大鏡 第24章
済時と八宮の大饗
師尹の子済時(小一条大将)は、気難しく体面を重んじる人で、箏の名手でありながらめったに弾かず、献上された贄を庭に並べて見せびらかした。甥の八宮永平親王に大饗を催させ、「客が帰ろうとしたら引き留めよ」と教えたところ、親王は客の衣の肩をつかんで引きとめ、満座の失笑を買った。済時の娘娍子は三条天皇の皇后となったが、もう一人の娘は敦道親王に捨てられて不遇であった。
- 1そのそのその母母はは女御女御にょうごののの御御おんせうとせうとしょうとののの左大將左大將さだいしょうととと申申もうししし。。。長德長德ちょうとく元年元年がんねん四月四月しがつ二十三日二十三日にじゅうさんにちにににうせうせうせ給給たまにきにきにき。。。御御おおんとしとしとし五十三五十三ごじゅうさん。。。このこのこの大將大將だいしょうはははちゝおとゞよりもちゝおとゞよりもちちおとどよりも。。。御心御心みこころざまのわづらはしくざまのわづらはしくざまのわずらわしくしきおぼえまさりてしきおぼえまさりてしきおぼえまさりて。。。
- 2あまりあまりあまりになどぞおはせしになどぞおはせしになどぞおわせし。。。御御おんいもいもいもうとのうとのうとの女御女御にょうご殿殿どのににに。。。村上村上むらかみののの御琴御琴みことをををしへさせしへさせしえさせ給給たまけるけるける。。。御御おんまへにさぶらひまへにさぶらひまえにさぶらい給給たまてきゝならひてきゝならひてききならい給給たまほどにほどにおどに。。。をのづからわれもそのをのづからわれもそのおのずからわれもその道道みちののの上手上手じょうずににに。。。
- 3人人ひとにもおもはれたまへりしにもおもはれたまへりしにもおもわれたまえりしををを。。。おぼろげにおぼろげにおぼろげに心心こころよくならひたまはずよくならひたまはずよくならいたまわず。。。さるべきさるべきさるべき事事ことのおりもせめてそゝのかされてのおりもせめてそゝのかされてのおりもせめてそそのかされて。。。ものものものひとつひとつひとつ計計はか給給たましがしがしが。。。人人ひとにもいはれにもいはれにもいわれ給給たまききき。。。
- 4人人ひとのたてまつりたるのたてまつりたるのたてまつりたるなどいふなどいふなどいう物物ものははは。。。御御おんまへのにまへのにまえのにはははにとりにとりにとりをををかせかせかせ給給たまててて。。。よるよるよるはははにへにへにえにおさめにおさめにおさめ。。。ひるひるひるははは又又またもとのやうにとりいれつゝもとのやうにとりいれつゝもとのようにとりいれつつをををかせなどかせなどかせなど。。。
- 5又又また人人ひとのたてまつりかのたてまつりかのたてまつりかふるまでふるまでふるまではははをををかせかせかせ給給たまててて。。。とりとりとりうごかすうごかすうごかす事事ことはははせさせせさせせさせ給給たまはぬはぬわぬ。。。あまりやさしきあまりやさしきあまりやさしき事事ことなりななりななりな。。。人人ひとなどのまいるにもかくなんとなどのまいるにもかくなんとなどのまいるにもかくなんと見見みせせせ給給たまれうなめりれうなめりりょうなめり。。。
- 6むかしむかしむかし人人ひとはははさるさるさる事事ことをををよきによきによきにはしければはしければはしければ。。。そのまゝのありさまそのまゝのありさまそのままのありさまをををせさせせさせせさせ給給たまとぞとぞとぞ。。。
- 7かくやうにいみじうかくやうにいみじうかくようにいみじゅう心心こころありとおぼしたりしありとおぼしたりしありとおぼしたりしほどよりほどよりほどよりははは。。。よしなしよしなしよしなし事事ことししし給給たまへりとぞへりとぞえりとぞ人人ひとにいはれにいはれにいわれ給給たまめりしめりしめりし。。。御御おんをををひのひのひの八宮八宮はちのみやにににせさせたてまつりせさせたてまつりせさせたてまつり給給たまててて。。。
