古典ライブラリー

大鏡 第14章

時平と道真の左遷

時平の伝。醍醐天皇の御代、若い左大臣時平と、学才にすぐれた右大臣菅原道真が並んで政治を執ったが、帝の信頼が厚い道真をねたんだ時平の讒言によって、道真は昌泰四年に大宰権帥に左遷された。子どもたちも散り散りに流される中、道真は「東風吹かば」の歌を残して都を去り、山崎で出家し、明石の駅で駅長に詩を与える。

  1. 1左大臣さだいじん左大臣さだいじんさだいじん
  2. 2このおとゞこのおとゞこのおとどははは。。。もとつねのおとゞのもとつねのおとゞのもとつねのおとどの御太郎おほんたらう御太郎おほんたらうおおんたろうなりなりなり。。。御母みはは御母みははみわわ四品しほん四品しほんしおん彈正尹だんじやうのゐん彈正尹だんじやうのゐんだんじょうのいんののの御おん御おんおんむすめむすめむすめ。。。醍醐だいご醍醐だいごだいごのみかどののみかどののみかどの御時おほんとき御時おほんときおおんときこのこのこの大臣だいじん大臣だいじんだいじん左大臣さだいじん左大臣さだいじんさだいじんののの位くらゐ位くらゐくらいにてとしいとわかくておはしますにてとしいとわかくておはしますにてとしいとわかくておわします。。。
  3. 3右大臣うだいじん右大臣うだいじんうだいじんののの位くらゐ位くらゐくらいにておはしますにておはしますにておわします。。。そのおりみかどおほむとしいとわかくおはしますそのおりみかどおほむとしいとわかくおはしますそのおりみかどおおむとしいとわかくおわします。。。左右さいう左右さいうさゆう大臣だいじん大臣だいじんだいじんににに世よ世よよのまつりごとのまつりごとのまつりごとをををこなふべきこなふべきこなうべき宣旨せんじ宣旨せんじせんじくだしめくだしめくだしめ給たま給たまたまへりしへりしえりし。。。
  4. 4そのおりそのおりそのおり左大臣さだいじん左大臣さだいじんさだいじん御歲おほんとし御歲おほんとしおおんとし廿八九にじふく廿八九にじふくにじゅうく計はか計はかはか。。。右大臣うだいじん右大臣うだいじんうだいじん御歲おほんとし御歲おほんとしおおんとし五十七八ごじふはち五十七八ごじふはちごじゅうはちにやおはしけんにやおはしけんにやおわしけん。。。ともによのまつりごとともによのまつりごとともによのまつりごとをををせしめせしめせしめ給たま給たまたましあひだしあひだしあいだ。。。右大臣うだいじん右大臣うだいじんうだいじん。。。
  5. 5御心みこころ御心みこころみこころをををきてもことのきてもことのきてもことのほかにかしこくおはしましほかにかしこくおはしましほかにかしこくおわしまし。。。左大臣さだいじん左大臣さだいじんさだいじんははは御歲おほんとし御歲おほんとしおおんとしもわかくざえもことのもわかくざえもことのもわかくざえもことのほかにおとりほかにおとりほかにおとり給たま給たまたまへるによりへるによりえるにより。。。右大臣うだいじん右大臣うだいじんうだいじん御おん御おんおんおぼえことのおぼえことのおぼえことの外ほか外ほかほかにおはしましたるににおはしましたるににおわしましたるに。。。
  6. 6左大臣さだいじん左大臣さだいじんさだいじんやすからずおぼしたるやすからずおぼしたるやすからずおぼしたる程ほど程ほどほどににに。。。さるべきにやおはしけんさるべきにやおはしけんさるべきにやおわしけん。。。右大臣うだいじん右大臣うだいじんうだいじんののの御おん御おんおんためによからぬためによからぬためによからぬ事こと事ことこといできていできていできて。。。四年よねん四年よねんよねん正月しやうぐわつ正月しやうぐわつしょうがつ廿九日にじふくにち廿九日にじふくにちにじゅうくにち。。。になしたてまつりてながされになしたてまつりてながされになしたてまつりてながされ給たま給たまたま。。。
