大鏡 第13章
基経
基経は長良の三男で、良房の跡を継いで陽成天皇の摂政、宇多天皇の関白となった。若いころ、宴の席で雉の脚を落とされた時康親王(光孝天皇)が、とっさに灯を消して配膳の者をかばったのを見て感心し、陽成天皇の退位の後、源融の野心を退けて親王を帝に推した。住まいの堀川院と閑院、四人の息子(時平・仲平・兼平・忠平)のことも語られる。
- 1太政大臣太政大臣だいじょうだいじん
- 2このおとゞこのおとゞこのおとどははは長良長良ながら中納言中納言ちゅうなごんののの三郎三郎さぶろうにおはすにおはすにおわす。。。此此このもとつねのおとゞのもとつねのおとゞのもとつねのおとどの御御おんむすめむすめむすめ醍醐醍醐だいごののの御時御時おおんときののの后后きさき。。。朱雀院天皇朱雀院天皇すざくいんてんのうならびにならびにならびに村上村上むらかみ二代二代にだいののの御母御母みわわ后后きさきにおはしますにおはしますにおわします。。。
- 3此此このおとゞのおとゞのおとどの御母御母みわわ贈太政大臣贈太政大臣ぞうだいじょうだいじん總繼總繼ふさつぐののの女女おんな。。。贈正一位贈正一位ぞうしょういちい大夫大夫たいう人人ひと春春はるなりなりなり。。。陽成院陽成院ようぜいいん位位くらいにつかせにつかせにつかせ給給たまててて攝政攝政せっしょう宣旨宣旨せんじをををかうぶりかうぶりこうぶり給給たま。。。御歲御歲おおんとし四十一四十一しじゅういち。。。寬平寬平かんぴょう御時御時おおんとき仁和仁和にんな三年三年さんねん丁未丁未ひのとひつじ十一月十一月じゅういちがつ廿一日廿一日にじゅういちにち關白關白かんぱくにならせにならせにならせ給給たま。。。
- 4御歲御歲おおんとし五十六五十六ごじゅうろくにてにてにて。。。寬平寬平かんぴょう三年三年さんねん正月正月しょうがつ十三日十三日じゅうさんにちうせうせうせ給給たまにきにきにき。。。御御おんいみないみないみなととと申申もうすすす。。。公卿公卿くぎょうにてにてにて廿七年廿七年にじゅうしちねん。。。大臣大臣だいじんののの位位くらいにてにてにて廿年廿年にじゅうねん。。。よよよをををしらせしらせしらせ給事給事たまうこと十十じゅうよねんかとぞおぼえよねんかとぞおぼえよねんかとぞおぼえ侍侍はべれれれ。。。
- 5よのよのよの人人ひとののの大臣大臣だいじんととと申申もうすすす。。。小松小松こまつののの御門御門みかどののの御母御母みわわ。。。このこのこの殿殿どのののの御母御母みわわのののはらからにおはしますはらからにおはしますはらからにおわします。。。
- 6さてちごよりこまつのさてちごよりこまつのさてちごよりこまつの御門御門みかどをををしたしくしたしくしたしく見見み奉奉たてまつらせらせらせ給給たまててて。。。とにとにとにををを。。。あはれあはれあわれ君君きみかなとかなとかなと見見み奉奉たてまつらせらせらせ給給たまけるがけるがけるが。。。よしふさよしふさよしふさのおとゞののおとゞののおとどの大大おお。。。
- 7むかしむかしむかしはははみこだちかならずつかせみこだちかならずつかせみこだちかならずつかせ給事給事たまうことにてわたらせにてわたらせにてわたらせ給給たまへるにへるにえるに。。。はははかならずかならずかならず大饗大饗だいきょうにもるにもるにもる物物ものにてありけるにてありけるにてありけるををを。。。御前御前おまえにとりおとしてけりにとりおとしてけりにとりおとしてけり。。。
- 8人人ひとみこのおまへのみこのおまへのみこのおまえのをををとりてとりてとりて。。。まどひてそむじやのおまへにすうるまどひてそむじやのおまへにすうるまどいてそむじやのおまえにすうるををを。。。いかゞおぼしめしけむいかゞおぼしめしけむいかがおぼしめしけむ。。。おまへにともしたるおまへにともしたるおまえにともしたる御御おおんとのあぶらとのあぶらとのあぶらををを。。。
- 9やややをををらかいけたせらかいけたせらかいけたせ給給たまけるけるける。。。このおとゞこのおとゞこのおとどはははそのおりそのおりそのおりはははげらうにてげらうにてげろうにて。。。ざのすゑにてざのすゑにてざのすえにて見見み奉奉たてまつらせらせらせ給給たまににに。。。いみじくもせさせいみじくもせさせいみじくもせさせ給給たま物物ものかなとかなとかなと。。。いよ〳〵いよ〳〵いよいよ見見みめでたてまつらせめでたてまつらせめでたてまつらせ給給たまててて。。。