- 8上上うえごにおはすればごにおはすればごにおわすれば。。。人々人々ひとびとゑひじてあそばんなどおぼしてゑひじてあそばんなどおぼしてえいじてあそばんなどおぼして。。。さるべきさるべきさるべき上達部上達部かんだちめだちとくいづるものならばだちとくいづるものならばだちとくいずるものならば。。。しばしなどおかしきさまにとゞめさせしばしなどおかしきさまにとゞめさせしばしなどおかしきさまにとどめさせ給給たまへとよくへとよくえとよくをををしへしへしへ申申もうさせさせさせ給給たまけりけりけり。。。
- 9さこそさこそさこそ人人ひとがらあやしくしれがらあやしくしれがらあやしくしれ給給たまへれどへれどえれど。。。やむごとなきみこのやむごとなきみこのやむごとなきみこの大事大事だいじにしにしにし給事給事たまうことなればなればなれば。。。人〳〵人〳〵ひとびとあまたまいりあまたまいりあまたまいり給給たま。。。されどおほやけごとさしあはせたるされどおほやけごとさしあはせたるされどおおやけごとさしあわせたる日日ひなればいそぎなればいそぎなればいそぎ出出い給給たまににに。。。
- 10まとさるまとさるまとさる事事ことありつとおぼしいでゝありつとおぼしいでゝありつとおぼしいでて。。。大將大將だいしょうののの御方御方おおんかたをををあまたゝびみやらせあまたゝびみやらせあまたたびみやらせ給給たまににに。。。めめめをををくはせくはせくわせ申給申給もうしたまへばへばえば。。。御御おんおもていとあかくなりておもていとあかくなりておもていとあかくなりて。。。とみにえうちいでさせとみにえうちいでさせとみにようちいでさせ給給たまはずはずわず。。。
- 11ものもえおぼせられでものもえおぼせられでものもえおぼせられで。。。にににはははかにおびゆるやうにかにおびゆるやうにかにおびゆるように。。。おどろ〳〵おどろ〳〵おどろおどろしくあららかにしくあららかにしくあららかに人〳〵人〳〵ひとびとののの本本もとをををちぬばかりとりかゝらせちぬばかりとりかゝらせちぬばかりとりかからせ給給たまににに。。。
- 12まいりとまいれるまいりとまいれるまいりとまいれる上達部上達部かんだちめははは末末すえののの座座ざまでまでまで見見み合合あわつゝつゝつつ。。。えしづめずやえしづめずやえしずめずや有有ありけんけんけん。。。かほけしきかはりつゝかほけしきかはりつゝかおけしきかわりつつ。。。とりあへずごとにとりあへずごとにとりあえずごとに事事ことをををつけつゝいそぎたちぬつけつゝいそぎたちぬつけつついそぎたちぬ。。。
- 13このこのこの入道殿入道殿にゅうどうどのなどなどなどははは。。。わかわかわか殿上人殿上人てんじょうびとにておはしましけるにておはしましけるにておわしましけるほどなればほどなればほどなれば。。。事事ことすゑにてよくもすゑにてよくもすえにてよくも御御ごらんぜざりけりらんぜざりけりらんぜざりけり。。。たゞたゞただ人人ひとびとのびとのびとのほゝゑみていでほゝゑみていでほほえみていで給給たましししをぞをぞをぞ見見みしとぞしとぞしとぞ。。。
- 14此此このころおかしかりしころおかしかりしころおかしかりし事事ことにかたりにかたりにかたり給給たまなるなるなる。。。大將大將だいしょうはははなにせんにかゝるなにせんにかゝるなにせんにかかる事事ことをををせさせたてまつりてせさせたてまつりてせさせたてまつりて。。。又又またしかのしかのしかの給給たまへともおしへへともおしへえともおしえ聞聞きこえけんとくやしくおぼすにえけんとくやしくおぼすにえけんとくやしくおぼすに。。。
- 15御御おんいろもあいろもあいろもあをををくなりてぞおはしけるくなりてぞおはしけるくなりてぞおわしける。。。まことにみこまことにみこまことにみこをばをばをばもとよりさるもとよりさるもとよりさる人人ひととしりとしりとしり申申もうたればたればたれば。。。人人ひとこれこれこれをををしもそしりしもそしりしもそしり申申もうさずさずさず。。。此此この殿殿どのをぞをぞをぞかゝるかゝるかかる御心御心みこころととと見見みる〳〵る〳〵るみる。。。
