大鏡 第19章
実頼と佐理
忠平の長男実頼(小野宮殿)は、摂政・関白を務めた有職の人で、稲荷の杉が見える南面には冠を外して出ることがなかった。先立った子の敦敏を悼む歌も残る。敦敏の子の佐理は天下一の能書家で、伊予からの帰り、三島の明神に請われて社の額を書いた話が語られる。一方で怠け癖があり、道隆に頼まれた色紙形の揮毫に遅れて恥をかいたこともあった。
- 1太政大臣太政大臣だいじょうだいじん
- 2このおとゞこのおとゞこのおとどはははたゞひらのおとゞのたゞひらのおとゞのただいらのおとどの一男一男いちなんにおはしますにおはしますにおわします。。。のおとゞとのおとゞとのおとどと申申もうききき。。。御母御母みわわ寬平寬平かんぴょう法皇法皇ほうおうののの御御おんむすめむすめむすめ。。。大臣大臣だいじん位位くらいにてにてにて二十七年二十七年にじゅうしちねん。。。天下天下てんか執執と行行ゆ攝政關白攝政關白せっしょうかんぱくししし給給たまててて。。。
- 3二十年二十年にじゅうねんばかりやおはしましけんばかりやおはしましけんばかりやおわしましけん。。。小野宮小野宮おののみや大臣大臣だいじんととと申申もうききき。。。天祿天祿てんろく元年元年がんねん五月五月ごがつ十八日十八日じゅうはちにちうせさせうせさせうせさせ給給たまにきにきにき。。。御御おおんとしとしとし七十一七十一しちじゅういちととと申申もうききき。。。御御おんいみないみないみな也也なり。。。
- 4和歌和歌わかののの道道みちにもすぐれおはしましてにもすぐれおはしましてにもすぐれおわしまして。。。後撰後撰ごせんにもあまたいれりにもあまたいれりにもあまたいれり。。。おおおほかたほかたほかた何事何事なにごとにもにもにもににに御心御心みこころうるはしくおはしますうるはしくおはしますうるわしくおわします事事ことははは。。。よのよのよの人人ひとののの本本もとにぞにぞにぞひかれさせひかれさせひかれさせ給給たま。。。
- 5おのゝみやのおのゝみやのおののみやの南南みなみおもてにおもてにおもてにははは。。。御御おんはははなちていでさせなちていでさせなちていでさせ給事給事たまうことなかりきなかりきなかりき。。。そのゆへそのゆへそのゆえははははははにみゆればにみゆればにみゆれば。。。明神明神みょうじん御御ごらんずらんにらんずらんにらんずらんに。。。
- 6いかでかなめげにていかでかなめげにていかでかなめげにてはははいでんとのいでんとのいでんとの給給たまはせてはせてわせて。。。いみじくつゝしませいみじくつゝしませいみじくつつしませ給給たまににに。。。をのづからおぼしわすれぬるおりをのづからおぼしわすれぬるおりおのずからおぼしわすれぬるおりははは。。。御袖御袖そでをををかづかせかづかせかずかせ給給たまてぞおどろきさてぞおどろきさてぞおどろきさはははがせがせがせ給給たまへるへるえる。。。
- 7このおとゞのこのおとゞのこのおとどの御女御女おおんむすめ子子こ女御女御にょうごにてにてにてうせうせうせ給給たまにきにきにき。。。村上村上むらかみののの御御おおんときにやときにやときにや。。。たしかにおぼえたしかにおぼえたしかにおぼえ侍侍はべらずらずらず。。。このおとここのおとここのおとこ君君きみははは時平時平ときいらのおとゞのむすめののおとゞのむすめののおとどのむすめの御御おんはははらにらにらに。。。
- 8少將少將しょうしょうとておはせしとておはせしとておわせし。。。父父ちちおとゞのおとゞのおとどの御御おんさきにかくれさきにかくれさきにかくれ給給たまにきかしにきかしにきかし。。。さていみじうおぼしなげくにさていみじうおぼしなげくにさていみじゅうおぼしなげくに。。。あづまのかたよりあづまのかたよりあずまのかたよりうせうせうせ給給たまへるともしらでへるともしらでえるともしらで。。。馬馬うまをををたてまつりたりければおとゞたてまつりたりければおとゞたてまつりたりければおとど。。。
