大鏡 第12章
冬嗣・良房・良相・長良
大臣列伝の最初に、冬嗣とその子の良房・良相・長良が語られる。冬嗣は文徳天皇の外祖父として太政大臣を贈られた。良房は人臣として初めて太政大臣・摂政となり、娘の染殿后を桜にたとえた歌を詠んだが、子に恵まれず、兄長良の子基経を跡継ぎとした。良相の子孫は振るわず、弟に官位を越えられた長良の子孫こそが、のちに栄えることになる。
- 1左大臣左大臣さだいじん冬嗣冬嗣ふゆつぐ
- 2このおとゞこのおとゞこのおとどはははのおとゞののおとゞののおとどの三郎三郎さぶろう。。。公卿公卿くぎょうにてにてにて十六年十六年じゅうろくねん。。。左左ひだりののの大臣大臣だいじんののの位位くらいにてにてにて六年六年ろくねん。。。たむらのたむらのたむらの御御おんおほぢにおはしますおほぢにおはしますおおじにおわします。。。かるがゆへにかるがゆへにかるがゆえに嘉祥嘉祥かしょう三年三年さんねん庚午庚午かのえうま七月七月しちがつ七日七日なぬか。。。
- 3贈太政大臣贈太政大臣ぞうだいじょうだいじんににに成成なり給給たまへりへりえり。。。大臣大臣だいじんととと申申もうすすす。。。このおとゞこのおとゞこのおとどはははおおおほかたおのこゞほかたおのこゞほかたおのこご十一人十一人じゅういちにんおはしたるおはしたるおわしたる也也なり。。。されどされどされどしききんだちのしききんだちのしききんだちの事事ことはははくはしくしりくはしくしりくわしくしり侍侍はべらずらずらず。。。
- 4たゞしたむらのみかどのたゞしたむらのみかどのただしたむらのみかどの御御おんはゝはゝはは后后きさき。。。贈太政大臣贈太政大臣ぞうだいじょうだいじん長良長良ながらのおとゞのおとゞのおとど。。。太政大臣太政大臣だいじょうだいじんのおとゞのおとゞのおとど。。。右大臣右大臣うだいじん良相良相よしみのおとゞはのおとゞはのおとどわひとつひとつひとつ御御おんはははらなりらなりらなり。。。
- 5太政大臣太政大臣だいじょうだいじん良房良房よしうさ
- 6このおとゞこのおとゞこのおとどははは左大臣左大臣さだいじん冬嗣冬嗣ふゆつぐののの次郎次郎じろう也也なり。。。天安天安てんあん元年元年がんねん丁丑丁丑ひのとうし二月二月にがつ十九日十九日じゅうくにち太政大臣太政大臣だいじょうだいじんになりになりになり給給たま。。。同同おなじ年年とし四月四月しがつ十九日十九日じゅうくにち從一位從一位じゅいちい。。。御歲御歲おおんとし五十四五十四ごじゅうし。。。みづのおのみづのおのみずのおの御門御門みかどののの御孫御孫みまごにおはしませばにおはしませばにおわしませば。。。
- 7天安天安てんあん二年二年にねん八月八月はちがつ廿七日廿七日にじゅうしちにちににに位位くらいにつかせにつかせにつかせ給給たま。。。同同おなじ年年とし戊寅戊寅つちのえとら十一月十一月じゅういちがつ七日七日なぬか攝政攝政せっしょうののの詔詔みことのりありありあり。。。給給たまはははりりり給給たま。。。貞觀貞觀じょうがん八年八年はちねん丙戌丙戌ひのえいぬ關白關白かんぱくにににうつりうつりうつり給給たま。。。御歲御歲おおんとし六十三六十三ろくじゅうさん。。。
- 8うせうせうせ給給たまてのてのての御御おんいみないみないみなとなづけとなづけとなずけ奉奉たてまつるるる。。。又又またののの大臣大臣だいじん染殿染殿そめどのののの大臣大臣だいじんととと申申もうつたへたりつたへたりつたえたり。。。たゞしたゞしただし此此このおとゞおとゞおとどははは文德天皇文德天皇もんとくてんのうののの御御おんおぢおぢおじ太皇太后太皇太后たいこうたいごう明子明子めいしののの御御おんちゝちゝちち。。。