- 16せめてなくてあるべきせめてなくてあるべきせめてなくてあるべき事事ことならぬにならぬにならぬに。。。かくみぐるしきかくみぐるしきかくみぐるしき御御おんありさまありさまありさまをををあまたあまたあまた人人ひとににに見見みせきこえせきこえせきこえ給給たまへるへるえる事事こととぞそしりとぞそしりとぞそしり申申もうししし。。。いみじきいみじきいみじき心心こころあるあるある人人ひとととと。。。
- 17おぼへおはせしおぼへおはせしおぼえおわせし人人ひとののの口口くち給給たまへるよへるよえるよ。。。
- 18此此この殿殿どのののの御御おん北北きた方方かたにてにてにてははは。。。枇杷大納言枇杷大納言びわのだいなごんののの御御おんむすめぞおはせるむすめぞおはせるむすめぞおわせる。。。二所二所ふたところおとこおとこおとこ君君きみ二人二人ふたりぞおはせしぞおはせしぞおわせし。。。女君女君おんなぎみははは三條院三條院さんじょういんののの東宮東宮とうぐうにておはしましゝにておはしましゝにておわしましし折折おりののの女御女御にょうごにてにてにて。。。
- 19宣耀殿宣耀殿せんようでんととと申申もうていとときにおはしましゝていとときにおはしましゝていとときにおわしましし。。。おとこみこおとこみこおとこみこ四四し所所ところ。。。女女おんな宮宮みや二人二人ふたり。。。さてさてさて女君女君おんなぎみははは三條院三條院さんじょういんののの東宮東宮とうぐうにておはしましゝにておはしましゝにておわしましし時時ときまいりまいりまいり生生うまれれれ給給たまへりしへりしえりしほどにほどにほどに。。。
- 20東宮東宮とうぐう位位くらいにつかせにつかせにつかせ給給たまててて。。。又又またののの年年とし長和長和ちょうわ元年元年がんねん壬子壬子みずのえね四月四月しがつ十八日十八日じゅうはちにち后后きさきににに立立た給給たまててて皇后宮皇后宮こうごうぐうととと申申もう。。。小一條小一條こいちじょう御母御母みわわ也也なり。。。
- 21又又また今一今一いまいと所所ところののの女君女君おんなぎみはははちゝのちゝのちちの殿殿どのうせうせうせ給給たまにしにしにし後後のち。。。御心御心みこころわざにれいぜんゐんのわざにれいぜんゐんのわざにれいぜんいんの四四しのみこのみこのみこととと申申もう御御おんうへにてうへにてうえにて。。。二三年二三年さんねん計計はかおはせしおはせしおわせしほどにほどにほどに。。。宮宮みやにににおぼしおぼしおぼしうつりにしかばうつりにしかばうつりにしかば。。。
- 22ほゐなくてほゐなくてほいなくて小一條小一條こいちじょうににに歸歸かえらせらせらせ給給たまししし後後のち。。。このごろきけばこのごろきけばこのごろきけば。。。心心こころえぬありさまのよのえぬありさまのよのえぬありさまのよのほかなるにてこそおはすなれほかなるにてこそおはすなれほかなるにてこそおわすなれ。。。とこそかしやとこそかしやとこそかしや。。。小一條小一條こいちじょう左大將左大將さだいしょう殿殿どのののの御御おんおもておこしおもておこしおもておこし給給たまふふうははは。。。
- 23皇后宮皇后宮こうごうぐうおはしますにおはしますにおわしますに。。。はぢがましくいとおしきはぢがましくいとおしきはじがましくいとおしきははは。。。今今いまいと一人一人ひとりののの御御おんむすめにこそあめれむすめにこそあめれむすめにこそあめれ。。。
現代語訳
その母女御(宣耀殿女御)の兄君は、済時の左大将と申し上げた。長徳元年四月二十三日にお亡くなりになった。御年五十三。この大将は、父の大臣よりも、ご気性が気難しく癖があるという評判がまさって、あまりにも体面ばかりを気にしていらした。妹の女御殿に村上天皇が箏の琴をお教えになっていた。(済時は)その御前に控えていらして聞き覚えなさるうちに、自然とご自分もその道の上手と人にも思われなさっていたのに、並大抵のことでは気持ちよくお弾きにならない。しかるべき折にも、無理に勧められて一曲ほど合奏などをなさったが、あまりにも無愛想だと人にも言われなさった。