- 9まだしらぬまだしらぬまだしらぬ人人ひともありけりあづまぢにわれもゆきてぞすむべかりけるもありけりあづまぢにわれもゆきてぞすむべかりけるもありけりあずまじにわれもゆきてぞすむべかりける
- 10いとかなしきいとかなしきいとかなしき事事ことなりなとてなりなとてなりなとて目目めをををしのごふにしのごふにしのごうに。。。おとゞのおとゞのおとどの御御おんわらわらわらはははなななをばをばをばうしかひとぞうしかひとぞうしかいとぞ申申もうききき。。。さればそのさればそのさればその御御おんぞぞぞうううはははをばをばをばうしつきとのうしつきとのうしつきとの給給たまふふう也也なり。。。
- 11あつとしのあつとしのあつとしの少將少將しょうしょうののの男子男子ひこみこ。。。大貳大貳だいによのてかきのよのてかきのよのてかきの上手上手じょうず。。。任任にんはははてゝのぼられけるにてゝのぼられけるにててのぼられけるに。。。いよのくにのまへなるとまりにていよのくにのまへなるとまりにていよのくにのまえなるとまりにて。。。日日ひいみじうあれいみじうあれいみじゅうあれうみのおもてあしくてうみのおもてあしくてうみのおもてあしくて。。。
- 12風風かぜおそろしうおそろしうおそろしゅうふきなどするふきなどするふきなどするををを。。。すこしなすこしなすこしなをををりていでんとしりていでんとしりていでんとし給給たまへばへばえば。。。又又またおなじやうにのみなりぬおなじやうにのみなりぬおなじょうにのみなりぬ。。。かくのみしつゝかくのみしつゝかくのみしつつ日日ひごろのすぐればごろのすぐればごろのすぐれば。。。いとあやしくおぼしてものとひいとあやしくおぼしてものとひいとあやしくおぼしてものとい給給たまへばへばえば。。。
- 13神神かみののの御御おんたゝりとのみいふにたゝりとのみいふにたたりとのみいうに。。。さるべきさるべきさるべき事事こともなしもなしもなし。。。いかなるいかなるいかなる事事ことにかとにかとにかとをををそれそれそれ給給たまけるけるける。。。夢夢ゆめにみえにみえにみえ給給たまけるやうけるやうけるよう。。。いみじうけだかきさましたるおとこのおはしていみじうけだかきさましたるおとこのおはしていみじゅうけだかきさましたるおとこのおわして。。。
- 14此此この日日ひのあれてのあれてのあれて日日ひごろへごろへごろえ給給たまふふうははは。。。をのがしをのがしをのがしはべるはべるはべる事事ことなりなりなり。。。それそれそれはははよろづのやしろによろづのやしろによろずのやしろにのかゝりたるにのかゝりたるにのかかりたるに。。。をのがもとにしもなきがあしければかけんとをのがもとにしもなきがあしければかけんとおのがもとにしもなきがあしければかけんと思思もいににに。。。
- 15なべてのてしてかゝせんがいとわろくなべてのてしてかゝせんがいとわろくなべてのてしてかかせんがいとわろく侍侍はべればればれば。。。われにかゝせたてまつらむとおもふによりわれにかゝせたてまつらむとおもふによりわれにかかせたてまつらむとおもうにより。。。此此このおりならでおりならでおりならではははいつかいつかいつかはははとてとゞめたてまつりたるなりとのとてとゞめたてまつりたるなりとのとてとどめたてまつりたるなりとの給給たまふにふにうに。。。
- 16たれとかたれとかたれとか申申もうととひととひととい申給申給もうしたまへばへばえば。。。このこのこの浦浦うら侍侍はべるおきなゝりとのるおきなゝりとのるおきななりとの給給たまふにふにうに。。。夢夢ゆめのののうちにもいみじうかしこまりうちにもいみじうかしこまりうちにもいみじゅうかしこまり申申もうとおぼすにとおぼすにとおぼすに。。。おどろきおどろきおどろき給給たまひてひていてはははまたさらにもいはずまたさらにもいはずまたさらにもいわず。。。
