大鏡 第6章
醍醐天皇・朱雀天皇
醍醐天皇は宇多天皇の第一皇子で、十三歳で即位し、三十三年間世を治めた。皇子の誕生の祝いに藤原伊衡が詠んだ歌と、帝の返歌が紹介される。次の朱雀天皇は醍醐天皇の第十一皇子で、母は基経の娘穏子。菅原道真の怨霊を恐れて、幼いころは昼も夜も灯をともした帳の中で育てられた。在位中に平将門の乱が起こり、石清水八幡の臨時祭が始まった。
- 1六十代六十代ろくじゅうだい 醍醐天皇醍醐天皇だいごてんのう
- 2つぎのみかどつぎのみかどつぎのみかど醍醐天皇醍醐天皇だいごてんのうととと申申もうききき。。。御御おんいみなあついみなあついみなあつ人人ひと。。。是是これ亭子亭子ていじ太太た上上うえ法皇法皇ほうおうののの第一第一だいいち王子王子おうじにおはしますにおはしますにおわします。。。御母御母みわわ贈皇太后宮贈皇太后宮ぞうこうたいごうぐうととと申申もうききき。。。内大臣内大臣ないだいじん藤藤ふじのおとゞののおとゞののおとどの御女御女おおんむすめなりなりなり。。。
- 3このみかどこのみかどこのみかど仁和仁和にんな元年元年がんねん乙巳乙巳きのとみ正月正月しょうがつ十八日十八日じゅうはちにちににに生生うまれれれ給給たま。。。寬平寬平かんぴょう五年五年ごねんみづのとのみづのとのみずのとのうしうしうし四月四月しがつ二日二日ふつかににに東宮東宮とうぐうにたゝせにたゝせにたたせ給給たま。。。御御おおんとしとしとし九歲九歲くさい。。。同同おなじ七年七年しちねん乙卯乙卯きのとう正月正月しょうがつ十九日十九日じゅうくにち十一歲十一歲じゅういちさいにてにてにて御元服御元服ごげんぷく。。。
- 4又又また同同おなじ九年九年くねん丁巳丁巳ひのとみ七月七月しちがつ三日三日みつか位位くらいにつかせにつかせにつかせ給給たま。。。御歲御歲おおんとし十三十三じゅうさん。。。やがてこよひよるのおとゞよりにやがてこよひよるのおとゞよりにやがてこよいよるのおとどよりにはははかにかにかに御御おん奉奉たてまつりてさしいでておはしましたりけるりてさしいでておはしましたりけるりてさしいでておわしましたりける。。。
- 5御手御手みてづからわざとづからわざとずからわざと人人ひとののの申申もうはははまことにやまことにやまことにや。。。さてよさてよさてよをををたもたせたもたせたもたせ給事給事たまうこと卅三年卅三年さんじゅうさんねん。。。このこのこの御時御時おおんときぞかしぞかしぞかし。。。むらかみむらかみむらかみ朱雀院朱雀院すざくいんかむまれおはしましたるかむまれおはしましたるかむまれおわしましたる。。。御御おん殿上殿上てんじょうにいださせにいださせにいださせ給給たまへるにへるにえるに。。。
- 6中將中將ちゅうじょう和歌和歌わかつかうまつりたまへるとぞおぼゆめるつかうまつりたまへるとぞおぼゆめるつこうまつりたまえるとぞおぼゆめる。。。
- 7ひとゝせにこよひかぞひとゝせにこよひかぞひととせにこよいかぞふるふるふる今今いまよりよりよりはもはもはもゝとせまでのゝとせまでのもとせまでの月月つきかげかげかげををを見見みんんん
- 8とよむぞかしとよむぞかしとよむぞかし。。。御御おんかへしかへしかえし。。。みかどのしおはしましけんかたじけなさよみかどのしおはしましけんかたじけなさよみかどのしおわしましけんかたじけなさよ。。。
- 9後後のちもつきせぬもつきせぬもつきせぬ月月つきをををこそこそこそ見見みめめめ
- 10御御おん見見み給給たまふるにぞふるにぞうるにぞ。。。いとなまめかしうかやうのかたさへおはしましけるいとなまめかしうかやうのかたさへおはしましけるいとなまめかしゅうかようのかたさえおわしましける。。。
