大鏡 第7章
村上天皇・冷泉院・円融院
村上天皇は醍醐天皇の第十四皇子で、朱雀天皇と同じく穏子の子。母の穏子は、最初の皇子保明親王に先立たれた悲しみと、朱雀・村上の誕生と立后の喜びとを重ねた人で、大后と呼ばれた。続いて、師輔の娘安子を母とする冷泉天皇・円融天皇の二代が語られる。
- 1六十二代六十二代ろくじゅうにだい
- 2つぎのみかどむらかみのつぎのみかどむらかみのつぎのみかどむらかみの天皇天皇てんのうととと申申もうききき。。。御御おんいみななりあきらいみななりあきらいみななりあきら。。。これだいごのみかどのこれだいごのみかどのこれだいごのみかどの第第だい十四十四じゅうしののの皇子皇子みこ也也なり。。。御母御母みわわ后后きさき朱雀院朱雀院すざくいんののの御御おんおなじはらにおはしますおなじはらにおはしますおなじわらにおわします。。。
- 3このみかどこのみかどこのみかど延長延長えんちょう四年四年よねん丙戌丙戌ひのえいぬ六月六月ろくがつ二日二日ふつかむまれさせむまれさせむまれさせ給給たまへるとぞへるとぞえるとぞ。。。天慶天慶てんぎょう三年三年さんねん庚子庚子かのえね二月二月にがつ十五日十五日じゅうごにち御元服御元服ごげんぷく。。。御歲御歲おおんとし十五十五じゅうご。。。同同おなじ七年七年しちねん甲辰甲辰きのえたつ四月四月しがつ廿二日廿二日にじゅうににちににに東宮東宮とうぐうにたゝせにたゝせにたたせ給給たまふふう。。。
- 4御御おおんとしとしとし十九十九じゅうく。。。同同おなじ九年九年くねん丙午丙午ひのえうま四月四月しがつ廿九日廿九日にじゅうくにち位位くらいにつかせにつかせにつかせ給給たま。。。御歲御歲おおんとし廿一廿一にじゅういち。。。よよよをををしらせしらせしらせ給事給事たまうこと廿一年廿一年にじゅういちねん。。。
- 5御母御母みわわ后后きさき延喜延喜えんぎ三年三年さんねん癸亥癸亥みずのとい生生うまれさせれさせれさせ給給たま。。。御歲御歲おおんとし十九十九じゅうく。。。同同おなじ廿年廿年にじゅうねん女御女御にょうご宣旨宣旨せんじくだりくだりくだり給給たまふふう。。。御年御年おおんとし卅六卅六さんじゅうろく。。。同同おなじ廿三年廿三年にじゅうさんねんみづのとのみづのとのみずのとのひつじひつじひつじ朱雀院朱雀院すざくいんむまれさせむまれさせむまれさせ給給たま。。。
- 6同同おなじ四月四月しがつ廿九日廿九日にじゅうくにち后后きさきののの宣旨宣旨せんじかうぶらせかうぶらせこうぶらせ給給たま。。。御歲御歲おおんとし三十九三十九さんじゅうく。。。やがてやがてやがてうみうみうみ奉奉たてまつりりり給給たま。。。おなじおなじおなじ四月四月しがつににに后后きさきにもたゝせにもたゝせにもたたせ給給たまけるにやけるにやけるにや。。。四十二四十二しじゅうににてにてにて村上村上むらかみはははむまれさせむまれさせむまれさせ給給たまけりけりけり。。。
- 7后后きさきにたゝせにたゝせにたたせ給給たまふふう日日ひ。。。前坊前坊ぜんぼうののの御御おんことことことををを宮宮みやのののうちにゆかしがりてうちにゆかしがりてうちにゆかしがりて申申もういづるいづるいずる人人ひともなかりけるにもなかりけるにもなかりけるに。。。かのかのかの御御おん。。。のきみといひけるのきみといひけるのきみといいける女房女房にょうぼうのかくよみてのかくよみてのかくよみて出出いだしたりけるしたりけるしたりける。。。
- 8わびぬればわびぬればわびぬれば今今いまはははたたた物物ものををを思思おもへどもこゝろににぬへどもこゝろににぬえどもこころににぬはははなみだなりけりなみだなりけりなみだなりけり
- 9又又また御御おん法事法事ほうじはははてゝてゝてて人〳〵人〳〵ひとびとまかりいづるまかりいづるまかりいずるひひひももも。。。かくこそかくこそかくこそはははよまれたりけれよまれたりけれよまれたりけれ。。。
- 10いまいまいまはははとてみとてみとてみ山山やまをををいづるいづるいずるほとゝぎすほとゝぎすほととぎすいづれのいづれのいずれの里里さとになかんとすらんになかんとすらんになかんとすらん
