大鏡 第25章
敦明親王の東宮辞退
娍子の産んだ敦明親王は、三条天皇の退位とともに後一条天皇の東宮となったが、父院の死後、窮屈な東宮の地位を嫌って退位を望み、母皇后の制止も聞かず道長に申し出た。道長は思いとどまるよう諫めたが、親王の決意は固く、寛仁元年、道長の外孫の敦良親王(のちの後朱雀天皇)が新たな東宮となった。敦明親王は小一条院と呼ばれる。世継は、自ら東宮を退いたのはこれが初めてだと語る。
- 1このこのこの宮宮みやののの御御おんはははらのらのらの一一いちのみこのみこのみことてとてとてののの宮宮みやとぞとぞとぞ申申もうしししほどにほどにほどに。。。五年五年ごねん正月正月しょうがつ二十九日二十九日にじゅうくにち三條院三條院さんじょういんおりさせおりさせおりさせ給給たまへばへばえば。。。たうだいたうだいとうだい位位くらいにつかせにつかせにつかせ給給たまててて。。。
- 2このこのこの式部卿式部卿しきぶきょうののの宮宮みや東宮東宮とうぐうにたゝせにたゝせにたたせ給給たまにきにきにき。。。御年御年おおんとし廿三廿三にじゅうさん。。。たゝしだうりあることゝたゝしだうりあることゝたたしどうりあることと皆人皆人みないとおもひおもひおもい申申もうしししほどにほどにほどに。。。院院いんうせさせうせさせうせさせ給給たまてのちてのちてのち。。。二年二年にねん計計はかありていかゞおぼしめしけんありていかゞおぼしめしけんありていかがおぼしめしけん。。。
- 3宮宮みやだちとだちとだちと申申もうしおりよろづにあそびならはせしおりよろづにあそびならはせしおりよろずにあそびならわせ給給たまててて。。。うるはしきうるはしきうるわしき御御おんありさまいとくるしくありさまいとくるしくありさまいとくるしく。。。いかでかゝらでもあらばやとおぼしなられていかでかゝらでもあらばやとおぼしなられていかでかからでもあらばやとおぼしなられて。。。
- 4にかくなんおぼえにかくなんおぼえにかくなんおぼえ侍侍しととと申申もうさせさせさせ給給たまををを。。。いかでかいかでかいかでかはははげにさもとげにさもとげにさもとはははおぼさんずるおぼさんずるおぼさんずる。。。すべてあさましくあるまじきすべてあさましくあるまじきすべてあさましくあるまじき事事こととのみいさめとのみいさめとのみいさめ申申もうさせさせさせ給給たまににに。。。
- 5おぼしあまりておぼしあまりておぼしあまりて入道殿入道殿にゅうどうどのににに御御おんせうそくありければせうそくありければしょうそくありければ。。。まいらせまいらせまいらせ給給たまへるにへるにえるに。。。御物御物おおんものがたりこまやかにてがたりこまやかにてがたりこまやかにて。。。此此この位位くらいさりてたゞさりてたゞさりてただ心心こころやすくてあらんとなんやすくてあらんとなんやすくてあらんとなん思思おもひひい侍侍しときこえさせければときこえさせければときこえさせければ。。。
- 6さらにさらにさらにうけたまはらじうけたまはらじうけたまわらじ。。。さささははは三條院三條院さんじょういんののの御御おんすゑすゑすえはははたえねとおぼしめしたえねとおぼしめしたえねとおぼしめしをををきてさせきてさせきてさせ給給たまがいとあさましくかなしきがいとあさましくかなしきがいとあさましくかなしき御御おん事事こと也也なり。。。かゝるかゝるかかる御心御心みこころのつかせのつかせのつかせ給給たま御御おん事事ことはははととと事事ことならじならじならじ。。。
- 7こここののの御御おんものゝけなどのおもはせたてまつるものゝけなどのおもはせたてまつるもののけなどのおもわせたてまつる也也なり。。。さら〳〵さら〳〵さらさらおぼしめしそとけいしおぼしめしそとけいしおぼしめしそとけいし給給たまににに。。。さらばたゞさらばたゞさらばただ。。。出家出家しゅっけにこそにこそにこそはははあむなれとのあむなれとのあむなれとの給給たまはするにはするにわするに。。。
- 8さまでおぼしめすことならばさまでおぼしめすことならばさまでおぼしめすことならば。。。いかゞいかゞいかがはははともかくもともかくもともかくも申申もうさんさんさん。。。うちにうちにうちに奏奏そうししし侍侍はべてててをををとさせとさせとさせ給給たまをををりにぞりにぞりにぞ。。。御御おんけしきいとよくならせけしきいとよくならせけしきいとよくならせ給給たまにけるにけるにける。。。
