大鏡 第22章
公任の三舟の才
頼忠の子、公任は和歌の名手で、娘は教通の北の方となったが前年に亡くなった。若いころ、姉の遵子が立后したとき、兼家の邸の前で「この女御(詮子)はいつ后になるのか」と言い放ったが、のちに詮子の子一条天皇が即位すると、遵子は女房に「素腹の后はどこに」とやり返された。また道長の大井川の舟遊びでは和歌の舟に乗って「小倉山」の歌を詠み、詩の舟に乗ればよかったと悔やんだ「三舟の才」の話が語られる。頼忠は永祚元年に亡くなった。
- 1やがてやがてやがて后后きさき女御女御にょうごのののひとつばらのおとこひとつばらのおとこひとつばらのおとこ君君きみ。。。只今只今ただいまのののととと申申もうすすす。。。小小しょうのゝのゝのの宮宮みやののの御御おんまごなればにやまごなればにやまごなればにや歌歌うたののの道道みちすぐれすぐれすぐれ給給たまへりへりえり。。。よによによにはづかしうはづかしうはずかしゅう心心こころにくきおぼへおはすにくきおぼへおはすにくきおぼえおわす。。。
- 2其其その御御おんむすめむすめむすめ唯今唯今ただいまのののののの御御おん北北きた方方かたにてにてにて。。。年年とし木木き多多おお公達公達きんだちうみつゞけうみつゞけうみつづけ給給たまへるへるえる。。。こぞのこぞのこぞの正月正月しょうがつにににうせうせうせ給給たまててて。。。大納言大納言だいなごんよろづよろづよろずをををしらずおぼしなげくしらずおぼしなげくしらずおぼしなげく事事ことかぎりなしかぎりなしかぎりなし。。。
- 3又又またおとこおとこおとこ君君きみ一人一人ひとりぞおはするぞおはするぞおわする。。。左大辨左大辨さだいべん君君きみ若殿上人若殿上人わかてんじょうびとののの中中なかににに心心こころありありあり歌歌うたなどもなどもなども上手上手じょうずにおはすめりにおはすめりにおわすめり。。。母母はは北北きた方方かたいとあてにおはすかしいとあてにおはすかしいとあてにおわすかし。。。村上村上むらかみののの御御おんののの御御おんむすめむすめむすめ。。。
- 4入道入道にゅうどう少將少將しょうしょうまちまちまちをををさささ君君きみののの御御おんむすめのむすめのむすめのはらはらはら也也なり。。。内大臣内大臣ないだいじん殿殿どののののうへもうへもうえも此此この弁弁べん君君きみももも。。。さればさればされば御御おんなからひなからひなからいいと〳〵いと〳〵いといとやむごとなしやむごとなしやむごとなし。。。
- 5かのかのかの大納言大納言だいなごん殿殿どのののの事事こと一度一度いちどぞのぞのぞの給給たまへるやへるやえるや。。。御御おんいもいもいもうとのうとのうとの四條四條しじょうののの宮宮みや后后きさきにたゝせにたゝせにたたせ給給たまてててはじめてはじめてはじめてうちへうちへうちえ入入い給給たまににに。。。西洞院西洞院にしのとういんのぼりにおはしませばのぼりにおはしませばのぼりにおわしませば。。。
- 6のまへのまへのまえをををわたらせわたらせわたらせ給給たまににに。。。大入道殿大入道殿おおにゅうどうどのももも女院女院にょういんもむねいたくおぼしめしけるにもむねいたくおぼしめしけるにもむねいたくおぼしめしけるに。。。按察大納言按察大納言あぜちのだいなごん殿殿どのははは后后きさきののの御御おんせうとにてせうとにてしょうとにて。。。御心御心みこころちよくおぼされけるまゝにちよくおぼされけるまゝにちよくおぼされけるままに。。。
- 7御馬御馬みまをををひかへてこのひかへてこのひかえてこの女御女御にょうごはははいつかいつかいつか后后きさきにたちにたちにたち給給たまわらんとらんとらんと。。。うちみいれてのうちみいれてのうちみいれての給給たまへりけるへりけるえりけるををを。。。殿殿どのをををはじめたてまつりてはじめたてまつりてはじめたてまつりて。。。其其その御御おんぞぞぞうやすからずとおぼしけれどうやすからずとおぼしけれどうやすからずとおぼしけれど。。。
- 8宮宮みやおはしませばたけくぞおはしませばたけくぞおわしませばたけくぞ。。。よそのよそのよその人々人々ひとびともやくなくものもやくなくものもやくなくもの給給たまかなときゝかなときゝかなときき給給たま。。。一條院一條院いちじょういん位位くらいにつかせにつかせにつかせ給給たまへばへばえば又又また女御女御にょうご后后きさきにたゝせにたゝせにたたせ給給たまててて内内うちににに入入い給給たまににに。。。
