大鏡 第16章
時平の子孫
道真の死から七年ほどで、時平も三十九歳で亡くなった。娘の女御、孫の東宮、長男の保忠も相次いで世を去る。保忠は冬に焼いた餅を懐炉がわりに抱いて参内した人で、病床で薬師経の「宮毘羅大将」を「我を縊る」と聞いて気を失ったという。和歌と管絃の名手だった弟の敦忠も早世し、保明親王の妃たちの歌や、自分の死後の妻の再婚を予言した敦忠の話が語られる。
- 1さてさてさて後後のち七年七年しちねんばかりありてばかりありてばかりありて左大臣左大臣さだいじん時平時平ときいらのおとゞのおとゞのおとど。。。延喜延喜えんぎ九年九年くねん己巳己巳つちのとみ四月四月しがつ四日四日よっかうせうせうせ給給たま。。。御歲御歲おおんとし卅九卅九さんじゅうく。。。大臣大臣だいじんののの位位くらいにてにてにて十一年十一年じゅういちねんぞおはしけるぞおはしけるぞおわしける。。。大臣大臣だいじんととと申申もうすすす。。。
- 2此此この時平時平ときいら女御女御にょうごもももうせうせうせ給給たまぬぬぬ。。。御孫御孫みまごのののももも。。。一男一男いちなん八條大將八條大將はちじょうのだいしょう卿卿きょうもももうせうせうせ給給たまにきかしにきかしにきかし。。。このこのこの大將大將だいしょうははは八條八條はちじょうにすみにすみにすみ給給たまへばへばえば。。。うちにうちにうちに參參まい給給たまほどいとほどいとおどいとはるかなるにはるかなるにはるかなるに。。。
- 3いかゞおぼされけんいかゞおぼされけんいかがおぼされけん。。。冬冬ふゆはもはもはもちゐのいとおほきなるちゐのいとおほきなるちいのいとおおきなるをぞをぞをぞひとつひとつひとつ。。。ちいさきちいさきちいさきをばをばをばふたつやきてふたつやきてふたつやきて。。。やきいしのやうにやきいしのやうにやきいしのように御身御身おおんみ給給たまへりけるがへりけるがえりけるが。。。
- 4ぬるくなればちいさきぬるくなればちいさきぬるくなればちいさきをばをばをばひとひとひとつつつづゝづゝずつ。。。おほきなるおほきなるおおきなるをばをばをば中中なかよりわりてよりわりてよりわりてぞぞぞひになげとらせひになげとらせひになげとらせ給給たまひけるひけるいける。。。あまりなるあまりなるあまりなる御御おんようゐなりかしようゐなりかしよういなりかし。。。
- 5そのよにもそのよにもそのよにも耳耳みみとゞまりてとゞまりてとどまりて人人ひとののの思思おもひければこそかくいひつたへひければこそかくいひつたへいければこそかくいいつたえ侍侍はべらめらめらめ。。。
- 6このとのぞかしこのとのぞかしこのとのぞかし。。。やまひやまひやまい付付つ給給たまてててさま〴〵さま〴〵さまざまのいのりしのいのりしのいのりし給給たまひしにひしにいしに。。。やうのどきやうまくらがみにてせさせやうのどきやうまくらがみにてせさせようのどきょうまくらがみにてせさせ給給たまににに。。。所謂所謂いわゆるとととうちあげたるうちあげたるうちあげたるををを。。。
- 7われわれわれをををくびるとよむくびるとよむくびるとよむ也也なりけりとおぼしけるけりとおぼしけるけりとおぼしける。。。。。。やがてたえいりやがてたえいりやがてたえいり給給たまへへえははは。。。經經きょうのもむといふのもむといふのもむという中中なかにもこにもこにもこはははききき物物もののけにとりこめられのけにとりこめられのけにとりこめられ給給たまへるへるえる人人ひとににに。。。
- 8げにあやしくげにあやしくげにあやしくはははうちあげうちあげうちあげ侍侍さぶらいかしかしかし。。。さるべきとさるべきとさるべきとはははいひながらいひながらいいながら。。。ものものものはははおりふしおりふしおりふしごとにごとにごとに侍侍はべるるる事事こと也也なり。。。
- 9そのそのその弟弟おとうとののの中納言中納言ちゅうなごんもももうせうせうせ給給たまにきにきにき。。。よにめでたきよにめでたきよにめでたき和歌和歌わかののの上手上手じょうず管絃管絃かんげんのみちにもすぐれのみちにもすぐれのみちにもすぐれ給給たまへりきへりきえりき。。。かくれかくれかくれ給給たまててて後後のち御御おんあそびなどあるおりにあそびなどあるおりにあそびなどあるおりに。。。