- 9さてさてさて殿殿どのうちにまいらせうちにまいらせうちにまいらせ給給たまててて。。。にもにもにもうちにもうちにもうちにも申申もうさせさせさせ給給たまければければければ。。。いかゞいかゞいかがはははきかせきかせきかせ給給たまけんなけんなけんな。。。このたびのこのたびのこのたびの東宮東宮とうぐうにににははは式部卿式部卿しきぶきょうののの宮宮みやをををとこそとこそとこそはははおぼしめすべけれおぼしめすべけれおぼしめすべけれ。。。
- 10一條院一條院いちじょういんのののはか〴〵はか〴〵はかばかしきしきしき御御おんうしろみなければうしろみなければうしろみなければ。。。東宮東宮とうぐうにたうだいにたうだいにとうだいをををたてたてまつるなりとおほせられしかばたてたてまつるなりとおほせられしかばたてたてまつるなりとおおせられしかば。。。これもおなじこれもおなじこれもおなじ事事ことなりとおぼしさだめてなりとおぼしさだめてなりとおぼしさだめて。。。
- 11元年元年がんねん丁巳丁巳ひのとみ八月八月はちがつ五日五日いつかこそこそこそははは。。。九九くさいにてさいにてさいにて東宮東宮とうぐうにたゝせにたゝせにたたせ給給たまててて。。。同同おなじ月月つきののの廿三日廿三日にじゅうさんにちにこそにこそにこそははは。。。はははうちよりもてまいりしかうちよりもてまいりしかうちよりもてまいりしか。。。
- 12たうだいたうだいとうだい位位くらいにつかせにつかせにつかせ給給たましかばしかばしかば。。。すなすなすなはははちちち東宮東宮とうぐうにもまいるべかりしにもまいるべかりしにもまいるべかりしををを。。。しかるべきにやありけんしかるべきにやありけんしかるべきにやありけん。。。とかくさはりてこのとかくさはりてこのとかくさわりてこの年比年比としごろうちのうちのうちのおさめおさめおさめににに候候そうらつるぞかしつるぞかしつるぞかし。。。
- 13寬仁寬仁かんにん三年三年さんねん己未己未つちのとひつじ八月八月はちがつ廿八日廿八日にじゅうはちにち御御おおんとしとしとし十一十一じゅういちにてにてにて御元服御元服ごげんぷくせさせせさせせさせ給給たましかしかしか。。。さきのさきのさきの東宮東宮とうぐうをばをばをば小一條院小一條院こいちじょういんととと申申もう。。。いまのいまのいまの東宮東宮とうぐうののの御御おんありさまありさまありさま申申もうかぎりなしかぎりなしかぎりなし。。。
- 14たゞたゞただ今今いまかくとかくとかくとはははおもひかけざりしことなりかしおもひかけざりしことなりかしおもいかけざりしことなりかし。。。小一條院小一條院こいちじょういんわがわがわが御心御心みこころもてのがれもてのがれもてのがれ給給たまへるへるえる事事ことはははこれこれこれをををはじめとすはじめとすはじめとす。。。世世よはははじまりてのちじまりてのちじまりてのち東宮東宮とうぐう位位くらいとりさげられとりさげられとりさげられ給給たまことことことははは八七代八七代しちだい計計ばかりにやなりぬらんにやなりぬらんにやなりぬらん。。。
- 15なかになかになかに法師法師ほうし東宮東宮とうぐうおはしけるこそおはしけるこそおわしけるこそははは。。。うせうせうせ給給たまてのちにてのちにてのちに贈太上天皇贈太上天皇ぞうだいじょうてんのうととと申申もうていはひすゑられていはひすゑられていわいすえられ給給たまへれへれえれ。。。天皇天皇てんのうとてとてとて。。。
- 16のののはははつつつをををさきにたてまつらせさきにたてまつらせさきにたてまつらせ給給たまめりめりめり。。。このこのこの院院いんのかくおぼしたちぬるのかくおぼしたちぬるのかくおぼしたちぬる事事こと。。。かつかつかつははは殿下殿下でんかののの御報御報ごおうのののはやはやはやくおはしますにおされくおはしますにおされくおわしますにおされ給給たまへるかへるかえるか。。。