- 9このこのこの大納言大納言だいなごん殿殿どの給給たまににに。。。よりあふぎさしよりあふぎさしよりあうぎさし出出いだしてしてして。。。やゝやゝやや物物もの申申もうさんとさんとさんと女房女房にょうぼうのきこえければのきこえければのきこえければ。。。何事何事なにごとにかとてにかとてにかとて内内うちよりよりより給給たまへるにへるにえるに。。。
- 10かをかをかおゝゝをさしいだしてさしいだしてさしいだして。。。御御おんいもいもいも后后きさきははは。。。いづくにかおはするときこえかけたりけるにいづくにかおはするときこえかけたりけるにいずくにかおわするときこえかけたりけるに。。。先先さき年年としののの事事ことをををおもひおもひおもいをををかれたるなりけりかれたるなりけりかれたるなりけり。。。
- 11みづからだにいかにとおぼえつるみづからだにいかにとおぼえつるみずからだにいかにとおぼえつる事事ことなればなればなれば道理道理ことわりなりなりなり。。。なくなりぬるなくなりぬるなくなりぬる身身みにこそとこそおぼえしかとのにこそとこそおぼえしかとのにこそとこそおぼえしかとの給給たまけれけれけれ。。。されどされどされど人人ひとがらよろづによくなりがらよろづによくなりがらよろずによくなり給給たまぬればぬればぬれば。。。
- 12とにとにとにふれてすてられふれてすてられふれてすてられ給給たまはずはずわず。。。かのないしのとがなるにてやみにきかのないしのとがなるにてやみにきかのないしのとがなるにてやみにき。。。
- 13ひとゝせひとゝせひととせ入道殿入道殿にゅうどうどのののの逍遙逍遙しょうようせさせせさせせさせ給給たましにしにしに。。。ののの船船ふね。。。管絃管絃かんげんののの船船ふね。。。和歌和歌わかののの船船ふねとわかたせとわかたせとわかたせ給給たまててて。。。そのそのその道道みちにたへなるにたへなるにたえなる人々人々ひとびとをををのせさせのせさせのせさせ給給たましにしにしに。。。
- 14此此この大納言大納言だいなごん殿殿どののまいりのまいりのまいり給給たまへるへるえるををを。。。入道殿入道殿にゅうどうどの。。。かのかのかの大納言大納言だいなごんいづれのいづれのいずれの船船ふねにかのらるべきとのにかのらるべきとのにかのらるべきとの給給たまはすればはすればわすれば。。。わかのわかのわかのふねにのりふねにのりふねにのり侍侍はべらんとのらんとのらんとの給給たまてよみてよみてよみ給給たまへるぞかしへるぞかしえるぞかし。。。
- 15山山やまあらしのかぜのさむければもみぢのにしききぬあらしのかぜのさむければもみぢのにしききぬあらしのかぜのさむければもみじのにしききぬ人人ひとぞなきぞなきぞなき
- 16申申もううけうけうけ給給たまへるかひありてあそばしたりなへるかひありてあそばしたりなえるかいありてあそばしたりな。。。御御おんみづからものみづからものみずからもの給給たまふなるふなるうなるははは。。。作文作文さくもんのにぞのるべかりけるのにぞのるべかりけるのにぞのるべかりける。。。さてかばかりのさてかばかりのさてかばかりの詩詩しをををつくりたらましかばつくりたらましかばつくりたらましかば。。。
- 17なのあがらんこともまさりなましなのあがらんこともまさりなましなのあがらんこともまさりなまし。。。くちくちくちをををしかりけるわざかなしかりけるわざかなしかりけるわざかな。。。さてもさてもさても殿殿どののいづれにとかおもふとののいづれにとかおもふとののいずれにとかおもうとの給給たまはせしになんはせしになんわせしになん。。。我我わながらこゝろおごりせられしとのながらこゝろおごりせられしとのながらこころおごりせられしとの給給たまなるなるなる。。。
- 18ひとつのすぐるゝだにあるにひとつのすぐるゝだにあるにひとつのすぐるるだにあるに。。。かくいづれのみちもぬけいでてかくいづれのみちもぬけいでてかくいずれのみちもぬけいでて給給たまけんけんけんはははいにしへもいにしへもいにしえも侍侍はべらぬらぬらぬ事事こと也也なり。。。