- 10三位三位さんみのさはるのさはるのさわる事事ことありてまいられぬありてまいられぬありてまいられぬ時時ときははは。。。けふけふきょうののの御御おんあそびあそびあそびはははとゞまりぬととゞまりぬととどまりぬと。。。たび〳〵たび〳〵たびたびめされてまいるめされてまいるめされてまいるををを見見みててて。。。ふるきふるきふるき人〳〵人〳〵ひとびとははは。。。よのすゑこそあはれなれよのすゑこそあはれなれよのすえこそあわれなれ。。。
- 11敦忠敦忠あつただ中納言中納言ちゅうなごんのいませしのいませしのいませし時時ときははは。。。かゝるみちにかゝるみちにかかるみちに此此この三位三位さんみののの。。。おほやけおほやけおおやけをををはじめはじめはじめ奉奉たてまつりてりてりて。。。よのよのよの大事大事だいじにおもはるべきにおもはるべきにおもわるべき物物ものにとこそおもはざりしかとぞのにとこそおもはざりしかとぞのにとこそおもわざりしかとぞの給給たまひけるひけるいける。。。
- 12先坊先坊せんぼう所所ところまいりまいりまいり給給たまふふう事事こと。。。本院本院ほんいんのおとゞののおとゞののおとどの御御おんむすめぐしてむすめぐしてむすめぐして三四人三四人しにんなりなりなり。。。本院本院ほんいんのののはははうせうせうせ給給たまにきにきにき。。。中將中將ちゅうじょうのみやすどころとのみやすどころとのみやすどころと聞聞きこえしえしえし。。。後後のちははは式部卿式部卿しきぶきょうのみこのきたのかたにてのみこのきたのかたにてのみこのきたのかたにて。。。
- 13齋宮齋宮さいぐうののの女御女御にょうごののの御御おんはゝはゝははにてぞにてぞにてぞうせうせうせ給給たまにきにきにき。。。いとやさしくおはせしいとやさしくおはせしいとやさしくおわせし。。。先坊先坊せんぼうををを戀戀こいかなしみかなしみかなしみ奉奉たてまつりりり給給たまふふう。。。なむなむなむ夢夢ゆめににに見見み奉奉たてまつるときゝてるときゝてるとききて送送おくりりり給給たまへるへるえる。。。
- 14ときのまもなぐさめつらむときのまもなぐさめつらむときのまもなぐさめつらむ君君きみはははさぞさぞさぞ夢夢ゆめにだににだににだに見見みぬわれぞかなしきぬわれぞかなしきぬわれぞかなしき
- 15御返御返おおんかえし事事こと大輔大輔たいう。。。
- 16戀戀こいしさしさしさはははなぐさむべくもあらざりきなぐさむべくもあらざりきなぐさむべくもあらざりき夢夢ゆめのののうちにもうちにもうちにも夢夢ゆめととと見見みしかばしかばしかば
- 17今今いまひとりのみやすひとりのみやすひとりのみやす所所ところははは。。。ののの宰相宰相さいしょうのむすめにやのむすめにやのむすめにや。。。そのそのその朝朝ちょうののの使使つかいににに敦忠敦忠あつただ中納言中納言ちゅうなごん少將少將しょうしょうにてしにてしにてし給給たまひけるひけるいける。。。宮宮みやうせうせうせ給給たまててて後後のち。。。此此この中納言中納言ちゅうなごんにににはははあひあひあい給給たまへるへるえるををを。。。
- 18かぎりなくかぎりなくかぎりなく思思おもひながらいかゞひながらいかゞいながらいかが見見み給給たまひけんひけんいけん。。。ののの民部卿民部卿みんぶきょうはははりまのかみにてりまのかみにてりまのかみにて殿殿どのををを。。。われわれわれははは命命いのちみじかきぞみじかきぞみじかきぞうなりうなりうなり。。。
- 19かならずしなんずかならずしなんずかならずしなんず。。。其後其後そののち君君きみははは此此この文範文範ふみのりにぞあひにぞあひにぞあい給給たまはんずるとのはんずるとのわんずるとの給給たまひけるひけるいけるををを。。。あるまじきことゝいらへあるまじきことゝいらへあるまじきことといらえ給給たまければければければ。。。あまりけりてもあまりけりてもあまりけりても見見みむよにたがへむよにたがへむよにたがえ給給たまはじなどのはじなどのわじなどの給給たまひけるがひけるがいけるが。。。まことにさていまするぞかしまことにさていまするぞかしまことにさていまするぞかし。。。