- 9清和天皇清和天皇せいわてんのうののの御祖父御祖父おおんおおじにてにてにて太政大臣太政大臣だいじょうだいじん位位くらいにのぼらせにのぼらせにのぼらせ給給たま。。。年官年爵年官年爵ねんかんねんしゃくののの宣旨宣旨せんじくだりくだりくだり攝政關白攝政關白せっしょうかんぱくなどしなどしなどし給給たまててて十五年十五年じゅうごねんこそこそこそはははおはせしかおはせしかおわせしか。。。おおおほかたほかたほかた公卿公卿くぎょうにてにてにて卅年卅年さんじゅうねん。。。
- 10大臣大臣だいじんののの位位くらいにてにてにて廿五年廿五年にじゅうごねんぞおはせしぞおはせしぞおわせし。。。此此この殿殿どのぞぞぞ藤氏藤氏とうじのののはじめてはじめてはじめて太政大臣太政大臣だいじょうだいじん攝政攝政せっしょうししし給給たま。。。めでたきめでたきめでたき御御おんありさまありさまありさま也也なり。。。わかもあそばしけるにこそわかもあそばしけるにこそわかもあそばしけるにこそ古今古今こきんにもあまたにもあまたにもあまた侍侍はべるめるるめるるめる。。。
- 11のおのおのおほいまうちぎみとほいまうちぎみとほいもうちぎみとははは此此この御御おん事事ことゝゝなり。。。おおおほかるほかるほかる中中なかにもいかににもいかににもいかに御心御心みこころゆきめでたくおぼえてあそばしけんとおしゆきめでたくおぼえてあそばしけんとおしゆきめでたくおぼえてあそばしけんとおしはははからるゝからるゝからるる。。。御御おんむすめそめむすめそめむすめそめ殿殿どのののの后后きさきのおまへにのおまへにのおまえに櫻櫻さくらののの花花はなのかめにさゝれたるのかめにさゝれたるのかめにさされたるををを御御ごらんじてかくよませらんじてかくよませらんじてかくよませ給給たまへるとぞへるとぞえるとぞ。。。
- 12年年としふればよはひふればよはひふればよわいはははおいぬしかおいぬしかおいぬしかはははあれどあれどあれど花花はなをををしみればものしみればものしみればもの思思おもひもなしひもなしいもなし
- 13后后きさきををを花花はなにたとへにたとへにたとえ申申もうさせさせさせ給給たまへるにこそへるにこそえるにこそ。。。かくれかくれかくれ給給たまててて白川白川しらかわにおさめたてまつるにおさめたてまつるにおさめたてまつる日日ひ。。。ぎみのよみたまへりしぎみのよみたまへりしぎみのよみたまえりしははは。。。
- 14川川かわはははきみがよまでのなにこそありけれきみがよまでのなにこそありけれきみがよまでのなにこそありけれ
- 15みなみなみな人人ひとしろしめしたらめどしろしめしたらめどしろしめしたらめど。。。物物ものををを申申もうさぞさぞさぞ侍侍はべるるる。。。かくいみじきさいはひかくいみじきさいはひかくいみじきさいわい人人ひとののの。。。子子このおはしまさぬこそくちおしけれのおはしまさぬこそくちおしけれのおわしまさぬこそくちおしけれ。。。御御おんこのかみのこのかみのこのかみの長良長良ながら中納言中納言ちゅうなごんののの外外ほかにこえられにこえられにこえられ給給たまけんおりけんおりけんおり。。。
- 16いかばかりからうおぼされけんいかばかりからうおぼされけんいかばかりかろうおぼされけん。。。又又また外外ほかににに思思おもひひい申申もうけめどけめどけめど。。。そのそのその御御おんすゑこそすゑこそすえこそ今今いまにさかへおはしますめればにさかへおはしますめればにさかえおわしますめれば。。。ゆくすゑゆくすゑゆくすえはははことのことのことの外外ほかにまさりにまさりにまさり給給たまへりけるへりけるえりける物物ものををを。。。
- 17右大臣右大臣うだいじん良相良相よしみ