  7. 7このおとゞのこのおとゞのこのおとどの子こ子ここどもあまたおはせしにどもあまたおはせしにどもあまたおわせしに。。。おんなきんだちはむこどりおんなきんだちはむこどりおんなきんだちわむこどり。。。おとこおとこおとこ君きみ君きみきみだちだちだちはははみなみなみなほど〳〵ほど〳〵ほどほどにつけてにつけてにつけて位ゐ位ゐいどもおはせしどもおはせしどもおわせしををを。。。それもみなそれもみなそれもみなかた〴〵かた〴〵かたがたにながされにながされにながされ給たま給たまたまてかなしきにてかなしきにてかなしきに。。。
  8. 8おさなくおはしけるおとこおさなくおはしけるおとこおさなくおわしけるおとこ君きみ君きみきみおんなおんなおんな君きみ君きみきみだちしたひなきておはしければだちしたひなきておはしければだちしたいなきておわしければ。。。ちいさきちいさきちいさきははは給たま給たまたましかばしかばしかば。。。ともにゐてくだりともにゐてくだりともにいてくだり給たま給たまたましぞかししぞかししぞかし。。。
  9. 9みかどのみかどのみかどの御おん御おんおんをををきてききてききてきははは。。。此この此このこの御子みこ御子みこみこどもどもどもをををおなじかたにつかおなじかたにつかおなじかたにつかはははさゞりけりさゞりけりさざりけり。。。かた〴〵かた〴〵かたがたにいとかなしくおぼしておにいとかなしくおぼしておにいとかなしくおぼしてお前ぜん前ぜんぜんののの梅うめ梅うめうめののの花はな花はなはなををを御ご御ごごらんじてらんじてらんじて。。。
  10. 10こちこちこちふかばふかばふかばにほひにほひにおいおこせよおこせよおこせよむめのむめのむめの花はな花はなはなあるじなしとてあるじなしとてあるじなしとて春はる春はるはるをををわするなわするなわするな
  11. 11又また又またまた聞きこ聞きこきこえさせえさせえさせ給たま給たまたまふふう。。。
  12. 12ながれながれながれゆくゆくゆくわれわれわれはははみくづとなりみくづとなりみくずとなりはてぬはてぬはてぬきみきみきみとゞめよとゞめよとどめよ
  13. 13なきなきなき事こと事ことことによりかくつみせられによりかくつみせられによりかくつみせられ給たま給たまたまをををかしこくおぼしなげきてかしこくおぼしなげきてかしこくおぼしなげきて。。。やがてやがてやがてざきにてざきにてざきにて出家しゆつけ出家しゆつけしゅっけせしめせしめせしめ給たま給たまたまてけりてけりてけり。。。其その其そのその程ほど程ほどほどきききはははめてかなしきめてかなしきめてかなしき事こと事ことことおおおほかりほかりほかり。。。
  14. 14ひごろへてひごろへてひごろえて都づ都づずとととをををくなるまゝにくなるまゝにくなるままに。。。あはれにあはれにあわれにぼそくおぼされてぼそくおぼされてぼそくおぼされて。。。
  15. 15君きみ君きみきみがががすむやどのこずゑすむやどのこずゑすむやどのこずえをををゆく〳〵ゆく〳〵ゆくゆくとかくるゝまでもかへりみしかなとかくるゝまでもかへりみしかなとかくるるまでもかえりみしかな
  16. 16又また又またまたはははりまのりまのりまの國くに國くにくににおはしつきてにおはしつきてにおわしつきて。。。所ところ所ところところににに御おん御おんおんやどりせしめやどりせしめやどりせしめ給たま給たまたまててて。。。長なが長ながながのいみじうのいみじうのいみじゅう思おも思おもおもへるけしきへるけしきえるけしきををを御ご御ごごらんじてらんじてらんじて。。。つくらしめつくらしめつくらしめ給たま給たまたまへるへるえる詩し詩ししいとかなしいとかなしいとかなし。。。
  17. 17驛驛驛長なが長ながなが無無無驚おどろ驚おどろおどろ時とき時ときとき變かは變かはかは改あらた改あらたあらた。。。一一一榮榮榮一一一落おと落おとおと是是是春はる春はるはる秋あき秋あきあき。。。