- 17さていよへわたりさていよへわたりさていよえわたり給給たまふにおほくのふにおほくのうにおおくの日日かあれつるあれつるあれつる日日かともなくともなくともなく。。。うら〳〵うら〳〵うらうらとなりてとなりてとなりて。。。そなたざまにおひかぜふきてそなたざまにおひかぜふきてそなたざまにおいかぜうきて。。。とぶがごとくまうでつきとぶがごとくまうでつきとぶがごとくもうでつき給給たまぬぬぬ。。。
- 18ゆゆゆたび〳〵たび〳〵たびたびあみあみあみ。。。いみじくけいみじくけいみじくけしてきよまはりてしてきよまはりてしてきよまわりて。。。ひのひのひの裝束裝束そうぞくしてしてして。。。やがてやがてやがて神神かみののの御御おんまへにてかきまへにてかきまえにてかき給給たまふふう。。。やしろのやしろのやしろの官官かんどもめしいでゝどもめしいでゝどもめしいでてうたせてうたせてうたせて。。。
- 19よくよくよく法法のりのごとくしてかへりのごとくしてかへりのごとくしてかえり給給たまににに。。。つゆおそるゝつゆおそるゝつゆおそるる事事ことなくてなくてなくて。。。すゑ〴〵すゑ〴〵すえずえのののふねにふねにふねに至至いたるまでたいらかにのぼりるまでたいらかにのぼりるまでたいらかにのぼり給給たまにきにきにき。。。わがすることわがすることわがすることををを人間人間にんげんののの人人ひとのののほめあがむるだにけうあるほめあがむるだにけうあるほめあがむるだにきょうある事事ことにてこそあれにてこそあれにてこそあれ。。。
- 20ましてましてまして神神かみののの御心御心みこころにさまでにさまでにさまでほしくおぼしけんこそほしくおぼしけんこそほしくおぼしけんこそ。。。いかにいかにいかに御心御心みこころおごりしおごりしおごりし給給たまひけんひけんいけん。。。またおまたおまたおほかたこれにぞほかたこれにぞほかたこれにぞ日本一日本一におんいちののの御御おんてのおぼえてのおぼえてのおぼえはははこのゝちぞとりこのゝちぞとりこののちぞとり給給たまへりしかへりしかえりしか。。。
- 21のがくものがくものがくも此此このだいにのかきだいにのかきだいにのかき給給たまへるへるえる。。。さればかのみしまのさればかのみしまのさればかのみしまの神神かみのがくとのがくとのがくと。。。このこのこの寺寺じのとのとのとはははおなじおなじおなじ御御おんてにてにてに侍侍はべりりり。。。
- 22御心御心みこころばへぞばへぞばえぞはははすこしすこしすこしともきこえつべくおはせしともきこえつべくおはせしともきこえつべくおわせし。。。東三條東三條ひがしさんじょうつくらせつくらせつくらせ給給たまひてひていて。。。御御おん障子障子しょうじにににうたゑどもかゝせうたゑどもかゝせうたえどもかかせ給給たまひしひしいしををを。。。
- 23此此この大貳大貳だいににかけとのたまはするにかけとのたまはするにかけとのたまわするををを。。。いたくいたくいたく人人ひとさささはははがしからぬがしからぬがしからぬ程程ほどにまいりてかゝれなばよかりぬべかりけるににまいりてかゝれなばよかりぬべかりけるににまいりてかかれなばよかりぬべかりけるに。。。關白殿關白殿かんぱくどのわたらせわたらせわたらせ給給たまててて。。。上達部上達部かんだちめ殿上人殿上人てんじょうびとなどさるべきなどさるべきなどさるべき人〴〵人〴〵ひとびとあまたまいりつどひてあまたまいりつどひてあまたまいりつどいて後後のちににに。。。