- 11六十一代六十一代ろくじゅういちだい 朱雀天皇朱雀天皇すざくてんのう
- 12次次つぎノノノ御門御門みかど朱雀院天皇朱雀院天皇すざくいんてんのうととと申申もうききき。。。御御おんいみなひろあきらいみなひろあきらいみないろあきら。。。これだいごのみかどのこれだいごのみかどのこれだいごのみかどの御御おん十一十一じゅういちののの王子王子おうじなりなりなり。。。御母御母みわわ皇太后宮皇太后宮こうたいごうぐうととと申申もうききき。。。太政大臣太政大臣だいじょうだいじん基經基經もとつねおとゞのおとゞのおとどの御御おん四四よつのむすめなりつのむすめなりつのむすめなり。。。
- 13このみかどこのみかどこのみかど延長延長えんちょう元年元年がんねん癸未癸未みずのとひつじ四月四月しがつ廿七日廿七日にじゅうしちにちむまれさせむまれさせむまれさせ給給たま。。。同同おなじ三年三年さんねん乙酉乙酉きのととり十月十月じゅうがつ廿一日廿一日にじゅういちにち東宮東宮とうぐうにたちにたちにたち給給たまふふう。。。御歲御歲おおんとし三歲三歲さんさい。。。同同おなじ八年八年はちねん庚寅庚寅かのえとら九月九月くがつ廿二日廿二日にじゅうににち位位くらいにつかせにつかせにつかせ給給たまふふう。。。
- 14御歲御歲おおんとし八歲八歲はちさい。。。承平承平しょうへい七年七年しちねん正月正月しょうがつ四日四日よっか御元服御元服ごげんぷく。。。御歲御歲おおんとし十五十五じゅうご。。。よよよをををたもたせたもたせたもたせ給事給事たまうこと十六年十六年じゅうろくねん。。。ののの臨時臨時りんじののの祭祭まつりははは此此この御時御時おおんときよりあるぞかしよりあるぞかしよりあるぞかし。。。
- 15このみかどむまれさせこのみかどむまれさせこのみかどむまれさせ給給たまてててははは。。。御御おん。。。ひるひるひる火火ひをををともしてともしてともして。。。御帳御帳みちょうののの内内うちにてにてにて三三みまでおほしまでおほしまでおおし奉奉たてまつらせらせらせ給給たまききき。。。におぢにおぢにおじ申申もうさせさせさせ給給たまてかくありしぞかしてかくありしぞかしてかくありしぞかし。。。
- 16このみかどむまれおはしまさずこのみかどむまれおはしまさずこのみかどむまれおわしまさずははは。。。藤氏藤氏とうじのさかへいとかうしもおはしまさゞらましのさかへいとかうしもおはしまさゞらましのさかえいとこうしもおわしまさざらまし。。。いみじきいみじきいみじき折折おりふしふしふし生生うまれさせれさせれさせ給給たまへりしぞかしへりしぞかしえりしぞかし。。。位位くらいにつかせにつかせにつかせ給給たまててて。。。
- 17。。。御御おん願願がんにてぞとにてぞとにてぞと聞聞きこえええ侍侍さぶらいししし。。。このこのこの臨時臨時りんじののの祭祭まつりはははそのあづまあそびのそのあづまあそびのそのあずまあそびの歌歌うた。。。。。。
- 18松松まつもおゐまたもかげむすいはしみづゆくすゑもおゐまたもかげむすいはしみづゆくすゑもおいまたもかげむすいわしみずゆくすえとをくとをくとおくつかへまつらんつかへまつらんつかえまつらん
現代語訳
六十代 醍醐天皇