- 17又又またおほくおほくおおくはははののの靈靈りょうのつかうまつりつるなりといへばのつかうまつりつるなりといへばのつこうまつりつるなりといえば。。。このさぶらひこのさぶらひこのさぶらい。。。それもさるべきなりそれもさるべきなりそれもさるべきなり。。。このこのこのほどのほどのほどの御御おん事事ことこそことのこそことのこそことの外外ほかにかはりてにかはりてにかわりて侍侍はべれれれ。。。
- 18なにがしなにがしなにがしはははいとくはしくうけいとくはしくうけいとくわしくうけ給給たまはははりたるとりたるとりたると侍侍はべるものるものるものをををといへばといへばといえば。。。世世よつぎさもつぎさもつぎさも侍侍はべらんらんらん。。。つたはりぬるつたはりぬるつたわりぬる事事ことはははいで〳〵いで〳〵いでいでうけうけうけ給給たまはははらばやらばやらばや。。。ならひにしならひにしならいにし事事ことなればなればなれば。。。ものゝなものゝなもののなをををきかまほしくきかまほしくきかまほしく侍侍はべるぞといふるぞといふるぞという。。。
現代語訳
この宮(娍子)の御腹の第一皇子が敦明親王で、式部卿の宮と申し上げていたが、長和五年正月二十九日に三条院が退位なさったので、当代(後一条天皇)が位にお即きになって、この式部卿の宮が東宮にお立ちになった。御年二十三。(それは)道理にかなったことだと、みな人が思い申し上げていたところ、院がお亡くなりになってのち、二年ほどたって、どうお思いになったのか、宮と申し上げていたころ何事につけても気ままに遊び慣れていらしたので、(東宮としての)きちんとしたご生活がたいへん窮屈で、なんとかこうでなくいたいものだとお思いになるようになって、皇后宮(娍子)に「このように思われます」と申し上げなさったのを、どうして(皇后が)本当にそうだとお思いになろうか。「まったくあきれた、あってはならないこと」とばかりお諫め申し上げなさるので、思い余って入道殿(道長)にお便りがあったので、(道長が)参上なさると、お話がこまごまとあって、「この位を退いて、ただ気楽にしていようと思うのです」と申し上げなさったので、(道長は)「決して承知いたしません。それでは三条院のご子孫は絶えてしまえと、(院が)お考えおきになったことになるのが、まことにあさましく悲しいことです。このようなお心がおつきになるのは、ただごとではありますまい。故冷泉院の物の怪などが思わせ申し上げているのです。決してそうお思いになりますな」と申し上げなさると、(親王が)「それならただ、もとからの望みもある。出家することにしよう」とおっしゃるので、「それほどまでにお思いになるのなら、どうしてとやかく申し上げましょう。帝に奏上いたしましょう」と申し上げなさったときに、ご機嫌がたいそうよくおなりになったのでした。
そうして殿(道長)は内裏に参上なさって、大宮(彰子)にも帝にも申し上げなさったので、(お二人は)どうお聞きになったことでしょう。「このたびの東宮には、式部卿の宮(敦康親王)をとお思いになるべきだろうが、一条院が『しっかりした後見がないので、東宮に当代をお立て申し上げるのだ』とおっしゃったので、これも同じことだ」とお決めになって、寛仁元年丁巳八月五日に、九歳で三の宮(敦良親王)が東宮にお立ちになって、同月の二十三日に、壺切という太刀が内裏から持って参られたのでした。当代が位にお即きになったので、すぐに東宮(敦明親王)にも参るべきだったのに、そうなるべき運命だったのか、何やかやと差し障りがあって、この数年、内裏の納殿にあったのですよ。寛仁三年己未八月二十八日、御年十一でご元服なさった。前の東宮を小一条院と申し上げる。今の東宮のご様子は、申し上げようもない(すばらしさだ)。今こうなるとは思いもかけなかったことですよ。小一条院が自分のお心から(東宮の位を)お逃れになったことは、これが初めてである。世が始まってから、東宮の位を取り下げられなさったことは、七代ほどにもなりましょうか。その中で、法師の東宮がいらしたのは、お亡くなりになってのちに贈太上天皇と申し上げて祀られなさった。朝廷もご存じで、崇道天皇といって、官物の初穂を先にお供えなさるようです。この院(小一条院)がこのようにお思い立ちになったのは、一つには殿下(道長)の御果報が早くいらっしゃることに押されなさったのか、また大方は元方民部卿の霊がしたことだ」と言うと、この侍が、「それもそうなのでしょう。このたびのことは、ことのほか(世間で聞くのとは)違っております。私はたいへんくわしく承っておりますよ」と言うと、世継は「そうでございましょう。伝わったことは、さあさあ承りたいものです。(年寄りの)習い性で、ものの名を聞きたくなるのです」と言う。