- 18このおとゞこのおとゞこのおとど。。。御母御母みわわ白川白川しらかわののの大臣大臣だいじんににに同同おなじじじ。。。冬嗣冬嗣ふゆつぐ大臣大臣だいじんののの五郎五郎ごろう。。。大臣大臣だいじんののの位位くらいにてにてにて十一年十一年じゅういちねん。。。贈正一位贈正一位ぞうしょういちい西西にし三條三條さんじょう大臣大臣だいじんととと申申もうすすす。。。定額定額じょうがくををを御御おんいのりのいのりのいのりの師師しにておはすにておはすにておわす。。。
- 19千手堂千手堂せんじゅどうにてにてにて驗德驗德げんとくかうぶりかうぶりこうぶり給給たまへるへるえる人人ひとなりなりなり。。。此此この大臣大臣だいじんののの御女御女おおんむすめ御子御子みこののの事事ことよくしらずよくしらずよくしらず。。。ひとりぞみづのひとりぞみづのひとりぞみずのをををののの御時御時おおんときののの女御女御にょうご。。。をのこゞをのこゞおのこごははは大納言大納言だいなごん行行ゆ卿卿きょうときこえしときこえしときこえし。。。
- 20御子御子みこ二人二人ふたりおはせしもおはせしもおわせしも五位五位ごいにてにてにて典藥助典藥助てんやくのすけ主殿頭主殿頭とのものかみなどいひてなどいひてなどいいて。。。いとあさくてやみいとあさくてやみいとあさくてやみ給給たまにきにきにき。。。かくばかりすゑさかへかくばかりすゑさかへかくばかりすえさかえ給給たまけるけるける中納言中納言ちゅうなごん殿殿どのををを。。。ののの御御おんおとゝにてこえたてまつりおとゝにてこえたてまつりおととにてこえたてまつり給給たまへりけるへりけるえりける。。。御御おんあやまりにやとこそおぼえあやまりにやとこそおぼえあやまりにやとこそおぼえ侍侍はべれれれ。。。
- 21贈太政大臣贈太政大臣ぞうだいじょうだいじん長良長良ながら
- 22此此この中納言中納言ちゅうなごん。。。冬嗣冬嗣ふゆつぐのおとゞののおとゞののおとどの太郎太郎たろう。。。はゝはゝははははは白川白川しらかわ大臣大臣だいじん西西にし三條三條さんじょう大臣大臣だいじんにおなじにおなじにおなじ。。。公卿公卿くぎょうにてにてにて十三年十三年じゅうさんねん。。。陽成院陽成院ようぜいいん御御おおんときにときにときに御御おんおほぢにおはするがゆへにおほぢにおはするがゆへにおおじにおわするがゆえに。。。
- 23元慶元慶がんぎょう元年元年がんねん丁酉丁酉ひのととり正月正月しょうがつににに贈贈ぞう左大臣左大臣さだいじん正一位正一位しょういちい。。。又又また贈太政大臣贈太政大臣ぞうだいじょうだいじん大臣大臣だいじんととと申申もうすすす。。。此此このおとゞおとゞおとど御子御子みこ六人六人ろくにんおはせしおはせしおわせし。。。そのそのその中中なかににに基經基經もとつねのおとゞすぐれのおとゞすぐれのおとどすぐれ給給たまへりへりえり。。。
現代語訳
左大臣冬嗣
この大臣は内麻呂公の三男。公卿として十六年。左大臣の位に六年。田村の帝(文徳天皇)の外祖父でいらっしゃる。そのため嘉祥三年庚午七月七日に贈太政大臣におなりになった。閑院大臣と申し上げる。この大臣には、男の子がおよそ十一人いらしたのである。けれども、こまごまとしたお子たちのことはくわしく知りません。ただし、田村の帝の御母后(順子)、贈太政大臣長良公、太政大臣良房公、右大臣良相公は、同じお腹のお子である。
太政大臣良房