次の帝を醍醐天皇と申し上げた。御諱は敦仁。これは亭子太上法皇(宇多天皇)の第一皇子でいらっしゃる。御母は贈皇太后宮胤子と申し上げた。内大臣高藤公の御娘である。この帝は仁和元年乙巳正月十八日にお生まれになる。寛平五年癸丑四月二日に東宮にお立ちになる。御年九歳。同七年乙卯正月十九日、十一歳でご元服。また同九年丁巳七月三日に位にお即きになる。御年十三。(即位の日)すぐその夜、夜の御殿から急に冠をおつけになって、(人前に)お出ましになったという。ご自分の手でわざわざ(冠をつけた)と人が申すのは本当でしょうか。そうして世をお治めになること三十三年。この御時のことですよ、村上・朱雀院がお生まれになったのは。(その皇子の)五十日のお祝いの餅を殿上にお出しになったとき、伊衡の中将が和歌をお詠み申し上げたと記憶しております。
ひととせに今宵数ふる今よりは百年までの月影を見む
と詠んだのですよ。御返歌は、帝がお詠みになったとは恐れ多いことです。
いはひつる言霊ならば百年の後もつきせぬ月をこそ見め
御集などを拝見しますと、たいへん優雅で、このような和歌の方面にまで秀でていらっしゃったのでした。
六十一代 朱雀天皇
次の帝を朱雀院天皇と申し上げた。御諱は寛明。これは醍醐の帝の第十一の皇子である。御母は皇太后宮穏子と申し上げた。太政大臣基経公の四番目の御娘である。この帝は延長元年癸未四月二十七日にお生まれになる。同三年乙酉十月二十一日に東宮にお立ちになる。御年三歳。同八年庚寅九月二十二日に位にお即きになる。御年八歳。承平七年正月四日にご元服。御年十五。世をお治めになること十六年。石清水八幡の臨時の祭りは、この御時から始まったのですよ。
この帝がお生まれになってからは、御格子もお上げせず、夜も昼も火をともして、御帳台の中で三歳までお育て申し上げなさった。北野(菅原道真の霊)を恐れ申されて、このようにしたのですよ。この帝がお生まれにならなかったら、藤原氏の繁栄は、とてもこれほどではいらっしゃらなかったでしょう。ちょうどよい折にお生まれになったのですよ。位にお即きになって、将門の乱が起こって、そのご祈願によって(臨時の祭りが始まったのだ)と聞いております。この臨時の祭りの、その東遊びの歌は、貫之のぬしが詠んだものです。
松も生ひまたも苔むす石清水ゆくすゑ遠く仕へまつらむ
意訳
醍醐天皇の時代は、のちに村上天皇の時代とあわせて「延喜・天暦の治」と呼ばれ、天皇親政の理想の時代とされた。世継はここでは、皇子誕生の五十日の祝いに、藤原伊衡と帝が「百年」「月」を詠みかわした歌を紹介し、帝の和歌の才をたたえるにとどめる。即位の夜に自分の手で冠をつけたという話は、十三歳の少年帝のけなげさを伝える。
朱雀天皇の誕生をめぐる話には、菅原道真の怨霊の影が色濃い。道真が大宰府で亡くなってのち、時平が若死にし、醍醐天皇の皇太子保明親王、さらにその子慶頼王も相次いで亡くなった。人々はこれを道真の祟りと恐れた。そのため、次に生まれた寛明親王(朱雀天皇)は、日の光も入れず、昼夜火をともした帳の中で、三歳まで大切に育てられたのである。
世継は「この帝がお生まれにならなかったら、藤原氏の繁栄はこれほどではなかった」と言う。母の穏子は基経の娘であり、この皇子の誕生によって、忠平以下の藤原北家は外戚の地位を保つことができた。在位中には平将門・藤原純友の乱(承平・天慶の乱)が起こり、その平定を祈って石清水八幡宮の臨時祭が始まった。
語釈・文法注
- 胤子
- 藤原胤子(?〜896)。内大臣高藤の娘で、宇多天皇の女御、醍醐天皇の母。
- 高藤
- 藤原高藤(838〜900)。冬嗣の孫。娘胤子が醍醐天皇の母となって出世した。
- よるのおとゞ
- 夜の御殿。清涼殿の中の天皇の寝所。
- 御かうぶり
- 冠。成人男子のかぶりもの。
- 御いかのもちゐ
- 五十日(いか)の祝い。生後五十日目に赤子の口に餅を含ませる祝いの儀式。