意訳
済時の娘娍子の産んだ敦明親王は、三条天皇の皇子で、後一条天皇の東宮となった。三条天皇が退位の条件として、道長に約束させたものだった。しかし父院が亡くなって後ろ盾を失うと、敦明親王は二年足らずで東宮を辞退してしまう。世継は、宮のころの自由な暮らしが忘れられず、東宮の窮屈な生活に耐えられなかったからだと語る。
母の皇后娍子は強く反対したが、親王は直接道長に申し出た。道長は「それでは三条院の御子孫が絶えてしまう」と諫め、冷泉院の物の怪のせいだとまで言うが、親王が出家すると言い出すと、ついに承知する。そのとたん親王の機嫌がよくなったという一言に、親王の本心が表れている。こうして道長の外孫、敦良親王が東宮に立った。
世継は「自ら東宮を逃れたのはこれが初めてだ」と言い、廃太子の例として早良親王(崇道天皇)を挙げる。そして退位の原因を、道長の果報に押されたためか、元方民部卿(村上天皇の第一皇子広平親王の外祖父で、冷泉天皇の立太子を恨んで死んだ)の怨霊のためかと言う。ここで若侍が「自分はもっとくわしく聞いている」と口をはさみ、次の章から侍の語る真相が始まる。
語釈・文法注
- 敦明親王
- 敦明親王(994〜1051)。三条天皇の第一皇子。後一条天皇の東宮となったが、寛仁元年(1017)に辞退し、小一条院の院号を受けた。
- 長和五年
- 1016年。
- 皇后宮
- 娍子。敦明親王の母。
- こ冷泉院の御ものゝけ
- 冷泉天皇は物の怪に悩まされたとされ、その子孫にも祟ると考えられた。
- ほい
- 本意。かねてからの望み。
- 大宮
- 太皇太后彰子。後一条天皇の母。
- 式部卿の宮
- 敦康親王。一条天皇の第一皇子。母は定子。
- 寬仁元年
- 1017年。
- 三宮
- 敦良親王(1009〜1045)。一条天皇の第三皇子で、母は彰子。のちの後朱雀天皇。
- つぼきり
- 壺切の御剣。皇太子に代々伝えられる剣。
- おさめ殿
- 納殿。宝物などを納めておく所。
- そうだう天皇
- 崇道天皇。桓武天皇の弟の早良親王。藤原種継暗殺事件に連座して廃太子となり、絶食して死んだ。のちに怨霊を恐れて天皇の号が贈られた。
- 官物
- 朝廷に納める租税。
- 元方民部卿
- 藤原元方(888〜953)。娘が村上天皇の第一皇子広平親王を産んだが、師輔の娘安子の産んだ憲平親王(冷泉天皇)が東宮となり、恨みを残して死んだ。その怨霊が冷泉天皇やその子孫に祟ったとされる。
文法
- あらばや
- 「ばや」は自己の願望。ありたいものだ。
- おぼさんずる
- 「んずる」は推量。「いかでかは」と呼応して反語。
- うけたまはらじ
- 「じ」は打消の意志。承知するまい。
- さら〳〵おぼしめしそ
- 「な」を伴わない「そ」だけの禁止。決してお思いになるな。
- あむなれ
- 「あるなれ」の撥音便。「なれ」は伝聞推定。
- いかゞはきかせ給けんな
- 「けん」は過去推量。どうお聞きになったのだろうか。
解説
敦明親王の東宮辞退(寛仁元年=1017)は、道長の圧迫によるものと考えられている。三条天皇の死後、東宮坊の官人のなり手もなく、親王は孤立していた。辞退ののち道長は親王を厚遇し、小一条院の院号と上皇に准じる待遇を与え、娘の寛子を妻とさせた(第28章)。
底本は「東宮位とりさげられ給ことは八」で521頁を終え、522頁を「七代計にやなりぬらん」で始める。「八」が何を示すかは明らかでないが、底本のとおりに翻刻した。
「元方民部卿の霊」は、『大鏡』や『栄花物語』で、冷泉天皇の狂気や花山天皇の出家、三条天皇の眼病など、冷泉系の皇統の不運の原因として繰り返し語られる。
関連
出典
- 底本
- 経済雑誌社編『国史大系』第17巻(大鏡) 経済雑誌社、明治34年(1901)、520〜522頁(コマ276–277)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日