大鏡 第23章
師尹と宣耀殿女御
忠平の五男師尹(小一条殿)は、安和の変で源高明が大宰府に流されたあとを受けて左大臣となったが、その陰謀を言い出したのは師尹だと噂され、まもなく亡くなった。娘の宣耀殿女御芳子は髪が長く美しく、古今集をすべて暗記して村上天皇を感嘆させた。しかし生まれた八宮永平親王は愚かな人であった。
- 1左大臣左大臣さだいじん
- 2此此このおとゞおとゞおとど忠平忠平ただいら大臣大臣だいじん五郎五郎ごろう。。。小一條小一條こいちじょうおとゞとおとゞとおとどと聞聞きこえさすめりえさすめりえさすめり。。。御母御母みわわ九條九條くじょう殿殿どのににに同同おなじ。。。大臣大臣だいじんののの位位くらいにてにてにて三年三年さんねん。。。四年四年よねん十二月十二月じゅうにがつににに左大臣左大臣さだいじんにににうつりうつりうつり給給たまとととのののつくしつくしつくしへへへくだりくだりくだり給給たま御御おんかはりなりかはりなりかわりなり。。。
- 3そのそのその御御おん事事ことのみだれのみだれのみだれははは。。。このこのこの小一條小一條こいちじょうのおとゞのいひいでのおとゞのいひいでのおとどのいいいで給給たまへるとぞよのへるとぞよのえるとぞよの人人ひと聞聞きこえしえしえし。。。さてさてさて年年とし給給たまなどこそなどこそなどこそ申申もうめりしかめりしかめりしか。。。それもまことにやそれもまことにやそれもまことにや。。。
- 4御御おんむすめむすめむすめ村上村上むらかみののの御時御時おおんときのののかたちおかしげにかたちおかしげにかたちおかしげにうつくしうおはしけりうつくしうおはしけりうつくしゅうおわしけり。。。うちへまいりうちへまいりうちえまいり給給たまとてとてとて御車御車みくるまにたてまつりにたてまつりにたてまつり給給たまければければければ。。。わがわがわが御身御身みみはははのりのりのり給給たまけれどけれどけれど。。。
- 5御御おんぐしのすそぐしのすそぐしのすそはもはもはもやのやのやのはしらのもとにぞおはしけるはしらのもとにぞおはしけるはしらのもとにぞおわしける。。。ひとすぢひとすぢひとすじををを。。。いかにもさまみえいかにもさまみえいかにもさまみえ給給たまはずとぞはずとぞわずとぞ申申もうつたへためるつたへためるつたえためる。。。
- 6御御おんめのしりのすこしさがりめのしりのすこしさがりめのしりのすこしさがり給給たまへるがへるがえるが。。。いとゞらうたくおはするいとゞらうたくおはするいとどろうたくおわするををを。。。御門御門みかどいとかしこくときめかさせいとかしこくときめかさせいとかしこくときめかさせ給給たまてかくおほせられけるてかくおほせられけるてかくおおせられける。。。
- 7いきてのよしにてのゝちのよもいきてのよしにてのゝちのよもいきてのよしにてののちのよもねねねををを
- 8御返御返おおんかえしししし女御女御にょうご。。。
- 9秋秋あきになることのになることのになることのはははだにもかはらずばわれもかはせるえだとなりなんだにもかはらずばわれもかはせるえだとなりなんだにもかわらずばわれもかわせるえだとなりなん
- 10うかべさせうかべさせうかべさせ給給たまへりときかせへりときかせえりときかせ給給たまててて。。。御門御門みかど心心こころみにみにみに本本もとをををかくしてかくしてかくして。。。女御女御にょうごにににはははみせたてまつりみせたてまつりみせたてまつり給給たまはははででで。。。うたうたうたはははとあるとあるとあるをををはじめにてはじめにてはじめにて。。。
- 11すへのくのことばすへのくのことばすえのくのことばをををおほせられつゝとはせおほせられつゝとはせおおせられつつとわせ給給たまけるにけるにけるに。。。いひたがへいひたがへいいたがえ給給たまことばにてもことばにてもことばにても歌歌うたにてもなかりけりにてもなかりけりにてもなかりけり。。。かゝるかゝるかかる事事ことなどちゝおとゞなどちゝおとゞなどちちおとどはははきゝきゝきき給給たまててて。。。
- 12御御おん御御おんてあらひなどしててあらひなどしててあらいなどして。。。ととところ〴〵ころ〴〵ころごろににに讀經讀經どきょうなどしねんじなどしねんじなどしねんじ入入いてぞおはしけるてぞおはしけるてぞおわしける。。。みかどみかどみかど御御おんさうのさうのそうの琴琴ことをををめでたくあそばしけるもめでたくあそばしけるもめでたくあそばしけるも。。。