この大臣は左大臣冬嗣の次男である。天安元年丁丑二月十九日に太政大臣におなりになる。同年四月十九日に従一位。御年五十四。水尾の帝(清和天皇)の外祖父でいらっしゃるので、(帝が)天安二年八月二十七日に位にお即きになり、同年戊寅十一月七日に摂政の詔があった。年官年爵を賜った。貞観八年丙戌に関白にお移りになる。御年六十三。亡くなられてのちの諡を忠仁公とお名づけ申し上げる。また白川の大臣、染殿の大臣と申し伝えている。この大臣は、文徳天皇の叔父、太皇太后明子の御父、清和天皇の御祖父として、太政大臣・准三宮の位にお上りになった。年官年爵の宣旨が下り、摂政・関白などをなさって十五年おいでになった。およそ公卿として三十年、大臣の位に二十五年いらっしゃった。この殿が藤原氏で初めて太政大臣・摂政をなさった。めでたいご様子である。和歌もお詠みになったので、古今集にもたくさんございます。「前太政大臣」とあるのはこの方のことです。その多い中でも、どんなに御心が満ち足りてめでたくお思いになってお詠みになったのだろうと推察されるのは、御娘の染殿の后の御前に、桜の花が瓶に挿してあるのをご覧になって、こうお詠みになったということです。
年ふれば齢は老いぬしかはあれど花をし見れば物思ひもなし
后を花にたとえ申し上げなさったのですよ。お亡くなりになって白川に葬り申し上げた日に、素性君がお詠みになったのは、
血の涙落ちてぞたぎつ白川は君が世までの名にこそありけれ
みなさんご存じでしょうが、ものを申すのは調子に乗るとこうなるのでございます。こんなにすばらしい幸運な方が、お子がいらっしゃらなかったのは残念なことです。兄の長良中納言が、(弟に)官位を越えられなさったときは、どんなにつらくお思いになったことでしょう。また世の人も意外なことと思い申し上げたでしょうが、その(長良の)ご子孫こそ今に栄えていらっしゃるようなので、将来ははるかにまさっていらしたのですよ。
右大臣良相
この大臣は、御母は白川の大臣(良房)と同じ。冬嗣大臣の五男。大臣の位に十一年。贈正一位、西三条大臣と申し上げる。浄蔵定額をご祈禱の師としていらした。千手堂で験徳を受けなさった人である。この大臣のお娘・お子たちのことはよく知りません。お一人が水尾の帝の御時の女御(多美子)。男の子は大納言常行卿と申し上げた方。(ほかに)お子が二人いらしたが、五位で典薬助・主殿頭などと言って、ごく浅い官位で終わってしまった。これほど子孫が栄えなさった中納言殿(長良)を、何段も年下の弟として越え申し上げなさったのは、(天の)お誤りではなかったかと思われます。
贈太政大臣長良
この中納言は冬嗣公の長男。母は白川の大臣・西三条の大臣と同じ。公卿として十三年。陽成院の御時に(帝の)外祖父でいらっしゃるので、元慶元年丁酉正月に贈左大臣正一位、また贈太政大臣となった。枇杷大臣と申し上げる。この大臣にはお子が六人いらした。その中で基経公がすぐれていらっしゃった。
意訳
大臣列伝は、藤原北家の基礎を築いた冬嗣から始まる。冬嗣の娘順子が文徳天皇を産んだことで、冬嗣は死後に太政大臣を贈られた。ここから藤原氏が天皇の外戚として力を持つ時代が始まる。
冬嗣の子では良房がもっとも栄えた。人臣として初めて太政大臣・摂政となり、娘の明子は清和天皇の母となった。「年ふれば」の歌は、自分は老いたが、桜の花(后となった娘)を見ればもの思いもない、という満ち足りた心を詠む。しかし世継は、その良房に跡継ぎの男子がなかったことを惜しみ、兄の長良が弟に官位を越えられた無念を思いやる。そして「その長良の子孫こそ今に栄えている」と、歴史の皮肉を示す。
弟の良相も右大臣に上ったが、子孫は振るわなかった。世継は、良相が兄長良を越えたのは「御あやまり」だったのではないかとまで言う。長良の子基経が良房の養子となって家を継ぎ、以後の摂関家はすべて長良の血筋から出ることになる。一族の中での浮き沈みを、世継は「すゑ(子孫)」が栄えるかどうかで評価していく。
語釈・文法注
- 内麿
- 藤原内麻呂(756〜812)。右大臣。冬嗣の父。
- 閑院大臣
- 冬嗣のこと。閑院に住んだことから。のち公季も閑院大臣と呼ばれる。