- 24日日ひたかくまたれたてまつりてまいりたかくまたれたてまつりてまいりたかくまたれたてまつりてまいり給給たまへりければへりければえりければ。。。。。。さりとてあるべきさりとてあるべきさりとてあるべき事事ことならねばかきてまかりいでならねばかきてまかりいでならねばかきてまかりいで給給たまににに。。。
- 25女女おんな給給たまふふうををを。。。さらでもありぬべくおぼさるれどすつべきさらでもありぬべくおぼさるれどすつべきさらでもありぬべくおぼさるれどすつべき事事ことならねばならねばならねば。。。そこらのそこらのそこらの人人ひとののの中中なかをををわけいでられけるなんなわけいでられけるなんなわけいでられけるなんなをををけだいのけだいのけだいの失錯失錯しっしゃくなりけるなりけるなりける。。。
- 26のどかなるけさとくものどかなるけさとくものどかなるけさとくもうちまいりてかゝれたらましかばうちまいりてかゝれたらましかばうちまいりてかかれたらましかば。。。かゝらましやかゝらましやかからましやはははとぞとぞとぞ見見みるるる人人ひともおもひもおもひもおもい。。。みづからもおぼしたりけるみづからもおぼしたりけるみずからもおぼしたりける。。。むげのそのみちのなべてのけらうなどにこそむげのそのみちのなべてのけらうなどにこそむげのそのみちのなべてのけろうなどにこそ。。。
- 27かうやうなるかうやうなるこうようなる事事ことはははせさせせさせせさせ給給たまけめとけめとけめと。。。殿殿どのをもをもをもそしりそしりそしり申申もう人々人々ひとびとありけりありけりありけり。。。
現代語訳
太政大臣実頼
この大臣は忠平公の長男でいらっしゃる。小野宮の大臣と申し上げた。御母は寛平法皇(宇多天皇)の御娘。大臣の位に二十七年。天下の政治を執り行い、摂政・関白をなさって二十年ほどいらしたでしょうか。小野宮大臣と申し上げた。天禄元年五月十八日にお亡くなりになった。御年七十一と申し上げた。御諱は清慎公である。和歌の道にもすぐれていらして、後撰集にもたくさん入っている。およそ何事につけても、故実に通じ、お心が端正でいらっしゃることは、世の人の手本として引き合いに出されなさる。小野宮の南面には、冠を取った髻(もとどり)姿でお出になることはなかった。そのわけは、稲荷の杉がはっきり見えるので、「明神がご覧になっているだろうに、どうして無作法な姿で出られようか」とおっしゃって、たいそう慎んでいらしたが、うっかりお忘れになったときは、袖をかぶってあわててお騒ぎになった。この大臣の御娘は女御で亡くなられた。村上天皇の御時であったか。はっきりとは覚えておりません。男君は、時平公の娘の腹に、敦敏の少将といっていらしたが、父の大臣より先にお亡くなりになったのですよ。そうしてひどくお嘆きになっていたところ、東国の方から、(少将が)亡くなったとも知らずに馬を献上してきたので、大臣は、
まだ知らぬ人もありけり東路にわれも行きてぞ住むべかりける
「たいそう悲しいことですなあ」と言って、目を押しぬぐうのでした。この大臣の幼名を「牛養(うしかい)」と申し上げた。それでその一族は、牛飼いのことを「牛つき」とおっしゃるのである。
敦敏の少将の男子は、佐理の大弐で、世に名高い能書家である。(大宰大弐の)任期が終わって上京なさったとき、伊予の国の前の泊まりで、日々ひどく荒れて、海の面が悪く、風が恐ろしく吹きなどするので、少しおさまって出発しようとなさると、また同じようになってしまう。こうしてばかりで日数が過ぎるので、たいそう不思議にお思いになって占いをおさせになると、「神のお祟り」とばかり言うが、思い当たることもない。どういうことかと恐れていらしたところ、夢にお見えになったことには、たいそう気高い様子をした男がいらして、「この日々の荒れで日数がたつのは、私がしていることなのです。