- 11五月五月ごがつののの事事ことににに侍侍はべりけりりけりりけり。。。げにいかにとおぼゆるげにいかにとおぼゆるげにいかにとおぼゆるふし〳〵ふし〳〵ふしふしすゑのすゑのすえの世世よまでつたはるばかりのといふにまでつたはるばかりのといふにまでつたわるばかりのというに侍侍はべるかしなるかしなるかしな。。。さてさてさて前東宮前東宮さきのとうぐうにおくれにおくれにおくれ奉奉たてまつりてりてりて。。。
- 12かぎりなくなげかせかぎりなくなげかせかぎりなくなげかせ給給たまふふう。。。同同おなじとしじとしじとし朱雀院朱雀院すざくいんむまれさせむまれさせむまれさせ給給たまふふう。。。われわれわれ后后きさきにたゝせにたゝせにたたせ給給たまけんこそけんこそけんこそ。。。さま〴〵さま〴〵さまざま御御おんなげきなげきなげき御御おんよろこびよろこびよろこび。。。かきまぜたるかきまぜたるかきまぜたる心心こころちつかうまつれちつかうまつれちつこうまつれ。。。ををを申申もうすすす。。。
- 13六十三代六十三代ろくじゅうさんだい
- 14つぎのみかどつぎのみかどつぎのみかどははは冷泉院天皇冷泉院天皇れいぜいいんてんのうととと申申もうききき。。。御御おんいみないみないみなのりひらのりひらのりひら。。。是是これむらかみむらかみむらかみ天皇天皇てんのうののの第二第二だいにののの王子王子おうじなりなりなり。。。御母御母みわわ皇后宮皇后宮こうごうぐうととと申申もうすすす。。。右大臣右大臣うだいじんのおとゞののおとゞののおとどの第一第一だいいちののの御御おんむすめむすめむすめ也也なり。。。
- 15此此この御門御門みかど天曆天曆てんりゃく四年四年よねん庚戌庚戌かのえいぬ五月五月ごがつ廿四日廿四日にじゅうよっかのおとゞのいまだのおとゞのいまだのおとどのいまだ從五位下從五位下じゅごいのげにてにてにて備前介備前介びぜんのすけときこえまつりしおりのときこえまつりしおりのときこえまつりしおりの。。。五條五條ごじょうののの家家いえにてにてにて生生うまれさせれさせれさせ給給たまへりへりえり。。。同同おなじ年年とし七月七月しちがつ廿三日廿三日にじゅうさんにち東宮東宮とうぐうにたゝせにたゝせにたたせ給給たまふふう。。。
- 16應和應和おうわ三年三年さんねん癸亥癸亥みずのとい二月二月にがつ廿八日廿八日にじゅうはちにち御元服御元服ごげんぷく。。。御歲御歲おおんとし十四十四じゅうし。。。康保康保こうほう四年四年よねん丁卯丁卯ひのとう五月五月ごがつ廿五日廿五日にじゅうごにち御歲御歲おおんとし十八十八じゅうはちにてにてにて位位くらいにつかせにつかせにつかせ給給たまふふう。。。よよよをををたもたせたもたせたもたせ給給たまふふう事事こと二年二年にねん。。。寬弘寬弘かんこう八年八年はちねん辛亥辛亥かのとい十月十月じゅうがつ廿四日廿四日にじゅうよっか御歲御歲おおんとし六十六十ろくじゅうにてかくれおはしましけるにてかくれおはしましけるにてかくれおわしましけるををを。。。
- 17三條院三條院さんじょういん位位くらいにつかせにつかせにつかせ給給たまとしてとしてとして。。。大嘗會大嘗會だいじょうえなどののびけるなどののびけるなどののびけるをぞをぞをぞ。。。人申人申ひともうけるけるける。。。
- 18六十四代六十四代ろくじゅうしだい
- 19つぎのみかどつぎのみかどつぎのみかど圓融院天皇圓融院天皇えんゆういんてんのうととと申申もうききき。。。御御おんいみないみないみなもりひらもりひらもりひら。。。是是これ村上村上むらかみのみかどののみかどののみかどの第第だい五五ご王子王子おうじ也也なり。。。御母御母みわわ冷泉院冷泉院れいぜいいんののの同同おなじじじ腹腹はらにおはしますにおはしますにおわします。。。此此このみかどみかどみかど天德天德てんとく三年三年さんねん己未己未つちのとひつじ三月三月さんがつ二日二日ふつかむまれさせむまれさせむまれさせ給給たま。。。