- くた〳〵しき
- こまごまとして煩わしい。
- 太政大臣良房
- 藤原良房(804〜872)。
- 准三宮
- 太皇太后・皇太后・皇后の三宮に准じる待遇。年官年爵などが与えられた。
- 年官年爵
- 毎年、一定の官職や位階を推薦する権利。その推薦料が収入となった。
- 忠仁公
- 良房の諡。
- 白川の大臣
- 良房のこと。白河に別邸があり、葬られた地も白河であった。
- 前のおほいまうちぎみ
- 前太政大臣。古今集で良房の歌の作者名として用いられる。
- 素性
- 素性法師。僧正遍昭の子で歌人。三十六歌仙の一人。
- ちのなみだ
- 血の涙。激しい悲しみのために流す涙。
- はやりぬれば
- 逸(はや)ってしまうと。調子に乗って話し続けてしまうと。話が長くなったことをわびることば。
- よじん
- 余人。ほかの人々。
- 淨藏定額
- 浄蔵(891〜964)。天台の僧で、祈禱の霊験で知られた。定額は定額僧(朝廷が定めた官の僧)。年代から見て良相の師とは合わない。
- 常行
- 藤原常行(836〜875)。良相の子。大納言。
- やへ〳〵の御おとゝ
- 幾重にも下の弟。長良は冬嗣の長男、良相は五男。
- 枇杷大臣
- 長良のこと。枇杷殿に住んだことから。
文法
- おはしたる也
- いらっしゃったのである。
- ひとつ御はらなり
- 同じ母から生まれた兄弟姉妹である。
- おしはからるゝ
- 「るゝ」は自発の助動詞「る」の連体形。自然と推察される。
- こえられ給けんおり
- 「られ」は受身。越えられなさったとき。
- まさり給へりける物を
- 「物を」は詠嘆。まさっていらしたのになあ。
- 御あやまりにやとこそおぼえ侍れ
- 「にや」の下に「あらむ」が省略。お誤りであったのではないかと思われます。
和歌・漢詩
年ふればよはひはおいぬしかはあれど花をしみればもの思ひもなし
- 作者
- 藤原良房
- 状況
- 娘の染殿后明子の前に、瓶に挿した桜の花があるのを見て詠んだ歌。『古今集』春上に「前太政大臣」の作として載る。年を経たので自分はすっかり年老いた。けれども、この花を見れば何の物思いもない。
修辞
- 寓意
- 「花」に、后となった娘明子をたとえる。
- 強意
- 「花をし」の「し」は強意の副助詞。
ちのなみだおちてぞたぎつしら川はきみがよまでのなにこそありけれ
- 作者
- 素性法師
- 状況
- 良房を白河に葬った日に詠んだ歌。『古今集』哀傷に載る。血の涙が落ちて激しく流れる白川は、あなたが生きていらした世までの名であったのだなあ(今は涙で赤く染まって、もう「白川」ではない)。
修辞
- 掛詞
- 「しら川」に地名の白河と「白」をかける。
- 対照
- 血の涙の赤と、白川の白。
解説
良房(804〜872)は嵯峨天皇の皇女源潔姫を妻とし、天皇家と深く結びついた。承和の変で甥の文徳天皇を皇太子とし、外孫の清和天皇を九歳で即位させて、事実上の摂政となった。応天門の変(866)で伴氏・紀氏を退けたのち、正式に摂政の宣旨を受けた。
世継は良房の関白就任を貞観八年とするが、正式な関白の始まりは基経とされる。また底本の「みづのおの御門の御孫におはしませば」は、清和天皇が良房の孫であることを、天皇の側から言ったもの。
冬嗣・良房・良相・長良の四人は、冬嗣の正室藤原美都子の子である。長良の子の基経が良房の養子となったことで、以後の藤原氏の嫡流は長良の血筋となった。
関連
出典
- 底本
- 経済雑誌社編『国史大系』第17巻(大鏡) 経済雑誌社、明治34年(1901)、487〜489頁(コマ259–260)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日