- これひらの中將
- 藤原伊衡(876〜938)。歌人。
- ことたま
- 言霊。ことばに宿る霊力。祝いのことばがそのとおりになると信じられた。
- 御しう
- 御集。醍醐天皇の歌集。
- 穩子
- 藤原穏子(885〜954)。基経の娘で、醍醐天皇の中宮、朱雀・村上天皇の母。
- 八幡の臨時の祭
- 石清水八幡宮の臨時祭。天慶五年(942)、将門・純友の乱の平定に感謝して行われたのが始まりで、のち三月の恒例の祭りとなった。
- 御かうし
- 御格子。蔀戸(しとみど)。夜に下ろし、朝に上げる。
- 北野
- 北野天満宮に祀られた菅原道真の霊。
- まさかどがみだれ
- 平将門の乱(939〜940)。将門は関東で新皇を名のったが、藤原秀郷・平貞盛に討たれた。
- つらゆきのぬし
- 紀貫之(?〜945)。『古今集』の撰者、『土佐日記』の作者。
文法
- おはしましたりける
- 「おはします」は「あり・行く・来」の尊敬語。ここではお出ましになる。
- 見ん
- 「ん」は意志。見よう。
- 見め
- 「め」は推量・意志の「む」の已然形で、上の「こそ」の結び。
- おほし奉らせ給き
- 「おほす(生ほす)」は育てる。「奉ら」は謙譲、「せ給ひ」は尊敬、「き」は過去。
- おはしまさゞらまし
- 反実仮想。「〜ずは〜まし」で、もし〜しなかったら〜しなかっただろう。
和歌・漢詩
ひとゝせにこよひかぞふる今よりはもゝとせまでの月かげを見ん
- 作者
- 藤原伊衡
- 状況
- 皇子の五十日の祝いの夜に詠んだ歌。一年のうちの今宵を数える、その今夜から始めて、百年先まで(皇子とともに)月の光を見よう、と長寿を祝う。
修辞
- 掛詞
- 「月」に、空の月と年月の月をかける。
- 対比
- 「ひととせ(一年)」と「ももとせ(百年)」。
いはひつることたまならばもゝとせの後もつきせぬ月をこそ見め
- 作者
- 醍醐天皇
- 状況
- 伊衡の歌への返歌。あなたが祝ってくれたことばに霊力があるのなら、百年の後も尽きることのない月を見ることだろう、と応える。
修辞
- 掛詞
- 「つきせぬ」の「つき」に「尽き」と「月」をかける。
松もおゐまたもかげむすいはしみづゆくすゑとをくつかへまつらん
- 作者
- 紀貫之
- 状況
- 石清水八幡宮の臨時祭の東遊びのために詠んだ歌。松が生い茂り、さらに苔むすまで、石清水の流れのように末長く神にお仕えしよう。
修辞
- 縁語
- 「いはしみづ(石清水)」と「ゆくすゑ」(流れの行く末)。
- 寿ぎ
- 松と苔で永遠の時をあらわす。
解説
醍醐天皇(885〜930)は十三歳で即位し、宇多上皇の後見のもとで、時平・道真を左右の大臣として政治を行った。『古今和歌集』の撰進を命じたのも醍醐天皇である。延長八年(930)、清涼殿に落雷があって多くの死傷者が出たのち病となり、間もなく譲位して亡くなった。これも道真の怨霊のしわざと恐れられた。
朱雀天皇(923〜952)は八歳で即位し、伯父の忠平が摂政・関白となった。将門・純友の乱のほか、天変地異も多く、在位十六年で弟の村上天皇に譲位した。
底本の「松もおゐまたもかげむす」は、『古今集』などの「松も生ひてまたも苔むす石清水」にあたる。「かげ」は「こけ(苔)」の誤りか。
関連
出典
- 底本
- 経済雑誌社編『国史大系』第17巻(大鏡) 経済雑誌社、明治34年(1901)、471〜472頁(コマ251–252)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日