- 20此此この御門御門みかどののの東宮東宮とうぐうにたゝせにたゝせにたたせ給給たまほどほどおどははは。。。事事ことどもこそどもこそどもこそ侍侍はべれなれなれな。。。これこれこれはははみなみなみな人人ひとのしろしめしたるのしろしめしたるのしろしめしたる事事ことなればなればなれば。。。事事こともながしとゞめもながしとゞめもながしとどめ侍侍はべりぬりぬりぬ。。。
- 21安和安和あんな二年二年にねん己巳己巳つちのとみ八月八月はちがつ十三日十三日じゅうさんにちにこそにこそにこそははは位位くらいにつかせにつかせにつかせ給給たまけれけれけれ。。。御歲御歲おおんとし十一十一じゅういちとぞとぞとぞ。。。さてさてさて天祿天祿てんろく三年三年さんねん壬申壬申みずのえさる正月正月しょうがつ三日三日みつか御元服御元服ごげんぷく。。。御歲御歲おおんとし十四十四じゅうし。。。よよよををを保保たもたせたせたせ給事給事たまうこと十五年十五年じゅうごねん。。。
- 22惱惱なやわりてわりてわりて御出家御出家ごしゅっけ。。。法名法名ほうみょうこんがこんがこんがうほうとうほうとうおうと申申もうききき。。。正曆正曆しょうりゃく二年二年にねん二月二月にがつ十二日十二日じゅうににちうせさせうせさせうせさせ給給たま。。。御歲御歲おおんとし卅三卅三さんじゅうさん。。。母后母后ははきさき御歲御歲おおんとし廿三四廿三四にじゅうさんしにてにてにて。。。うちつゞきこのみかどうちつゞきこのみかどうちつづきこのみかど冷泉院冷泉院れいぜいいんとととうみうみうみ奉奉たてまつりりり給給たまへりへりえり。。。
- 23いとやむごとなきいとやむごとなきいとやむごとなき御御おんすくせなりすくせなりすくせなり。。。御母御母みわわかたのおほぢかたのおほぢかたのおおじ出雲守出雲守いずものかみ從五位下從五位下じゅごいのげ藤原藤原ふじわら人人ひとなりなりなり。。。すゑのよにすゑのよにすえのよにはははさうせさせさうせさせそうせさせ給給たまてこそてこそてこそははは贈贈ぞう三三さんゐしゐしいし給給たましかしかしか。。。
- 24いまさぬいまさぬいまさぬ跡跡あとなれどなれどなれど。。。このよのこのよのこのよのひかりひかりひかりはははいとめいぼくありかしいとめいぼくありかしいとめいぼくありかし。。。おほきさきとおほきさきとおおきさきと申申もうすすす此此この御御おん事事こと也也なり。。。女十宮女十宮おんなじゅうのみやうみうみうみ奉奉たてまつりりり給給たまたびかくれさせたびかくれさせたびかくれさせ給給たまへりしへりしえりし御御おんなげきこそいとかなしくうけなげきこそいとかなしくうけなげきこそいとかなしくうけ給給たまはははりしかりしかりしか。。。
- 25村上村上むらかみののの御日記御日記おおんにき御御ごらんじたるらんじたるらんじたる人人ひともおはしますらんもおはしますらんもおわしますらん。。。ほの〴〵ほの〴〵ほのぼのつたへつたへつたえうけうけうけ給給たまはれどもはれどもわれども。。。をよばぬをよばぬおよばぬ心心こころにもいとあはれにかたじけなうさぶらふなにもいとあはれにかたじけなうさぶらふなにもいとあわれにかたじけのうさぶらうな。。。そのとゞまりおはしますそのとゞまりおはしますそのとどまりおわします女女おんな宮宮みやこそこそこそははは齋院齋院さいいんよよよ。。。
現代語訳
六十二代 村上天皇
次の帝を村上天皇と申し上げた。御諱は成明。これは醍醐の帝の第十四の皇子である。御母后は朱雀院と同じお腹(穏子)でいらっしゃる。この帝は延長四年丙戌六月二日にお生まれになったということだ。天慶三年庚子二月十五日にご元服。御年十五。同七年甲辰四月二十二日に東宮にお立ちになる。御年十九。同九年丙午四月二十九日に位にお即きになる。御年二十一。世をお治めになること二十一年。
御母后(穏子)は、延喜三年癸亥に前坊(保明親王)をお産みになる。御年十九。同二十年に女御の宣旨が下される。御年三十六。同二十三年癸未に朱雀院がお生まれになる。同年四月二十九日に后の宣旨をお受けになる。御年三十九。すぐに(朱雀院を)お産み申し上げなさる。同じ四月に后にもお立ちになったのであろうか。四十二歳で村上(天皇)はお生まれになったのであった。后にお立ちになる日、前坊のことを宮中で懐かしんで口に出す人もいなかったのに、あの(前坊の)乳母子で大輔の君といった女房が、こう詠んで差し出したのでした。