それは、あらゆる社に額が掛かっているのに、私の所にだけないのがよくないので掛けようと思うのだが、並みの書き手に書かせるのはまことによくありませんので、あなたに書かせ申し上げようと思って、この機会でなければいつ(書いてもらえよう)かと思って、引き留め申し上げているのです」とおっしゃるので、「どなたと申し上げますか」とお尋ね申し上げなさると、「この浦の三島におります翁です」とおっしゃるので、夢の中でもたいそう恐縮申し上げると思ったところで、目が覚めなさって、それからはもう言うまでもない。そうして伊予へお渡りになると、多くの日に荒れていたのがうそのように、うららかになって、そちらの方へ追い風が吹いて、飛ぶように参着なさった。湯を何度も浴び、たいそう潔斎して身を清めて、昼の装束をつけて、そのまま神の御前で(額の字を)お書きになる。社の神官たちを呼び出して(額を)打ち付けさせて、きちんと作法どおりにしてお帰りになると、少しも恐れることなく、末々の船に至るまで平穏に上京なさった。自分のすることを、人間がほめあがめるのでさえうれしいことであるのに、まして神のお心にそれほどまでほしいとお思いになったとは、どんなにご自慢に思われたことでしょう。また、およそこのことで、日本一の書の評判は、この後ずっとおとりになったのでした。六波羅蜜寺の額も、この大弐がお書きになったものです。ですから、あの三島の神の額とこの寺の額とは、同じ御手でございます。
(佐理は)ご気性は怠慢で、少し「如泥人」とも言われるようなところがおありだった。故中関白殿(道隆)が東三条殿をお造りになって、御障子に歌絵などをお描かせになったときの色紙形を、この大弐に書けとおっしゃったのを、あまり人がざわつかないうちに参上して書かれたならよかったのに、関白殿がお渡りになって、上達部・殿上人などしかるべき人々が大勢参り集まったあとで、日が高くなるまでお待たせ申し上げて参上なさったので、(関白殿は)少し無礼だとお思いになったが、そうかといってやめるわけにはいかないので、(佐理は)書いて退出なさるときに、女の装束を褒美としてお与えになるのを、なくてもよいのにと思われたけれど、捨てるわけにもいかないので、大勢の人の中をかき分けて出ていかれたのは、やはり怠慢による失態だった。のどかな朝早くに参上して書かれていたら、こんなことにはならなかったろうにと、見る人も思い、ご自身もそうお思いになったのでした。「ほんとうにその道の並みの身分の低い者などにこそ、こういうことはなさるべきでしょうに」と、殿(道隆)のことをも非難申し上げる人々がいたのでした。
意訳
実頼は、忠平の長男として摂政・関白を務めた。しかし妹の安子が村上天皇の皇后となって冷泉・円融天皇を産んだのは、弟の師輔の家であり、実頼の娘は皇子を産まなかった。そのため実頼は「よそ人」の関白にとどまり、摂関の地位はやがて師輔の子孫(九条流)に移っていく。世継は実頼を、故実に通じ、礼儀正しい人として描く。稲荷の神に見られているからと、南面では冠を外さなかったという話は、その謹直さをよく示している。
敦敏の死を悼む「まだ知らぬ人もありけり」の歌は、子の死を知らずに馬を送ってきた東国の人がいたことに、「自分もその知らぬ人のいる東国に行って住むべきだった」と詠んだもので、親の悲しみが胸にしみる。
後半は敦敏の子、佐理の話である。佐理は小野道風・藤原行成とともに「三蹟」と呼ばれる書の名人で、伊予の三島の神が嵐を起こして彼を引き留め、社の額を書かせたという話は、その名声の高さを伝える。しかし佐理には怠け癖があり、道隆の新邸の揮毫に遅刻して、大勢の前で褒美の女装束を抱えて退出するはめになった。名人の美点と欠点を、世継は公平に語っている。