- 10陽成院陽成院ようぜいいんおりさせおりさせおりさせ給給たまべきさだめにさぶらはせべきさだめにさぶらはせべきさだめにさぶらわせ給給たま。。。大臣大臣だいじんやんごとなくてやんごとなくてやんごとなくて位位くらいにつかせにつかせにつかせ給給たまはむといふはむといふわむという御心御心みこころふかくてふかくてふかくて。。。ちかきちかきちかきをををたづねばたづねばたずねば。。。
- 11とほるらもとほるらもとおるらも侍侍さぶらはははといひいでといひいでといいいで給給たまへるへるえるををを。。。このこのこの大臣大臣だいじん。。。王胤王胤おういんなれどしやうなれどしやうなれどしょうををを給給たまはははりてりてりて只人只人たどうどにてつかへてにてつかへてにてつかえて。。。位位くらいにつきたるためしやあるとにつきたるためしやあるとにつきたるためしやあると申出申出もうしいで給給たまへればへればえれば。。。
- 12さもあるさもあるさもある事事ことなればなればなれば。。。このこのこの大臣大臣だいじんのさだめによりてのさだめによりてのさだめによりて。。。小松小松こまつのみかどのみかどのみかどははは位位くらいにつかせたまへるなりにつかせたまへるなりにつかせたまえるなり。。。みかどのみかどのみかどの御御おんすゑもすゑもすえもはるかにつたはりはるかにつたはりはるかにつたわり。。。大臣大臣だいじんのすゑもつたはりつゝうしろみのすゑもつたはりつゝうしろみのすえもつたわりつつうしろみ申給申給もうしたま。。。
- 13さるべくさるべくさるべくはははちぎりおかせちぎりおかせちぎりおかせ給給たまへるへるえる御御おん中中なかにやとぞにやとぞにやとぞ思思おもひひい侍侍はべるるる。。。おとゞうせおとゞうせおとどうせ給給たまてててふかくさのふかくさのふかくさの山山やまにおさめたてまつるよにおさめたてまつるよにおさめたてまつるよ。。。僧都僧都そうずのよみたまへるのよみたまへるのよみたまえる。。。
- 14はははからからからををを見見みつゝもなぐさめつつゝもなぐさめつつつもなぐさめつふかくさのふかくさのふかくさの山山やまけぶりだにたてけぶりだにたてけぶりだにたて
- 15又又またかづつけのかづつけのかずつけのといひしといひしといいし人人ひとのよみたるのよみたるのよみたる。。。ことしばかりことしばかりことしばかりはすみぞめにさけなどもはすみぞめにさけなどもはすみぞめにさけなども古今古今こきんににに侍侍はべるとどもぞかしるとどもぞかしるとどもぞかし。。。
- 16御御おんいへいへいえははは堀川院堀川院ほりかわいんととと閑院閑院かんいんとにすませとにすませとにすませ給給たましししををを。。。ほりほりほり川院川院かわいんをばをばをばさるべきさるべきさるべき事事ことのののおりおりおりはれ〳〵はれ〳〵はれはれしきれうにせさせしきれうにせさせしきりょうにせさせ給給たまひひい。。。閑院閑院かんいんをばをばをば御物御物おおんものいみやいみやいみや又又またうときうときうとき人人ひとなどなどなどはははまいらぬまいらぬまいらぬ所所ところにてにてにて。。。
- 17さるべくむつまじくおぼすさるべくむつまじくおぼすさるべくむつまじくおぼす人人にんばかりばかりばかりををを。。。御供御供おおんともにさぶらはせてわたらせにさぶらはせてわたらせにさぶらわせてわたらせ給給たまふおりもおはしましけるふおりもおはしましけるうおりもおわしましける。。。ほりほりほり川院川院かわいんははは地形地形ちぎょうのいといみじきのいといみじきのいといみじき也也なり。。。
- 18大饗大饗だいきょうのおりのおりのおり殿殿とのばらのばらのばらの御車御車みくるまのたちやうなどよのたちやうなどよのたちょうなどよ。。。尊者尊者そんじゃののの御車御車みくるまははは川川がわよりよりよりひんがしにたてひんがしにたてひんがしにたて。。。うしうしうしはははみはしのみはしのみわしのひらきばしらにひらきばしらにひらきばしらにひきつなぎひきつなぎひきつなぎ。。。ことかんだちめのくるまことかんだちめのくるまことかんだちめのくるまをばをばをば川川がわよりよりより西西にしにたてたるがにたてたるがにたてたるが。。。