人が献上した贄(にえ)などという物は、御前の庭に取り置かせなさって、夜は贄殿にしまい、昼はまたもとのように取り出して置かせなどして、また人が別のものを献上して取り替えるまでは置かせておいて、動かすことはおさせにならない。あまりにも体裁ぶったことですなあ。人などが参上したときにも、こうだと見せなさるためのものだったようです。昔の人はそういうことを良いことにしていたので、そのままのやり方をなさったということです。
このように、たいそう思慮深いとご自分では思っていらしたわりには、つまらないことをなさったと人に言われなさったようです。甥の八宮に大饗をおさせ申し上げなさって、(八宮が)主人でいらっしゃるので、人々が酔って遊ぼうなどとお思いになって、「しかるべき上達部たちが早く帰ろうとしたら、『しばらく』などと、うまい具合に引き留めなさいませ」と、よく教え申し上げなさった。あれほど人柄が妙に愚かでいらしても、尊い親王が大事になさる催しなので、人々がたくさん参上なさったのも古風なことですよ。けれども公務が重なっている日だったので、(上達部たちが)急いで退出なさると、(八宮は)「本当に、そういうことがあった(教わった)」と思い出しなさって、大将の方を何度もご覧になるので、(大将が)目くばせを申し上げなさると、お顔がたいそう赤くなって、すぐには言葉をお出しになれない。ものもおっしゃれずに、急におびえたように、大げさに荒々しく、人々の袍の肩の付け根がちぎれるほどにつかみかかりなさったので、参上していた上達部は末席まで顔を見合わせて、こらえきれなかったのだろうか、顔色が変わり、取るものも取りあえず何かと口実をつけて急いで立ち去った。この入道殿(道長)などは、若い殿上人でいらしたころなので、末席でよくもご覧にならなかった。ただ人々がほほえんで出ていかれたのを見たということです。近ごろ、おかしかったこととしてお話しになるそうです。大将は、どうしてこんなことをおさせ申し上げ、また「そうおっしゃいませ」とお教え申し上げたのだろうと悔やまれて、お顔の色も青くなっていらした。本当に、親王のことはもとからそういう人と知り申し上げていたので、人々はこのことでは非難申し上げない。この殿(済時)のことを、「こういうお心の人だ」と見ながら、どうしてもなくてはならないことでもないのに、こんな見苦しいご様子を大勢の人にお見せ申し上げなさったことよ、と非難申し上げた。たいそう思慮深い人という評判でいらした人が、残念にも、愚かなことをしでかしなさったことよ。
この殿の北の方としては、枇杷大納言延光の御娘がいらっしゃる。女君がお二人、男君がお二人いらした。女君は三条院が東宮でいらした折の女御で、宣耀殿と申し上げて、たいそうご寵愛を受けていらした。男の皇子が四人、女宮が二人。さて女君は、三条院が東宮でいらした時に入内して(皇子たちが)お生まれになっていたが、東宮が位にお即きになって、翌年の長和元年壬子四月十八日に后にお立ちになって皇后宮と申し上げる。小一条院の御母である。
もうお一人の女君は、父の殿がお亡くなりになってのち、ご自分の考えで、冷泉院の第四皇子の帥宮(敦道親王)と申し上げる方の北の方となって、二、三年ほどいらしたが、宮が和泉式部にお心を移してしまわれたので、不本意なことで小一条にお帰りになったのち、近ごろ聞くと、わけのわからない、世間離れした暮らしをしていらっしゃるそうです。生きている甲斐もないことでしょうよ。小一条左大将殿の面目を立てていらっしゃるのは皇后宮でいらっしゃるのに、恥ずかしく気の毒なのは、もう一人の御娘のほうであるようです。
意訳