引用の仕方

レポート・論文で引用する場合の表記例です。行番号を選んでから開くと、その行へのリンクになります。

現代語訳

左大臣時平

この大臣は基経公の長男である。御母は四品弾正尹人康親王の御娘。醍醐の帝の御時、この大臣は左大臣の位で、年はたいへん若くていらっしゃる。菅原の大臣(道真)は右大臣の位でいらっしゃる。そのころ、帝もお年がたいそう若くていらっしゃる。左右の大臣に、世の政治を行うようにとの宣旨をお下しになった。そのとき左大臣は御年二十八、九ほど。右大臣は御年五十七、八でいらしたろうか。ともに世の政治をお執りになっていたあいだ、右大臣は学才も世にすぐれてすばらしくいらっしゃり、ご思慮も格別に賢くいらっしゃった。左大臣はお年も若く、学才も格別に劣っていらしたので、右大臣への(帝の)ご信任が格別でいらっしゃったのを、左大臣は心穏やかでなくお思いになっていたうちに、そうなるべき因縁でいらしたのだろうか、右大臣の御身によくないことが起こって、昌泰四年正月二十九日、大宰権帥にし申し上げて、流されなさった。

この大臣(道真)には子どもがたくさんいらしたが、女の君たちは婿をとり、男の君たちはみなそれぞれの身分に応じて官位がおありだったのを、それもみな方々に流されなさって悲しいのに、幼くていらした男君・女君たちが慕って泣いていらしたので、「小さい子は(連れて行っても)かまわないだろう」と朝廷もお許しになったので、一緒に連れてお下りになったのですよ。帝のご処置はきわめて厳しくいらしたので、このお子たちを同じ方面にはおやりにならなかった。あちらこちらで(別れ別れになって)たいへん悲しくお思いになって、御前の梅の花をご覧になって、

東風吹かばにほひおこせよ梅の花主なしとて春を忘るな

また亭子の帝(宇多法皇)に申し上げなさる。

流れゆく我は水屑となりはてぬ君しがらみとなりてとどめよ

無実の罪によってこのように罰せられなさるのを、ひどく嘆きお思いになって、そのまま山崎で出家なさった。その道中は、たいへん悲しいことが多かった。日がたって都が遠くなるにつれて、しみじみと心細くお思いになって、

君が住む宿の梢をゆくゆくと隠るるまでもかへり見しかな

また播磨の国にお着きになって、明石の駅という所にお泊まりになって、駅の長がひどく悲しんでいる様子をご覧になって、お作りになった詩は、たいそう悲しい。

駅長驚くことなかれ 時の変改 一栄一落 これ春秋

意訳

いよいよ菅原道真の左遷が語られる。醍醐天皇のもとで、二十代の左大臣時平と、五十代の右大臣道真が並び立った。学問にすぐれ、宇多上皇の信任も厚い道真に、帝の信頼も集まる。若く学才に劣る時平はそれが面白くない。世継は事件の真相をはっきりとは言わず、「さるべきにやおはしけん」「よからぬ事いできて」とぼかしながらも、時平のねたみが原因であったことをにおわせる。

道真の子どもたちも、男子はそれぞれの任地に流され、幼い子だけが父について行くことを許された。帝の処置は厳しく、親子を同じ方面には行かせなかった。都を去る道真は、庭の梅に「主人がいなくなっても春を忘れずに咲け」と呼びかけ、宇多法皇には「私をせき止めるしがらみになってください」と救いを求める。

山崎で出家し、明石の駅では、自分の零落に驚き悲しむ駅長に向かって「驚くことはない。栄えるのも衰えるのも、春と秋が巡るのと同じことだ」と詩を与える。悲運の中にも学者としての気骨を失わない道真の姿が、歌と詩によって刻まれていく。