- 19めでたきめでたきめでたきをばをばをば尊者尊者そんじゃののの御車御車みくるまのべちにことにのべちにことにのべちにことに見見みゆるゆるゆる事事ことははは。。。ことことこと所所ところははは侍侍はべらぬものらぬものらぬものをやをやをやととと見見み給給たまふるにふるにうるに。。。此此この院殿院殿いんどのにこそおされにてにこそおされにてにこそおされにてはべるめれはべるめれはべるめれ。。。
- 20四町四町よまちにてにてにて四面四面しめんおほぢなるおほぢなるおおじなる京中京中きょうじゅうののの家家けははは冷泉院冷泉院れいぜいいんのみとこそのみとこそのみとこそ思思おもひさぶらひつれひさぶらひつれいさぶらいつれ。。。よのすゑになるまゝにまさるよのすゑになるまゝにまさるよのすえになるままにまさる事事ことのみこそいでまうでくめれのみこそいでまうでくめれのみこそいでもうでくめれ。。。
- 21このこのこの昭宣公昭宣公しょうせんこうのおとゞのおとゞのおとどははは陽成天皇陽成天皇ようぜいてんのうののの御御おんをぢをぢおじにてにてにて。。。うだのみかどのうだのみかどのうだのみかどの御時御時おおんとき准三宮准三宮じゅさんぐうののの位位くらいにてにてにて年官年爵年官年爵ねんかんねんしゃくをををえええ給給たま。。。朱雀院朱雀院すざくいんならびにむらかみのおほぢにておはしましならびにむらかみのおほぢにておはしましならびにむらかみのおおじにておわしまし。。。
- 22よおぼえやむごとなしとよおぼえやむごとなしとよおぼえやむごとなしと申申もうせばおろかなりやせばおろかなりやせばおろかなりや。。。御御おんおのこゞおのこゞおのこご四人四人しにんおはしきおはしきおわしき。。。太郎太郎たろう左大臣左大臣さだいじん時平時平ときいら。。。次郎次郎じろう左大臣左大臣さだいじん仲平仲平なかひら。。。四郎四郎しろう太政大臣太政大臣だいじょうだいじん忠平忠平ただいらといふにといふにというに。。。
- 23しげきがけしきことになりてしげきがけしきことになりてしげきがけしきことになりて。。。まづうしろのまづうしろのまずうしろの人人ひとのかほうちのかほうちのかおうち見見み渡渡わたしてしてして。。。それぞこのいそれぞこのいそれぞこのいははは。。。貞信公貞信公ていしんこうにおはしますとてにおはしますとてにおわしますとて。。。
- 24あふぎあふぎおうぎうちつかふかほもちことにおかしうちつかふかほもちことにおかしうちつかうかおもちことにおかし。。。三郎三郎さぶろうにあたらせにあたらせにあたらせ給給たましししははは。。。從三位從三位じゅさんみしてしてして宮内卿宮内卿くないきょうののの君君きみととと申申もうてててうせうせうせ給給たまにきにきにき。。。さるさるさるははは御母御母みわわいとあてにおはすいとあてにおはすいとあてにおわす。。。
- 25みつよしのみつよしのみつよしの式部卿式部卿しきぶきょうのみこののみこののみこの御御おんむすめにてむすめにてむすめにて。。。かかかへす〴〵へす〴〵へすべすもやむごとなくおはすべかりしかどもやむごとなくおはすべかりしかどもやむごとなくおわすべかりしかど。。。このこのこの三人三人さんにんののの大臣大臣だいじんだちだちだちをををよのよのよの人人ひとととと申申もうききき。。。
現代語訳
太政大臣基経
この大臣は長良中納言の三男でいらっしゃる。この基経公の御娘(穏子)は醍醐の御時の后で、朱雀院天皇と村上(天皇)の二代の御母后でいらっしゃる。この大臣の御母は、贈太政大臣総継の娘、贈正一位大夫人乙春である。陽成院が位にお即きになって、摂政の宣旨をお受けになる。御年四十一。寛平の御時(宇多天皇の代)、仁和三年丁未十一月二十一日に関白におなりになる。御年五十六で、寛平三年正月十三日にお亡くなりになった。御諱を昭宣公と申し上げる。公卿として二十七年、大臣の位に二十年。世をお治めになったのは十余年かと思われます。世の人は堀川の大臣と申し上げる。小松の帝(光孝天皇)の御母(沢子)は、この殿の御母(乙春)の姉妹でいらっしゃる。