現代語訳
それから七年ほどたって、左大臣時平公は、延喜九年己巳四月四日にお亡くなりになった。御年三十九。大臣の位に十一年いらっしゃった。本院大臣と申し上げる。この時平公の娘の女御もお亡くなりになった。御孫の東宮(慶頼王)も、長男の八条大将保忠卿も、お亡くなりになったのですよ。この大将は八条に住んでいらしたので、内裏に参上なさる道のりがたいそう遠いのに、どうお思いになったのか、冬は餅のたいそう大きいのを一つ、小さいのを二つ焼いて、焼き石のように御身に当てて持っていらしたが、冷めてくると、小さいのは一つずつ、大きいのは真ん中から割って、御車の供の者に投げてお与えになった。あまりにも念の入ったお心づかいですなあ。当時も(人々の)耳にとまって、人々が(妙なことだと)思ったからこそ、こうして言い伝えているのでしょう。
この殿のことですよ。ご病気になって、さまざまのご祈禱をなさったとき、薬師経の読経を枕もとでおさせになったところ、「いわゆる宮毘羅大将」と読み上げたのを、「我を縊(くび)る」と読むのだとお思いになった。臆病なことに、そのまま息が絶えてしまわれたとは。経の文句というものの中でも、強い物の怪にとりこめられていらっしゃる人に、まったく妙なことを読み上げたものですよ。そうなるべき運命とは言いながら、ものごとは折にふさわしいかどうかが大事なのです。
その弟の敦忠中納言もお亡くなりになった。世にすぐれた和歌の名手で、管絃の道にもすぐれていらっしゃった。お亡くなりになってのち、御遊びなどがあるときに、博雅三位が差し支えがあって参れないときは、「今日の御遊びは中止だ」と言って、たびたびお召しを受けて参上するのを見て、古くからの人々は、「世も末になったのは悲しいことだ。敦忠中納言がご存命のころは、この道で、この三位が、朝廷をはじめとして世の重要な人と思われるようになろうとは思いもしなかったのに」とおっしゃった。
先坊(保明親王)にお仕えした御息所は、本院大臣(時平)の御娘を含めて三、四人であった。本院の御娘はお亡くなりになった。中将の御息所と申し上げた方は、のちに重明式部卿親王の北の方となって、斎宮女御の母上としてお亡くなりになった。たいそう優雅でいらっしゃった。先坊を恋い悲しみ申し上げていらしたが、大輔が(親王を)夢に見申し上げたと聞いて、送りなさった(歌)。
ときのまもなぐさめつらむ君はさぞ夢にだに見ぬ我ぞかなしき
御返事、大輔。
恋しさはなぐさむべくもあらざりき夢のうちにも夢と見しかば
もう一人の御息所は、玄上の宰相の娘であったろうか。その後朝の使いを、敦忠中納言が少将だったときにお務めになった。宮がお亡くなりになってのち、この中納言と結婚なさったのを、限りなく(いとしく)思いながら、(中納言は)どうご覧になったのか、文範の民部卿が播磨守で、(敦忠の)殿の家司としてお仕えしていたのを、「私は命の短い家系だ。きっと死ぬだろう。その後、あなたはこの文範と結婚なさるだろう」とおっしゃったのを、(御息所が)「とんでもないこと」と答えなさったので、「あの世に行っても見ていよう。(私の言葉に)違えはなさるまい」などとおっしゃったのが、本当にそのとおり(文範の妻と)なっていらっしゃるのですよ。
意訳
道真の死後、時平の一族には次々と不幸が訪れる。時平自身が三十九歳で亡くなり、娘の女御、孫で東宮となった慶頼王、長男の保忠、三男の敦忠も若くして世を去った。世継ははっきりとは言わないが、人々はこれを道真の怨霊の祟りと考えていた。
保忠の逸話は、どこかおかしみを誘う。遠い八条から参内する冬の寒さをしのぐため、焼いた餅を懐炉がわりに抱き、冷めれば供の者に投げ与えたという。病床で読経の「宮毘羅(くびら)大将」を「我をくびる(首をしめる)」と聞き違えて、そのまま息絶えたという話は、怨霊におびえる心を映していて痛ましい。世継は「経を読むにも折を考えるべきだ」と付け加える。