語釈・文法注

左大臣時平
藤原時平(871〜909)。基経の長男。
人康親王
仁明天皇の皇子。盲目となって山科に住んだ。
すがはらのおとゞ
菅原道真(845〜903)。学者の家に生まれ、宇多天皇に重用されて右大臣に至った。死後、天神として祀られる。
ざへ
才。学問、とくに漢学の素養。
御心をきて
心の持ち方、思慮。
昌泰四年
901年。この年七月に延喜と改元された。
太宰權帥
大宰府の長官の権官。実際には職務のない左遷の地位だった。
あへなん
差し支えないだろう。「敢ふ」に強意の「ぬ」、推量の「む」。
あやにく
意地が悪い、厳しい。
ていしのみかど
亭子の帝。宇多法皇。
しがらみ
柵。川の流れをせき止めるために杭を打ち、竹や木を渡したもの。
山ざき
山崎。京から西国へ向かう淀川沿いの地。
あかしのむまや
明石の駅。山陽道の駅家(うまや)。
むまやの長
駅長。駅家の長。

文法

をこなふべき宣旨くだしめ給へりし
「しめ給ふ」は最高敬語。「し」は過去「き」の連体形で、下に「時」などが省略された形。
おはしけん
「けん」は過去推量。いらっしゃったのだろう。
ながされ給
「れ」は受身。流されなさる。
ゆるさしめ給しかば
「しかば」は過去の確定条件。お許しになったので。
春をわするな
「な」は禁止の終助詞。忘れるな。
とゞめよ
「とどむ」の命令形。せき止めてください。

和歌・漢詩

こちふかばにほひおこせよむめの花あるじなしとて春をわするな

作者
菅原道真
状況
大宰府へ流される朝、自邸の庭の梅の花を見て詠んだ歌。春の東風が吹いたら、その香りを(筑紫まで)送ってよこせ、梅の花よ。主人がいないからといって、春を忘れるな。『拾遺集』では結句を「春な忘れそ」とする。

修辞

擬人法
梅の花に人に語りかけるように呼びかける。
伝説
この梅が道真を慕って大宰府まで飛んでいったという「飛梅」の伝説が生まれた。

ながれゆくわれはみくづとなりはてぬきみしがらみとなりてとゞめよ

作者
菅原道真
状況
宇多法皇に送った歌。流されていく私は、川の水屑のようになり果ててしまった。あなたは、しがらみとなって私をせき止めてください。

修辞

縁語
「ながれ」「みくづ」「しがらみ」「とどめ」は川の縁語。
掛詞
「ながれ」に、川の流れと流罪をかける。

君がすむやどのこずゑをゆく〳〵とかくるゝまでもかへりみしかな

作者
菅原道真
状況
都を離れる道中で詠んだ歌。あなた(妻、あるいは宇多法皇)の住む家の梢を、道を行きながら、見えなくなるまで振り返り振り返り見たことよ。

修辞

掛詞
「ゆくゆく」に、道を行きながらの意と、だんだんとの意をかける。

驛長無驚時變改。一榮一落是春秋。

作者
菅原道真
状況
明石の駅で、零落した自分の姿に驚き悲しむ駅長に与えた詩句。書き下しは「駅長驚くことなかれ時の変改、一栄一落これ春秋」。駅長よ、時勢が変わることに驚くな。栄えたり衰えたりするのは、春が来て秋が来るのと同じ、自然の移り変わりなのだ。

修辞

対句
「一栄」と「一落」。
比喩
人の栄枯盛衰を、春と秋の季節の巡りにたとえる。

解説

昌泰四年(901)正月、道真は、娘婿の斉世親王(醍醐天皇の弟)を皇位につけようと企んだとして、大宰権帥に左遷された(昌泰の変)。時平の讒言によるものと考えられているが、宇多上皇の権力を抑えようとする醍醐天皇の意向もあったとされる。

時平と道真の年齢について、世継は時平を二十八、九、道真を五十七、八とする。昌泰四年の時点で、実際には時平は三十一歳、道真は五十七歳であった。

道真の子どもたちのうち、長男の高視は土佐介、ほかの子らも飛驒・駿河・播磨などへ流された。幼い紅姫と隈麿は道真に従って大宰府に下ったと伝える。

関連

出典

底本
経済雑誌社編『国史大系』第17巻(大鏡) 経済雑誌社、明治34年(1901)、492〜494頁(コマ262–263)。国立国会図書館デジタルコレクション
校訂・訳・注
古典ライブラリー編集部
更新日