さて(基経は)幼いころから小松の帝を親しく見申し上げなさって、何かにつけて立派でいらっしゃるのを、「ああ、すばらしい君だ」と見申し上げていらっしゃったが、良房公の大饗のときであったろうか、昔は親王たちが必ずお着きになることになっていて、いらっしゃっていたところ、雉の脚は必ず大饗に盛るものであったのに、どうしたことか、尊者(正客)の御前の分を取り落としてしまった。配膳する人が、親王の御前の分を取って、あわてて尊者の御前に据えたのを、(親王は)どうお思いになったのか、御前にともしてあった灯火の油を、そっとかき消しなさった。この大臣はそのころはまだ身分が低くて、末座で見申し上げていらしたが、「見事になさるものだなあ」と、ますます感心申し上げなさって、陽成院が退位なさるべき評定に(基経が)お控えになった(とき)、融の大臣(源融)が、たいそう身分が高く、位にお即きになろうというお気持ちが深くて、「近い皇族の血筋をたずねるなら、融らもおりますぞ」と言い出しなさったのを、この大臣が「皇胤ではあっても、姓を賜って臣下としてお仕えして、位に即いた例があるか」と申し出しなさったので、それももっともなことなので、この大臣の決定によって、小松の帝は位にお即きになったのである。帝の御子孫もはるかに伝わり、大臣の子孫も伝わり続けて(帝を)後見申し上げなさる。そうなるべき前世からの約束がおありだった御仲なのだろうと思います。
大臣がお亡くなりになって、深草の山に葬り申し上げた夜、勝延僧都がお詠みになった歌。
うつせみは殻を見つつもなぐさめつ深草の山煙だにたて
また上野峯雄といった人が詠んだ「今年ばかりは墨染めに咲け」なども、古今集にございますよ。お屋敷は堀川院と閑院とにお住みになっていたが、堀川院はしかるべき儀式のときの晴れの場所となさり、閑院は御物忌みのときや、また親しくない人などは参らない所として、しかるべく親しくお思いになる人だけをお供につけて、お渡りになるときもあった。堀川院は地形がたいそうすばらしいのです。大饗のときの殿方の御車の立て方などよ。尊者の御車は堀川の東に立て、牛は御階の開き柱につなぎ、そのほかの上達部の車は堀川の西に立てたのが、すばらしく、尊者の御車の格別さがきわだって見えることは、ほかの所にはございませんでしょうと拝見しておりますが、この高陽院殿にこそ(今は)圧倒されているようです。方四町で四面が大路に面した京中の家は冷泉院だけだと思っておりましたのに。世が末になるにつれて、まさることばかりが出てくるようです。
この昭宣公は陽成天皇の叔父として、宇多の帝の御時に准三宮の位となって年官年爵を得なさった。朱雀院と村上(天皇)の外祖父でいらっしゃって、世の信望が重いと申しても言い足りないほどです。男のお子は四人いらした。長男が左大臣時平、次男が左大臣仲平、四男が太政大臣忠平」と言うと、繁樹の様子がいつもと変わって、まず後ろの人々の顔を見渡して、「それこそ、いわゆる翁の宝の君、貞信公でいらっしゃる」と言って、扇を使う顔つきが格別におかしい。「三男にあたられた方は、従三位で宮内卿兼平の君と申して亡くなられた。じつは(この方の)御母はたいへん高貴でいらっしゃる。人康式部卿の親王の御娘で、かえすがえすも尊くいらっしゃるはずだったのに。この三人の大臣たちを、世の人は三平と申し上げた」
意訳
基経は、叔父良房の養子となって摂関家を継いだ人である。陽成天皇の摂政となり、のちに陽成天皇を退位させて光孝天皇を立て、宇多天皇のとき最初の関白となった。
この章の中心は、光孝天皇の即位にまつわる二つの話である。一つは、まだ若く身分の低かった基経が、宴の末座から時康親王(光孝天皇)のふるまいを見ていた話。尊者の皿の雉の脚が落ち、配膳係があわてて親王の分をそちらに回すと、親王は何も言わず灯火を消して、その失態を人目から隠してやった。この思いやりと機転に、基経は親王の器を見抜いたのである。