- 19三條三條さんじょうのおとゞのおとゞのおとど永祚永祚えいそ元年元年がんねん六月六月ろくがつ廿六日廿六日にじゅうろくにちにににうせうせうせ給給たまひてひていて贈正一位贈正一位ぞうしょういちいになりになりになり給給たまふふう。。。とぞとぞとぞ申申もうけるけるける。。。
- 20此此このおとゞのおとゞのおとどの御御おんすへかくなりすへかくなりすえかくなり。。。
現代語訳
そのまま后(遵子)・女御(諟子)と同じ腹の男君が、今の按察大納言の公任と申し上げる方である。小野宮(実頼)の御孫だからだろうか、歌の道にすぐれていらっしゃる。世にまことに立派で奥ゆかしいという評判がおありだ。その御娘は今の内大臣(教通)の北の方で、多くのお子たちを産み続けなさったが、去年の正月にお亡くなりになって、大納言は何もかも手につかずお嘆きになることが限りない。また男君が一人いらっしゃる。左大弁定頼の君で、若い殿上人の中で心ばえがあり、歌なども上手でいらっしゃるようです。母の北の方はたいそう高貴でいらっしゃるのですよ。村上天皇の第九皇子(昭平親王)の御娘で、多武峰の入道少将(高光)……の御娘の腹である。内大臣殿の北の方も、この弁の君も、ですから御仲らいはまことに尊いのです。
あの大納言殿(公任)は、心ないことを一度おっしゃったことがありますよ。御姉の四条の宮(遵子)が后にお立ちになって初めて内裏へお入りになるとき、西洞院大路を北へいらっしゃったので、東三条殿の前をお通りになったが、大入道殿(兼家)も故女院(詮子)も胸を痛めていらしたのに、按察大納言殿は后の御弟として、いい気持ちになっていらしたままに、御馬をとめて「この女御はいつ后にお立ちになるのでしょう」と、のぞきこんでおっしゃったのを、殿(兼家)をはじめとして、その御一族は心穏やかでなくお思いになったけれど、(詮子には)男宮(懐仁親王)がいらっしゃるので気丈でいらした。よその人々も「つまらないことをおっしゃるものだ」と聞いていらした。(その後)一条院が位にお即きになると、今度は(詮子)女御が后にお立ちになって内裏にお入りになるときに、この大納言殿は(皇太后宮の)亮としてお仕え申し上げなさったが、出車から扇をさし出して、「もしもし、申し上げたいことがあります」と女房が呼びかけたので、「何事か」と言って近寄りなさると、進内侍が顔をさし出して、「御姉の素腹の后はどこにいらっしゃいますか」と言いかけたのは、先年のことを根に持っていたのであった。(公任は)「自分でさえ、どうかと思ったことなので、もっともなことだ。死んでしまいたい身だと思った」とおっしゃった。けれども人柄が何事につけてもよくおなりになったので、何かにつけて見捨てられなさることはない。あの内侍の失言ということで済んでしまった。
ある年、入道殿(道長)が大井川で舟遊びをなさったときに、漢詩の舟、管絃の舟、和歌の舟とお分けになって、それぞれの道にすぐれた人々をお乗せになったが、この大納言殿が参上なさったのを、入道殿が「あの大納言は、どの舟に乗られるのか」とおっしゃると、「和歌の舟に乗りましょう」とおっしゃって、お詠みになったのですよ。
小倉山嵐の風の寒ければもみぢの錦着ぬ人ぞなき
自分から願い出られたかいがあって、見事にお詠みになったことよ。ご自身がおっしゃったということには、「漢詩の舟に乗ればよかった。そうしてこれほどの詩を作っていたら、名が上がることもまさっていただろうに。残念なことをしたものだ。それにしても、殿が『どの舟にと思うか』とおっしゃったのには、我ながら得意な気持ちになったものだ」とおっしゃったそうです。一つの道にすぐれることさえめったにないのに、このようにどの道にも抜きん出ていらしたのは、昔にもないことです。
三条の大臣(頼忠)は、永祚元年六月二十六日にお亡くなりになって、贈正一位におなりになる。廉義公と申し上げた。この大臣のご子孫は、このようである。
意訳
公任は頼忠の子で、和歌・漢詩・管絃のすべてにすぐれた当代随一の文化人である。歌論書『新撰髄脳』や『和漢朗詠集』の撰者としても知られる。世継は、その公任が若いころに口にした一言の失敗を語る。