敦忠は和歌・管絃の名手で、『百人一首』の「あひ見ての後の心にくらぶれば」の作者として知られる。彼の亡きあと、博雅三位が管絃の第一人者として重んじられるのを、古老たちが「世も末だ」と嘆く。また敦忠は、愛する妻に「自分は短命の家系だから、死後あなたは文範と再婚するだろう」と予言し、そのとおりになった。時平の子孫の短命という運命を、敦忠自身が自覚していたのである。
語釈・文法注
- 本院大臣
- 時平のこと。本院(中御門北・堀川東の邸)に住んだことから。
- むすめの女御
- 時平の娘仁善子(にぜこ)。醍醐天皇の皇太子保明親王の妃で、慶頼王を産んだ。
- 御孫の東宮
- 慶頼王(921〜925)。保明親王の子で、時平の孫。父の死後に皇太子となったが、五歳で亡くなった。
- 保忠
- 藤原保忠(890〜936)。時平の長男。大納言・右大将。
- もちゐ
- 餅。
- 御車ぞひ
- 車副。牛車の左右に付き従う従者。
- やくしきやう
- 薬師経。病気平癒を祈って読まれた。
- 宮毘羅大將
- 薬師如来を守る十二神将の筆頭。
- おくびやう
- 臆病。
- 敦忠
- 藤原敦忠(906〜943)。時平の三男。権中納言。三十六歌仙の一人。
- 博雅三位
- 源博雅(918〜980)。醍醐天皇の孫で、管絃の名手。多くの説話が残る。
- みやす所
- 御息所。皇太子や天皇の妃。
- しげあきらの式部卿のみこ
- 重明親王(906〜954)。醍醐天皇の皇子。その娘徽子女王が斎宮女御と呼ばれた歌人。
- 大輔
- 保明親王の乳母子の女房。第7章にも見える。
- 玄上の宰相
- 藤原玄上。参議。
- 後朝の使
- 結婚の初夜の翌朝、男から女に送る手紙の使い。
- 文範
- 藤原文範(909〜996)。のち民部卿。紫式部の曾祖父にあたる。
- けいし
- 家司。貴族の家の事務をとる職員。
文法
- うせ給にきかし
- 「に」は完了、「き」は過去、「かし」は念押し。お亡くなりになったのですよ。
- いかゞおぼされけん
- 「れ」は尊敬、「けん」は過去推量。どうお思いになったのだろうか。
- いひつたへ侍らめ
- 「め」は「む」の已然形で「こそ」の結び。
- たえいり給へは
- 「は」は詠嘆。息が絶えてしまわれたとは。
- おもはるべき物にとこそおもはざりしか
- 「る」は受身。重んじられるような人になろうとは思わなかったのに。
- 見むよにたがへ給はじ
- 「む」は意志、「じ」は打消推量。(あの世から)見ていよう。違えはなさるまい。
和歌・漢詩
ときのまもなぐさめつらむ君はさぞ夢にだに見ぬわれぞかなしき
- 作者
- 中将の御息所
- 状況
- 亡き保明親王を夢に見たという大輔に送った歌。(夢に見て)ほんのわずかの間でも心がなぐさめられたでしょう、あなたはさぞかし。夢にさえ見ない私は悲しいことです。
修辞
- 対比
- 夢に見た大輔と、夢にさえ見ない自分。
戀しさはなぐさむべくもあらざりき夢のうちにも夢と見しかば
- 作者
- 大輔
- 状況
- 中将の御息所への返歌。恋しさはなぐさむどころではありませんでした。夢の中でさえ、これは夢だと思いながら見ていたのですから。
修辞
- 表現
- 「夢のうちにも夢と見し」は、夢の中でもはかないものと分かっていたことをいう。
解説
時平は延喜九年(909)、三十九歳で亡くなった。その後、保明親王(923年)、慶頼王(925年)が相次いで亡くなり、延長八年(930)には清涼殿に落雷があって醍醐天皇も病の床につき亡くなった。これらはすべて道真の怨霊のしわざと恐れられ、道真には正一位・太政大臣が贈られた。
敦忠の死後、その妻(玄上の娘)が藤原文範の妻となったことは、『後撰集』などの歌の詞書からもうかがえる。
博雅三位は、のちに琵琶の名器「玄象」を取り戻した話や、逢坂の蟬丸のもとに三年通って秘曲を習った話などで知られる人物である。
関連
出典
- 底本
- 経済雑誌社編『国史大系』第17巻(大鏡) 経済雑誌社、明治34年(1901)、497〜499頁(コマ264–265)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日