- 13御心御心みこころににに入入いてをしへなどかぎりなくてをしへなどかぎりなくておしえなどかぎりなく時時ときめきめきめき給給たまににに。。。冷泉院冷泉院れいぜいいんののの御母御母みわわ后后きさきうせうせうせ給給たまてこそてこそてこそ。。。中〳〵中〳〵なかなかこよなくおぼえおとりこよなくおぼえおとりこよなくおぼえおとり給給たまへりとへりとえりとはははきこえしかきこえしかきこえしか。。。のいみじくめざましくやすからぬのいみじくめざましくやすからぬのいみじくめざましくやすからぬ物物ものにおぼしたりしかばにおぼしたりしかばにおぼしたりしかば。。。
- 14おもひいづるにいとをしくくやしきなりとぞおほせられけるおもひいづるにいとをしくくやしきなりとぞおほせられけるおもいいずるにいとおしくくやしきなりとぞおおせられける。。。此此この女御女御にょうごののの御御おんはははらにらにらに。。。とておとことておとことておとこ親王親王しんのうむまれむまれむまれ給給たまへりへりえり。。。御御おんかたちなどかたちなどかたちなどはははきよげにおはしけれどきよげにおはしけれどきよげにおわしけれど。。。御心御心みこころきききははは物物ものとぞきゝたてまつりしとぞきゝたてまつりしとぞききたてまつりし。。。
- 15世世よののの中中なかのかしこきみかどののかしこきみかどののかしこきみかどの御御おんためしにためしにためしにははは。。。もろこしにもろこしにもろこしにはははのみかどゝのみかどゝのみかどと舜舜しゅんのみかどゝのみかどゝのみかどと申申もう。。。このこのこの國國くににににははは天曆天曆てんりゃくとこそとこそとこそははは申申もうめれめれめれ。。。延喜延喜えんぎとととはははだいごのだいごのだいごの先帝先帝せんていののの御御おん事事こと。。。
- 16天曆天曆てんりゃくととと申申もうははは村上村上むらかみののの先帝先帝せんていののの御御おん事事こと也也なり。。。そのみかどのそのみかどのそのみかどの御子御子みこははは小一條小一條こいちじょう大臣大臣だいじんのむまごにてしかくれのむまごにてしかくれのむまごにてしかくれ給給たまへりけるへりけるえりける。。。いと〳〵いと〳〵いといとあやしきあやしきあやしき事事こと也也なりかしかしかし。。。
現代語訳
左大臣師尹
この大臣は忠平大臣の五男。小一条の大臣と申し上げるようです。御母は九条殿(師輔)と同じ。大臣の位に三年。康保四年十二月に左大臣にお移りになったのは、西宮殿(源高明)が筑紫へお下りになった、その後任である。その事件の騒ぎは、この小一条の大臣が言い出しなさったのだと世の人は申しました。そうして年も越さずにお亡くなりになったなどと申したようですが、それも本当でしょうか。
御娘で村上天皇の御時の宣耀殿女御は、容貌がかわいらしく美しくいらっしゃった。内裏へ参上なさるというので御車にお乗りになったところ、ご自身はお乗りになっていたのに、御髪の裾はまだ母屋の柱のもとにあったという。(髪の)一筋を陸奥紙の上に置いたところ、どうしても隙間が見えなかったと申し伝えているようです。目じりが少し下がっていらっしゃるのが、ますますかわいらしくいらっしゃるのを、帝はたいそうご寵愛なさって、こうおっしゃった。
生きての世死にての後の世も羽をかはせる鳥となりなむ
御返し、女御。
秋になることの葉だにも変はらずば我もかはせる枝となりなむ
(女御が)古今集を暗記していらっしゃるとお聞きになって、帝は試しに本を隠して、女御にはお見せにならずに、「やまとうたは」とある序を初めとして、(歌の)上の句の言葉をおっしゃってはお尋ねになったところ、言い違えなさることは、言葉でも歌でもなかったのでした。こういうことを父の大臣はお聞きになって、正装をし、手を洗い清めなどして、あちこちで読経などさせ、ひたすら祈っていらっしゃった。帝が箏の琴を見事にお弾きになったのも、(女御は)心を入れて教わるなど、このうえなくご寵愛を受けていらしたが、冷泉院の御母后(安子)がお亡くなりになってからは、かえってめっきりご寵愛が衰えなさったと聞きました。(帝は)「故宮(安子)がたいそう目障りで心穏やかでないものとお思いになっていたので、思い出すと気の毒で悔やまれるのだ」とおっしゃったということです。この女御の御腹に、八宮といって男の親王がお生まれになった。ご容貌などは清らかでいらっしゃったが、ご気性はまったくの愚か者だと聞き申し上げました。
世の中の賢い帝の例としては、中国では堯の帝・舜の帝と申し、この国では延喜・天暦と申すようです。延喜とは醍醐の先帝の御ことで、天暦と申すのは村上の先帝の御ことである。その帝の御子が、小一条大臣の孫で、そのように愚かでいらしたとは、まったく不思議なことですよ。
意訳
師尹は忠平の五男で、兄の実頼・師輔に続いて左大臣となった。その左大臣の地位は、安和二年(969)、醍醐天皇の皇子で左大臣だった源高明が謀反の疑いで大宰府に左遷された「安和の変」の結果、空いたものだった。世継は、この事件を言い出したのは師尹だという噂を伝え、師尹がその年のうちに亡くなったことを、暗に報いとしてほのめかしている。