わびぬれば今はたものを思へども心に似ぬは涙なりけり
また(前坊の)ご法事が終わって人々が退出する日にも、こう詠んだのでした。
今はとて深山を出づるほととぎすいづれの里に鳴かむとすらむ
五月のことでございました。本当に、なんとまあと思われる、折々のことが後の世まで伝わるほどの(歌であった)というのでございますよ。さて(后は)前東宮に先立たれ申して、限りなくお嘆きになる。同じ年に朱雀院がお生まれになる。ご自身は后にお立ちになったとは、さまざまのお嘆きとお喜びとがまじりあったお気持ちだったと推察いたします。世に大后(おおきさき)とこの方を申し上げる。
六十三代 冷泉院
次の帝を冷泉院天皇と申し上げた。御諱は憲平。これは村上天皇の第二の皇子である。御母は皇后宮安子と申し上げる。右大臣師輔公の第一の御娘である。この帝は天暦四年庚戌五月二十四日、在衡公がまだ従五位下で備前介と申し上げていたころの、その五条の家でお生まれになった。同年七月二十三日に東宮にお立ちになる。応和三年癸亥二月二十八日にご元服。御年十四。康保四年丁卯五月二十五日、御年十八で位にお即きになる。世をお治めになること二年。寛弘八年辛亥十月二十四日、御年六十でお亡くなりになったので、三条院が位にお即きになって大嘗会などが延期になったのを、間の悪いことだと世の人は申しました。
六十四代 円融院
次の帝を円融院天皇と申し上げた。御諱は守平。これは村上の帝の第五皇子である。御母は冷泉院と同じお腹でいらっしゃる。この帝は天徳三年己未三月二日にお生まれになる。この帝が東宮にお立ちになったときは、たいへん聞き苦しい、ひどいことがございましたよ。これはみなさんがご存じのことなので、話も長くなるのでやめておきます。安和二年己巳八月十三日に位にお即きになった。御年十一ということだ。そうして天禄三年壬申正月三日にご元服。御年十四。世をお治めになること十五年。ご病気が重くなってご出家。法名を金剛法と申し上げた。正暦二年二月十二日にお亡くなりになる。御年三十三。
母后(安子)は御年二十三、四で、続けてこの帝と冷泉院をお産み申し上げなさった。たいへん尊いご宿縁である。御母方の祖父は、出雲守従五位下藤原経邦といった人である。後の世には贈位されて、贈三位になさったのでした。お亡くなりになったあとですが、この世の名誉としてはたいへんな面目でしょう。大后(おおきさき)と申し上げるのはこの方のことである。女十宮をお産み申し上げなさったときにお亡くなりになったときの(村上天皇の)お嘆きは、まことに悲しいものだったと承っております。村上天皇の御日記をご覧になった方もいらっしゃるでしょう。ほのかに伝え聞いておりますが、私のようなとるにたらない者の心にも、たいへんしみじみと恐れ多いことでございますなあ。その後に残されておいでの女宮こそは、大斎院(選子内親王)ですよ。
意訳
村上天皇の母穏子の生涯が、二首の歌とともに語られる。穏子が最初に産んだ保明親王は醍醐天皇の皇太子となったが、二十一歳で亡くなった。人々はこれを道真の祟りと恐れた。その年、穏子は寛明親王(朱雀天皇)を産み、皇后に立てられる。息子を失った悲しみと、新しい皇子の誕生・立后の喜びが同じ年に重なったのである。世継は「さまざまの御なげき御よろこび、かきまぜたる心ち」と、その胸のうちを思いやる。
保明親王の乳母子だった大輔は、華やかな立后の日に一人亡き主を思い、「心に似ぬは涙なりけり」と詠んで差し出した。法事の果ての日には、五月のほととぎすに託して、主を失って散っていく人々を詠む。宮中の喜びのかげにある悲しみを、女房の歌がすくい上げている。
冷泉・円融天皇の母安子は、師輔の娘である。ここから九条流(師輔の子孫)が外戚となり、のちの兼家・道長へとつながる。円融天皇の立太子のとき「聞きにくくひどいこと」があったとほのめかすのは、師輔の子らが、冷泉天皇の同母弟の為平親王をさしおいて守平親王(円融天皇)を東宮に立てたことを指す(師輔の章で語られる)。
語釈・文法注
