お上りになってのち、荒三位道雅のもとにお通いになられたので、三条院もご病気の折にたいそうあさましいこととお嘆きになって、尼におなりになってお亡くなりになった。もうお一人の女宮はご存命でいらっしゃる。

小一条大将(済時)の御姫君こそが、今の皇后宮と申し上げる方ですよ。三条院の御時に后にお立て申し上げようとお思いになったが、内裏から入って大納言の娘で后に立つ例がなかったので、御父の大臣、小一条の大将を贈太政大臣になしてこそ、后にお立てになったのでした。ですから皇后宮はたいそうめでたくいらっしゃるようです。御兄弟の一人は侍従入道(為任)。もうお一人は大蔵卿通任の君がいらっしゃるようです。また伊予の入道もその方ですよ。

意訳

東宮が小一条院となったその日、道長はまだ御所にいた。そこへ母の娍子のもとから、身なりもかまわず女房が駆け込んできて、震える声で「どうしてこんなことを」と嘆いた。道長自身が、それを「あはれにも」と語ったという。母にさえ知らせずに決められた退位の悲しみが、名もない女房の姿に凝縮されている。

東宮の御所から火焚き屋や御膳屋が引き払われていくとき、仕えていた人々は忍び泣いた。小一条院の妃だった堀河女御延子(顕光の娘)の悲しみは深く、「雲居まで立ちのぼるべき煙かと」の歌を詠んだと噂された。世継は「あのような時に歌など詠むまい」と疑うが、繁樹は「昔も今も、大事のときにはこういう話が多いものだ」とささやく。のちに延子は、小一条院が寛子のもとに移ったため悲しみのうちに亡くなり、その父顕光とともに怨霊になったと伝えられる。

一方、道長は小一条院を娘寛子の婿に迎え、自ら台所に出て膳を拭き、味見をし、女房に手渡すほど、手厚くもてなした。世継はそれを「これこそが御本意」と言う。東宮の位を譲らせた負い目と、これで孫の地位が安泰になった喜びとが、道長の過剰なまでのもてなしに表れているのだろう。最後に、小一条院の皇子たちや、伊勢の斎宮をつとめた当子内親王と藤原道雅の恋などが語られる。

語釈・文法注

母宮
皇后娍子。小一条院の母。
勅使
小一条院の院号を伝える天皇の使い。
ろく
禄。使者などに与える褒美。
とうりう
意味未詳。手落ち、手抜かりの意か。
ひたきや
火焚き屋。宮中で夜通し篝火を焚いて警護する小屋。東宮御所にも置かれた。
ほり川の女御殿
藤原延子(?〜1019)。顕光の娘で、敦明親王の妃。堀河女御と呼ばれた。小一条院が寛子のもとに移ってのち、悲しみのうちに亡くなった。
雲井
宮中。また空。
おもの
御物。食事。
大ばんどころ
台盤所。食膳を整える所。女房の詰め所でもあった。
御さうしぐち
御障子口。部屋の出入り口。
そちの宮
敦康親王。一条天皇の第一皇子。大宰帥であった。寛仁二年(1018)に亡くなった。
あつのり
敦儀親王(997〜1054)。三条天皇の第二皇子。
あつひら
敦平親王(999〜1049)。三条天皇の第三皇子。
師明親王
三条天皇の第四皇子(1005〜1085)。出家して性信と名のり、仁和寺の門跡となった。
齋宮
当子内親王(1001〜1023)。三条天皇の皇女。斎宮として伊勢に下り、帰京後に藤原道雅と恋愛し、父の怒りを買って尼となった。
荒三位道雅
藤原道雅(992〜1054)。伊周の子。乱暴なふるまいで「荒三位」と呼ばれた。『百人一首』の「今はただ思ひ絶えなむとばかりを」の作者。
通任
藤原通任(?〜1039)。済時の子。大蔵卿。

文法

たづねまいりたるにか
「にか」の下に「あらむ」が省略。たずねて参ったのであろうか。
こそおほせられけれ
「こそ〜けれ」の係り結び。
せさせ給はんやは
「やは」は反語。なさるだろうか、いや、なさるまい。
おぼしよらじかしな
「じ」は打消推量。お思い寄りにはならないだろうよ。
いかがありけん
どうであったろうか。

和歌・漢詩

雲井までたちのぼるべきけぶりかと見えし思ひのほかにもあるかな

作者
堀河女御(藤原延子)と伝える
状況
夫の敦明親王が東宮を退いたときに詠んだと噂された歌。宮中まで立ちのぼるはずの煙(帝の位にのぼるはずの人)かと見えたのに、思いのほかのことになったものだ。

修辞

掛詞
「思ひ」の「ひ」に「火」をかけ、「けぶり」の縁語とする。
寓意
雲井(宮中)まで立ちのぼる煙に、東宮から帝となる将来をたとえる。

解説

延子の歌は『栄花物語』にも見えるが、世継はその真偽を疑ってみせる。語り手が噂話をそのまま伝えるのではなく、自分の判断を加えるところに、『大鏡』の批評的な語り口がよく表れている。

小一条院が寛子と結婚したのは寛仁元年(1017)十一月。以後、小一条院は寛子のもとで過ごし、延子は寛仁三年(1019)に亡くなった。父の顕光も治安元年(1021)に亡くなり、その後、寛子や道長の娘たちの死は、延子と顕光の怨霊のしわざと言われた(「悪霊左府」)。

当子内親王と藤原道雅の密通は長和六年(1017)のこと。三条院は激怒して道雅を勘当し、当子内親王は尼となった。道雅が詠んだ「今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならで言ふよしもがな」(百人一首六十三番)は、この恋の歌とされる。

関連

出典

底本
経済雑誌社編『国史大系』第17巻(大鏡) 経済雑誌社、明治34年(1901)、529〜531頁(コマ280–281)。国立国会図書館デジタルコレクション
校訂・訳・注
古典ライブラリー編集部
更新日