もう一つは、陽成天皇の退位後の後継を決める評定で、嵯峨天皇の皇子で臣籍に下った源融が「自分も皇族だ」と名のり出たのを、基経が「臣下になった者が即位した例はない」と退けた話。こうして五十五歳の時康親王が即位した。世継は、光孝天皇の子孫が帝となり、基経の子孫がそれを後見し続けていることを「さるべき契り」とたたえる。最後に、基経の四人の息子の名が挙がると、忠平に仕えた繁樹が誇らしげに周りを見回す。世継の語りに繁樹が割り込む、生き生きとした場面である。
語釈・文法注
- 太政大臣基經
- 藤原基経(836〜891)。
- 乙春
- 藤原乙春。総継の娘で、長良の妻。基経・高子の母。
- 昭宣公
- 基経の諡。
- 堀川の大臣
- 基経のこと。堀川院に住んだことから。
- きやうさく
- 警策。すぐれていること。立派なこと。
- 大きやう
- 大饗。大臣の就任や正月に、大臣家で催した大宴会。
- 雉足
- 雉の脚。大饗で必ず出された料理。
- そむじや
- 尊者。大饗の正客。
- はいぜん
- 陪膳。食膳を運んで給仕すること。
- とほるの大臣
- 源融(822〜895)。嵯峨天皇の皇子で臣籍に下った。左大臣。河原院を造り、『源氏物語』の光源氏のモデルの一人ともされる。
- 王胤
- 天皇の血筋。
- 勝延僧都
- 比叡山の僧。
- うつせみ
- 空蟬。蟬の抜け殻。ここでは亡骸のたとえ。
- 峯雄
- 上野峯雄(かむつけのみねお)。歌人。
- かやう院殿
- 高陽院(かやのいん)。藤原頼通の邸。治安元年(1021)に造営された、方四町の大邸宅。
- ほう四町
- 方四町。四町四方の広さ。普通の貴族の邸は一町(約120メートル四方)。
- たからのきみ
- 宝の君。繁樹が仕えた忠平を大切に思って言う。
- 兼平
- 藤原兼平(875〜935)。基経の三男。宮内卿。
- 三平
- 時平・仲平・忠平の三兄弟。名にみな「平」がつくことから。
文法
- 見奉らせ給ける
- 「奉ら」は親王への謙譲、「せ給ひ」は基経への尊敬。
- かいけたせ給ける
- 「かい」は「掻き」の音便。「けた」は「消つ」の未然形。
- いみじくもせさせ給物かな
- 見事になさるものだなあ。「させ給ふ」は最高敬語。
- 位につきたるためしやある
- 「や」は反語。位に即いた例があろうか、いやない。
- ちぎりおかせ給へる御中にや
- 「にや」の下に「あらむ」が省略。約束しておおきになった御仲なのであろうか。
- おされにてはべるめれ
- 圧倒されてしまっているようだ。
- 申せばおろかなりや
- 「おろかなり」は言い足りない。言っても言い尽くせない。
和歌・漢詩
うつせみはからを見つゝもなぐさめつふかくさの山けぶりだにたて
- 作者
- 勝延僧都
- 状況
- 基経を深草の山に葬った夜に詠んだ歌。『古今集』哀傷に載る。蟬の抜け殻のような亡骸でも、見ているあいだは心をなぐさめることができた。(葬られて見えなくなった今は)深草の山よ、せめて煙だけでも立ってくれ。
修辞
- 見立て
- 亡骸を蟬の抜け殻(うつせみ)にたとえる。
- 表現
- 「だに」は、せめて〜だけでも。
解説
基経は陽成天皇の摂政であったが、天皇との関係が悪化し、元慶八年(884)に陽成天皇を退位させた。その後継に、皇統を遡って仁明天皇の皇子で五十五歳の時康親王を立てたのは、基経との縁が深かったからと考えられる。光孝天皇は即位すると、政治をすべて基経に任せた。これが関白の始まりとされる。
源融が即位を望んだ話は、『大鏡』のこの箇所で初めて見えるもので、史実かどうかはわからない。融は嵯峨天皇の子で、光孝天皇よりは天皇の血筋に近かったが、臣籍に下っていた。
高陽院は、もとは桓武天皇の皇子賀陽親王の邸で、頼通が大規模に造り替えた。世継は昔の堀川院の壮麗さを語ったうえで、今の高陽院にはかなわないと言い、「よのすゑになるまゝにまさる事のみ」と、道長・頼通の時代の豪奢さに話をつなげる。
関連
出典
- 底本
- 経済雑誌社編『国史大系』第17巻(大鏡) 経済雑誌社、明治34年(1901)、490〜492頁(コマ261–262)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日