済時は師尹の子で、宣耀殿女御芳子の兄。気難しく、人の目を気にする人として描かれる。村上天皇が妹に箏を教えるのを聞き覚えて名手となったのに、もったいぶってなかなか弾かない。献上された贄を庭に並べて客に見せびらかす。世継はそれを「あまりやさしき事」と冷ややかに見る。
八宮の大饗の話は、『大鏡』の中でも滑稽な場面として名高い。叔父の済時は、主人役の八宮に「客が帰ろうとしたら、うまく引き留めなさい」と教えておいた。ところが客が席を立ちはじめると、八宮は思い出して済時の顔を何度も見、目くばせされると真っ赤になって、言葉も出ないまま、客の袍の肩をちぎれるほどつかんで引き留めた。上達部たちは笑いをこらえきれず、口実をつけて逃げ出した。若き日の道長もその場にいて、のちに笑い話として語ったという。世継は、八宮が愚かなのは誰もが知っていたことだから、非難されたのはむしろ、無用なことをさせた済時のほうだったと言う。
済時の娘娍子は三条天皇の皇后となり、小一条院(敦明親王)の母となった。一方もう一人の娘は、敦道親王(帥宮)の妻となったが、親王が和泉式部に心を移したため、実家に帰り、不遇のうちに暮らしているという。この帥宮と和泉式部の恋は、『和泉式部日記』に描かれたものである。
語釈・文法注
- 濟時
- 藤原済時(941〜995)。師尹の子。大納言・左大将。小一条大将と呼ばれた。
- くせ〴〵しき
- 癖が強い、ひねくれている。
- 名聞
- 世間の評判を気にすること、見栄。
- かきあはせ
- 掻き合はせ。弦楽器を他の楽器と合わせて弾くこと。
- けにくし
- 気憎し。無愛想だ、そっけない。
- にへ
- 贄。献上された魚や鳥などの食物。
- にへ殿
- 贄殿。贄などの食物を納めておく建物。
- 大饗
- 大臣や親王が催した盛大な宴会。ここは親王の大饗。
- こだい
- 古代。古風なこと、昔ふうで律儀なこと。
- うへのきぬ
- 袍(ほう)。束帯の上着。
- そくかう
- 意味未詳。不調法、しくじりの意か。
- 延光
- 源延光(927〜976)。代明親王の子。枇杷大納言。
- 女君
- 藤原娍子(972〜1025)。済時の娘。三条天皇の皇后。敦明親王(小一条院)の母。
- 師宮
- 帥宮。敦道親王(981〜1007)。冷泉天皇の第四皇子。大宰帥であった。和泉式部との恋で知られる。
- 和泉式部
- 平安中期の歌人。敦道親王との恋の顛末は『和泉式部日記』に描かれる。
- いきふ
- 生き甲斐の意か。
文法
- ならひたまはず
- 「ならふ」は、ここでは弾いて聞かせる意か。
- 見せ給れうなめり
- 「れう」は料(ため)。「なめり」は「なるめり」の撥音便の無表記。
- おしへ聞えけん
- 「けん」は過去推量の連体形。お教え申し上げたのだろう。
- えしづめずや有けん
- 「え〜ず」は不可能、「や〜けん」は疑問。こらえきれなかったのだろうか。
- 見る〳〵
- 見ながら。
- あるべき事ならぬに
- なくてはならないことでもないのに。
解説
八宮永平親王の大饗の話は、『大鏡』以外には見えない。世継が「入道殿(道長)が今も笑い話としてお話しになる」と言うのは、話の出どころを示して真実味を加える語り口である。
娍子は三条天皇が東宮のころから寵愛を受け、敦明親王ら四男二女を産んだ。三条天皇の即位後、道長の娘妍子が中宮となったのに対し、娍子は大納言の娘であるため、父済時に右大臣を贈ることで皇后に立てられた(第29章参照)。
済時のもう一人の娘は、敦道親王の妃となったが、親王が和泉式部を邸に迎え入れたため、実家に帰った。『和泉式部日記』の最後に描かれる、北の方の退去の場面がこれにあたる。
関連
出典
- 底本
- 経済雑誌社編『国史大系』第17巻(大鏡) 経済雑誌社、明治34年(1901)、517〜520頁(コマ274–276)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日