師尹の娘芳子(宣耀殿女御)は、村上天皇の寵愛を受けた。車に乗っても髪の裾がまだ母屋の柱のもとにあるほど長く、目じりの少し下がった愛らしい顔立ち。天皇とは長恨歌の「比翼の鳥・連理の枝」をふまえた歌を詠みかわした。さらに、天皇が本を隠して古今集の歌の上の句を言うと、すべて正しく続けたという逸話は、『枕草子』にも記された名高い話である。父の師尹は、娘が試されていると聞いて、身を清めて祈り続けたという。
しかし芳子が産んだ八宮永平親王は、容貌は美しいが「きはめたる世のしれもの」だったという。聖代とたたえられた村上天皇の皇子が、なぜそうなのか、と世継はいぶかる。次の済時の章では、その愚かさを示す有名な話が語られる。
語釈・文法注
- 左大臣師尹
- 藤原師尹(920〜969)。忠平の五男。小一条左大臣と呼ばれた。
- かうほう四年
- 康保四年(967)。ただし師尹が左大臣となったのは安和二年(969)三月で、底本の年は合わない。
- 西宮
- 西宮左大臣、源高明(914〜982)。醍醐天皇の皇子。安和二年(969)、謀反の疑いで大宰権帥に左遷された(安和の変)。
- 宣耀殿女御
- 藤原芳子(?〜967)。師尹の娘。村上天皇の女御。
- もや
- 母屋。寝殿の中心部分。
- みちのくにがみ
- 陸奥紙。陸奥産の厚手の白い紙。
- はねをかはせるとり
- 比翼の鳥。雌雄が一体となって飛ぶという想像上の鳥。白居易の「長恨歌」の「天に在りては願はくは比翼の鳥と作り、地に在りては願はくは連理の枝と為らむ」による。
- かはせるえだ
- 連理の枝。根元が別々の木の枝がつながったもの。夫婦の深い愛情のたとえ。
- やまとうたは
- 『古今和歌集』仮名序の冒頭「やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」。
- 古今
- 『古今和歌集』。
- 御さうの琴
- 箏の琴。十三弦の琴。
- 故宮
- 亡き中宮安子。
- 八宮
- 永平親王(965〜988)。村上天皇の第八皇子。母は芳子。
- しれ物
- 痴れ者。愚か者。
- 堯のみかど
- 堯(ぎょう)と舜(しゅん)。古代中国の伝説上の聖天子。
- 延喜天曆
- 醍醐天皇の延喜の治と、村上天皇の天暦の治。天皇親政の理想の時代とされた。
文法
- いひいで給へるとぞ
- 「ぞ」の結びは「聞えし」(連体形)。
- みえ給はずとぞ申つたへためる
- 「ためる」は「たるめる」の撥音便の無表記。申し伝えているようだ。
- ときめかさせ給て
- 寵愛なさって。
- となりなん
- 「な」は強意、「ん」は意志。きっとなろう。
- うかべさせ給へり
- 「うかぶ」は暗記する、そらんじる。
- ねんじ入てぞおはしける
- 一心に祈っていらっしゃった。
- おぼえおとり給へり
- 寵愛が衰えなさった。
和歌・漢詩
いきてのよしにてのゝちのよもはねをかはせるとりとなりなん
- 作者
- 村上天皇
- 状況
- 寵愛する宣耀殿女御芳子に贈った歌。生きている今の世も、死んだ後の世も、羽を交わす比翼の鳥となろう。
修辞
- 典拠
- 白居易「長恨歌」の比翼の鳥をふまえる。
秋になることのはだにもかはらずばわれもかはせるえだとなりなん
- 作者
- 宣耀殿女御(藤原芳子)
- 状況
- 村上天皇への返歌。秋になって木の葉の色が変わるように、あなたのお言葉が変わる(心変わりする)ことさえなければ、私も連理の枝となりましょう。
修辞
- 掛詞
- 「秋」に「飽き」、「ことのは」に「言の葉」と木の「葉」をかける。
- 典拠
- 「長恨歌」の連理の枝をふまえる。
解説
安和の変(969)は、源満仲の密告によって、左大臣源高明が冷泉天皇の廃位と為平親王の擁立を企てたとして左遷された事件。藤原氏による最後の他氏排斥事件とされる。師尹はこの事件の直後に左大臣となったが、同年十月に亡くなった。
宣耀殿女御が古今集を暗記していたという話は、『枕草子』「清涼殿の丑寅の隅の」の段に、中宮定子が女房たちに語る話として、より詳しく記されている。
底本は師尹の左大臣就任を「かうほう四年十二月」とするが、実際は安和二年(969)三月である。底本のとおりに翻刻し、訳もそれに従った。
関連
出典
- 底本
- 経済雑誌社編『国史大系』第17巻(大鏡) 経済雑誌社、明治34年(1901)、516〜517頁(コマ274)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日