姉の遵子が中宮に立ったとき、公任は得意のあまり、兼家の東三条殿の前で馬をとめて「こちらの女御(詮子)はいつ后になるのか」と言った。詮子は円融天皇の皇子懐仁親王を産んでいたのに、后になれなかったのである。やがて懐仁親王が一条天皇として即位し、詮子が皇太后となると、立場は逆転した。行列に供奉した公任に、女房の進内侍が「素腹(子のない)の后はどこにおいでか」と言い返す。公任は「自分でも言いすぎたと思っていたから当然だ」と恥じ入ったという。
「三舟の才」の話は、公任の多才を伝える有名な逸話である。道長が大井川で詩・管絃・和歌の三艘の舟を出し、「公任はどの舟に乗るか」と言った。公任は和歌の舟を選んで「小倉山」の名歌を詠んだが、あとで「詩の舟に乗ればもっと名が上がったのに」と悔やみ、しかし「殿にどの舟かと尋ねられたことは得意だった」と言った。どの道でも一流と認められていた公任の自負と、道長の時代の華やかな文化がうかがえる。
語釈・文法注
- 公任
- 藤原公任(966〜1041)。頼忠の長男。権大納言・按察使。歌人・歌学者。
- 按察大納言
- 按察使(あぜち)を兼ねる大納言。按察使はもと地方行政を監察する官で、のち名目的な兼官となった。
- 内大臣
- 藤原教通(996〜1075)。道長の五男。公任の娘を妻とした。
- 定賴
- 藤原定頼(995〜1045)。公任の長男。歌人。『百人一首』の「朝ぼらけ宇治の川霧」の作者。
- 村上の御九宮
- 村上天皇の第九皇子、昭平親王(954〜1013)。
- 多武峯入道少將
- 藤原高光(940?〜994)。師輔の子。多武峰で出家した。歌人。
- 無心の事
- 思慮のないこと。心ないことば。
- 東三條
- 兼家の邸。
- 故女院
- 東三条院詮子。兼家の娘で、円融天皇の女御。一条天皇の母。
- おとこ宮
- 懐仁親王。のちの一条天皇。
- すけ
- 亮。ここでは皇太后宮亮(皇太后宮職の次官)。
- 出車
- 女房たちが乗る牛車で、簾の下から衣の端を出して飾ったもの。
- 進内侍
- 詮子に仕えた女房。
- すばらの后
- 素腹の后。子を産まなかった后。遵子をあざけった語。
- 大井川
- 京の西、嵐山のふもとを流れる川。桂川の上流。
- 作文
- 漢詩を作ること。
- をぐら山
- 小倉山。大井川の北岸、嵐山の向かいにある山。紅葉の名所。
- 廉義公
- 頼忠の諡。
文法
- はづかしう心にくき
- 「はづかし」は、こちらが気後れするほど立派だ。「心にくし」は奥ゆかしい。
- いつか后にたち給らん
- 「らん」は現在推量。いつ后にお立ちになるのだろう。
- やくなくもの給かな
- 「やくなし」は無益だ、つまらない。
- なくなりぬる身にこそとこそおぼえしか
- 死んでしまいたい身だと思われた。
- のるべかりける
- 乗るべきだった。
- つくりたらましかば〜まさりなまし
- 反実仮想。作っていたら、〜まさっていただろうに。
- こゝろおごりせられし
- 「られ」は自発。得意な気持ちになった。
和歌・漢詩
をぐら山あらしのかぜのさむければもみぢのにしききぬ人ぞなき
- 作者
- 藤原公任
- 状況
- 道長の大井川の舟遊びで、和歌の舟に乗って詠んだ歌。小倉山から吹き下ろす嵐の風が寒いので、散りかかる紅葉が人々の衣に降りかかって、紅葉の錦を着ていない人はいない。『拾遺集』では初句を「朝まだき」とする。
修辞
- 見立て
- 人々の衣に散りかかる紅葉を、錦の衣に見立てる。
- 掛詞
- 「あらし」に「嵐」と小倉山の向かいの「嵐山」を響かせる。
解説
公任が大井川で「三舟の才」をたたえられた話は、『大鏡』のほか『古今著聞集』などにも見え、多才な人を「三舟の才」と言うようになった。ただし舟遊びを催したのは道長ではなく円融上皇だとする伝えもある。
遵子が中宮に立ったのは天元五年(982)。詮子はその前年に懐仁親王を産んでいたが、皇后には立てられなかった。詮子は寛和二年(986)に一条天皇が即位すると皇太后となり、のち東三条院と号した。
頼忠は永祚元年(989)六月二十六日に亡くなった。公任は晩年、娘の死や出世の停滞を嘆いて出家し、北山の長谷に隠棲した。
関連
出典
- 底本
- 経済雑誌社編『国史大系』第17巻(大鏡) 経済雑誌社、明治34年(1901)、514〜516頁(コマ273–274)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日