- 村上天皇
- 第六十二代の天皇(926〜967)。在位946〜967。治世は「天暦の治」とたたえられた。
- 前坊
- 前の皇太子。ここでは醍醐天皇の皇子保明親王(903〜923)。皇太子のまま二十一歳で亡くなった。
- 御めのとご
- 乳母子(めのとご)。乳母の子で、養君と兄弟のように育った。
- 大輔のきみ
- 保明親王の乳母子の女房。歌人として知られ、『後撰集』などに歌が入る。
- おほきさき
- 大后。天皇の母后の尊称。ここでは朱雀・村上二代の母である穏子。
- 冷泉院
- 第六十三代の天皇(950〜1011)。在位967〜969。
- 安子
- 藤原安子(927〜964)。師輔の娘で、村上天皇の中宮。冷泉・円融天皇の母。
- 師輔
- 藤原師輔(909〜960)。忠平の次男。右大臣。九条殿と呼ばれ、その子孫が摂関家となった。
- 在衡
- 藤原在衡(892〜970)。のち左大臣。
- おりわし
- 折悪し。時機が悪い。三条天皇の即位直後に冷泉院が亡くなり、大嘗会が延期されたこと。
- 圓融院
- 第六十四代の天皇(959〜991)。在位969〜984。
- きゝにくゝいみじき事
- 円融天皇(守平親王)の立太子をめぐる事件。冷泉天皇の同母弟為平親王が有力とされたが、源高明の娘を妃としていたため、師輔の子らが守平親王を立てた。その後の安和の変(969)で高明は大宰府に左遷された。
- つねくに
- 藤原経邦。安子の母(盛子)の父。
- おほ齋院
- 大斎院。選子内親王(964〜1035)。村上天皇の皇女で、母安子は出産の直後に亡くなった。円融天皇から後一条天皇まで五代、五十七年にわたって賀茂の斎院をつとめた。
文法
- 申いづる人もなかりけるに
- 「けるに」は逆接。(誰も)口に出す人もいなかったのに。
- よまれたりけれ
- 「れ」は尊敬ではなく自発・可能とも、また「こそ」の結びとして「けれ」(已然形)。詠んだのだった。
- かきまぜたる心ちつかうまつれ
- 「つかうまつれ」は「こそ」の結び(已然形)。(そのような)お気持ちであったと推察申し上げる。
- こそ侍れな
- 「な」は詠嘆の終助詞。
- ながしとゞめ侍りぬ
- 話も長いのでやめておきます。
和歌・漢詩
わびぬれば今はた物を思へどもこゝろににぬはなみだなりけり
- 作者
- 大輔
- 状況
- 穏子が后に立った日、宮中の人々がみな喜びにわく中で、亡き保明親王を思って詠んだ歌。悲しみに沈んで、今はまたもの思いをしているが、心(喜ぶべきだという理性)に従わずこぼれるのは涙なのだった。
修辞
- 表現
- 「心ににぬ」は、心とうらはらに、の意。祝いの席にふさわしくない涙が止まらないことを言う。
いまはとてみ山をいづるほとゝぎすいづれの里になかんとすらん
- 作者
- 大輔
- 状況
- 保明親王の法事が終わって、仕えていた人々が退出する日に詠んだ歌。今はこれまでと深山を出ていくほととぎすは、どこの里で鳴こうとするのだろう。主を失って散っていく人々をほととぎすにたとえる。
修辞
- 見立て
- 親王に仕えていた人々を、五月の深山を出ていくほととぎすに見立てる。
解説
穏子(885〜954)は基経の娘で、醍醐天皇の後宮に入り、保明親王・朱雀天皇・村上天皇を産んだ。二人の天皇の母として「大后」と呼ばれ、兄忠平とともに宮廷で大きな力を持った。
世継は円融天皇の立太子の事情を「みな人のしろしめしたる事」として語らず、師輔の章に回している。帝紀ではなるべく帝の身の上の事実だけを記し、政治の内幕は大臣列伝で語るという分担が見える。
村上天皇の御日記(『村上天皇御記』)は、天皇自身が書いた日記で、一部が逸文として伝わる。安子が選子内親王を出産した直後に亡くなったときの天皇の嘆きも、そこに記されていたのであろう。
関連
出典
- 底本
- 経済雑誌社編『国史大系』第17巻(大鏡) 経済雑誌社、明治34年(1901)、473〜475頁(コマ252–253)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日