語釈・文法注
- 太政大臣實賴
- 藤原実頼(900〜970)。忠平の長男。冷泉・円融天皇の摂政・関白。
- 小野宮
- 実頼の邸。大炊御門南・烏丸西にあった。もとは惟喬親王の邸。
- 淸愼公
- 実頼の諡。
- 有職
- 朝廷の儀式・故実によく通じていること。
- もとゞりはなちて
- 冠や烏帽子を取って、髻(髪を頭の上で束ねたところ)をあらわにすること。当時、人前で頭を見せるのは非常な無礼とされた。
- いなりのすぎ
- 伏見稲荷大社の杉。稲荷山が小野宮の南に見えた。
- あつとしの少將
- 藤原敦敏(917〜947)。実頼の長男。少将。父に先立って三十一歳で亡くなった。
- うしかひ
- 牛養。実頼の幼名とされる。
- 佐理大貳
- 藤原佐理(944〜998)。敦敏の子。大宰大弐。書の名人で、小野道風・藤原行成とともに三蹟と呼ばれる。
- みしま
- 三島。伊予の大山祇神社(愛媛県今治市大三島)。
- 額
- 社殿や門に掲げる、社名などを書いた額。
- け齋
- 潔斎。心身を清めること。
- 六波羅密寺
- 六波羅蜜寺。京都市東山区にある寺。空也が開いた。
- 懈怠
- なまけること。
- 如泥人
- だらしのない人、なまけ者の意か。
- 故中關白殿
- 藤原道隆(953〜995)。兼家の長男。中関白と呼ばれた。
- 色紙形
- 屏風や障子の絵の中に、歌などを書くために設けた色紙の形の区画。
- こつなく
- 無骨だ、無礼だ。
- かづけさせ給ふ
- 褒美として衣装を与えること。もらった者は肩にかけて退出した。
文法
- おはしましけん
- 「けん」は過去推量。いらっしゃったのだろう。
- 御らんずらんに
- 「らん」は現在推量。ご覧になっているだろうに。
- いかでかなめげにてはいでん
- 反語。どうして無作法な姿で出られようか。
- すむべかりける
- 「べかり」は適当。住むべきだったのだなあ。
- かゝせんがいとわろく侍れば
- 「せ」は使役。書かせるのはまことによくないので。
- かゝれなばよかりぬべかりけるに
- 「れ」は尊敬、「な」は完了、「ば」は仮定。お書きになっていたら、よかったはずなのに。
- かゝらましやは
- 「まし」は反実仮想、「やは」は反語。こうなっただろうか、いやならなかったろう。
和歌・漢詩
まだしらぬ人もありけりあづまぢにわれもゆきてぞすむべかりける
- 作者
- 藤原実頼
- 状況
- 子の敦敏が亡くなったのを知らずに、東国から敦敏あてに馬が献上されてきたときに詠んだ歌。『後撰集』哀傷に載る。(子の死を)まだ知らない人もいたのだなあ。東国に、私も行って住むべきだった(そうすれば、この悲しみを知らずにいられただろうに)。
修辞
- 表現
- 子の死を知らない人をうらやむことで、深い悲しみを表す。
解説
実頼(900〜970)は、冷泉天皇の関白、円融天皇の摂政となったが、天皇の外戚ではなかったため、自らを「揚名の関白(名ばかりの関白)」と嘆いたと伝える。日記『清慎公記』(水心記)は逸文が残る。
佐理が三島明神の額を書いた話は、『大鏡』のほか『今昔物語集』などにも見える。佐理の筆跡としては「離洛帖」「詩懐紙」などが今に伝わり、国宝となっている。
佐理が書いた色紙形の話は、道隆が東三条殿を造営した正暦年間のことか。名人でありながら時間にだらしない佐理の人柄と、そういう人に大勢の前で褒美を与えた道隆の配慮のなさとを、世継は両方とも批判している。
関連
出典
- 底本
- 経済雑誌社編『国史大系』第17巻(大鏡) 経済雑誌社、明治34年(1901)、506〜509頁(コマ269–270)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日